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* カラブレーゼ家出身 エアリー・フォーミュラ 480085 [#eb912481]
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|名前:|エアリー・フォーミュラ|~|
|出身家:|カラブレーゼ|~|
|年齢:|━|~|
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// ※ ご注意「//////////」より上は変更可能個所以外はそのままにして下さい。
// タイトルの「家出身」の記述も含まれます。


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**紫陽花と雨の狂想曲 [#b11a6b36]
***ヴィンセント・カラブレーゼの場合 [#s00fbf31]
 男が二人、対面する形で睨み合いになっている。
格式高そうなアンティークの漆喰塗りのテーブルを挟み、二人の男は互いの腹を探るように形式ばった挨拶を交えてながらも近況を
報告し合っていた。
 長い黒髪に白髪を混ぜる端整な顔立ちの男はソファーで肩肘を任せる形で。方や、この白髪混じりの男よりも比較的に若い顔立ち
の青年は形では敬う姿勢で、しかし何処か不遜そうに受け応えをしている。
「━━まさか、イオナ様までもがご不在になられてしまっていたとは。もしや聖教の連中が動き出したのではないんですか。以前に、
顔を出したときは随分と聖女を開け広げに置いたものだと思っていたんだ」
 彼らはお互いに深い面識があり、どうやら共通の関わりを持っている。青年の不遜そうな態度も、その事があってのものだろう。
 ただ、言葉の端に親しみが感じられない所、互いに久しぶりに顔を合わせている。
「ヴィンセント君、冗談ではない」
 片手には火のつかない葉巻を遊ばせていて、愉快そうにうんと頷いてから、吟味するように青年の言葉を否定した。その動作の
一つにも威風の漂うところこの上なく、どこか偉そうな口振りは軍人らしくすらある。
「そうではないんだ。イオナは確かに眠り姫ではあるがね。即身仏にも近い彼女であっても、それは難しいことだ。君は生きている
時の彼女を知らないのだろうが、深い眠りについている時の方が血色がよい。死んでいるが生きているのが彼女であって、それこそ
我々の聖女たる所以でもある」
「ははぁ、確かにそれは分かりませんよ」
「そもそも、誰かが安易に持ち出せるようであっては聖女とは呼ばわれないだろう」
「それはそうでしょうが、聖女であれ女性というものは気のないふりはしても、口説かれては何処か心が揺れるものではないのです
か。確かに直に話をしたことはないですが、聞く及ぶにイオナ様も一人の女性で在られていた」
 向かう相手の話に頷きながらも、油断なさげに言葉を選び意見を述べている所、どうやら青年の方は腹に一物を抱えている。
白髪交じりの男もその事を知ってか知らずか、もしくは生まれ付きにその様な男なのかもしれないが、芝居のがかった口調で丁寧に
話し、すらりと細くのびる口の端を歪ませる。
「あのイオナが男に口説かれててほいほいと生き返るものか、ヴィンセント君。……ましてや思想の根底から違えるものが、安易に
触れられる様なものでは決してないのだよ。ふらりと、起き上がってしまったにせよ、足跡一つも残さずにひとりでに姿を隠す事は
無理だ。やっぱり彼女は死人なのだから」
「……左様なものなのですか」
 ヴィンセントと呼ばれた青年は、顎を撫でるのを止めて何食わぬ顔で言う。
「実を言えばあれと話が出来たのが君の母君で最後だよ。私は生前に一度だけ、一言だけ言葉を酌み交わしただけで、それも他愛の
ない世間話の体にすらならないものだった。とはいっても彼女の場合も自己報告に過ぎないがね」
 男は続ける。
「目撃者は居ない。死体と会話をしただなんて、彼女だけが言ったことだ。最高司祭ですらも生前に良くして頂いたとしか語らない
ものだ。しかしヴィンセント君、母君は確かに言葉を酌み交わしたのだろう。その事は疑う余地もない。……イオナを持ち去る事を
やれるとすれば、彼女くらいのものだったろう」
「俺は母さんからそんな話をされた事はなかった。けれど残念ながら、家の売り物に聖女の遺体はありませんよ」
 ヴィンセントは店内を見渡すようにしてみせる。二人の会合する場所はどうやらこの青年の所有する骨董屋で、古めかしい特有の
空気の漂う。示して見せたように店内に置かれる物はといえば貴金属類、食器、陶器等の芸術嗜好の品物ばかりであった。家具にし
てもモノを隠してある様な大きさのものは置かれない。どれも片手で持ち運べそうなものだ。
「だろうな。そもそもその彼女が先んじて行方をくらましてしまっているのではな」
「それで、俺の所に来たんですか、遠く遥々に……マリクさんは」
 口元を歪ませて「違うさ。」とマリクと呼ばれた男が否定した。
「私としては一応は遠く親戚にあたる君の様子を見届けなくてはならないし、年長者の務めとでも言うのかな。一応は断わって置き
たいのだが、君や母君に疑いをかけているのではない。それほどに手掛かりも足取りも掴めないという事なんだ。君の母君も、どう
やら幾つかの輪の中ではイオナの様に聖女と謳われてもいる。……だからこそ、ヴィンセント君が、"何か"その事で知っていればと
思ってね。しかし心当たりも無いのであれば構わんよ」
 がっかりした調子でもなくため息を吐き、肩膝に身を乗り出す姿勢で続ける。
「それに妙な噂話も耳に挟んでね」
「妙な噂だって?」
「君の妹さんの事だよ」
 ヴィンセントは内心の舌打ちを曖昧な返事に変えて頷いた。
「……ああ」
「あれほど、自らの恵まれない境遇に嘆いていた君に妹だ。どれほどにしているかと興味も湧くだろう」
「妹は今日は都合があって遠出していますよ。……いや、お会いさせられずにまこと残念な」
 ヴィンセントの言い終わらぬ間に「残念」と眉を潜ませて、しかし愉快そうに驚いた様な口振りをする。
「どうも、そうでもないらしい」
 銀食器と紅茶を淹れたポットをトレーに乗せて、一人の少女が二人の間に割って入る。
 西洋人形のような小ぶりの鼻に、憂いを漂わせるような表情で、緊張をしているのか何処かぎこちない所作で二つのカップに茶を
そそぐ。彼女は二人に凝視をされれば頬を紅潮させて、お辞儀をして一先ず一歩後ろに引っ込んだ。歳の割りにまだ人馴れをしては
ないない様子で、表情にも幼げなたどたどしさが残っている。
「ほう」と感嘆してみせたのがマリクで、ヴィンセントはそれを忌々しく目を細めて見遣る。
 しかしおくびにも顔に出さずに、はにかんでいる少女に代わりお礼を口にした。それからばつ悪そうに苦笑をする。
「今、丁度話にされていた妹の、エアリーです」
「君も意地が悪いな」
 マリクの方は失笑も隠さないで言うが、間に挟まれたエアリーは二人の様子にたじろいでいる。
「えっと……本日は遠い所から兄に……」
「……この男にご丁寧な挨拶はいらない」ヴィンセントがエアリーの言葉を遮る。
「母さんが、こちらの修道院に密かに預けていたらしいんです。こっちに来て、偶然見つけたので、一緒に暮らし始めました。どう
にも世間慣れしないので、外に出してやることにしているんですよ。しかし今日は教会のお友達の方に顔を出すのではなかったか」
 目配せが通じる訳がないが、こうなっては仕方もない。教会にと言うのは嘘ではないが、予定ではもう少し遅い時間にエアリーは
出かける。おっとりとした性分であるので、予定には常に多めに時間を見積もっているのだ。
「ほう、偶然か……」銀の匙をひょいと持ち上げてマリクが言う。白い砂の様な砂糖よりも甘みの響く声色で、鋭い視線が向けら
れる。この男の方もやはり隠し事の多い性分であって、そのために人の隠しものに関しての合わせ方も承知している。
 ヴィンセントはマリクという男の、表には出さないで居る裏側の性分を周知していた。この男には全てを話すべきではない。
「彼女が預けられていたというのは、やはり例の古い井戸のある方か?」
「いえ……新しい方の。昔に世話になった神父が赴任していたものだから、挨拶にと顔を出したんです。……そうしたら一目見て、
妹だって判りました。神父に彼女について問いただしてみれば、確かにそうだった」
「レッドウィング神父?」
「まさか。ウナムーノ神父です」
 エアリーは二人の様子をまんじりとも出来ずに窺ってた。男二人の会合にあって、所有なさげである。まごまごとして言葉を飲み
込んでいる。さりげなくその事を察したマリクは橋渡しをしてやる。
「いやいや……とても母君によく似ておられるじゃないか。雰囲気もどうやら何も瓜二つといってもいい」
「そうかな、母さんはもう少し……」
 ヴィンセントが合いの手をうつ。焦りすぎていることを実感しているのか、自然に揺られる足をぴたりと止めた。
 マリクはやはり口元を歪ませる。完全に彼のペースになっていた。
「血の繋がりというのは隠せないものだよ。母君もそうであったのならば、エアリー君にもやはり素質はありそうだ」
「そ……そしつ?」
「ヴィンセント君は母君の事は話さないのかね」
 エアリーは目をきょとんとして、僅かに頷いた。
「君のお母さんはね、聖女……と言うのは"妙"か」溜めた言いまわして、言葉を正したのはわざとであろう。「思慮深い、それも
敬虔のある女性だったよ。しかしそしてあれほどに御し難い人物も無い」
「まあ……その事は俺が一番知っている」と、ヴィンセントは諦めた様子で言った。マリクもそうだろうと頷いた。
「良くも悪くも。素質と言ったのは彼女が誰にも畏怖されるであろう、モノの持ち主でもあったからでもある。私は母君とはこんな
小さい頃から説教をされた事がある。生まれながらに彼女は何かを知りえている様な、そんな子だった」
「……」
「エアリー君は何か、見聞きしたような、それも受け入りではない形の思想を持っているか。自らだけが口に出切ると胸を張って、
口にできる様な確かな思想だ。思想は力に優る。孤独に克ちえる。人を育む」
 要領を得てなさそうな彼女に簡素に説明をする。
「母君はそういう分野に置いての証明だったのだよ。生きた、理だ」
「理……」
「理は死なないが、人間は、生命は何時か必ず死ぬ。その事の意味が判るだろうか?」
 エアリーは曖昧そうに頷いた。
「……誰かに理解される為のものだから。口にすれば耳に入って、その人の中で生き……続ける」
「そうだ」
 その返答をどう捉えたのかはとうとうわからないままに、それから特ににべも無い話を交わし、男は満足そうにヴィンセントに、
かつ手短に別れの口上を述べた。
「今度、本堂の方に妹を連れてくるといい。彼女を甥のやつに会わせて見たい」
「まあ……何時か、帰郷をする予定があれば」
 そうすると面倒な事になろうことは理解している。だから言い淀んで、しかし面と向かって帰らないとも口には出来ない。
 頑なにすれば、何か隠し事があるのだろうと疑わしい。だがヴィンセントの方はと言えばとっくに観念をしてしまっている。投げ
やり気味にマリクに視線をやって、この男には勝てない、と落胆をしていた。
「しなければ、ならなくなるだろう」
 そう言いやるマリクは内心で確信をしている。だからこそ青年の肩に手をとんと置いて、非常に親しみの篭る口振りで切り出した。
「こちらの修道院に、とある修道女を寄越してある」
「彼女と君の妹を会わせてみればいい。どうやら、君の悩みも、それで解決することだろう」


''/*''

 骨董屋の名前に相応しく、古めかしい品物とそれ特有の匂いを漂わせる店内。その奥まった場所にある扉の先は隣接する別の家に
繋がっている。こちらは質素ながらも邸宅の体を成しており、目新しい調度品の姿も多い。
 どうやら、こちらは骨董屋を営む兄妹の住処だ。
 男の訪問から数日。慌しく荷物をまとめており、何処かに二人は出掛けようとしていた。荷物は多くも無ければ少なくもなかった
が、どうやら長旅になりそうだ。
 癖毛なのか黒髪の先をほんのりウェーブさせて、青年がどうにか必要なものを苦しげに選別している。
「どれも貴重品ばっかりだ……もう少し長居出来ると想っていたからな」
 しょうがない。と、金にはならないモノを優先して黒塗りのトランクから吐き出させた。
「金があれば、いつかまた買って戻せる」
 窓を開けて、辛気臭い空気をほこりと共についでに外に追い出してやる。
 陽は光を満遍なく翳していて、旅日和のよい天気ではある。

