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* 西家出身 バロン西 408898     [[http://notarejini.orz.hm/up2/file/qst063330.png>企画/貴人饗宴]][#n681be68]
|ID:|408898|
|名前:|バロン西|
|出身家:|西|
|年齢:|16|
|性別:|#listbox3(男,server,sex)|
|前職:|#listbox3(ごろつき,server,job)|
|理由:|#listbox3(食うに困って,server,reason)|
|状態:|#listbox3(野垂れ死に,server,state)|
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|方針:|#listbox3(特になし,server,type)|
|難易度:|#listbox3(安全第一,server,diff)|
|信頼性:|#listbox3(あまり気にしない,server,conf)|
|その他:| [[ステータス>http://gold.ash.jp/main/?chrid=408898]]/[[戦歴>http://gold.ash.jp/main/advlog.cgi?chrid=408898]]|
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// ※ ご注意「//////////」より上は変更可能個所以外はそのままにして下さい。
// タイトルの「家出身」の記述も含まれます。
CENTER:http://notarejini.orz.hm/up2/file/qst064230.gif~
&br;西男爵のダンディズム溢れる不敵な笑顔&br;&br;どことなく愛嬌さえあるウインクがまた育ちのよさをアピールしている

*来歴 [#ha63a088]
西 寛一(にし かんいち、1968年 - )は、日本の乾物屋主人で元プロボクサー。爵位を持ち、「マンモス西」とも呼ばれた拳闘屋。~
~
腕っ節が強い巨漢で、丈が最初に入れられた少年院鑑別所で部屋のボスとして君臨していた。~
特等少年院に送られてからは鑑別所時代の尊大な態度は全く影を潜め、気が小さく臆病な本性を露呈した。~
少年院を退院後は、丈と共に丹下拳闘クラブに入門。~
粗暴な不良少年だった頃とはうって変わって真面目な好青年に成長し、ボクシングの練習に励む傍ら林食料品店(通称:林屋)で働き始めた。~
一時期、過酷な減量に耐えることができず外食し、ジョーに見咎められ仕置きを受けてからは真面目にボクシングに取り組むも、~
骨折を機に成績が上がらなくなり、ボクシングを諦め林屋に就職した。後に林紀子と結婚。

**ウラヌスとの出会いと金メダル [#d3285772]
1930年にイタリアで愛馬ウラヌス号に出会う。~
ウラヌス号は丹下会長から予算が下りず、かなりの高額ながら自費での購入であった。~
ウラヌス号と共にヨーロッパ各地の馬術大会に参加し、数々の好成績を残す。~
さらに練習生時代の1932年に参加したロサンゼルスオリンピックでは、ウラヌス号を駆って馬術大障害飛越競技に優勝して金メダルを受ける。~
この当時の記録映像は横浜・根岸森林公園内の馬の博物館で公開されている。~
これは日本が馬術競技でメダルを獲得した唯一の記録である。~
~
最後の障害でウラヌス号自身が自ら後足を横に捻ってクリアしたこともあり、~
インタビューでは「We won.」(「我々(自分とウラヌス号)は勝った」)と応じ、世界の人々を感動させた。~
西はバロン西(Baron=男爵)と呼ばれ欧米、とりわけ上流階級の名士が集まる社交界で、~
また当時人種差別感情が元でアメリカで排斥されていた在米日本人、日系人の人気を集めた。後にロサンゼルス市の名誉市民にもなっている。~
~
西は1936年のベルリンオリンピックにも参加したが、競技中落馬し棄権している。~
同年11月には陸軍の強い後押しにより日独防共協定が締結されていることから、~
この意外な落馬には主催国のドイツの選手に金メダルを譲るために西が計った便宜ではなかったかという憶測が当時から流れていた。~
~
このオリンピックの後、西は本業のボクシングにもどる。~
当時はヘビー級が削減され、代わってミドル級がJBC(日本ボクシングコミッション)における最重量級とされていた時期であり、~
西もミドル級8回戦として空きっ腹を抱えて戦った。~
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***その後 [#p275c505]
なんかいろいろあって冒険者になった。~
うどんとか超好き~





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