記録者
- // --
- 黄金歴206年 春 --
- 黄金歴205年 冬 --
- サイレントヒルの大市は年六回行われるが、その中でも年最終に行われる大市は商人にとって特別な意味を持っている。
別名「為替大市」と呼ばれる年最後の大市は、各地で振り出された為替の決済を行うために、流通手形を手にした商人達で賑わいを見せる。 支払期日を迎えた為替が商人と銀行家の間を激しく行き交う光景は、多用な支払手段に通じているサイレントヒルならではのものである。 --
- 目まぐるしい勘定方の決済と相殺の間に立つのは銀行家だけではない。
商業手形の裏書の立会いや、今期の大市で新たに作成される証書の文書を作成するのは、銀行家よりもただ公証人資格を持っているだけの者のほうが割合としては多い。 そういったわけで市場には商人以外にも、公証人や見習いの公証人補──とりわけラテン語街区の住人たる法学生──の姿が多く見られる。 --
- 今回は私もそのうちの一人といえるだろうか。
商船の為替の清算作業を終えた私は、大市監視人の先生の補佐として一緒に市場を見て回っていた。 仕事中の先生は恐ろしいほど無口で、面隠しの隙間から僅かに覗える視線は、如何に小さな不正や揉め事も看過しない鋭さを思わせるものだった。 --
- 「ヒヨッコちゃんが冒険者はじめてもう5年だっけ? どうなの調子の方は? ちっとは剣の扱いに慣れたァ?」
小一時間ほど何事もなく無言で歩いていた均衡を破ったのは、先生の退屈そうな響きを含ませた声音だった。 「は、はい、最近は冒険先で怪我する機会もグッと減りましたし、け、剣術の方は昨年に上級者の免状を頂きました!」 どんくさい私にしては上出来だと思う。未だに冒険者を続けていられるなんて、昔の私からしたらとても信じられない僥倖。 自然と声音に誇らしさが滲んだのも斟酌いただけるものだろうと思っていた。 --
- 「え、まだ上級者止まりなの? やっぱ才能ねェな、ヒヨッコちゃん」
才能が無いから頑張ってるんです、先生にはお分かり頂けないでしょうけど! 確かそういったことを言い返したように記憶している。ついでに背中をバシバシ叩いた記憶もある。 先生とは私がサイレントヒルに来てから僅か一年ばかりのお付き合いであるけど、相変わらず容赦の無いというか、些か配慮に欠けるというか、何というか……うぅ。 --
- と、そうした遣り取りの直後、マダムが先生を蹴倒しながら颯爽と登場されて、私を午後一回目の茶会に連れ出してくださった。
当たり前のような光景で既に目に馴染んでしまっていたが、大市において全ての監督権を有する大市監視人が往来で婦人から暴行を受けるなど、本来であれば有ってはならない末法めいた事態であるのが、周囲の皆様方の反応で窺い知れるところである。慣れってコワイ。 --
- 「来年で実務期間の規定もクリア出来ますから、ようやく貴女も公証人補から正公証人になれますわね」
控え目に薔薇の香りを匂わせる紅茶を口に含みながら、マダムが口にした言葉の意味を考える。単純なお祝いのニュアンスは、そこには無かった。 「引継ぎの準備を始めておきなさい。初年度からの貸借対照表の写しを忘れてはいけませんわよ」 --
- その時の私の慌てふためきようといったら、きっと正視に堪えないものだったのだろう。クビですか、とうとうクビですか、と喚きたてる私に、
「毅然!」 と一喝して下さったマダムの双眸は、大熊でも目を反らして避けるだろうと思えるほどに鋭く燃え立っていた。 おそらく初対面の時の私だったら気絶していたと思う。 --
- 常に泰然自若たれ、と静かに言い置かれてから、マダムは優美な笑みを口の端に忍ばせになって続けられた。
「貴女の商船への出向は来年度限りとします。然る後、商会本店にて勤務。宜しいですか、プレットさん?」 それは決定事項でしょうか? と私が口を挟むまでもない。マダムは仕事に関して、簡単に覆るようなあやふやな事を口になさる方ではないのだ。 --