 そんな青年を見守るように、踊場の所で膝を抱えている少女がエアリーだ。
 エアリーはこの"旅"には不満らしく、少し頬を膨らませて、右往左往して止まないヴィンセントを見下ろしていた。
 この少女の荷物はどうやら多くは無い。とは言ってもほとんどが真新しいものばかりで、衣服やそれに人形の腕、それも等身大の
ものばかりでトランクは詰まっている。持っていかなければならない様な、思い出の品はほとんどなかった。
「……」
 ヴィンセントが急に「家を出る」ことになったと口にして、意味も判らないまま旅支度をさせられている。それから荷をまとめて
いる兄の姿を眺めていて、ぼんやりとしていた気持ちがもやもやになって、彼女自身に感傷を与えていた。
 そんなエアリーを見兼ねて、ヴィンセントは柄にも無く陽気そうな声を上げる。
「ここよりも南にある港街を経由しての船旅になると思うよ。エアリーは海に行った事はあったかな。視線をどこまでものばして、
それでも何も無い空間が広がっている。何処までも続く地平線は大陸中の雑踏にはない、わずらわしさも忘れさせるような青々しさ
がある。エアリーも気に入ると思うのだけどな」
 エアリーはこの時には既に核心を持って、この兄のもと、同じ屋根の下で暮らしをしている。その核心とはやはり、先日訪問をし
た男の口振りに関係をするものであった。
「……もうやめよう、ヴィンセント」
 準備ももうしばらくと言う頃に、エアリーは抱えていたトランクを階段の踊場に置き去りにして、ようやく口を開いた。
「━━そうだな、……やめる?」
 ヴィンセントは戸惑う。何を『やめる』と彼女が言い出したのか、本当に分からなかったからだ。それも荷物も持たずに微笑んで
いるものだから余計に戸惑う。全てが厭になったのならば、恐らくはもっと悲しい表情が混ざる。もしくは本当に、感情が一回りを
して、だからそんな顔を自らに向けるのかとも考えた。彼は最悪を想像した。
「分からないな。俺と君が一体何をやめるというんだろうか」
 焦燥感をかみ締めて、表情は涼しげであっても言葉尻は震えている。
「海沿いの街での暮らしが厭なら、そうだな……もっと何処か遠くの、もっと景観の美しい街へ行けばいい。それとも山の方が好き
だったかな?」それならばそれで構わないと、言う調子で頷いてみせる。
「ううん、そういう事を……言いたいんじゃない」
 それならば、何時ものちょっとした気紛れの我が儘か。しかし彼女は無言の間に首を振ってみせた。
「……逃げても、どんなに逃げても辿り着けたりはしない」
「君が、何を言っているのか理解をしかねる」
 目を細めて彼女は困ったような表情を浮かべた。ヴィンセントの手を両手で取って胸の辺りに持って擦り合わせる。
 彼女の両の手は無機物のもので、しかし胸から伝わる鼓動は静かにだが、生命のそのものがする鼓動そのもので、上下する呼吸は
腕をかすかに撫でて産毛をくつぐるようですらある。
「理は、死んでも生きるって」
「ああ。」あの男の言った言葉だったなと、ヴィンセントは思案する。「……旅に出て、新しい理を探そう」
「新しい理。ううん、ヴィンセント……私も貴方もまだ何も得ていない……じゃない」
 ヴィンセントは押し黙る。
「私ね、どうして、不自由なく生きられずに、障害が与えられているのだろうって深刻になって考えた時期もあった。……けれど。
そんなのは……小さい世界、とっても小さな世界の事。何処に旅立ってもそのことは変わらない」
 優しく手の甲を撫でてしとしとと言葉を紡ぐエアリーのその姿は、ヴィンセントにとって不可侵の存在に映った。
「……ううん、けれどね。それすらも含めて大事な命なんだなって、そう思ったの。その事実から逃げ出したくない。この間の人が、
お母さんの事言ってたでしょう。それで分かった。理は生き続ける……その事を考え続けた。……そうしていたらね、触れたんだ」
 やまない雨の音に耳を済ませるかのように、彼女は瞳を閉ざして傾いた。
「一体、何に触れたというんだ」
「入り口」
 雨が降る。
 彼女は普段からたったそれだけのことで涙を流すのだ。雨と涙を交わらせるのはきっと、悲しみや、自己憐憫の情がさせることでは
ない。慈しみ、愛し、受け容れて、そうすれば自然と涙は溢れて来る。逃げ出さないでと口にする彼女は同時に、自らも逃げ出さない
でいると、ヴィンセントに告げているのだった。
「ヴィンセントは、とても不自然で……傍で見ていて辛い」
「君から見て、そんなに不自然だったか、俺は」
「うん、とっても」
「そんなにか」
「そんなに、たくさん、いっぱい。一緒に居て……不安になってしまうくらい」
 愕然として、彼女の瞳に問う。
「そうか。それは……悪い事をした。」
「出会った時から。……平然と嘘をついて見せて、でも叱られる事を恐れている子犬みたいだった。初めは、そういう人なのかもって
考えた……でもそうじゃないの。しょうがなさそうにして、寂しい気持ちに気がついて欲しいのがヴィンセント。嘘をついて居る事を
叱って欲しいのが、貴方だった。私はそのことで、貴方に導かなくてはならないみたい」
「俺は……無力だったな」
 蹲り、溢れ出す感情が止められない。やめろ、と、ヴィンセントは願う。
「……今も無力だ。君を殺してしまったのが俺だから。俺が……俺が……!!」
 エアリーはヴィンセントの髪先を撫でて、落ち着けるように撫でる。大事な事を言わねばならなかった。
「聞いて、ヴィンセント。私ね、見つけたの。貴方が殺してしまったって思っている……お母さんを」
「何……」
「お母さんは私の中に居る」
「君の中に……つまり。やはり君が……」
 ヴィンセントの言葉を遮るように彼の口に手を添えて、首を横に振る。
「ううん……正確に言うとやっぱり違うかもしれない。私はお母さんの居る世界への扉なの。扉だから、やっぱり私はただの空っぽの
器に寄生した魂に過ぎない。……だから私はヴィンセントの探し物そのものじゃない。来るべき場所に至るためへの扉。コンコン、っ
てノックをされたらお母さんが返事をするはずだった。お母さんだって……寂しく感じいて、だからずっとヴィンセントの隣で色々を
見守って居た位だもん」
 少し哀しそうに、けれども何処か口端は嬉しそうに言うのだ。
「役割だから。……連れていってあげる」
 なんという事だ。ヴィンセントは己の鈍さに腹の底に重いものが圧し掛かるような感覚を覚えた。これまでの自分の来歴は、確かに
彼女を守る行為ではあったものの、それが何処かで母親にたどり着くべき道であるものと、信望しての事であったからである。言わば
彼女は母親の忘れ形見であって、……もしくは身代わりであった。
 その彼女が、その言葉を信じる限り、何かきっかけさえあれば母親に辿り着く事が出来たものである。
 何かきっかけがあれば。引っ掛かりを感じてヴィンセントは顔を上げる。
「どういう事何だ。……何故、今の今まで黙っていた。そして何故今そんなことを言う」ヴィンセントが続ける。
「そもそも、どうやって俺を母さんの元に連れて行くっていうんだ。幾ら探しても手掛かり一つも得られなかった。だからこそこんな
辺鄙の地にまで俺達は……」
 かほそい指先がゆるい半月を描くヴィンセントの髪先を撫でる。何かの花の匂いが鼻腔をくつぐる。彼女の香りだ。
 何時しか嗅いだ覚えのある花と同じ香りだった。しかしそれが何の花のものであったのか、ヴィンセントには分からなかった。
 ただ、脳裏にかすかに覚えがある光景がある。
「……すぐそこ」
 しっとりとした甘みと水が多分に含まれる空気の香りが充満して、淡いピンクの唇が震えて微笑みを作る。
 彼女がヴィンセントのおでこにお別れの口付けをした時には、既に彼の意識は甘いまどろみの中に溶けてしまっていた様である。
 抜け殻の様にその場に崩れ落ちて動かなくなった。
 ぽつぽつと、紫陽花の花の咲く雨の日。室内であるのに雨の芳香が漂う。

***エアリーの場合 [#p222d28d]
 何処へとも無く何も見えず、かといって焦点の定まらぬわけではない。
 ぼんやりと青々とした白雪の流れ行く様を見ていると、やはり寂しさがひたすらにこみ上げて来る。よく勘違いをされる事ではある
が、空を眺めていても、その空自体は誰しもが見慣れたものであって、彼女にとってもそれは特別、代わり映えのない事であった。

━━私は、やっぱりただ一つだけ取り残される。

 空を見上げながらも、想像を膨らませている。かといって空想に耽っているわけでもない。地面をじっと見ても同じ事を考えるかと
いえば、そういう訳ではなかったからだ。必要なのはどこまでも広がり続けるだけの視界である。
 そもそも、今彼女に必要なのは青空そのものではない。この場合の青空はただ寂しいと形容されるだけで、何らかの想像を彼女にも
与えたりはしなかった。誰しもが空を見てその青々とした中に雲や太陽の眩しさを見つけ出すかもしれないが、彼女はそれらによって
対照される。陽の中の影の様に浮き上らされてしまう。
 ふと、片手を持ち上げて太陽を隠してしまう。
 太陽は視界から消え去り、しかしその事で、誰がかなしむのだろうか。

