[[名簿/485606]]
-その男を視界の中に入れた瞬間、私の思考は完全に止まった。&br;一体いつからそこにいたのだろうか。ハンカチの包みが置いてあるそのすぐ隣に立ち、じっとこちらを見つめている。&br;と思った瞬間、つかつかと歩み寄るその動作にびくりと反応するもあまりの恐怖に逃げ出せない。&br;目の前まで近づき同じ目線までしゃがみ、やはりこちらをじっと見つめ、徐に腰に下げた袋から一つの容器を取り出す。&br;「そのまま」と言って容器の蓋を開け人差し指をその中に差し入れる。引き戻された指の先には透明なジェル状のものが付着されていた。&br;その指が私の顔に迫る。思わずぎゅっと目を瞑ってされるがままにじっとしていると、先程打ち付けた額に冷たいものが塗りつけられた。&br;&br;「…ああ、まずは汚れを落とすべきだったな」&br;恐怖に佇んでいる私の目の前でもう一度男が口を開く。その声は恐怖を抱くには少し優しい声音だった。震える体のまま恐る恐る目を開くと、もう男は傍を離れていた。&br;何か塗られた額から何か薬のようなものを嗅ぎ取り、ようやく男が自分の傷に薬を塗ってくれたのだと理解できた。&br;しかしなぜこの人が自分にこんなことをしてくれたのだろうか不思議でならない。今までの人生で無条件に優しさを示してくれた人など妹以外見たこと無かった。&br;妹は身内だから分かる。だがこの人は全くの赤の他人だ。なんでそんな人が私なんかを…
--疑問にまた動けなくなっている最中、男は先程自分がいた大木の裏側へと回る。&br;あの人は丁度反対側にいたということか。それに気づかず泣き声まで上げたのを見られてしまったのだろうか。恥ずかしさに顔を俯いていると、視界の端で男が離れるのが見えた。&br;「ま、待って!」&br;考えるより先に声が出ていた。その声と共に男の背がぴたりと動きを止めこちらを振り向く。&br;「お…お、お礼、を」たどたどしい口調でハンカチの包みから果物を取り出す。固いパンよりもまだこの果物の方が瑞々しくて美味しいだろうと。&br;&br;駆け寄り差し出す私に、男は一瞬にこりと笑いかける。「それは君のものだから君が食べなさい」あくまで男の声は優しかった。&br;だが拒否されたことに対して、きっとこんな粗末なものではお礼にもならないのだろうと、自分はお礼すらもできないのかと肩を落として果物を引っ込める。&br;その落ち込む様子に何かを悟ったのか「では君にお願いがある」と男は先程の大木へと誘導した。&br;&br;なんだろうか。私に出来る事はあるのだろうか。落ち着かない様子で腰掛けるその横に男は腰掛け、袋から自分と似たような布地の包みを広げ、その中身を差し出した。&br;それはパンであった。2枚の薄切りのパンに野菜や肉が挟まれている。それも分厚く。&br;「私はもう食べられないから、良かったら君が食べてくれ」&br;なぜと聞くとこれから遠い所に行くから一緒に持っていけないと返された。
---当時の私はそれをすんなり納得した。今ならおかしいと思うだろうに。長期の旅路なら食事は貴重だ。このパンがあるか無いかでも大分違うだろう。それなのに何故持って行かないのか。&br;その時の私は旅の食糧事情など知るはずもなく、その前にそのパンがあまりにも美味しそうに見え、拒否する判断が出来ないでいた。&br;&br;現在、私は自分の食事は自分で作っている。余り物の食材で日々の空腹を凌いでいた。夕食の片付けと翌日の朝の支度を一人で終わらせるのと引換に、厨房を借りることを許されていた。&br;余り物があれば良い。だが無い日もある。そんな日は空腹に耐えて無理やり眠っていた。毎日無いということはなかったので最低でも丸一日我慢すれば食事にはありつけた。&br;&br;今日の昼食も、この固いパンは失敗作であり果物はたまたま妹が食べたくないというのでそのおこぼれに預かっただけだ。そして昨日の夜から私は何も食べていない。&br;改めて差し出されるパンに、一度こくりと頷きゆっくりと両手で掴む。ずしりと重いそのパンにかぶりついた時、私はそのまま無我夢中でそれを頬張った。それほど美味しかった。&br;&br;いつの間にか、隣で丸い水筒が差し出されている。喉につかえそうになっていたので慌ててそれに口をつけ一気に仰いだ。冷たい水が注ぎ込み、大袈裟に嚥下しながらパンは全て私の胃の中へと入っていった。&br;美味しい食事に胃袋は満足したのと同時に、端なく食べる姿を見せたとまた恥じらい顔を赤くする。「ご…ご馳走様でした」それでも何とかお礼は言えた。
 