- 「引継ぎの会計員に御渡しする関係書面は10月までに整理しておいて下さい。私物を纏めておくのも、お忘れなきよう」
引継ぎのための書面のリストに目を通しながら、私は生返事でマダムのお言葉に頷く。 あと一年。あと一年で商船の皆さんとお別れかと思うと、頭がぼうっとして働かなくなってくる。 「……大事な忘れ物をなさらないよう、残り一年励みなさい」 --
- 黄金歴205年 秋 --
- 支払手段が多様化し、あらゆる債権と為替が現金化可能な市場が普及したとして、
古来より連綿と続く物々交換の有用性は、果たして保持され得るのか? 「有用である」 ある程度の慎重さを備えた商人であれば、そう答えるであろう。 --
- 債権と為替のリスクは基より、正貨に於いてもその価値を保証するシステムが完全に確立されているわけではない。
前者はその性質上リスクを回避するのは不可能であるし、正貨も一部の高額貨幣を除いては常に貶質の可能性が付き纏う。 都市間における貨幣需給価値の変動も存在するし、偽造貨幣の問題も依然として解消されない。 --
- 支払手段としての為替は、卸売り以上の実業家同士が主に取り扱うということもあって、商業の規則に明るくない民間人が煩わされる機会は少ない。
しかし正貨となると、常態的な支払手段であるのに、その価値を正しく見極める専門的な知識を持っているのが、ごく限られた人々しかいないというのが問題となる。 --
- 例えば10年間で2度にわたり、貨幣改鋳を行った国があった。
一度目は、供給量を増やすために量目と品位を引き下げて新たに貨幣を発行した。 法定価値は据え置いたものの、新貨幣は30%も貶質していたがために、その信用は大きく失われ、貨幣価値はその貶質以上に目減りしてしまった。 --
- この事態に、当該造幣所は慌てて2度目の貨幣改鋳を行った。
量目を元に戻し、品位を10%引き上げて、失われた信用を取り戻そうとした。 が、この貨幣は2度目の貨幣改訂で最初の貨幣よりも良質な硬貨を発行したにも関わらず、貨幣価値は元の水準以上に回復することはなかった。 1度目の貨幣貶質を行ったばかりに、それまで築き上げた自領の貨幣価値を著しく下落させてしまったのである。 --
- そうして貶質した硬貨の価値が、元々の法定価値にまで回復する事態は極めて稀である。
残念なことに、こうした事例は決して珍しいことではないのである。特に戦争の前後に良く見られる事例である。 --
- いかに貨幣価値を見極めるのに専門的な知見を有している両替商といえ、こうした貨幣貶質という事態に対して打てる手は無いのである。
私たちに出来ることといえば、安定して信用の高い硬貨を支払いに要求する、または支払われることを願うくらいしかないのだ。 --
- そこで生きてくるのが、為替も正貨も伴わない物々交換という支払手段なのである。
交換に用いられる現物として、貴金属・宝石の類は勿論のこと、毛皮も良く用いられる。 金銀貨幣が広く流通している黄金時代とはいえ、皮革を支払手段に用いる商業圏は意外なほど多い。 通常の商業網(整備された河川や道路)から外れた地域に趣く我々にとって、日常茶飯事ともいえる。 --
- 黒貂の毛皮は同重量の金よりも価値を持つ、高額貨幣として機能するし、冒険者の増加によって、虎や熊の毛皮が新たな皮革貨幣の代名詞となっているのも、辺境をまわる商人ならば周知の事実となっている。 --
- 皮革貨幣は現金化するために売却する地域と時期によって価値にある程度の差が存在するが、為替のように不渡りになるリスクも無く、正貨のように貶質の可能性や真贋の鑑定に煩わされることもない。
無論のこと、その品質には一枚一枚差があるため、正確に価値を判じるには、両替商のような貨幣や為替に対する目利きとは別種の技能を要求されることとなる。 そこで我等がキャプテンの出番である。 --
- とある地方都市で120ドゥカーティ分の商品の代価として、貂の毛皮で支払われようとした時のこと。