/*

 敷地内には一つの古い井戸を挟んで牧舎と、畑が庭のスペースに広がっている。修道院はそのものは石の灰色で埋められた作りで、
青空の中の遠景の一部に溶け込んでしまえばその場を漂うのは若草とどこまでも乾燥した香り、それに冷たさを含んでいるので、人に
よってはこの景観に清らかなる生命の営みを感じない事もないだろう。
 ともかくエアリーも、この修道院には生命の循環の様なものを一つの形として感じていた。手入れのし過ぎない庭に野花があって、
意図しているのものか、使われなくなった井戸の周りに多く群生してる。それが訳もなく、ただとても美しかった。
 ぞろぞろと、その庭を横断して何人かの修道女が通り過ぎる。中には親しげに挨拶をかけてくる者もいたが、大体が会釈をするか、
一瞬だけ視線を寄越しては無言の間に去っていく。その中には「おかえりなさい」と、慇懃に頭を垂れるものすら居た。
 修道女達が行き来しているのは、どうやら彼女達の住み屋と礼拝堂が庭をはさんで存在するからであるらしい。
 修道女達は鐘の音がなる度に何人かが束になって行き来をしている様だ。
 エアリーはその行き来する修道女の中にも生を感じた。鐘の音もそうだが、どこか法則性があるようにも思えたからだ。
 実際には、そう難しい考えは持っては無い。法則性と言っても"ぼんやり"だ。ずっと考えていたのだ。男が言った言葉の意味を。
『生命は何時か死んでしまうが、理は生き続ける』
 その場に居た事はほぼ偶然に近い。これまで、礼拝堂に顔を出すようなことはあっても普遍的な形式ばった祈りを捧げてみるばかり
で、あまり感情と言うものが動かされることはなかった。
 この修道院にはその理と、生きた証がある。ふと、そんな気がして感傷的になってその場に立ち尽くしていた。不思議なことだが、
教会に聳える十字架そのものよりも、神に祈る様な気持ちが湧きあがってくるものだ。親しみがあって、愛おしさがある。その中には
哀しさも含まれていて、それでいて清らかな気持ちがしんと心にのびている。
「……雄弁に信仰を語るよりも、この何気なく美しい庭を一枚のカンバスに納めて置けばよいのに」と、エアリーは想う。
「━━それもそうですね。エアリーさん」
 想わぬタイミングで声を掛けられ、びくりとして振り返れば妙齢の修道女がにこやかに会釈をした。
 彼女は簡単な挨拶を口にして、それから天候を褒め称えた。
「本日はよい天気ですね」可笑しそうに笑って言う。
「これはよくある挨拶ではなくて、本当にそう思ったから言う事ですよ。決してお世辞ではありません」
「……えっと、はい」
 たじろいでいると、修道女はエアリーが先ほどまで眺めていた光景に目を向けた。手を広げてきょとんとする少女へ笑みを浮かべる。
「この何の変哲も無い庭が、それほどに美しいですか」
 独り言を聞かれて居た事に顔を赤くして、しかし問われた事には頷いた。
「……あの、具体的に表現することは出来ない……ですけど」
「抽象的な表現で言えば、どうでしょうか」
「……密やかなる人の神秘の庭」
 修道女はくすくすと笑った。ばかにしているものでもなく、何処か嬉しげに顔をにこにこさせている。エアリーは彼女の事をあばた
の笑窪がかわいらしい人だなと、やはり内心で恥ずかしがりながらもそう思った。
「あの場所……、ほら、あの井戸の近くに花が生っているでしょう。あれは、血を栄養にして彩った人間の性であり、聖なるであって、
生でもある。そんな事の象徴なのではないかと、私は想っているのです。……あったと言う方がいいかもしれないけど、貴女が何かそ
れが形にならないものだとしても、感じるのならば現在進行形で、そうなのでしょう」
「血……であって象徴」
 やはり意味を掴み兼ねて、エアリーは首を傾げる。
「正真正銘、血を栄養にして花は育っているのです。いいえ、それはあくまでも私の主観に過ぎないのですけれど」
「……どういうことなんですか」
「人が、殺されたのです」
 修道女はふと真顔をになって続ける。
「随分昔のお話です。とある修道女と司祭様があの井戸の付近で亡くなられる事件がありました。司祭は首元から上を綺麗に失うと、
そういう形で。修道女の方はと言えば左の胸を。つまり心臓を鉄砲で撃たれて殺されました。」
「そんな」
「陰惨なお話でごめんなさいね。でも本題はこれから。先ほどは三つの言葉を使いましたね。つまり……。あの場所で亡くなられたの
は司祭と、それから修道女で三人なのです」
「……ごめんなさい。そういうつもりで……言ったんじゃなくて」
「違います。」エアリーの心境を見透かすように修道女は言う。「意地悪でそんな事を教えた訳ではありませんから」
 陽射しの中で咲く花の様な笑顔には裏も表も無い、妙な親しさがある表情で、言葉尻からは優しさすらも感じる。
 その修道女は話題を変えるように手振り身振りでエアリーに尋ねた。
「迷っているのなら案内ができると思うのですけれども、貴女は新しくこっちに来た子?荷物はもうお部屋に運んでしまった?」
「違います。えっと……今日は直接に会ってお話をしたい人が居て」
 どうやら、その人を探していたら古い井戸を見つけて、それで長らく時を過ごしてしまったらしい。
 その事を伝えると修道女は信じられないという様子で「貴女をね。遠くから見たときに凄く"それ"っぽかった」と訳を語った。
「まるで昨日より昔から、この場所で過ごしていたみたいで。貴女ってここに馴染んでいると思うのです。本当にここの修道女では、
ないのですか……。それならば西方にあるところの━━」
 修道女はあくまでもエアリーを教会に関係した人物であると、そう思い込んでいるらしかった。
「……修道女じゃ、ないです」
 首を横に振ってみせて、しかしエアリーは先ほどからうっすらと感じて得ていた違和感の正体に気が付いた。
 通り過ぎていく修道女達の態度は、全てがそうではなかったにしても、どうやら自らに親和性を感じえての事であったのだ。
「そうなの……。では本日は誰さんを訪ねに来られたのでしょう。まさか、あの人たちではないですよね」
 井戸を示されて、それが冗談であるかどうか計りかねて、どうにか「違います」と口にする。
「どちらにしてもこのような場所で立ちんぼで居ても、その方にはお会いになれません」
「そう……かも。でも実を言うと……ここにはお伺いをして。ずっと待っているんですけど……」
 どういう事なのか、かれこれ数刻の間もほって置かれている。その事を告げれば「まあ」と修道女は困ったものだと洩らした。
「お名前の方をお伺いして置いてもいい?」
「あの……その人の名前はローザルク」
「……はい、分かりました。でも、今お聞きしたのは貴女の方です。」
 親切なのか、純粋な興味心からか、彼女はエアリーがほったらかしにされた事を幸いに、根掘りに何事か訪ねる算段でいる。
 ローザルクの名を反芻する彼女のからは、どうもその事が窺える。エアリーは苦笑して胸に手を置いて、今度は間違いも無く名前を
名乗ってみせた。修道女はエアリーの名前を聞けば、やはりその名前を二度口にした。
「……それでは礼拝堂の方へ参りましょうか、エリ」
 人好きする笑みで修道女は言うや礼拝堂の方を示して、それからエアリーに頷いてみせた。
「ううん、エリ……じゃあないです」
 修道女は意味ありげに微笑んだ。
 少し待つようにと言い残して、それから、古井戸の石段の隙間から広がる花を一つだけ持って来ると、それをエアリーの手のひらに
ちょんと持たせた。花は鮮やかな赤色の花びらを細く束ねたつぼみ状のもので、根元は淡くを白みを帯びている。見覚えのある花だ。
「……エリカの花」
 修道女はまた頷いた。その動作には朱を差すような羞恥心がある。
 エリ、エリ、と何度も赤みのある唇を動かして何処か熱を帯びた目を向ける。
 その様子を傍目にした他の修道女達は、どうしても彼女達に興味を示さざるを得なかった。一人、二人と歩み寄り、次第にその数は
指で数えられない程になる。その中には何事かがあるものかと興味を示すだけのものもいる。大人よりもまだ幼さの残っているような
修道女見習いの姿が多く、新しいお方なのですかと、しきりに尋ねられる事になった。
 その度、エアリーは困った様子を浮かべて微笑んだ。

**紫陽花と雨の狂想曲(ヴィンセント)[#k3168a29]
***紫陽花 [#i4a4e021]
 木漏れ日の優しげな光が指先の間に見える。どこか懐かしい薫りが漂って鼻をくつぐる。
どうやら木々に囲まれた場所に仰向けで眠っている、それもどうやら、やわらかな感触を頬に与えられている。
 眼を開ける。
 ヴィンセントは自らを覗き込んでいる紫陽花色の双眸が、一体誰のものであるのか、一瞬気が付かなかった。
 女性が自分を見下ろしている。彼女がヴィンセントに優しく何事かをつぶやくと、長い黒髪が彼の鼻先に触れた。
 膝枕をされている。その事に気付いて、しかしどうも起き上がれないようにされてしまっている。細い指先が髪の生え際から顎に
かけてをなぞるように撫で付けられる。それは存在を確かにと認識させるものでもあれば、ここに居るのだと感じさせる様でもある。
「眼が覚めてよかった。……ヴィンセント、お久しぶりね」
 ヴィンセントは声を掛けられて、ようやくこの女性が誰であるのか理解した。
「はい。」
「どうして誰も会いに来てくれないのかって、結構寂しかった。駄目ね、一度良い想いをするとすぐに独りに弱くなってしまうの」
「うん。そうだろうとずっと思っていた」
「ずっと、待ってた」
「……はい」
 全ては幻のようで、だがそうではないにしても頬を撫でる彼女は、彼にとってはどうにしろ死人である。
 胸を込み上げる感情は、寂しさによって満ちたりてしまっていて、だからいざ彼女を前にしても喜びを口にする事がどうしても、
はばかられた。何よりも五感に与えられる情報が、今の全てに思えてならないのだった。ヴィンセントはその事を口にする。
「陽が眩しい。ここは一体何所だろうか」
「うーん、きっとここは遠い場所ね。誰も歩いても訪ねて来ないのだから」
「とても静かで、でも耳を澄ますと軋む様な音がする。何かがずっと動いている」
「近くに水車があるのよ。一定の間隔で動いていて、だからさやぐ程のものではないでしょう」
「何かに頭を乗せているみたいだ。それに、とてもよい薫りがする」
「私が、傍にいるからよ。ヴィンセント、誰に似てしまったのかあなたはとてもおねぼうさんね。感じているのに、認識をすること
を忘れてしまうのだから。……次は味覚ね?」
 どきりとして、思案するようにヴィンセントは口の中で舌を蠢かせた。渇いていないし、それどころか妙に潤っている。
 目が覚めるような想いがある。
「……何だか、にがいよ」
「ふぅん、やっぱりこの井戸の水ってにがいものなのね」
「貴女の背に見える屋根は、井戸のものなのか」
「そうね」
 紫陽花色の瞳を細めて、それも可笑しそうに女は言う。
「毒かもしれないと思ったけど、ヴィンセントがしっかり目を覚ましたのだから。……きっと成分に地中のにがいものが混ざって
いるのでしょう。独りじゃ確かめられなかったから……とても助かったわヴィンセント。ありがとう」
「優しそうに言っても、やったことが酷いよ」
「いい子、いい子」
 頬をぎゅと抑えられて、怒るにしても何も言えなくなってしまった。
「皆、貴女を探していた」
「……うれしいわ」
 微笑んでみせているが、眉を潜めているところ、自分が初めての訪問者であったことが窺えた。彼女の孤独は計り知れないも
ので、だからどうにかしてやりたかったのだ。必要とされながらも、誰もがその事で頓挫していた。
 その想いを何度も砕こうとした。けれど出来なかった。
「……貴女に辿り着く為に、色々と手を尽くしたんだ。けど俺も死んだのかな。死なないと会えないんだったら、そりゃあ誰も
会えないよ。……ずるいよ。人間は何時か死ぬ。近くに居たって事だ、けど、どうしてヒントを与えてくれなかったんだ」
「違うのよ。私は死んだ人間に会うこともないの。そんな事を言ったら、私だって死んでも会いたい人はいたのよ。
ここは死後の世界なのかしら。けれど会えなかった。それにヴィンセントが死んでしまっているのなら、私はとっても悲しい」
「俺はあんたの為なら何時だって死ねたんだ。……それだけの後悔があった。謝りたかった。俺が余計な事をしたから……」
「シュレティンガーの猫は、箱を開けなければ生きている。ヴィンセントが言っている事は、それにとっても近い。
あなたは猫の死骸の入った箱を偶然と好奇心から開けてしまった、ただの子供に過ぎないのよ。自分の、認識が全てだと思っては
駄目。猫はもっと昔に死んでしまっていて、だからもう随分と前に毒で死んでしまっている事も口に出来ないのだけれど、物事の
前後関係は自身の思い込みから抜け出して、ようやく確かだと言えるのよ」
 あなたは間違っている、とは言わなかった。しかしその例えば否定でもある。
 彼女は何時もそういう風に言うのだ。正しさを教える程強制的でもなく、ただ生真面目なほどに物事を精妙さを必要とした。
そのことがくどく聞こえないのが、彼女がどこか遥か遠くを視ているからでもある。そのまま黙り込むヴィンセントに語りかける。
「でもね、ヴィンセント。もしも猫を閉じ込められた箱を誰もが開けもせずに、見ない振りをして通り過ぎるばかりであったら、
その猫はきっと死んでしまっていて良かったと思うの。勿論、自らその箱を開ける術を持っているのだったら、生きていなくては。
けれど、考えてもみて。暗くて息苦しい場所で、何も見えず、足音や人の生活は耳にできてもそれは自分に何の助けも与えないし、
誰としても関与をしないだなんて……。朽ち果てるまでそうしてなくてはならない。彼も誰も"私"を求めないで、もしも求めても
関係は箱によって遮られてしまっている」
 淡々と語る彼女も、どこかもの悲しげにしている。そんなに寂しい事は無い。
「貴女は……待っていてくれたのか。だとしたら、だとしても謝らなければならない。……俺はやっぱり無力だった」
 彼女は呆れたようにヴィンセントの鼻先を指でつんつんと押しやった。
「不細工」
「……ひどいじゃないか」
「変な所がお父さんに似ているのね、あなたは。……いいわ、それならばヴィンセントには協力をして貰う事にする」
「何でもする。そうなんだ、その為に今の俺は此処に在る」
 思うよりもヴィンセントが食い付いたので、彼女は妙に照れることになった。しかし何所か冷めていて僅かに眉を潜めたものだ。
「そういうのって嬉しいと言うよりは複雑。けど、やる気があるならそれに越した事はないのかもね」
「果たして、俺に出来る事があればいいんだけどな」
「そうね……お座り。ヴィンセント」
 起き上がるように促して、草生した地面に手を添えた。飼い犬にでもするようなソレだったが、ヴィンセントは先程の発言の手前、
文句を口には出来なくなってしまっている。
「これは……しまったな」と苦笑しながら、彼女の手前、胡坐をかいて座る。
 正座にしなかった所が彼なりの反抗であった。それでも彼女は満足そうに頷いたのだ。その事がむしろ喜ばしくもあるように。
「あなたがこの場所にどういう方法で来たのかは、想像する事は容易い。私自身も様々な方法がある事は知っているのだから……。
ヴィンセントは私を、とてもよく探してくれました。ただ、実を言えばその事自体あまり難しくはないし、あなたも迷いさえしなけ
ればすぐ来れたはずです。……ここまでは前置き。いい?」
「ははぁ……俺の十年を容易いと仰るか。まあ、確かに俺は何もしなくても良かったな。エアリーが導いてくれたんだ」
 しかし、と首を捻る。
「……どうやってと具体的な方法は結局判らず仕舞いだった。目を覚ましたらこんなんだから」
「あら、エアリーってもしかしてあなたに与えたお人形さん?」
「違う、妹だよ」
「……今はそういうことになってるの。……ねえ、あなたは」
 両の頬を掴まれて心配そうな視線でじっとみつめられる。
 何所か自責の念が感じられて、勘違いをされているとしか思われなかった。同時に、彼の中にあった仮説がくつがえされた事にも
なった。彼女を探す事に苦労をしたのも、その事でおおいに悩んだからでもあった。
「分かった。多分、妹じゃあないんだな」
「あなたは正真正銘の一人っ子よ。そんなに寂しかったのなら……もう独りくらい居れば良かったのでしょうけど」
 噛みあっていない。だが説明をするのにも骨が折れそうだ。
「誕生日の時に貰った人形の話をしているんじゃないんだ。実は貴女と別れてから長い間、彼女は俺の支えになってくれたんだ。
"貴女が死んだ訳ではない"と。そういった意味では本当の妹みたいな存在で。でも貴女がそうと知らないだなんて、思わなかったな。
てっきり、彼女は残された助け舟であるかもしれないと……」
 勿論、その妹の為に全てを諦めそうになった事もある。だからこそ、自ら名乗り出る事で役目を果たしたのだと認識していたのだ
が、その当の本人が心当たりもなさそうにしているである。見る限りにとぼけているような様子でもない。
 真剣に言うので、彼女もヴィンセントが寂しさに頭を打ったのだとは考えなかった。思案するように小振りの唇を撫でて言う。
「その事は後でじっくりと聞く事にする。まずはこちらの説明からさせてね。此処に来れたくらいだから、はっきりとはしなくても
ある程度は分かっているのだとは思うのだけど……。だからこそ端的に言ってしまいたいのだけれども、ここは概念だとか精神です
とか、そういうもので構成された、現実には存在し得ない、特殊な空間世界なのよ。ただ、誰かの夢であったり、想像によって切り
離された一種の、精神世界とは別物だとは思って欲しい。現にあなたがここに来れたのだと言う事実がある。……もしも、"誰か"の
精神世界であるとすれば、世界は個としての形を保てずに崩れてしまうはずでしょう」
 両手を動かして四角形の箱をつくる。
「ここは箱の中。大きさは判別することが出来ないのだけれど、そうであると仮説をしているの」
 静かに話に耳を傾けて、うーんと唸るヴィンセントに「つまり、ね。」と、彼女は畳む様に続けた。
「私達は外側からはシュレディンガーの猫であって、箱はこの場所。けれど内側の私達はその事を認識されない限り、どうすること
もできやしないのよ。この問題の回答を、あなたには一緒になって考えて欲しいという事なの。箱の中にいる私達が観測者になる」
 彼女はヴィンセントの手を取り、それを優しく頬で撫でた。
 ヴィンセントはそうされて、ようやく彼女が冷たくも暖かくも無い事に気が付いた。吐息も感じられないのだ。
「成長するのをずっと待っていた。あなたは一度、少なからずここから脱出をしているのだから」