---少し落ち着きを取り戻し、私は男を盗み見た。襟足の少し長い黒い髪に黒い瞳。茶色い硬そうな質感のある服を着て、これも同じく硬そうながっしりとした靴を履いている。&br;顔は若いようなだがくたびれた感じもしていた。頬は少しこけ目の下にはうっすらと隈が出来ている。疲れているように感じて心配になった。&br;その腰には二本の剣が差されてある。幅広と細身の剣だ。剣士なのだろうか。剣士がこんな丘で何をしていたのだろう。&br;「少しここで休憩をしていてね」私の心を見透かしたように、剣士の男はそう呟く。盗み見ていたことがバレないよう慌てて目を逸らした。&br;&br;「君も剣を使うのかね」そう言って指差すそこには、妹からもらった古ぼけた剣「だがそれでは君には少し大きすぎるな」&br;カチャリと音を立てて、目の前に細身の剣が突きつけられ「持ってみなさい。こちらの方が扱えるだろう」私はいつの間にか恐れることなく剣を握った&br;確かにその剣は軽かった。妹からの剣と比べると丸太と棒きれのような違いだ。すらりと鞘から抜き出されたそれは、陽光の美しい輝きを照らし返して輝いていた。&br;&br;綺麗…無意識に心の声が口から出ていたようで「綺麗でも斬れるから気をつけてね」という注意にまた慌てて鞘に挿し直し、お礼を言って返そうと差し出すとそれは拒否された。&br;良かったらあげる。唐突に言われた言葉にポカンと口を開けて全力で首を横に振った。剣が怖いのではない。こんな綺麗なものならきっと値打ち物だろう。そんなものを貰うわけには行かない。&br;「売るのも忍びないから、誰かにあげたかったんだ。ついでに剣術を少し教えてあげようかい?」&br;またもや唐突に男はそんなことを言ってのけた。何なのだろうかこの人は。どうしてここまで私にしてくれるのだろうか
---唖然としている私の目の前で男は残された一本の剣を右手で掴むと、そのまま私の隣に近寄ってくる。&br;何をするのだろうかとそのままその姿を見守れば、腰を少し落としてぐりっと体を左に捻った。&br;そう思った瞬間、まるでバネ仕掛けのように剣が横薙ぎに振り払われる。目で追えないほどの速さで振られた剣の後に、遅れて風に撫でられたように草が揺れ、花が揺れ、その先にある少し大きい岩が横一直線に割られていた。&br;それだけでも驚いたものだが、驚く所は他にもある。距離からして剣の刃は岩に届かないはずだ。だがあんなに綺麗に割れてしまっていた。&br;&br;「まぁ慣れたらこれくらい出来るよ」くるりと回してかちりと鞘の中に納め、また大木の方へと歩いて腰掛ける男。&br;私はその後に続いて、隣に腰掛けて男をじっと見つめた。&br;「本当に?本当に教えてくれるの?」少ししつこいくらいに私は訊ねる。男はそれに辟易せず逆に微笑んで何度も頷いた。&br;「君に教える時間くらいはある。君がもう来なくなるまで私はここにいるよ」&br;&br;もう男の正体などどうでもいい。今はこの親切に全力で身を寄せたい。&br;私には綺麗なドレスも地位も名誉も持たされない。ならば自分が出来そうなことから始めなければ。&br;私が力を身につければ、きっと妹の役に立つことが出来るだろう。むしろもうこれしかない。妹から贈られた剣もこの運命を教えてくれたのだろう。&br;「よ…宜しく、お、願い、します」…先生。最後にそう付け加えて、私は感謝を込めて微笑んだ。先生も微笑み返してくれた。嬉しかった。