「あ……っと、じゃあ、この毛皮7枚で……」 船長は代価として差し出された毛皮の価値を、瞬時にして判別してしまうのである。しかも、ほんの一瞬触れたのみで。 --
- 毛織物を商いとしているキャプテンなら、皮革の鑑定に長けているのも当然と思われる向きもあろうが、彼女は盲いているのである。
にも関わらず、カリマーラ・アルテ(大陸で有数の毛織物組合)のバイヤーですら舌を巻くほどの鑑定精度。 実際のところ、原毛指定市場の見せ品期間における値段折衝で、数多のバイヤーを差し置いて彼女が主導権を握っている姿を見たのは、一度や二度ではない。 --
- 船長名義の調印が必要な時など、私が書面の内容を読み上げるまでも無く、彼女はインクの凹凸などで文字を読み取り難無くサインをこなしてしまう。
艇の中では最も風読みに長けているので、高高度や山岳地帯付近を飛行する際、彼女の航路指示で安全に航行出来ると言ってもいい。 そうしたキャプテンの鋭敏な感覚は、果たして盲いたゆえに獲得したのか否か、私には分からないけれど、ハンディキャップをものともしない彼女を見ていると羨望の念を禁じえないのである。 すごいなあ。私も頑張らなくちゃ。 --
- ( 風呂敷包みを手に訪ねてくる船医 ) すこし枡村藩まで行っていたもので…これ、お土産です
( 橙色の華やかなガマ口財布 ) 東国の小銭入れだそうです。金運のお守りだと、蛇の皮でできたチャームがひとつ、入っています -- セデス
- 「わ、わ、わ! セ、セデス先生お久し振りです! しゅ、出張お疲れ様でした!」
久しく見かけなかった顔を前にして、花も綻ぶ笑顔を浮かべると、深々と頭を垂れる。 「お、お土産ですか? あ、ありがとうございます! ……わあ、素敵なサイフ。お揃いだね、カセギゴールド」 何度も頭を下げて受取った財布。その口をパカっと開けて、肩に乗せているカエル型の人工精霊の前に持っていき、微笑む。 -- プレット
- 黄金歴205年 夏 --
- 冒険先の遺跡にて古代の通貨を発見。
黒ずんだ銀貨の図像を見て、もしやと思っていたが、帰還後の鑑定でデーナーリウス銀貨と判明。 しかもそれは1リーヴル240枚=重さにして2グラムの純銀硬貨。紛れも無いデナリウス貨のオリジナルだった。 --
- 通常であれば冒険先で取得した財宝の類は、冒険者ギルドによって換金され、報酬に上乗せされる仕組み。
であるが、今回は換金せずに直接現物で頂くことにした。 話には聞いていたけど実物を手にして眺めるのは初めて。 --
- 現在世界で流通している貨幣(ドゥニエ、デナール、デルフィム、ディーナール等々)の基になっただけあって、流通当時の鋳造量も多く、過度なプレミアが付くことも無い古銭ではあるけれど、私たち両替商にとっては特別な意味を持つ硬貨。
1ソルド=12デーナーリウス……当世風に置き換えれば、1スー=12ドゥニエという、金銀の価値比率を示した記念碑的な存在であるし、「ドゥニエ」という言葉それ自体が「硬貨」を意味するくらい、貨幣の歴史にとって重要な硬貨。 --
- いわば流通貨幣の原点がここにあり、それを手にしているというのは、中々に感慨深いものがある。
黒ずんだ硫化の色も、歩んできた歴史を象徴しているようで、酸洗いするのも躊躇われた。 --
- 結局10枚をそのままの形で残し、残りを加工用に使ってみることにする。
取り合えず加工用の5枚を酸洗いし、へらで磨きをかけてから穴を開け、銀のチェーンに通してロウ付け。 両替屋橋では、古銭をアクセサリーに加工して身に付ける人を良く見かけたものだった。 簡素な硬貨のネックレスを目にし、暫し懐かしい風景に思いを寄せる。 --
- 先月に続き、またしても冒険先の遺跡で古代の通貨発見。
目にした瞬間、思わず「うひゃあ」という間の抜けた悲鳴を上げてしまって、とても恥ずかしい思いをした。 というのも今回発見したのは、ソリドゥス金貨の中でも最高の金含有量を誇る純金のもの、金貨の王様と称されるレア中のレア硬貨。 ほとんど市場に出回ることも無く、退蔵、鋳潰したという幻の純金ソリドゥス金貨。 --