/*

 そこは完成された農村、そのものであった。
 朝の陽射しが遠景につらなる山々の間から差し込んでいて、その山間からは村まで続く細い川が清流となって流れる。川沿いには、
間隔を置いて幾つか畑が作られていた。ある程度の柵で区切られていて、それも柵は丸太木を地面に打ち込み、平板を囲むだけの素
朴なものであった。良く言えば効率的であり、悪く言えば出来合わせの、あれば良かろうと言う程度のものだ。
 一つの間隔、つまり丸太二つの間に一枚の板を打ち据えてあるだけなので、例えある程度の体躯があっても、猪や様な四足の動物
であれば、これを潜り抜けて作物を荒らすことは容易にできることだろう。
 そうすれば作物は粗末なものであるのかとも思ったのだが、果たして素人目にしてもよくなったものであった。
「荒らすような生き物が、この辺りには居ないという事か」
 考えてみれば眼が覚めるような朝だというのに、小鳥の鳴き声がひとつもない。
 もしかしたら、動物そのものが存在しないのかもしれなかった。

 川のせせらぎが耳に届かないのであれば、ここは余りにも静か過ぎる。"彼女"の言う分には水車小屋がゆるやかな円運動を続けて
おり、その事はどうやらこの閉鎖空間に置いては救いであったらしい。少なくとも力はある所に在るのだというのが彼女の感じ方で、
あるところと言うのが全体を法握するその構造である。箱と称された世界の中に閉じ込められてからヴィンセントと彼女は使い様の
ない時間を、それまでの空白を埋め合わせる事に殆どを費やした。
 今日は五日目で、一日目から此の方にここ辿り着くまでの簡単な来歴を話していた。彼女は箱の中にいたので、どちらかと言えば
自分方が一方的に喋る形となっていて、その事を訊ねてみれば「それでいいのよ」と話の続きを促がされる事となった。
 勿論、どうにも気はすかしくてとても話す事は出来ない事柄もあったが、特に悪事の話に関すれば彼女は興味深そうに頷いたので、
ただの自意識過剰なのかもしれなかったが、どちらかといえばその点に置いて、どうやら自分の方が生真面目であるのかと苦笑する
しかなかった。ともかく閉鎖された世界で、気まずくはしたくは無いし、そもそも彼女をどうにかして助けたいと言う一心で居る。
 この村に置いて、住人はといえば当然の如く、二人だけであって。田畑を耕して開拓をした者たちの姿は、どうやら初めから存在
すらしなかった様子である。生活の匂いを申し分なく配置したような空き家が数軒立ち並んでいて、一番に大きな家で寝泊りをした。
 内装も小奇麗にされていて、どうにもやる事がなかったので整然とさせる事ばかりをしていたらしい。
 ある時、ヴィンセントが「ここにはどれくらいになるのか」と、ものの試しに訊ねてみた。自分の歳で言えば、少なからず片手で
足りない以上に時の流れがあったはずである。しかし彼女は指を三つ、両手を使って立てたのだった。
 それもよく話を聞いてみれば三年ではなくて、二年と一ヶ月である。四季が二つ巡り(四季がきちんと存在することに驚いたが)
そして一巡を二回繰り返して、ほぼそれから一ヶ月が経過しているはずであると彼女は言った。
 時間と言うものが相対的であることは彼は理解していたし、うすうすと彼女も気が付いているのである。
「初めね、あなたがそんなに大きく育っていることに驚いたのよ。……景観の変化からは、どうにか二年と感じても永遠の様に長い
年月だった」
「それは俺も同じ事だったよ。もしかしたら同じ時間の周期で、けれども巡りだけがばかになってる世界なのかもしれない」
「矛盾をどう捉えるかね……。この事はともかく、忘れないで置きましょう」

 こんな話が昨晩に有った。朝早くのそりと起き上がって作物を眺めているのには、そういう訳もあったのだ。
 煙草の火を点けようとしてある事に気が付いた。点火されたライターの火の上に手を翳してみる。そのまま接着させると火は燃焼
するべき空気を失って消えてしまった。手を返して中を覗くと赤焦げてしまって、かさかさと皮が堅くなってしまっている。熱さも、
痛みも何も感じはしない。
 この閉ざされた世界ではどうやら熱を感じないばかりか、痛みもないのだ。
 それでも、予想以上に赤焦げの体となった手の平に痛々しさを感じて眉を潜める。何ともないはずなのだが、どうにも無いはずの
痛みを想像してしまう。
「……だが、これでこの世界の事が一つ判ったな」
 かっこいい台詞で痛みを誤魔化そうとして試みていれば、視界の中に白い手が現れて、火傷の痕に指先を這わせて撫でた。
「どうしてそんな事をするの、あなたは」
「いや……」
 あんたが居るからだ、とは言わなかった。彼女はにこりと微笑んで横髪を撫でる。
「痛覚に関する事はもう自分で試しているの。傷はどれだけ酷い物でも一晩で治る……と思うのだけど、痛くはない?」
「痛みはない。肉体に依存していないって事なら俺達は幽霊の様なものなんだろうか。思念体とでもいうのかな……」
 ヴィンセントは早速推測を立てて見る。続けて話をしながらも出来うる限り、同時に仮説を広げていく。
「環境はお膳立てされているし、そうすると、ここは死後の世界という事になるのか」
 話を聞きながらも、彼女は皮膚を掻き分けていく。赤い血が湧き出るように滲み出る。そこに爪を立てられて肉を抉られてしまう。
痛みは無いのだがどうしてか視神経が反応している様で、思わずヴィンセントは声を漏らした。
「幽霊とは少し違うような気がしてならないのよ。痛覚を感じないようにさせられているだけではないかしら。もしも思念で痛みや、
感覚が与えられるのであれば気丈にでも振舞っていればいいことなのに。それでも痛み以外の感覚が与えられるのは、あなたがひ弱
だからではないでしょう」
「だが、貴女の温度も感じなくなっている」
「けれどね、私は感じる。……そもそも、あなた気付いている?」
 いじわるそうにそう口にする彼女は何所までも挑戦的で、この状況を愉しんでいるようにも見える。
 火照るような赤みが頬に差すのを感じて、思わぬ恥ずかしさを覚えて視線を何時の間にやら山頂の上まで登りつめた太陽に向ける。
頬に何かが触れて、しかしそれが血糊のついた彼女の指先だった。
「片方の眼、それ本物なんじゃない?」
「まさか……」
 空洞のぽっかり空いているはずの眼が存在している。いや、本来ならば眼は鎮座することはしているのだが、贋物であるはずだった。
 それが今は触れれば柔らかな感触があって、視界を動かせば確かに動いているのを感じた。
「あなたはもっと自分の視点を大事にしなさい。そのあなたの視点を信頼する。……この世界で起こる事象には些細であったとしても
必ず必然性が存在しているはず。……ああ、この問題を考えた存在は余程に優しいのね」
 彼女は押さえ切れそうになさげに感情を漏らした。頬も紅潮しているが、これからの事を考え続けて止まらないのだ。
「……俺はもっとこの世界を理解しなくてはならない」
「そうね……。それならば、まずはあなただけの観測者を見つけ出すことにしましょう」
「俺だけのって?」
「それが、一番に手っ取り早いかもしれないという事よ」

***箱の中でも・前 [#qc35b6fe]
 世界は彼女の話どおり、正方形の箱型をしているのだろうか。
 その事を確かめるべくヴィンセントは朝の早い時間から、根城にしている民家を出て世界の探索に赴く事にしたものだ。
 井戸を出発点として、二分するように分かれそれそれが道なりに進んでいく。早朝の精気に含まれた涼やかな空気を胸に含んでいて、
よほど気分もよい。ふとして背を振り返ってみる。そこに村のほぼ中心にある井戸と、それから一人の女性が見える。
 その女性というのはこの村で目覚めた時、ヴィンセントの起き上がるのを見守っていた彼女である。
 この村で目覚めた理由をヴィンセントは知らなかったが、その女性の何よりよく事は知っているつもりだった。彼はこの村から彼女を
連れて元の場所に帰ることの為に、半生を費やして村への入り口を探し続けていた。それが、今度は出口を探しているのだった。
 道行く景色は遠く山の向こうの青空まで雲が流れて、夜になれば星も出てくる。星座には詳しくはなかったが、四季の関係からは自分
達の住んでいる地域から見えるものとはほぼ一致した。もしも彼女からこの世界が元の場所から確立されたものであるとでも説明をされ
てなければ、何所までも続く道なりを進まずに引き返し、さっさと彼女の元に戻っていた所だろう。
 のどかに広がる草原と、遠くには山や森が見えて、景観は何よりも平穏そのものである。
 とは行っても生き物の姿や人の気配は見る限り何所にもない。朝方だというのに小鳥も囀らないし、その姿を空の中からは見つけ出す
事もできなかったのだ。
 村からのびる道を進んで、想像するよりもすぐに近くで行き止まりにぶつかることになった。
 見る限りに続く道は確かに存在をしているのだが、どうやら見えない壁で遮られている。川が道を分断してその上に小さな橋が掛かっ
ていて、その橋を境界にしてまったく先に進むことができなくなっているのだ。
 みえない壁は触れば硬い感触で、叩いても弾力を持たないのかびくりともしない。
 こうなると決して割れない硝子によって行く先を遮られている様ですらある。
 井戸から二手に別れる手前、「もしも壁にぶつかったのならば、そこを外周として右手に回りなさい」と、言い付けられていたことを
ヴィンセントは思い出した。
 そうすると時計回りになる。
 言い付けどおりに壁を伝い歩んでみた所、ある程度の地形や障害物によっては形も崩れても、確認できる限り壁は存在している。
 そのことから確かに、箱によって囲われているのではないかと実感をさせられた。透明な箱に閉じ込められているのだ。
 何時間かをかけて森林や小川を縫うように行くと、見覚えの有る景色が視界に入る。
 橋があって川が流れている。それから黒髪を緩やかな風に靡かせている人の姿がこちらに向かって手を振っているものだ。
「壁は四方を塞いでいるみたいだが、まだ空は判らない」
 ヴィンセントは涼しい顔で道標の石の上に座ってぺんぺん草をゆらしている彼女に言う。
「もしかしたら蓋の無い箱なのかもしれないな」
「……かも知れないわね。それじゃあヴィンセント、空を飛ばなくては」
 汗ばんだ額を拭って、不可視の壁をこんこんと叩いた。
 外周を回りながらも、それだけでは彼女にばかにされるからと探索をしていた。
 それによって、この地域が少なくとも過酷な残暑の過ぎた秋近い季節にあることは判ったのだが、それ以上の収穫ともいえるものが、
これっぽっちも無かった。その事が悔しくてたまらない。
「俺は一体何所からこの村に入ってきたんだ。……しらみつぶしに壁にぶち当たっていけば、どこかに抜け道があるかな」
「さあ……」
「眼が覚めたとき、俺は貴女に介抱されていた」
「私は井戸の元であなたが眠りこけているのを見つけただけ。その前の事だったら私も知らないのよ。」
 どうしても手探りで、この壁の内側を歩き回らなければならないらしかった。
「俺はまだ貴女がいうこの世界が箱だとは思っていないんだ。扉を探してやる。ノックもしてやる。誰かが返事をするはずだ。」
 ヴィンセントが意気込みを話せば彼女は嬉しそうに頷いた。この笑みの為に自らはこの場にいるのだと願った。