-妹が私を外へ連れ出したのをきっかけに、私は母が外出した時だけこっそり外へ出ていくようになった。&br;外に出るだけならば使用人達も嫌な顔はしないようだ 妹の傍にいないのならば私がどこで何をしようと関心は向けない。&br;何か事が起これば責任は全て私に向けられるのだから、尚更意識が向かないのだろう。&br;&br;季節は暑くもなく寒くもない比較的過ごしやすい時期であった。木々の緑と空の高さが清々しさを醸し出す。私の好きな時期だ。&br;私の昼食は朝食と共に渡されるパンと果物のみ。汚れないようにハンカチで包んでその日もこっそり外に出ていった。&br;その傍らには、妹から貰った剣も添えてあった。
--緑の濃い空気を存分に吸い込みながら、私はなるべく人目に触れない場所を探し歩いた。人に見られるのは怖い。&br;妹を除いて皆が私を見る目つきが恐ろしかった。訝しげに目を細め眉を潜めて口を固く結び、その汚らしい姿を見せるなと言わんばかりに嫌悪の感情をぶつけてくる。&br;気のせいなのではと言われるかもしれないが、そう感じてしまうのだから仕方ない。&br;&br;人目に触れたくないのならは、やはり部屋にこもって大人しくしていればいいだけの話だが、この目に染みるような空の青さを見つめていると生きた心地がしてくる。&br;私は妹の幸せの為に生きようと思う。自分はもうどうでもいいのだ。妹の幸せを願いあのとびきりの笑顔が守れるのならば、どんなことでも成し遂げよう。&br;私に出来る事などたかがしれているだろうが、それでも姉として生まれたからには妹の為に何かするのは当然のことと思った。&br;その妹から貰った剣を右手に持ち、左手にハンカチの包みを持って、芝生を踏み固めるようにゆっくりと歩いていった。

---本当ならば妹と共にいたかったが今日は母と外出する日であった。新作が出るのだと前日はしゃいだ声を遠くから聞いたのを思い出す。&br;今ごろ母と和気あいあいと過ごしていることだろう クローゼットがまた増えるかもしれない 私の服は3枚しかないので棚などはなくベッドや椅子にかけるしかないが。&br;しかし私の容姿ではドレスなど似合わないだろう。意味のないものなど買う必要はない。着れる服があるだけで充分だ。&br;&br;色々と思いを馳せながら、気づいたら屋敷から大分遠ざかっていた。さすがにここまで来たら使用人の姿もめったに見えない。私はせっかくだからとその先にある丘へと登っていった。&br;息を切らして丘を登る。部屋に閉じこもっていたツケが回ってきたのだろう&br;クラクラするような頭で登り切るとそこは数本の大木と緑の草むらの中に映える花々で、どこか幻想的な雰囲気が醸しだされていた。&br;ここがいい。ここなら良い考えが浮かびそうだ 一番近くの大木まで移動しそこへ座って一息つく。そのタイミングを見越したのか気持ちの良い風が一陣、自分の体を優しげに撫でていった。&br;&br;自然は私に優しかった。こんな自分にも美しい色を見せてくれ、心を和ませてくれる。私が外に出るのはこれが目的でもあった。&br;その優しさに触れていると、自然に涙がこみ上げてきた。嬉しいのか悲しいのか分からない。だが泣きたくて堪らない。&br;ひとしきり泣いて落ち着いた後、傍らにある剣を徐に握りしめ、恐る恐る鞘から剣を引き抜いた。
---剣の中身は少しサビが浮かんでいた。素人目から見ても手入れもされていないのが分かる。だがこれで誰かを切るつもりは無いのだから、これでもいいかと一人納得した。&br;その剣を持って、私は立ち上がった&br;&br;両手で柄を握って持ち上げる。細い剣だが筋力の無い自分ではそれでも重く感じる。適当に振り回すだけでもまた息が切れた。&br;素人が一人で練習してはどうしようもない。だが師事してくれる人など思い当たらない。やはり一人で鍛えるしかないのだろうか&br;考え事をしながら一心不乱に振り回していると、その重みが体を引き寄せるように地面に吸い込まれた。&br;&br;倒れる!と思ったが引き戻せない。私は無様に顔から倒れ、顔をしたたか打った。立ち上がると顔も服も草や泥がついてしまったが、元から汚れているので特に気にならなかった。&br;私は何をやっているのだろうか。急激に己の無力感とどうしようもなさでまた泣きそうになった。&br;気を取り直して昼食にでもしようと、先ほどいた大木へと振り返ると。&br;&br;そこに、男が立っていた。