- 両替商でも一生に一度、本物を拝めるかどうかというくらい、現存している数が少ないのである。
本物かどうか確かめる前に、持つ手がブルブル震えてしまったのも無理はない話だと思う。 同行者の方には、とても心配されてしまったけれど。 --
- 他の財宝もあったものの、ソリドゥス金貨は一枚しか発見出来なかったため、六人で等分するのは不可能。
ということで私は金貨1枚だけを報酬として買い取った。報酬を買い取った、というのも可笑しな話だけど、ソリドゥス金貨が本来の報酬よりも高額であるため、差額分を支払ったという形である。 --
- 後の世に粗製濫造されるソルド金貨と違い、純金4.5グラムの硬貨が、やけに手に重みを伝えてくる。
帰ってきてすぐに、純金ソリドゥス硬貨1枚と保管していたデーナーリウス銀貨6枚を、天秤秤に乗せる。 天秤はデーナーリウス銀貨に大きく傾く。 当時の貨幣価値としては天秤に乗せられた数で同価だけど、現在の両者の価値の差は天秤と真逆。 なんともいえない笑いがこみ上げてくる。 --
- 当時も流通貨幣というよりは、皇帝と国の権威を示すために打造したといわれる純金ソリドゥス硬貨。
大杯、装飾リング、聖遺物箱といった、金を用いた芸術作品と同様の扱いを受ける数少ない貨幣。 天秤秤の上のデーナーリウス銀貨を一枚一枚すくい上げながら不思議な気持ちになってくる。 「今なら20……25リーブルかな? 君達で6000枚かあ」 --
- 黄金歴205年 春 --
- そろそろ謝肉祭を迎える時期。西方諸国の各大市では、年初来の大商いを逃すまいと、早くも商人達が準備を始めている。
大市関連の滞在許可証取得も、その準備の一つであり、他国者にとっては大市に向かう途上に於いての保険として事前に取得しておくのが慣わしとなっている。 --
- わけてもサイレントヒルの大市関連の「滞在許可証」は、ただ大市参加の許可証として機能するだけではなく、往路の安全を篤く保証する法的保護を与えられたものである。
サイレントヒルへの往復の道程で、この「滞在許可証」を持つ商人およびその財産を手酷く扱うことは、サイレントヒルそのものを侵害する行為であり、侵害者がいかなる人間であっても、司法当局とその執行者たちによって厳粛に処罰される。 西方諸国の流通最大手の大市ともなれば、こうした法的基盤によっての奨励策にも抜かりは無いのである。 --
- そうしたわけで西方商船の協定違反スレスレの商業活動は、商会本店のマダムが特別に発行してくださったサイレントヒル政府「旅行・滞在許可証」の威光であるとか、商船の皆さんの出身地の同郷団への働きかけ(それは実に商人らしいやり方)によって、無用な争いを回避しているのだが、こうした法的保護や同郷団による便宜が通用しない相手が存在するのである。 --
- 空の航路は未発達。未だ人の手の介在が少ない空の領域は、整備された街道と比べ物にならないほど魔物が棲息している。
陸では冒険者の手によって絶滅種と見られていた大バーン(ワイバーンの亜種)と、ダース単位で遭遇するのも珍しい光景ではない。 空の王者・キンググリフォンが我が物顔で飛び回り、翼の発達したデーモン種がウヨウヨしている、恐ろしい空間なのである。 --
- 空恐ろしいことに、私は当初、空に徘徊する魔物の強大さを知らなかったのである。
船に据え付けられた榴弾砲が火を噴けば、豆粒のように散らばっていき、人工精霊弾頭に追い回された末に儚くも爆散していく彼らの姿しか知らなかった当時の私には、無理からぬ話である。 蠅取り紙に絡め取られた虫を見る思いであったが、冒険者の諸先輩方から飛行型モンスターの脅威を聞き及ぶにつれ、背筋に冷たいものが走ったのを覚えている。 日常的に目にしていた彼らへの憐憫が恐怖に転じ、また、それをいとも容易く吹き飛ばしてしまう艇の武装に畏怖した。 --