 その日の夜のことだ。ヴィンセントは急に寝付けなくなり目を覚ますことになった。
 ざわつくような妙な気配があって、しかしそれが何所の誰からというものではない。全身を舐めるような感覚がある。
 彼の経験するところによれば、こういう時には必ず何かがあるものだ。
 誰も居ない事をいいことに民家の一つを無断で借用しているのだが、それが村の中では一番に大きな民家で村民の中では長にあたる
人物の家であるらしい。視線を上げれば大きな角つきの獣の顔だけの剥製があって、その下には勲章の様に猟銃が立て付けられている。
 ヴィンセントは入り口に近い居間のソファーを寝台にしてここ数日間を寝泊りをしている。そうすることで番人の代わりもできると
考えたからだった。守るべき物は決っている。
 居間をのそりと抜け出て、階段のある廊下から二階の方に扉を見上げる。そこは彼女の部屋だったが、ヴィンセントはどうしたって、
その部屋には近づこうとは考えなかった。軋みがちの玄関の扉を音を立てないように外へ出る。
 しんと静まる黒い海には星空が輝き、月は細い下弦を描いて妙に赤い。満月を瞳だとすれば泣き出しそうな表情を下弦が見せている。
 異様な気配が暗がりを纏う村全体に広がり、ヴィンセントは肌に産毛のそそり立つのを感じて狼狽をした。
 こんな村の在り様は初めてだった。
 どこにでもあるのどかな田舎の村、その箱庭に吹く風も今や生暖かく湿度をもっており、肌に不気味さをまとわりつかせている。厭な
汗がにじみ出ていて、しかしどうやらこれが彼の待っていた異常でもあった。
 居間に戻って磨かれたナイフを一つ握る。灯りは持って行かないことにした。幸いなことに星が地面を照らしていて眼の見えぬ程の事
はない。それに夜目は利く方だった。下手に光を灯してしまうことでこの異常が逃げ出してしまうことを恐れていた。
 漆黒を前に意を決すると、とたんに視界の隅から数匹もの黒い影が疾走する。
 黒い影の群れは音も無く駆ける四足の生き物で、どうやら村の中心にある井戸に向かっているのだった。
 考える間も無い。
 ヴィンセントも夜道に駆け出していた。血の生臭い臭気が吸い込む息に混じっており、その事が、さらに彼の駆り立てる。
 恐怖や躊躇が追い付く間も与えない。
 ことの一寸も見逃さす、この事態を全て見届けようという一心であった。


***撫であうという事で [#b7835d7c]

 ━━その村は廃村だった。
 流行病で村人が全滅してしまったらしい。病気の伝搬を恐れた隣村の人間達は村を焼き払うようにと何度も相談に来た。
 神父はそれは出来ないとその度に首を横に振った。
 村人達は皆、敬虔な信徒でもあった。肥えた大地から豊富に実る農作物には感謝と祈りを捧げていたし、村の長は余った作物や牧畜を
貯蓄分にするだけではなくて、通り行く商人や旅人に分けてそれを金貨に換えていた。その金貨は全て教会に寄付をされている。
 その村人達の遺体は神の僕として丁重に葬り去っている。そしてその遺体をどうにかした者達は同じく病に掛かって、すべからく命を
落としてしまった。
 調べてみれば原因は病ではなかった。その村一帯が毒で汚染されているのだ。
 どういうわけかその毒は空気だけを伝う。
 村から流れる川の下流にはいくつかの村があったが、毒にやられたのは、知らず汚染された地域に足を踏み入れてしまったものだけで
ある。教会はその正体不明の毒の取り扱いに困り果てていた。
 燃やしてしまえば、その場だけはどうにか収まるかもしれない。だがそれで近隣の村々や、自分達の住む街にどういう影響を及ぼす物
かわからない。幸いなことに村には近付きさえしなければ良かった。
 焼き払うにも向かう者達は決死隊だ。命を脅かされもしていないのだから誰もやりたがらないだろう。
 ある日、一人の修道女が街の教会に訪ねてきた。隣街に住んでいるが、親戚を訪問するがてらに教会にしばらく留まろうという事で、
神父も「信仰を探すにもよい機会になることでしょう」と快諾した。
 その修道女が街に来て早々のこと。
 彼女はどうした訳か、何人かの子供を捕まえて、例の廃村の事を聞いて回っていた。大人は誰も不吉に思って村の事に関しては堅く口
にはしなかったし、そうすれば毒にでもやられてしまうと、思い込んでいるものすらもいた。
 どうしてか存在そのものに蓋をしてしまっていることだった。
 だからだろう、子供達もその修道女にそのことを聞かれても戸惑うばかりだった。
「口にしちゃあいけないんだ」
 一人の男の子が修道女に言う。
「言うとみんな厭な顔をする。病気になるから喋るなって」
「神父様にも口止めされてる」
「ふぅん」と頷く修道女も、子供を相手にそれほどの期待をしてもいないのである。それじゃあとすぐに別のことを尋ねた。
 先ほどから彼女に群がる子供達の輪からはずれて、一人で石畳の段差の上、ぽつんとしている男の子が居たからだ。修道女は妙にその
子供の事が気になったらしい。
「あの子はどんな子?」
「いつも一人でいるよ。さそってやっても、僕達と遊んだりするのがつまらないからってさ」
「……そうなの」
 修道女は少し困った様子で、答えてくれた男の子にお礼を言って、それからその頬を撫でた。くしゃくしゃに、犬にでもするような撫
で方ではあったものだが、そうされた男の子は満更でもなさそうにはにかんで頷いた。
 これから学習堂と言う神父のやっている塾に行くのだという子供達を見送って、修道女は一人ぼっちにしている男の子に話を仕掛けた。
 そこは孤児院の入り口で、先ほどの子供達もその院から出入りしていた。
 修道女は男の子も”そう”なのだろうと、そんな風に思って声をかけている。
「ねえ、こんにちは」
「……」
「隣、座るから」
 無視をする男の子は木の枝を一つ持っていて、それで地面を掻いている。
 傍目にはその事でどうにも熱心そうにしているようにも見えるのだが、違うらしい。言葉をかければ僅かに枝の軌道がぶれるのだ。
 内心何事かを想いながら、あえて無視をしているのでそういう反応をする。修道女はそれを返事だと思うことにして隣に腰を掛けた。
 男の子はどれだけの間、ここに座っていたのだろう。冷たい石畳の硬い感触は、長く座っていればお尻が痛くもなりそうなものだ。
「考え事をしているのなら、それを邪魔してしまってごめんなさい」
「……」
「聞いていたかもしれないけど、あの村の事をどうしても知りたいのよ。どうしてなのか……神の名の下に、たくさんの人が亡くなって、
いるでしょう。善良なる人たちには罪もない、それが神の意思ならば理由を知りたいと思う。ほうっては置けないの」
「あんたの神は、おれだって棄てた」
「……神父様に、育てられているじゃない。彼は神の僕です。その彼から恵みを与えられているのでしょう」
「違うね。神父は神様の犬っころだ。全部、自分がほめられたいからそうしているんだ」
「言ってくれるのね」
 地を掻くのをやめて怪訝に表情を向ける。愉快そうに修道女が笑っているからだ。
「あんた、修道女の癖におかしいんじゃないのか」
「あなたも子供の癖におかしなことをいうじゃない。この辺りの孤児ってあなたみたいなのばっかりなの」
「おれは孤児じゃないよ」つんとして言う。「確かに神父の所に預けられているけど、あんな奴らとは違う」
 先ほどの子供達だ。無邪気に遊んでいるのだろうか、はしゃぐ声がする。
「何が違うの」修道女は男の子に向かって言った。「寂しいくせに」
「寂しくなんか無い!」
「じゃあ、寂しくないあなたはここで何を想っているの」
「おれは棄てられて何か無い!」男の子が叫んだ。すぐにそのことを恥じるようにぼそぼそと言う。
「……だからあいつらと一緒になってちゃ駄目なんだ。誰だか判らなくなっちまうから……。迎えに来るんだ。ずっと待ってるんだ」
 修道女は言うべき言葉を失ってしまった。
「ごめんなさい……。」
「別に、いいよ」急にしおらしくされたので、男の子もどうしてかわるい気持ちになった。
「村の事だけどさ、連れて行ってやってもいいよ」
「あなたが?」
「おれさ、あの村に毒があるって言うからどうしても気になって、行ったみた事があるんだ」
 きょとんとしている修道女に言う。
「でも全然平気だったから、おれ。多分さ、毒があるって嘘なんじゃないかな。本当はもっと別の事があったんだ。」
「危ない事をするのね……。死んでしまっていたらどうするつもりだったの」
「その時は、仕方ないよ」
 修道女は男の子の前髪をゆびさきで分けて額を擦った。とても泣きそうな表情をしているので、男の子はびっくりとした。
「でも、少し役に立つ事を聞いた。あなたを信じるのならそこにあるのは毒ではないのかもしれない」
「嘘じゃないよ。あいつらは信じなかったけど」
「信じる。……だから案内はいいし、もう村には近付いたりもしないで」
 切迫した瞳が男の子に向けられる。
「……あなたはお利巧な子だから、あの子達もばかにされてると思って、だからあなたにつっぱねた事を言うかもしれない。けど……
あの子達はあなたと一緒だと思う。寂しいから、仲間が一人でも欲しいのよ。仲良くしてあげなさい。その事はあなたにとって大事な、
きっかけになるのだと思う」
 男の子は大人のするお説教が嫌いでたまらないという性分で、しかしその女の人の言うことはそのお説教とは違うものだと感じた。
 だから正直になって頷いてやる。そうでもしないと、本当に目の前で泣きだされそうな気もしたからだった。
「……うん、わかった」
 男の子がうつむき気味に頷き、安心した様子で修道女は指の間で男の子のかるく頬をつねった。男の子は頬が赤くなるのを感じた。

/*

 その日だけは、"迎え"も待たないで、修道女のことばかりを考えていた。
 親切にしても、泣きそうになる事はないだろうというのが見解だ。
 例の修道女は近くにある院には寄らずに、教会で寝泊りをしているらしい。
 この事が分かったのはつい先ほど、窓枠から身を乗り出す前であったが、孤児院の屋根裏からは教会の裏側だけしか望めない。
 高い場所からならば、もしかしたら彼女が見れるかもしれないと言う考えはとても甘い物だった。
 何時か彼女の姿を望む事だって出来るだろう。しかし待つにも待てない。
 妙な焦りを感じる。……こんなことは初めてだった。
 会える算段はなかったが、とにかく教会に行く事にした。叔父の言葉を信じるのならば、女の人に会いに行くには花を持っていかなけ
ればならない。それが紳士のしきたりであると、耳がたこになるほど聞かされていたのだから、こんな時に頭にぽんと浮かんでくる。
 しかし相手は修道女で、自分は年端も行かない子供である。紳士と言うのが役に立つのか、どうも分からないことであった。
 教会の裏口から顔を覗かせる。庭の花を付け根のあたりで引き千切っていて、それを手元に大事に抱えている。
 花そのものは、もう70にもなる院長が丹精を込めて水遣りをしている花壇のものである。しかし自分は院長の説教によれば、この院で
責任を持って育てられてもいるのだ。
 ならば、これも責任のひとつであろうと思う。
 こっそりと様子を辺りの窺いながらも、何所か隠せぬ不安があって足取りに落ち着きのなさを覚える。教会に忍び込む事自体は慣れた
ものでもあるのだが、今の気持ちでは誰にも会わないことばかりを願っている。
 なさけのない姿を晒す事になりそうで、口うるさい熟年の修道女や、神父などに会うのは嫌であった。
 ましてや、ウナムーノ神父は生真面目な人物と知られていて、孤児院の子供のどんな粗相にも声を荒げた事もなかった。
 ただ一度、口を開くとその説法があくびの出る程に長い。
 つぶやくような低音のいがの無い優しさの含まれる声で、人の道理と神の偉大さを語る姿は誰もが模範するべき神の僕の姿でもあった
のだが、それにしても子供を相手にするには少々不足する所がある。
「ヴィンセント君、また君なのか」
 ウナムーノ神父は呆れた声をあげて、しかしすぐに何事か畏まった態度になった。
「誰かに、会いに来たのか」
「そんなんじゃあ、ないよ」
 説法でも始めるものと勘違いをしてそっぽを向いて、それから足靴の底をもじもじする。
 神父は『誰か』と言ったのだか、それでも気恥ずかしさが隠せない。そんな調子であるので、神父の方も眉をしかめて言った。
「あんまり教会の中でいたずらをするものではない。明日は祝祭もあるからあまりうろうろとされてもシスター達が困るだろう」
 ウナムーノ神父は白髪を掻いて言う。
「……だが今日の所は、まあいいだろう。ただし一人で歩き回ったりはするな。好奇心で祭具をどうこうしないように、誰かシスターの
所に行って手伝いでもしなさい」
「ええ、はい、神父様」
 普段ならばともかく、今のこの時にあっては願ったりもない提案であった。
「けれど神父様、新しく来たシスター……きっと明日の祝祭の事で色々と大変だと思うんだ」
「お前が祭具の場所でも教えるのか」
「勿論、少なくとも一つは”僕”だけしか知らない場所にあるんだ」
「いいだろう。しかし祭具は元に戻して置きなさい」
 馬鹿に正直者らしく振舞った所で頷いた。「いいね」と神父は念を押してから、忙しそうにどこへともなく行ってしまった。
 神父の去るのを見送ってから、石造りの階段を見上げた。
 先ほどからずっと話の修道女はそこにいて、腕を組むようにして神父との話を聞き及んでいたのだ。
 彼女の顔を見るのも恥ずかしくなって、隠すように手で持っていた花を掲げて見せる。
 花は淡い赤白のつぼみ状で、針葉樹の様になっている。
 一つの花は小さいがそれが幾つも隙間を埋める様に咲いていて、とても綺麗だった。