-子供は大きくなればなるほど行動範囲も広がる。例にもれず妹は広大な屋敷はおろか、庭全体を一日中使って遊び回っていた。&br;遊ぶと言っても妹は大人しい方なので、庭の花々や木々に魅入り時には天気の良い日は外で昼食を取ることも多かった。&br;それを私は自室の窓から覗き見ては、妹の目に映る世界の美しさを想像していた。&br;&br;妹の世界はきっと想像以上に輝いていることだろう。遊び道具の一つもない自分は、必然的に妄想の世界に浸ることが唯一の遊びであった。&br;妹の鈴の音のような心地良い笑い声。クルクルと回る姿を上から眺めていると、まるで大輪の花がそこに咲いているかのようだ。
--窓に手を当てながらじっと見つめていると、妹がその視線に気づいたのか、上を見上げて大きく手を振っている。&br;瞬間的に近くに母親がいないかを確認する。もし母がそこにいて、私が妹を見ていることに気づいたらどんな仕打ちをされるか。&br;だがここで母は今日は一人で出かけていることをようやく思い出した。ほっとしつつ改めて妹に手を振り返す。それが嬉しかったようで更に手を振り、その手を口の端に当てて何かを叫んでいた。&br;&br;恐る恐る窓を開け、妹の言葉に耳を傾けると、どうやら降りてきて一緒に遊ぼうと言っていると分かった。&br;&br;私はどうしようと戸惑った。母がいないのならば妹の近くにいても大丈夫だろう。だが母が途中で帰ってきたら?私が妹と一緒に遊んでいることを知ったらきっと母は私を叩く。&br;だが母の恐怖よりも、遊びたい欲求が増していた。自分も大きくなり最近狭く感じるこの屋根裏部屋に息苦しさを感じていたのだ。&br;遊びたいというよりも、ここから出たいという欲求に私は屈した。
---外の世界は、母のいない世界はこんなにも清々しく気持ち良いものなのか。&br;部屋でじっとしながら、いつ母の折檻がやってくるのかとビクビクしながら日々を送っている身としては、ただこうやって日々を過ごせることがどれほど素晴らしいことなのか、空の青さと木々の緑が教えてくれた。&br;&br;「いくら部屋の中か好きだからって、たまに外に出て遊ばないと」&br;そう言いながら妹は庭の様々な所へ案内してくれた。自分の身につけた知識を誰かに語りたい子供っぽさもあったが、何よりも妹の優しさがそうさせているのだろう。&br;部屋の中が好きとは、母からそう聞かされているのだろうか。実際は姿を見せると母が怒るので出られないからなのだが。&br;だがその理由ならば、母が外出している時には外に出られるという考えに今まで至らなかった自分が、何だか恥ずかしくなった。&br;屋敷の使用人の中には、私と妹が共にいるのを避けたがる人もいるが、つかの間の自由を満喫している自分には、そんな視線など気にしてはいられなかった。
---ふと、妹が何かを思い出したかのように、ちょっと待っててと言って屋敷の中に入っていった。&br;何事だろうかと所在なく立ち尽くしていると、すぐに妹は帰ってきた&br;手に、細身の古ぼけた剣を握って。&br;あれはなんだろう。どうして妹がそんなものを持ってきたのかと訝しげに見つめていると、何の躊躇もなく妹はそれを私に差し出した。&br;意味が分からなかった。どうして私にそんな物をくれるのか。どうして剣なのか。差し出されたそれを固まったまま受け取れないでいると&br;&br;「姉様は女ではないから、贈り物ならこれがいいと思って」&br;&br;妹の言葉が耳に入らない。