- しかし慣れとは恐ろしいもので、今や空を飛び交う魔物よりも厄介な問題があるのだ。
「予算がどーとか言ってないで、もっと撃たせるですよ!」「ばきゅーん」 艇の射撃担当であるミュトスさんとロゴスさんとの論戦のほうが、私には重大事となりつつある。 燃料や糧秣と同じく、弾薬は艇の共同物資であり、全体の運営費で賄われるものであるから、会計担当の私としてはそう易々と消費される訳にはいかないのだ。 --
- 武器弾薬の類ほど金食い虫のものはない。いくら商いで利を得たとしても、露払いの度に過剰な弾幕の海を作られては、簡単に赤字を計上してしまう。
たとえ吝嗇家と罵られようとも、譲れない一線なのである。 --
- 「われわれはー、たいぐーの改善をー、よーきゅーするー」「バンバン撃たせろー」
「机上の空論でー、空の安全が守れるものかー」「ストライキも辞さない覚悟であるー」 --
- ストだけは勘弁してください死んでしまいます、と私は今日も土下座攻勢で双子さん達との論戦に臨むのであった。
モンスターを相手取るより数倍は厄介であるが、戦いでは得られぬ楽しさがあるのもまた事実。 本日のカフェの支払いは、また私持ちということになった。 --
- 黄金歴204年 冬 --
- 「貴女もそろそろ嫁ぎ先を考えなければいけない頃合ですわね」 --
- サイレントヒル204年最後の大市。僅かに出来た滞在の空き時間で、商会本店のマダムに賜った一言。
「貴女もう二十歳ですものね」 --
- 20過ぎれば大年増なんて時代遅れの慣習ではないでしょうか? 手に職がある限り、別段結婚を急ぐ必要も無いのではありませんか?
などといった理論武装をしても、私が二十歳になって感じた衝撃は消えることが無いのである。 商船で方々を駆けずり回り、間隙を縫うように冒険に出かけ、常に商船の会計状態に気を配り、気が付いてみれば4年が経っていた。 --
- 身を粉にして働いているとはいえ、仕事は楽しいし、船の人達もみんな良い人ばかりで好きだし、並び立てる不満などありはしない。
が、しかし、故郷に居る同世代の友人の近況を文で知れば、みな一様に結婚していて、子供が一人二人いるのも珍しくは無いのである。 そうした事実と私の境遇を照らし合わせてみるに、心に一抹の侘しさが吹き抜けてゆくのを感じないではいられない。 --
- 身につまされて、思わず葡萄酒をあおる。軽く一杯だけ -- ディアマンテ
- 商人、特に遠隔地貿易を生業にする者は、総じて晩婚の傾向が見られる。
そうした統計結果をふっと頭に過ぎらせつつ、ディアマンテさんの酒杯に釣られて、温めの燗葡萄酒を銀杯に満たす。 この船に既婚者は居たっけ? ヴァン・ショーが、ひどく甘い。ぼんやり考えごとをしている内に蜂蜜を入れすぎてしまったようだ。 --
- ……上記のことを書き終えて商会本店で溜息を吐いていると、大市監視人の仕事に一息ついた先生がやってきた。
「どう? ヒヨッコちゃん、少しはパイオツ大きくなったァ?」 私は泣いた。それはもう、人目も憚らずわんわん泣いた。 先生は即座に土下座を繰り返していた。 --
- 4年前から、背丈は伸びても一向に成長しない私の胸を思うと、情けなくて涙が止まらなかった。
前向きさだけが取り得と言われている私だが、ことこの件に関しては挫けそう。 --
- 土下座していた先生はというと、私の泣き声を聞きつけてやってきてくださったマダムにボッコボコに殴られていた。
こういう姿を見ていると、先生が剣聖位の称号をお持ちだということに、若干の疑念が生まれてこないでもない。 --
- 黄金歴204年 秋 --
- 葡萄の収穫時期が終わり、各地では今年最後の大市が始まろうとしている。
一年で最も流通が盛んになる時期であり、陸路も海路も水路も大いに賑わいを見せている。 --
- 大市では余程の粗悪品か需給を見誤った品でもない限り、赤字を出すような売れ方はしないものである。