***箱の中でも・後 [#fe6b17b1]
 影が群がり、その口から赤い牙を剥き出しに、何かを貪り喰らっている。
 この時に何か、と考えたのは無意識の逃避に近い。獰猛な獣達の群れは女を喰らっていたからだ。
 この"箱の中"で女の人と言えば彼女だけだ。守ると誓い、助け出すと願った彼女だけだ。
 ヴィンセントは慟哭を抑えられずその光景に眼を奪われた。
 白く細い腕が引き千切られていた。太股から下は白い骨が見えている。血でできた絨毯の上で彼女は影達に貪られいてて、その光景を
前にして、立ち尽くしている事しかできなかった。彼女はもう死んでしまったかと思ったからだ。
 死んでしまっているはずであった。
 赤色にぼやける視界の中、白い肌が月夜に照らされてゆらり、と動いた。
 ━━まだ、息がある。
 影達は邪魔者の存在に感付いてしゃあ、と声をあげて喉も鳴らした。ただ、それはヴィンセントに対しての事ではなかった。
 白い尾をゆらゆらと動かして、一匹の獣がヴィンセントの横をすり抜けていく。その白い獣は犬にしては大きく、影達よりも一回りは
図体があった。大きさを置いてみれば、見た目の特徴は犬のそれである。大の大人を一口で引き裂いてしまいそうな牙と爪を持っている。
 この犬は現れるや早々に影どもを睨んで、飛び掛るものがあればその喉元を食い破った。影は叩き付けられて、黒ずんだ染みを地面に
撒いて消えた。
 この時、ヴィンセントは既に達観を決めていた。
 どうすることも出来ないと思っている。そうでなくとも影達も、この白い犬も、貪られた女も、彼の関与を否定しているようだった。
 手を差し伸べて、痛みに蠢く彼女を慰める事も、影達を追い払う事も、犬を引き止めてやることもできない。ヴィンセントにとって、
それは全て通り過ぎて行った過去の幻想に過ぎなかった。
 犬は散々に影達を散らすと、血に伏した女を口で担ぎ上げて持った。……それからちらりとヴィンセントを見た。
 ヴィンセントは『お前は何故ここに居るのか』と、大きな瞳を向けられて問われている様な気がした。
 犬はほえる事もなく、無言で女を担いだままのそのそと村の闇に姿を消す。そうして、何時の間にか独り取り残されていた。
 地面を汚してる血を何もかもと一緒にかき集めた。抱え込むように、縋り付くようにした。そうすれば両手は赤黒く砂や雑じる小石で
ざらざらになる。
 ヴィンセントは虚ろになって井戸を見上げた。
 深い井戸の底から、ぬらり、と気配が現れたからだ。
 それは人型で、角を頭から二本はやしている。鱗のある二股に別れる尾をゆらゆらと揺らしながらも、ヴィンセントを見下ろしていた。
「よお、元気がなさそうじゃあねえか」
 口元を歪ませて、顔に似合わぬ低音で喋るそれは悪魔であった。悪魔は影を傍らに従えていて、指先をその顎下をくつづるように動か
しながらも、細く切れた目でぎょろりとヴィンセントに剥いた。とても好奇心に溢れた目だった。
「お前は、誰だ。何だ……」
「トカゲ……」悪魔は言い直した。「と、そういう風に言う奴がいるが、なんのこともない、悪魔だよ」
 ヴィンセントはべったりとした砂を握り締めて、地に手を降ろした。溢れる感情に震わせられていて、"こんな事"は堪えられないこと
であった。
「何の事もないだって?……なあ。悪魔には、これは何の関係の無いものなのか。それともお前が、彼女を殺しているのか」
 感情に震えるヴィンセントを透かすような態度で、悪魔はながい舌で唇を舐めた
「それは、違う」悪魔はヴィンセントを窘めるように続けた。
「……悪魔って言うのはただの矛盾に過ぎないからな。おれが殺しているとしても、そいつはおれに殺されてしまっているだけだろう。
面白くもありゃしない、安易な答えを出すんじゃあないよ。おれは此処に住んでいただけだ。そうしたらいつの間にか周りに壁が作られ
ちまった。……ここは居心地がいいからなぁ」
「お前も閉じ込められているというのか」
「だから、おれはここに元から居たんだよ。何時もは好きにしてやってるだけさな……。けれど……。
 壁の奴がいい加減に鬱陶しくなってきたもんだからお前の前に姿を現した。と、言うのである。ヴィンセントは悪魔を睨んだ。
 嘘を吐いているとも思えなかったが、相手は名乗り出た限りトカゲであって、悪魔である。それも影を従えている様な奴だった。
「彼女を、喰ったな」
「あれは悪魔にだって喰えない女だよ」
「莫迦にしているのか」
「お前は昔、あの女と一緒にここに来た事があるだろう」
「ああ……」
 悪魔は愚鈍な生き物を扱うように呆れた調子で、何も判っていない、手探りの言葉を口にするヴィンセントをどこか軽蔑さえしていた。
「ここは人間が生きていくには寂しい場所じゃあないのかね。おれは生きた人間なら喰うが、死んだ奴は喰えない。こんな狭い場所に閉じ
込められて、この影の奴らだって腹が減っているが、あんな女は喰えないらしい」
「生きた人間だっていうのなら彼女だってそうだ」
「さっきの、見ていたんだろうよう。あれが生きたお前の"彼女"だっていうなら、奴っさんはけろりとしているぜ」
 か、か、か、と悪魔は見下ろしている相手を、こばかにするようにして嘲笑った。
「こいつは……」と、疑念を向けても、何よりも今のヴィンセントは悪魔の言い分を耳にするほどに縋るものが無かった。
「また、同じ時間に来いよ」
 そう言い残すや、長い先の尖った舌をちろちろとさせて、悪魔と影達は井戸の中に消えてしまった。
 井戸には血ばかりが残って、静寂に包まれるような暗がりの中には言葉の通りに影も形も無くなった。否応も無く、自覚をさせられる。
「俺は、彼女を助ける為にここに来たんじゃあ……ないのか。ここに戻って来たのは、現実を、受け止める為だとでもいうのか」
 握り締めていた手から赤黒の砂が零れ落ちる。
『シュレティンガーの猫は、箱を開けなければ生きている』
 僅かな一部であったとしても、ヴィンセントにとってそれも彼女だ。残り香を探すように、彼は彼女を追いかけ続けた。
『あなたは猫の死骸の入った箱を偶然と好奇心から開けてしまったただの子供に過ぎないのよ』
 手で掬えない彼女が隙間から零れ落ちていく。それらは自分の過去の時間である。
『猫はもっと昔に死んでしまっていて、だからもう随分と前に毒で死んでしまっている事も口に出来ないのだけれど、
 物事の前後関係は自身の思い込みから抜け出して、ようやく確かだと言えるのよ』
 数日の間、彼女と交わしていた会話が思い起こされた。それらは過去であって、だが彼の中でまだ鮮やかな言の葉だ。
 彼はその時には彼女の事で頭が一杯で、何の事かとも理解もしなかった事だったが、この箱の中にあって、どうしたって彼の欲しがった
結果はもう出ているのだ。
(それでも)
(それでも彼女は、何故、俺に答えを探させるような真似をさせるのだろうか)
 
/*

 ヴィンセントは目を見開いて、まっくらの天井を見上げたそのままにじっと動けずにいた。
 生き物の気配のないこの村にだって時間はきちんと存在だってしているし、何よりも、もうしばらくもすれば、山々の間からうっすらと
日が昇りはじめる。そうすればどうしたって、”彼女”と会う事になるだろう。
 彼女が酷い事になってはないかと思えば、どうして眠る事すらもままならなかった。ヴィンセントは頭の重さに、心すらも鈍くなってい
ると感じた。心が鈍いと呼吸の出来ぬ水の中で無力にあがくような息の苦しさがある。
 恐怖や不安という物は、ここまで人を苦しめるか。
 リアリストを気取って、皮肉めいた態度ばかりをしていた自分はよほど恵まれていたのではないか。少なくとも彼はこれまではたいそ
う上手くやっていた。
 孤児院で育てられたという事はあっても、実際には幼少期の間だけの一時ばかりを預けられていただけであった。物心が付いた時
には、何時の間にやら片親の方の親戚だという家に身を寄せることになっていたし、その家庭も比較的に裕福で、何も不自由な事も
なかった。
 その事は彼女の計らいであったと同時、彼女へ至る為の道でもあった。だからこそ上手くやっていた所もある。
 人生とは不思議な物で、事実は変わらないとしても、気持ち一つでその生命の持ち様と言うのがころりと一転してしまう。
 このヴィンセントの場合は生きる為に彼女への想いを一心に、信仰にも近い形で糧にしてやってきたのだ。
 信仰は人間の持つ一掴み孤独を、弱さをくつがえしあまるさえ強さにすらしてしまう如きものである。どのような形であれ、信仰は神
の持つ奇跡に対して直向に祈ることだ。祈るとは縋ることでもあるし、または抱かれるようなものである。
 ヴィンセントの場合は信仰するものが彼女だった。彼女を神にするのではなかったが、存在としては女神に近い。シンボルだった。
 その大事なシンボルは箱に仕舞われていた。が、今や壊されてしまったに等しい。自らが祭っていた祭壇の中にはぼろぼろにとなった
女神が居た訳だ。見るも堪えない程の有様で、しかしそのことを彼は理解すら出来ずに数日を過ごしてしまった。
 ともかく、自責の念ばかりしか残らない。なによりも彼は生命の価値を失いつつある。
 どれだけ陽が昇っても静穏を保ち続ける世界に耳を澄まして、それからすぐにどうしようもなくなって、身を預けていたソファーから
のそりと起き上がった。
 夜の出来事から彼女の姿は見ていない。
 彼女を探さなければいけなかったが、どうしたって、一日で歩いて一巡りするようなこの狭い世界だ。こと選択肢は存在しない。
「部屋に、戻っているかな」
 彼女の開かずの部屋をノックしてみるが、返事は無い。もしくは彼女の存在が消えていればどうだろう。
 しかし井戸から出て来た悪魔の言い分では彼女が消えているという事はないはずだ。それよりもあの白い犬に連れ去られてしまった
と言う方がしっくりする。
 (待て。だが、そもそもだ)
 白い犬は何所からやって来たのかと言うことだった。来て数日の間、抜け出せる穴でもないものかと手探りで村の周囲や、村の家の
一つ一つまでもを探して回っていた。
 あれだけ図体のでかい生き物が何所かに隠れていたとは全く思えない。
 この彼女の部屋を除いて、誰も隠れられるとは思えない。
「中に、いるのか」ヴィンセントはポツリ、と呟いた。考えれば辻褄は合いそうなもので、妙に納得しそうになっている。
 扉の先、連れ去られた彼女は番犬に抱え込まれているのだろうか。ノックにだって応えない筈である。
 軋むような音がした。振り返ると玄関が開いていて、木彫りの文様のある玄関の扉がきぃ、と鳴いているのだ。
 その隙間から見覚えの有る、白い尻尾が横切るのを見た。

