:激ぉこぷんぷんまるなの？

名簿/498170

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黄金歴247年3月　　
- 学生街　　
  - 男は海が苦手だった。もっと広く言えば水が苦手だ。
    陽光が苦手だ。銀が苦手で、強すぎる臭いも苦手だ。
    まるで吸血鬼のような特徴であるが、実際半分は吸血鬼。
    そしてもう半分は人間の血を引いていた。
    
    男は吸血鬼を追っていた。
    そうでなければ、こんな四方水に囲まれた都市に足を踏み入れようとも思わなかっただろう。
    
    その吸血鬼と最初に出会ったのは、「何でも屋」と自称して各地を放浪していた頃。
    まだあどけない顔をした少女の身体には、むせ返るほど濃い血の匂いが染み付いていた。
    少女は吸血行為に溺れて、自分の両親を殺して妹を殺して
    自分の産まれ育った村を一つ潰して…そうやって周囲の村を次々血に染めていた。
  - 幼い少女とはいえ、吸血鬼。
    その力は人を圧倒していた。大の男でも少女が撫でるようにするだけで、簡単に動かなくなった。
    裂いて捻って甚振っていたぶって、何年何十年と重ねた人の時間がこんなあっさりと
    こんな幼い自分の手で台無しになっていく。
    その恍惚に溺れた少女に最早人としての良心など欠片も残っていなかった。
    
    縋るように首筋に噛み付いて、一心不乱に血を吸う姿を見て男の思考は一瞬止まる。
    その心に沸いた感情は怒りであるのか、羨望であるのか
    ひょっとすればその両方かもしれない。
    
    怪物にもなりきれず、人にもなりきれない。
    この心は人のそれだと主張するには、あまりに肉体的な欲求が強すぎる。
  - 戸惑いは一瞬だった。
    これでも幾つもの死線を潜り抜け、皮肉交じりにではあるが“英雄”とも呼ばれるようになった男。
    例えどんな感情を抱いていても、それで今更剣の腕が鈍る事はない。
    
    筈だったのに。
    
    取り逃がした。
    男の剣が少女の首を弾き飛ばすのと、少女の健やかな足が男の心の臓を貫くのがほぼ同時で
    半分死人のようなものだから、心臓がちょっとぐらいどうにかなってもどうということはないが
    さすがにまるごと身体の外へ押し出されてしまえば話は別だ。
    痛みというより、驚愕で動きが鈍る。
    
    その隙を突いて、首を抱えて無様に逃げる少女を見れば
    ようやっと「ああ、俺達はそういうものだった」と思い出す。
  - 心臓を貫かれても、例え頭を飛ばされても決してそれが致命傷になりはしない。
    人の形をした人ではない、生き物ですら無い、そういう“もの”だった、と。
    
    そのまま見逃しても良かった、別に誰に依頼された訳でもない。
    倒して金が貰えるわけでもない、叔父や叔母、または両親のように正義感が強いわけでも
    吸血鬼としての誇りとやらがあるわけでもない。追う理由も無い。
  - -----
    それでも男は今、少女を追いかけてこんな辺境の学園まで来ている。
    
    自慢では無いが頭が良い方ではない。自分の行動に理由をつける作業が苦手だ。
    感情の赴くままに生きるのが好きだし、そうして生きてきた。
    今少女を追いかけているのだって、単純に言えば「気に入らない」からだ。
    それ以上の理由なんて必要無い、気に入らないから退治した。実に単純で明快、これ以上無い解決方だ。
    それできっとスッキリするだろうと思っていた。
    というのに。
  - ようやっと少女の元まで辿り着いた時、既に少女は灰と化していて
    居るのはただただ不吉な気配だけを発する、貧相な…恐らく学生なのだろう、女学生が一人。
  - 吸血鬼とも違う、歴戦の狩人とも違う、人狼や自分と同じ半吸血鬼とも、食人鬼とも違う…
    だがしかし、確実に人間のものではない不吉な気配。
    ぱらぱらと灰になって朽ちていく少女の頭、指の隙間をこぼれ落ちていくそれを愛おしげに見つめる正体不明の化け物
    
    どれだけの間、呆然としていたのか。
    先ほどからずっと視線はぶつかり合っている。
    その紅い瞳は、確かに吸血鬼のソレに思えたが
    鼻を突く匂いも、全身に感じる怖気も、自分の知っているどれとも重ならない。
黄金歴247年3月
- 学生街
  - とっぷりと日も暮れた時間。
    街頭だけが頼りなく周囲を照らしている、3月とはいえ未だ夜は肌寒い。
    来月に入学…ひいては進級を控えているせいか、出歩く人間も少なく
    日中あれほど賑わっているのが嘘のように街は静まり返っていた。
  - 嫌な夜だ
    と、そんなことを考えながら小走りに街を往くのはエリザベート・ゲッテンベルム
    長いブロンドを夜風に靡かせて、真新しいカメラを両手に。
    まるで追い立てられるように駈けている。
    おおよそ本人にはその自覚はないだろう、ただ本能が警告の声をあげていたのかもしれない。
    早くここから逃げろ、と
  - ゆるりと夜風に交じり香るのは錆びた鉄のそれ。
    勘の良い者であれば、そこで直ぐに気がついただろう。
    …気がついたから、といって何が出来るわけでもないが。
    何せそれは突然に、災厄のようにやってきた。
  - ひっ、という、引き攣れたような声がエリザベートの喉から漏れる。
    エリザベート・ゲッテンベルムの足音は喧しい。
    静かな夜に相応しくない。せめて一人歩きの時ぐらいそれを外していれば良かったのに。
    そうすればもっと早く、自分以外の足音があることに気付けたのに。
    