であるが、やはり、我々の利を活かした商いをして今年一年最高の出来高で新年を迎えたい、と意見の一致を得て、大市では奢侈品に注力することとなった。狙うは地方の富豪層である。 --
- 河川なくして葡萄酒なし。この金言が示すように、葡萄酒の名産地には必ず近郊に河川の輸送ルートが存在する。
重量貨物の大量輸送は水路無しには難しく、特に液体は陸路だと樽ごと使い物にならなくなってしまうケースが多々見られる。 北部地域では秋の半ばといえど、既に通行不可の河川が存在し、当然ながらその流域では重量貨物の出入りが極端に減少する。 --
- この地域では収穫祭の新酒といえば、当該地の近郊のみで得られる葡萄酒や林檎酒に限られる。
小作人や一市民ならともかく、舌の肥えた地方領主や豪商達は、それだけで到底満足し得るものではない。 需給とは不思議なもので、こうした人達には名産地の新酒の一瓶が、いつもの一樽と同価でも飛ぶように売れるのだ。 --
- そして新酒と同じように、季節の初物も地域によっては市価の十数倍の値段で売れる。
北部の河川流域で採れる緑牡蠣などが正にソレであり、運送限界領域の君候が生で食したいが為に、この時期に行幸されたという逸話が残るほどでもある。 --
- 西方商船であれば限界領域も何のその、全速航行ならば緑牡蠣の産地からサイレントヒルまで一日で辿り着けるのである。
かくて、サイレントヒルの秋の大市で史上初めて取り扱われた生牡蠣の相場は、グラムにして黄金に匹敵するほどの高騰を見せた。 --
- そして我々はサイレントヒルに集う各名産地の新酒を満載して、北部地域に向かうのであった。 --
- 黄金歴204年 夏 --
- 南部と低地諸邦で渇水期。冬場は北部、夏場は此方が、河川の交通に著しく支障を来す。
わけても低地諸邦では塩が不足気味ということもあり、岩塩と北海で仕入れた塩漬け鰊樽を満載して向かう。 --
- 北部地域で良質の大青と明礬が手に入ったので、低地諸邦の毛織物業者向けに多めに積み込む。
地理的にハイラーグにも立ち寄る機会が多い。染料の卸しはもとより、北部向けに原毛の仕入れも視野に入れるべきだろうか? --
- 積荷は各商人の主体で進められるけれど、帰り荷となれば船員間の共同出資による購入と販売の機会も増えてきた。
販路の開拓が進むにつれて、益々その機は増加すると思われる。 各地の需給リストにもう少し手を入れる必要がありそう。 --
- ディアマンテさんから、火を操るカエル型の人工精霊を購入。円らな目が可愛い。
火竜の血を半分受け継ぐ伝説のモンスターから名前を拝借して、カセギゴールドと命名。 --
- ロウ付けで両手を自由に使えるのは大変便利。便利すぎて感動。二個同時付けとか出来ちゃう。すごい。
なましもスムーズに進むため、ヤスリ掛けを除けば、主要な作業時間が大幅に短縮出来る事になる。 --
- 金銀細工師にとって初めの一歩と言われる、すり出しリングを作成。
素材は余った地銀を流用。模様は一先ず三角やすりを使ったシンプルなものに。 --
- ヤスリ掛けの成形に苦心しながらも、なんとか形らしい形を整える。
いぶし銀に表面処理して完成。さっそく指に嵌めて光に透かし見る。 無骨な輝きとデザインが私の指とあまりに不似合いで、思わず笑みが零れる。 --
- 次に平打ちして薄くなました金貨を、指輪と同じ形にロウ付けして小さな金環を作る。
直刃のはさみで三角部分を形成するようにカット。小型の王冠が出来上がる。 カセギゴールドの頭に被せて、ご苦労様と頭をひと撫ですると、鳴き声一つでこたえてくれた。 かわいい。 --
- トノサマガエル。……オウサマガエル? -- ディアマンテ
- 「む、昔、悪魔大事典で見た66軍団の王・ブエルの化身の一つにですね、お、王冠を被ったカエルというのがありまして……」
なんとなくカエルといえば王冠かな、と……などといった要領の得ない私の説明の傍らで、カセギゴールドが誇らしげに胸を反らしていた。 --