 紫陽花色の瞳の彼女が、ゆるやかに流れる川のせせらぎに足を伸ばしている。
 白い犬を追って村から道沿いについていけば木の橋がある。丁度、山々の間が橋の真ん中にあって、その狭間から日が差し込む。
 その橋の太陽の昇る方に彼女は居た。犬の姿は何時の間にやら何所かに消えてしまった。
 ヴィンセントからは逆光で映って見えた。朝のまだ弱い日の光である。
 姿が見えなくなるということは無かったが、光の具合は妙な神秘性をその姿に孕ませていた。
 それはまるで彼の想像する、女神に近い。白い光の繭を身体に纏わせ、何所までも遠くを見て"そのもの"が計り知れない。
 ヴィンセントが近付くと、黒髪を後ろで束ねた髪先がかすかに揺れた。
「言ったじゃない。どんなに酷くなっても、それは一晩だけ」
 振り返ることはなかったが、こちらの存在は判っているらしい。ましては怪我もなく、白い素肌が見える。
「あれは……。あの時の言葉はそういうことだったのか」
「トカゲとお話をしたのね」
「分かっていて、俺に答えを探させる何て事をさせたんだ」
「……ええ」
 静かに頷いた彼女はヴィンセントを見た。何所までも透き通るような紫色の瞳。小さめで小振りの鼻。微笑みかけの表情に薄く横に
のばされた唇。僅かに目尻が下がっていて、どこか哀しげな雰囲気がある。
 何年も前から変わる事のない、彼女の姿であった。
 ヴィンセントはそっと頬にあてられた手を引き剥がした。やることすらも変わらない。その事があまりにも胸を鬩ぎ立て、そんな彼の
様子に気が付いたのか、彼女はさみしそうな表情になって、行く先をなくした手を胸元で抱え込んだ。
「何よりも。不具に、なるのが怖いの」
 彼女はヴィンセントに目を合わせずに言う。ヴィンセントのほうがまずそれを拒んでいたからだ。
「愛が不具のものであったと証明されてしまうのなら、私はもう理を捨ててただの人の女になるでしょう。私は死を甘んじて受けいれら
れない様な、弱さしか持っていなかった。その事に気が付いたのは、石畳の上で佇むあなたに。出会ってからだった。一方的で、残酷な
ことかもしれないけれど、やっぱり必要な物は自らに触れて触れられるもの」
 感傷染みている、とヴィンセントは思った。
 必要だからと言われて、抗える言葉などいえるはずもない。
「ううん、色々な事はやっぱり何時までも続いているのだから。あなたが居ても、誰にしても、引き金になったのだとしても。
もしかしたらと思っていた。けど、先に進む為に、置いてきたものばかりで……結局は、独りになってしまって」
 ヴィンセントは片目を瞼の上から撫でながら、もう片方で彼女を睨んだ。
「ずるいじゃないか。……それに、そんなことを、今更になって聞きたいんじゃあないんだ」
 しぼりだすような声しか出なかった。顔を掻き毟ってでもいなければ、彼女に負けてしまう気がしたのだ。
 全てを許してしまうことは容易い。その先にある結果はもしかすればヴィンセントにとって本望ですらあるかもしれない。
「あなたが望めば俺は、全部やる。全部やるけど、それじゃあ……誰だっていいってだけで、何にも愛情なんかじゃあないじゃないか。
引き取って貰ってから、本当に母さんみたいにも想っていたし、姉さんでもあった。だから妹だって探して、家族だって思って……。
けど……俺はあなたの愛玩物じゃあない。俺はあなたの居ない世界に居て、もっと、薄汚れたもんを知ったから。ずっと子供みたいに
単純じゃいられないんだ。愛だなんて言うには、どろどろしているし……。その事で悪ぶったりしたりもしたけど、それは本当に悪いっ
て気持ちを隠す為のものに過ぎなかったんだ。愛は人間のものだから、こんなにも救えないものだっていうならそれでいい」
「待って。……私は、あなたの」
「いや」
 彼女の言葉を遮るように、ヴィンセントは前髪を指先でぴんと跳ね除けた。
 目を細めたような歪んだ微笑をうかべる。ただ、ただ無理をしている。
「安心してくれていいよ。俺はそんな代替品としてじゃなくてもあなたを助ける。……絶対に、その事は変わらない」
「……そこまでする理由を持っている?」
「理由はない。でも愛が不能じゃないってことはさ、利己主義じゃないって事なんだろ」
 ヴィンセントは続ける。
「それで、あなたが喜ぶんだ。なら、他には何もいらない」
「……そう」
 うつむいて彼女は言う。すっかりと日は高くなっていて、光の帯も空の高くに失われてしまった。
 まるで祈る様な仕草だった。閉ざされた瞳から僅かに零れ落ちるのは、希望や、望みや、ましてや奇跡なんかではなかった。
「それが、あなたの答えなら。私がもう何も言う事はないでしょう」
 けれども。
 そう言って、それから目を上げた彼女の、その瞳はどこまでも力強く━━。

 

***トカゲと井戸と雨の狂想曲 [#d638379b]
 きっかけは単純な好奇心に過ぎず、物足りない現状からの逃避行動の範疇を越えない。
 ヴィンセントがその村に初めて訪ねた時は、単にウナムーノ神父に彼の付き人染みた真似事をさせられていたに過ぎず、その
時は勝手に将来を決めて掛かるような神父のやり方に、心中不服しかなかった。
 確かに、教会に預けられてそのまま手伝いの延長から研修生となって、与り知れないまま神父になる様な事は決して珍しい事
ではない。むしろ神父と言う職業は、行く道を見失った羊が、羊飼いにでもなるような事ではあった。
 それはそうだ。
 誰だって自分の未来を確定させようなんて希望を懐いていたとしても、それを実現をするに、神の如く助けが必要だ。
 ウムナーノの様な善人の神父は地域の住人と仲良く暮らしているだけで生涯を終える。長い敬虔とその勤勉ともいえる信仰を
認められて司祭になったりもしないし、出世をしたり権力を持ったりするような事もない。
 むしろ、その様な事に置いて、敬虔は無用の長物でしかない。ハイアラキーの頂上に立つ者は、ほとんどに置いて信仰を持つ
ことよりも、まず神の威光を欲しがったものばかりである。それは矛盾でもあったが、神に近付くものはほとんどの場合に置いて、
神の本質を失ってしまうのだった。
 ヴィンセントはその事を教会に預けられてから、何年か、神父の小間使いをしている間に覚えてしまっていた。
 特に教会の本部からやってくる連中は、ぞっとするようなほどに穢れているようなものが多かった。ヴィンセントはその連中の
一部に取り込まれて生きる事を思えば苦虫を噛んだ様になる。
 村にやってきたときも、その村人達の神や教会への態度に対して違和感すらも覚えたものだ。
 あんな腐った連中の為に汗を流して、感謝の言葉を述べているのだ。実体を現さない神よりも、目に見えた教会へ信仰を摩り
替えてしまう単純さに、目敏く気がついてしまえばそれまでの事である。
 子供心には、人の愚かさを理解することはなかったし。その特有の万能感からは彼らばかりが愚かであると決め付けてしまう
ところもある。
 ただ、それも仕方が無いかもしれない。
 まだ彼は大体十歳を過ぎた歳の頃で、それも本当の歳は本人も分からない。ましてや誕生日すらも知っていなかった。
 棄てられた訳ではないと、本人は思っている。
 何か事情があって、両親が自分を教会に置き去りにしたのだと。物心がつく前の事で、何も覚えてもいなかったが、わずかに
母親のものの様な温もりだけはしっかりと覚えている。夜、孤児院の屋根裏で独りそのことを思い出している日もある。
 歳月が流れるにつれて、その温もりが冷たく、温度を失いつつあることも自覚をしていた。
 だがそれも例の修道女に会ってからは、少し心の方が温かさを思い出そうとしている。より現実的な形で、今と言う時を与え
られたことを神にすら感謝をしてしまいそうな。そんな単純さすらも今は受け入れられる。
 だからこそだった。例え神父や、その彼女と約束を違えてでも、その村にはまたこっそりと訪ねて行かなければならなかった。

 月明かりだけが道を照らすような夜。獣たちも寝静まるような時間に院を抜け出して、灯りのひとつも持たないで街を抜け出し
て、森を進んで、小さな川を二つも渡って村に向かった。
 ある程度、街から出てからは道沿いを行く。往復するのにも本来なら数日も掛かってしまうような距離であったが、不思議な事
に子供の足でも行き帰りには半日も必要としなかった。
 ヴィンセントもその村を神父のお使いでやってきたときも、馬車に揺られていかなければならなかった。
 院を抜けだしてから、まだ月が空に高い。
 立ち止まる事もなく、道を駆けて来たヴィンセントは喉がからからで、村の中心に備わっている比較的大きな井戸までやって
くると桶を手探りで探し出して水を浴びるようにほおばった。
 その様子をなにやら羨ましそうなため息混じりに見入るものがいる。
 頭から角を生やしていて、尻尾はとぐろをまいた鱗の尻尾の生き物で、暗い夜の井戸から身体を覗き込んでいた。
「ははぁ、人間って奴は疲れたりできて、そんなもんでも美味そうに飲むもんだよなァ」
 ヴィンセントは濡れた口を衣服の裾で拭って、ついでに額も拭った。そうすると、少しだけ火照ったところも涼しくなる。
「そんなの、しょっちゅうでしょ」
「まあね。けれども、最近はそうでもねえよ」
 村はこの半月の間にがらりと様変わりしてしまっていた。例えば、それは村には誰の人も存在をしていないことである。
 深夜の田舎村に人の気配もないだろうが。それでも開け放ちの窓から覗く家々に向かい、突然の挨拶をしても、その事で誰も
睡眠を妨げられるようなこともない。村はこの半月の間に、その住人を全て失っている。
 原因は分からなかった。
「本当に、君がやったんじゃあないの」
「いんやァ……違うねぇ。
 俺はマリクとかって男に頼まれてここで佇んでいるだけで、なぁんにも手をくだしちゃあないのよ」
「はあ?
 まあ、おれはどっちだっていいけどね」
「へへへ、そうかい。けれども、こっちはちょっと寂しいぞ」
 悪魔の癖に寂しいと口にされて、そういうものかと、ヴィンセントは首を傾げる。
 だがすぐにこの場所にやって来た理由を思い出して、ついにはその事を口にする事もなかった。
「ね、今日来たのはさ」
 井戸に身を乗り出してから続けて言う。
「この間したお願いは取り下げようと思ってるって事なんだ」
「おう、それはまたどうしてだい」
「だってもう必要がないからさ……。そりゃ母さんには会いたかったけど、おれ、母さんだったら悪魔何かに願ったりしなくたって
会いに来てくれるって信じてるからさ。そんなもん、願うだけ無駄ってぐらいそう想ってる」
「はん、なんだよそりゃ」
 悪魔は残念そうな声色で言った。
「かみきり虫みたいだったぼうやが、急にどうしたってそんな信心を持ってしまったんだい」
「そりゃあ。……愛だよ」
 もじもじとしているヴィンセントの様子に、間抜けそうに口をぽかりとあける悪魔。
「あーいーッ!?」
「う、うるさいな!」
 決して誰かに聞かれるような事はなかったとしても、ヴィンセントは恥ずかしそうにした。そんな事を口にするのも初めてで、
何よりも自分のそんなばからしさも自覚している。
「だって、愛ってよォ……。そんな喰えないもんで……」
「まあさ……。悪魔には分かんないかもしんないけどさ」
 自然と体温が熱くなる。その事に悪魔は気付いているのか、どうか、もしくは人間の交わりには関心などは無いのかもしれな
い。ただ悪魔は、そんなヴィンセントの横顔に少し目を細めてちろちろと舌を出した。
「わっかんないね」
 悪魔は頭を振る。
「しかしそいつは超残念だ。こっちはお前の願いと引き換えに、その綺麗な目の玉を貰おうと思っていたんだからなァ」
「目玉はちょっとなぁ」
 と、ヴィジュアルに関わる事だし、とヴィンセントは苦笑する。一つくらいならくれてやってもよかったかもしれなかったが、少し
気分が高揚をしていて、だからそんなことも思うのだと考え直している。
「ははぁ、ラブの次にはヴぃじゅあると来たかよ」
「そうなんだ」
「だがよ、ぼうやさぁ。人間の持つ感情って奴はころころ変わっていくもんじゃないかよ。お前が愛だのと熱を上げている相手だっ
てそうさ。愛がそんな適当なもんだから、人間は何所か辛気臭い嘘を吐いたりして、くだらない自我にしがみ付いていなくちゃあ
ならないってもんでさ。オレは人間の"こんな"近くにずっと住んでいたから分かるのさ。愛を信用するっちゃーのはさァ……」
 急にまじめくさって語り始める悪魔に、ヴィンセントはどんな顔をしてやればいいか分からなかった。
 悪魔が人間に説教を、ましてや愛を講じるのである。それほど可笑しなこともない。
「あんたの言いたい事、分からない事ないけどさ。そんなことは、きっとないよ……。で、それで言いたいって何さ」
「この悪魔に目玉をくれた方が仕舞いが良いと思うぜ」
「……なんだよ。結局そこかよ」
「へへ」
 ヴィンセントは呆れて、それから井戸のふちに身を委ねる様に仰け反った。
 半月がその横腹から暗曇に飲まれようとしている。