入ることを拒絶しているかのようだ。しかしどんなに拒絶していても、まるで水のように隙間から浸透し、私の脳内に入ってきた。&br;妹はまるで天使のような笑顔で笑っていた。本当に私のことを考えてこの贈り物を選んだのだ。&br;彼女は本当に、純粋に、私の為に贈っているのだ。&br;そこには一切の悪意もない。偏見もない。ただそうなのだと信じ、無邪気に笑っているだけ&br;&br;ありがとうと言って受け取った後、日に当たりすぎたのでもう戻ると告げ、逃げるようにその場を去った。&br;部屋に入り剣を握りながら、古く小さくなってしまったベッドに腰掛ける。飾りも何もない柄を抱きしめながら、必死に嗚咽を噛み殺した&br;
-深く優しい夜のようなドレスに身を包んだ妹が、身のこなし軽やかに廊下を歩いている。&br;真新しいドレスだ。また買ってもらったのだろうか。対する私は安物の寄せ集めのようなちぐはぐで地味な服を数年に一着貰えればよい方だった。&br;意識していないのに身長はやたら伸びていき、穀潰しのくせに成長して、そんなに母を困らせたいのかと叩かれる日々が続いた。&br;自分とて身長などいらない。妹のように小柄な方が小さくて可愛いのに。そもそも女に身長など必要ないのに。&br;しかし自分の体なのに自分ではどうしようもない。食事の量を減らされようが足首の痛みにまた伸びるのかと戦々恐々とした毎日を送っていた。&br;
--「姉様見て見て 夜空のようにキレイでしょ」&br;&br;藍色のドレスにキラキラとしたラメが施されたそれをふわりと翻して、笑顔でそう語る妹こそが綺麗で美しい。&br;たとえ顔立ちは似ていなくても、この美しい妹と同じ血を持っているというだけで誇らしかった。&br;「姉様はどうしてこういう服を着ないの?」&br;無邪気な妹の言葉に氷を背中に入れられたような恐ろしい感覚が電流のように走った。&br;妹は本当に純粋に私がドレスを着ないのを不思議がっている。だがここで母が買ってくれないからだと言ったらどうなるだろう。それだけは絶対に言ってはいけない言葉だと、理屈抜きで私はそう信じていた。&br;&br;「それはドレスが嫌いなのよ」&br;私を''それ''という母の言葉が後ろから聞こえた。ああこの氷は母が背後にいたためか。&br;「どうしてドレスが嫌いなの?」「女じゃないからドレスなんて着たくないの」「女だから姉様なんでしょ?」&br;「こんな背の高い女なんて、女じゃないのよ」
---妹が私を見る。頭の先から爪先まで。頭の先を見る時は、首が仰け反ってひっくり返ってしまうかと思った。&br;「そっか」&br;笑顔のまま、妹はそう言い残してその場を後にした。残された私の体は母を前にして震えていた。&br;「あの子と口を聞かないで頂戴」&br;&br;先程妹にかけた声音と私にかけられるこの声音が、初めて聞く人は本当に同じ人間が発したのかと疑ってしまうだろう。&br;「穢らわしい」&br;吐き捨てるように言い残し母もその場を後にした。一人残された私もどうしようもなく、自室の屋根裏へと帰っていった。&br;埃臭いベッドに横たわる。寒い季節ももちろんこれだ。ほとんど寒さをしのげない薄い毛布が唯一被れる物。あまりの寒さにこの毛布の上に重しとしてイスなどを乗せて眠る。こうすれば寒さが少ししのげると6歳の頃に気づいた。&br;幸い今は寒くもなく暑くもない季節だ。そんな苦労しなくても何とか寝ていられる。屋根があり壁があり床がありベッドで寝れるのだ。これ以上望むことこそ贅沢だろう。&br;&br;