- 黄金歴204年 春 --
- 北部地域の解氷期と増水期が終わり、河川の商業路が再開。
陸路も雪解けを経て活発化。 北部地域における我々の隙間産業も手仕舞いの季節となる。 --
- 冬場の強行軍の影響か、機関部に大分ガタがきているとのこと。
艇の機動部をオーバーホールしてみては? と提案が。 --
- 「私たちもこの機会にリフレッシュしておかないとね」
日の高いうちから、北部地域で仕入れた熟成葡萄酒で唇を湿らすディアマンテさんの大人パワーが印象的だった。 --
- 3年目になって、ようやく諸事に余裕が出来てきた。
それに艇のオーバーホールも相まって、少しだけ暇。 --
- 手慰みに何かしようと思い立ったところ、部屋にあった彫金道具が目に付いた。
ここでは地銀の量合わせくらいにしか使ったことはなかったけれど、銀細工に必要な道具は全て揃っている。 --
- 商会の本店があるサイレントヒルの両替屋橋では、老舗の金銀細工屋が軒を連ねていたことを思い出す。
「手に職は基本。本業と繋がりがあるなら尚更」 そうマダムは仰って、なましやロウ付けに酸洗いといった基本的な彫金技法を教えてくれたっけ。 --
- すごいスパルタだった。 --
- 軽く千切った銀を火で炙って銀の玉を作りながら、ぼんやりと思う。
簡単なアクセサリーなら作れるかも。少し本腰を入れて彫金の勉強をしてみようかな。 --
- 勘を取り戻すため、一日、銀のなましとロウ付けの作業に没頭。
『炎』の制御をしながら手先に集中するのは難しい。 魔術以外で火を起す手段を考えてみるべきだろうか? --
- 黄金歴203年 冬 --
- 1年目は耕し、2年目に種を撒き、3年目に萌芽を見る。
我々が手にする果実は如何なるものか? それがいよいよ現実的な形を伴ってくる。 --
- 我々の利点を最大限に活かす。翻っては陸路と海路に勝る点はどこなのか?
重量貨物を季節問わずに迅速に輸送できる。 これは疑いようも無い利点であった。 --
- 西方諸国の北部。冬季は結氷によって河川は使えない。
が為に、冬場は水路を用いた小麦や塩の大規模な輸送は不可能となる。 北部地域は冬の訪れを前に、これらの品の備蓄を強いられる。ここぞとばかりに商人たちは値段を吹っかけてくる。 --
- そこで我々は冬の盛りの真っ最中であろうが輸送ルートにお構いなしの利を活かし、適正な値段で商品を提供する。
果たして北部の人々はどちらの品を選ぶだろうか? 無謀な商人であれば何の下調べも根回しもせずに、小麦や塩や葡萄酒の樽を満載して意気揚々と乗り込んでいったのかもしれない。 我々といえば慎重に、初年度は需給の調査と並行して御用伺いに出向き、二年目は少しばかりの見せ品を伴って、来年度の倉庫の空きと彼らが越冬のために要する具体的な数を精査するに止めた。 --
- そして3年目の今年。
我々はハイラーグで調達した穀物とサイレントヒルの塩を、しこたまに詰め込んで、南部地域の蒸留酒樽を空きスペースに苦労して押し込み、北部に向かう。 帰り荷は穀物と塩と酒が、そっくり金貨に化けていた。結果が上首尾すぎて不安になる。 この地域で翌年から空賊に目を付けられはしまいかと今から不安でいっぱいになる。 北部地域での銀行網の形成を急がねばならない。本店のマダムだったら、そう仰っていただろう。 --
- 新年。恒例の契約更新期。
ボアさんとは貸し金庫の使用契約を、通常3ヶ月単位のところ、特別に一年単位でさせてもらっている。 --
- 「男は愛嬌、女は度胸って昔から言うじゃない?」
うんうんと私が帳簿を前にして頭を抱えていると、ボアさんは大人の余裕を感じさせる笑顔で語りかけてくる。 --
- 北部行商の真っ最中ということもあって、例年より飛躍的に増した金貨の保管場所のために、大スペースを一つ割り増してもらう。
「いやあ新年早々大商いで結構結構、毎度あり」 不敵に素敵なボアさんの笑顔が眩しかった。 --
|