/*

 夜空に群青の青い帯がのびて、月は針金のように細く下弦を描いている。
 瞬く星は闇夜にあって、何時も意味深にきらきらと光を絶やさないというのに、今や照らし出される物もない。
 ヴィンセントは目頭を揉んで、その視界に捉えられた闇夜が夢ではないのだと自覚した。
(どうやら眠っていたらしいが、今回は一人だ。)
 ちゃぷちゃぷと水音がして、のそり、と一つ二つの影が起き上がる。四つんばいで鼻を利かせると、ヴィンセントの眼前で止まる。
 ふと、影達が振り返る。
 誰かがこちらに向かって来ようとしているのだ。
 ヴィンセントはその様子をじっと見据えていた。
「道の見えない夜の中にあって、俺の見える道には何時だってこの場所があった」
 背後は井戸であったが、影以外にも気配があった。ヴィンセントにはその気配が誰であるのか、もうすでに分かっている。
「ただ、何故だろう……ずっと忘れていた。いくらかの事柄がまるで別の出来事の様にされて、俺はまるで逃げ続けることででしか
彼女を思い出すこともなかった。この世界で、不具だったのは、俺だ」
 しゅるる、と音がする。
「それが、お前さんの答えなのかい、ぼうや」
「俺が昔に愛だと言ったのは嘘だ。俺は感情というやつに依存をする事で、確かに闇夜を歩んでいく事はできたが、どこに進んで
なんかも、いなかったんだよ。あの日、あの時に大事な彼女を失った時点が、どうしたって取り返しの付かない過ちだった」
 トカゲは黙ってヴィンセントの声を聞いているようだった。
「勿論、人間はどんあに過ちを犯しても、それが罪や悪の上塗りであったとしても、それでも人生は続くし、生きていかなくてはなら
ない。選択する自由はなかったと思う。どんなに矛盾を孕んでも、悪魔はうわばみに隙間をくぐりぬけていくんだろう。もしも、その
結果の末に何か間違いがあったのだとしたら、……ただ、逃げ出したことのものだ」
「それで、お前は逃げ出さずに、どうするんだ」

 ヴィンセントは握りこぶしを、ぎゅ、と作って、すぐにその手を開いた。それからどこか可笑しそうに笑った。
「あの日、この村を全滅させた毒の正体ってさ。本当はトカゲ、あんただったんだろう?」
「……」
 トカゲは何も答えない。
「けれど、毒を撒いたんじゃあ決してなかったんだ。そうすることで、彼女がここにやってくるためだったんだ」
「……何故、ぼうやはそう思うんだい」
「だって、俺、トカゲに願いを叶えて貰ったからな」
「例えそうだとしても、オレはぼうやから何か貰ったかァ?」
「悪魔だって慈しみ、人の子を憐れに想うんじゃないのか。だから俺はあの日から一度も涙を流さなくなった」
「なあ、ぼうやよう」
 ヴィンセントが頭を振った。
「彼女が、ここにやってくる前に全部を終わりにしたい。彼女が殺される必要はもう、ないんだ」
 その言葉にトカゲは閉口する。
「この悪魔を、滅ぼすのか」
「ああ、一緒に滅びよう、悪魔」
 そして、と続ける。
「俺たちならば辺土に落ちていっても、それでも上手くやれるだろう」
 その一言で、溢れていた殺気が静かに納まっていく。井戸を覆う赤黒としたもやもやが静寂になる。
 ヴィンセントはそれでも少し焦っていた。彼女がもうすぐここに到着する時刻だった。時間が来る前に、全てを済まさなければ
彼の願いは叶わないことだった。
 なあ、早くすませよう。と言うヴィンセントの頭を長い爪の付いた手がのしと撫でた。
「お前ら。……人間はどうしてばかなんだよなァ」
 トカゲはわしゃわしゃと指先を不器用そうに動かして、ぼんやりと村を眺めた。
 生暖かい空気に、ひゅうと冷涼とした風がかかる。それは筋道の軌道を描いた。井戸の周囲をうろうろとしていた影達に狼狽
の色が見える。その風は、どうやら冬空のものであった。
 闇夜の中、大きな白無垢の犬が現れた。犬のまるまった毛先が靡いて、生きているように宙を踊った。犬にしては精悍過ぎる
顔立ちで影達に睨みを利かせる。それから犬は井戸の方を一瞥して、ヴィンセントをはたと見た。
 その傍らに修道服を来た女がいる。どうやら風を伴っているのは彼女であるらしい。
 風は踊る、踊る。彼女の黒髪が踊って、修道服が揺れれば膝まで覗く。影は風に吹きすさんで散った。到底、手に負えぬと、
逃げてもひとなぎにして散りとされていく。全ては空に、無に変じる。
 その姿に一番に驚いたのがヴィンセントである。
「トカゲ、トカゲよ。早く俺の全てを喰らってしまえ」
 しゃっくりでもするように、せせら笑う声。
「ぼう、見失わず見ろ、見ろ。
 あの女はバクテリアを纏うように、オレの望む命を躍動させている。生命を躍らせて、死も、毒も、呪いすらも
 その祈りには届かないだろう。その点、お前の命は何てちっぽけなものだ。」

 悪魔は喜びすさんで続けて言った。
「あれは奇跡だ。奇跡を連れ添っている」
 人間の手には余る、悪魔の手には追えぬ──。
 トカゲはその長い舌を蠢かせながらも、声を高らかに彼女を讃える。
 ”かの女”は、心の像を失ってなおのこと、またはその頂を失ったとしても余り謳う──

'''━━何者よりも霊的でありえぬ存在よ、拡大せよ。'''
'''何者よりも永続的であり得ぬ物象よ、その立場を守れよ。'''
'''お前は待っていた、お前は常に持っている、物言いえぬ美しい使われ者よ!'''
'''私達は遂にお前を自由な感覚で受入れ、これからは飽くことを知るまい。'''
'''最早お前達は私達をたぶらかし得まい、私達に抵抗することが出来まい。'''
'''私達はお前を役立てる、しかしてお前を放棄しない━━私達はとことはにお前を心の中に移し植える。'''
'''私達はお前を計量しはしない━━私達はお前を愛する━━お前の中にもまた完全さが備わっているのだ。'''
'''お前は永遠に対してお前の役割を準備する。'''
'''大なり、小なり、お前は魂に対してお前の役割を準備する。'''

(ああ……)
 と、ヴィンセントは声を漏らす。
 彼女が彼の頬にそっと手の甲で触れて、その生命の躍動を、ヴィンセントは目の当たりにしたのだ。
 あたたかく、ジンとしたものが伝う。
 じわりと額が汗ばみ、この井戸で殺され、血を流し、倒れる自らを観た。
(何も感じず、体温の移動する事もなくなってしまっていたのは、俺だったのか)

 お互いに終わりの時間がやってきた様だと、トカゲが、悪魔が言う。
 凶悪さを絵に描いた様な爪がヴィンセントの肉を裂いて、腹部を突きさしている。
 ヴィンセントは体の芯から血の気の抜かれていく感覚を覚えて、一瞬の息苦しさに目を瞑った。
 それから直ぐに何かが、彼の体に覆い被さった。もう心の冷える感覚もなくなっている。

(痛みがあるはずがない。)
(俺はもう悪魔に命を奪われて死んでいたのだ。)

 それは無意識下にあって、お前の望みは叶えられていた。
 悪魔が耳元で囁いた。
「……そしてその時、彼女がお前の持つその全ての痛みを肩代わりしたのだ。」

 それは絶対の犠牲にしかありえぬ、祝福であったのだろう。

 既に、風も、生命も躍動することはない。元のとおり息の死んだ村が、しんと静まり返る。
 ヴィンセントが抱き締めても、彼女は息をせずに崩れ落ちたままだ。肌に伝わる体温が彼女から失われていく。
 彼女が死に続けている事が、全て自らの為であると悟って、ヴィンセントは声を震わせた。彼女の冷たくなる程に、不相応に、
命は熱く滾る。それはこれまで彼に与えられていた、体温の残り香に似ていた。
「俺は……俺は一体、この事で。何を、お前に渡せばいいんだ」
 トカゲは。悪魔は言った。
「祈りは、
 体を折る事の、そのものだ。だとして、何も、誰も、お前の望みなんか叶えたりはしないだろう」
「ならば、これから先、全ての祈りをお前にくれれやる。あんたに祈りを捧げて、続けてやる。永遠ではないものをやる」
 悪魔に、村に、夜に、星空に、影達に、白い犬に、彼女に向かって、ヴィンセントは言ったのだ。
「代わりに、彼女の命を求する」
 悪魔は退屈そうに問うた。
「何だ、それは。お前が再び死を求めるということか」
 ヴィンセントは強い口調でそれを否定した。
「違う、俺自身を彼女にくれてやることの、そのものだ。
 何も失われる事がない。ただ死に、生きるという事のそのものだ。」 

 それまで悪魔との掛け合いをじっと見守っていた白い犬が立ち上がった。
 大きな牙と口がヴィンセントと彼か抱きかかえる女に跳びかかると、巻き込むように犬は井戸に向かって身を投げた。
 井戸の水が飲み込むように渦巻いて、映る星空と月と一緒に、それらとクリームを溶かすように白い犬が飲み込まれる。
 井戸の底がどこまでも深く、暗く、闇が続いて二人も、犬も、共にどこまでもどこまでも沈む。

「何だ、俺様が願い等叶えるまでもないことだった。
 風の條は何時も気まぐれにあって、つかずはなれずお前の一部となって共に居たのだろう。」
 悪魔の声が深い水音の中に響く。
「──母親が子に生命を与えるとはそういう事だ。」
 何も得はなかったが、面白いものが見れて満足だ。そう嗤って、その笑い声も掻き消えていく。
 そのうち犬はきまぐれな水流の條に消えた。

 ふとして、ヴィンセントは抱きかかえていたはずの彼女が、彼から離れて行くのを見た。
 その表情はとても寂しそうで、つられて泣き出しそうにもなる。
 しかし彼の手を頬で擦り合わせる彼女は、確かな微笑を浮かべて、たった一度切り、肯いて見せたのだ。
 その彼女の口が何かを言った。
 それも泡となって消えてしまった時、ヴィンセントは、頭上で白く輝く冠帯を見た。
***教会にて、 [#db1506ba]
「生まれ、苦しみ、授かり、与えて……だからこそ気付く事の出来る悦びも有る。」
 大司祭の法衣を纏った少年がほろりと口からその言葉を洩らした。
「イオナの……ううん、ヨナの求めたものは永遠で、それらを僕らが享受した。……その結果が今だ。
 それでどうなったかって言えば、現実を遠回りに理解したって事だ。
 どんな事も、例えソレが最愛であったとしても、永遠に続いたりはしない。
 何にでも休息は必要だ。ベットに眠り、そして安息の間に束の間の死を。だからこそ朝日が昇れば僕らは生を喜ぶだろう。
 ……そうだね、エアリー。君が僕らの永遠に、終わりをくれるんだね。」
 少年は優しく微笑んだ。心労が垣間見れるその眼下のくぼみは僅かに皺となっている。
 二次成長前の姿であるとしても、それは彼が見た目よりもずっと長く生きている証拠だ。
 蓋を開ければ、長い年月を刻んだ痕が残っている。
「私……は違います。エリカの女神は私ではないんです」
「君のお母さんがきっかけを作った。彼女は壮大な時計の歯車だった」
 エアリーは静かに肯いた。
「あなたもです。ラシャーヌ大司祭。
 全てがあって良かったと言えるから、また目を覚ましたいって思う。
 一部だけを見て、それで生命に絶望する事は人間を寂しくしてしまう……」
「女神は常に生命の受け皿になってくれるんだね。けれど、女神はそれに堪えられるんだろうか」
「堪える訳ではありません。悲しいから泣いて……楽しいければ笑う。怒る時もあります。」
「それが命なんだね」
「……誰しにも一緒に居ます。気付く事が出来ないくらい小さな事だから、傍にいても分からないかもしれないけれど」
 法衣の裾を引き摺って、ラシャーヌはエアリーの手を取った。
「優しいんだね。それは、どうしようもない優しさだけれど、だからこそあって悪くないって思うよ」
 エアリーは困った様に微笑んだ。
 それから言う。
「手が、足が……不自由になってきました。
 兄とお母さんが動かしていてくれていたけど、もう二人は遠い所に行ってしまったから……」
「うん」
 少年は健気そうに言うエアリーの頭を撫でた。
 少し背伸びをしなければならなかったが、それでも何処か父性のある微笑を浮かべていた。
 エアリーが言葉に詰まってしまって、だから少年は言う。
「大丈夫だよ。君はエリカの女神と供に居る。
 君が見つけた小さな事は、永遠続く砂漠にある井戸の底にあった水でもあって、大事な想いなんだ。
 その事は決して忘れてはいけないよ。」

 エアリーは笑みを浮かべた。その表情はとても寂しそうだった。
「だけど」と、少年は想う。
「だけど、誰よりもその事を君は受け入れているみたいだ。」

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