---横になりながら、私は妹のことを考える。美しく華やかで宝石のような私の妹。もうそろそろあの子も10歳になる。&br;年月が経てば経つほどに、妹の美しさは輝きを増していった。私はそれを間近で見ていられるだけで幸せだと思っていた。&br;しかし妹が成長するにつれ、懸念すべきことがある。&br;私の存在だ。&br;&br;妹は私の存在をどう認識しているのだろう。姉様と言うから姉だと思ってはくれているようだ。&br;だが実の姉がどうしてこんなみすぼらしい姿なのか、長年同じ屋敷に住んでいてさぞ疑問に思っていることだろう。&br;いつか聞かれるのだろうか。そして私は答えなければならないのだろうか。そしてその答えを聞いた後、妹はどんな顔をするのだろうか。&br;優しい妹のことだ。哀れむだろう。同情するだろう。いたたまれない顔をするだろう。&br;私はそれが怖い。
-妹の7歳の誕生日が近づいていた。&br;それはそれは盛大なパーティにしようと、母はそれはもう熱心に毎日毎日出かけている。&br;今日は妹のパーティドレスの仕上げの日だ。二人は朝から最高の笑顔で出かけていった。&br;私は物心ついた頃から、自分の誕生を祝われた記憶など一度も無い。&br;常日頃から母に疎まれ続けている身では、それは生涯変わらないだろう。&br;&br;「私の子供はあの子だけ」母は常に、特に私に言い聞かせる。そのせいだろうか。もう10年暮らしているこの屋敷に、未だにぎこちなさを感じる。&br;ほぼ屋根裏と言ってもいい三階の自室の窓から、母と妹が馬車に乗って出かけるのを気付かれないように覗きながら、埃臭い部屋の掃除を再開した。
--部屋の掃除も服の洗濯も、屋敷の者は一切手を貸してはならない。&br;母に言い聞かせられたメイドたちは、怯えるようにそれに従った。みな、母が怖いのだと子供心にもありありと感じた。&br;それでも昔は親切にしてくれた人もいたが、その人は次の日には、早くてもその日の内に解雇されてしまうのだ。&br;女主人の機嫌を損ねないように皆必死だったと思う。食事は固いパンと夕食の残り物だけ。15で嫁ぐまでずっとそのメニューのみであった。&br;&br;豪華な食事が羨ましかった。&br;家族と談笑しながら暖かい食事をして綺麗な部屋で幸せに一日を終える。次の日もそうなるのだと信じきって。&br;そんな生活をしてみたかった。&br;&br;妹のような人生を歩んでみたかった。
-私は 一体 どうなっていくのだろう
-私のこの髪も、この小さく見栄えのしない目も鼻も、父親似だと常々母の口から言われていた。&br;薄い唇をきゅっと噛み締めながら、私はその憎々しげな母の声を聞き続け、早く母が満足して立ち去らないかと願っていた。&br;「私が産んだのに。私が産んだのでなければまだ納得いくのに」&br;細く美しい顎の上に乗る、バラ色の唇が震えながらそう呟く&br;恐ろしいほどの冷酷な声は、人生で最大の過ちを犯したと言わんばかりに、激しく狂おしく、私の存在を押しつぶすようにかけられる。
--夫を亡くし、以来この家を取りまとめていた美しい女主人の腹から私は生まれた。&br;そう言われても誰も信じてもらえないほど、母と私はかけ離れた存在であった&br;私は何一つ母から受け継いでこなかった。&br;鮮やかに波打つ銀の髪は、宝石で出来た糸で出来ているように錯覚される。&br;深く美しい湖の色をした瞳も、薔薇色の唇、陶磁器のようななめらかな肌。&br;それらを私の代わりに受け継いだのは、私の三歳年下の妹だ。  
---妹はまさに幼い母と瓜二つだという。母から冷酷さを取り去り、純粋さと明るさと天真爛漫さを加え、優雅さ品性さを高めた母の傑作だ。&br;こんな醜い姉にも、妹は別け隔てなく優しく接しくれる。&br;柔らかくふわりとした銀の髪は、日に照らされまばゆく私の黒ずんだ目を優しく焼き尽くす。&br;愛くるしくキョロキョロと動く大きな瞳が私を捉えた瞬間、まるで天使のような笑顔で子犬のように懐いてくる。&br;その声を聞いた瞬間、甘く蕩かすような感覚に陥るのは大袈裟ではないと誰もが思うだろう。&br;&br;同じ母から生まれたのに、私と妹はこれほど違う。別の人種、別の存在のようだ。&br;だがいつまでもどうしてなどと言っていられない。こうして生まれてきたのなら、この姿で生きていくしかないのだ。&br;どうあがいても、この運命からは逃れられないのだから…