    ――…同じ方角に帰る人かもしれない
    
    そんな甘い考えに縋りながら、角を曲がる。
    角を曲がる、曲がる、建物の隙間に、あるいは階段を降りて
    
    ああそれでも足音はエリザベートの耳に残酷に響き続ける。
    恐ろしくて振り向くことは出来ない、しかし走ることも恐ろしい。
    振り向いてとんでもない化け物がいたら腰が抜けてしまう。
    走りだして相手も走りだしたのなら、間違いなくエリザベートを狙っているとわかってしまう。
    振り向けない走れない、エリザベートはただただ、選択肢を間違ったまま早足に歩き続ける。
  - 誰か、と視線を彷徨わせても誰もいない。
    不思議なくらいに、異常なくらいに、まるで誰もこの世界には居ないみたいに。
    おかしい　とようやく気がついた。
    気がついた頃にはもう遅かった。
    全てが終わっていた、もう少しでエリザベートの物語はオシマイ。
    さようならエリザベート、可哀想な少女。
    もう少し貴方に勇気があれば、もう少し貴方が賢ければもっと長生きできたのに。
  - 悲鳴を上げる暇もない、エリザベートの身体は紙くずみたいに宙に舞って地面に叩きつけられた。
    美化委員の弛まぬ清掃のおかげで綺麗なタイルに、血がべっとりと。
    「あ゛、あ゛、っ、が、あ…」
    叩きつけられた衝撃に痺れた気道、満足に空気を取り込むことすら出来なくなってくぐもった声が漏れる。
    何が起きたか、何をされたか把握するより早く、逃げなきゃ、と判断したのだろう。
    右手はタイルを掴んで、未だ痺れに上手く動けない身体を引っ張り上げようとする。
    つま先がタイルを擦る、滑る、びたびたという水音がエリザベートの耳に響く。
    血だ。
    血が流れている、どこから？エリザベートの身体から。
    「へぁ…？あ、あっ、あ…」
    血だ、と把握して叫びだすより、痛みに泣き出すより早く視界がぐるり、と変わった。
  - 余談ではあるが、母譲りのブロンドはエリザベートの自慢でもあった。
    自慢であったから、長く伸ばしていた。
    その自慢が、まさかこんな取っ手じみた扱い方をされるだなんて。
    長いツインテールを掴んでエリザベートを引き起こしたのは、意外にも同じ学園の制服をきた少女であった。
    切れ長の涼し気な目元に、長い睫毛。夜に溶けるような長い長い黒髪。
    「貴方ってつまらないのね…」
    「こんな簡単な狩り久しぶり、みんなもう少し逃げたわ」
    心底退屈そうに囁く声は甘く、冷たい。
    痛い、痛いと必死に訴えるエリザベートを侮蔑するようにため息を一つ。
    「…いいわ、たとえ退屈な相手でも肉には変わりないから」
  - 滴る血に舌なめずりする少女、彼女は化け物であった。
    所謂吸血鬼と呼ばれる、世にも貧弱な種族。
    日の光に弱く、木の杭に弱く、水に弱く、銀に弱く…
    そして一度食事を行ったことが露呈すれば狩人に生命を付け狙われるそんな種族。
    彼女もまた、ご多分に漏れず狩人に追わていた。
    まだ吸血鬼として若い彼女は食事の作法を知らない。
    思うまま暴食に耽り、蹂躙し、そして追われた。
  - 追われて逃げ込んだここで彼女は異能に目覚める。
    テリトリー、自分だけの領域を作る異能。
    外からは決して観測できず、入り口を閉じてしまえば誰も入ってこれない。
    彼女のそこは狩場であり、食卓であり、ゴミ捨て場だ。最初はせいぜい半径３０㎝程度であったテリトリーは、今や半径５０mまでその領域を広めていた。
    最初の暴食の結果で、だいぶ懲りていた彼女は無闇にテリトリーに誰かを招くことはしない。
    ただ決まった曜日、決まった時間にほんの僅かな時間その入口を開く。
    それでひたすらに待つのだ、得物が飛び込んでくるのを。
    今回はそれがエリザベートだっただけの話。
    エリザベートはただ走ればよかった、テリトリーを抜けさえすればそれで無事に逃げられたのに。
  - 「せめて娼婦のようにお鳴きなさい」
    繊細に手入れの行き届いた爪がエリザベートの腹を撫でる。
    だらしなく流れる血液が、白い指を赤く汚していく。
    まだ温かいそれの滴る感触は、堪らなく少女を昂らせた。
    喉が渇く、身体の奥に熱が灯る。
    徐々に荒くなる呼吸の漏れる唇から覗く、鋭く尖った牙。
    この牙で薄い皮膚を貫く瞬間、牙から骨子に伝わる感触…それを思い返すだけで
    少女の身体は恍惚に震えた。
    
    少女自身女であったが、貫くなら純血の少女が良い…と思っていた。
    甚振れば愛らしい唇から獣じみた咆哮が漏れるのが
    可憐な顔が醜く歪むのが
    それでいて貫かれた瞬間至情の快楽に抗えず喘ぐのがどうにも堪らない。
    残念なのはその快楽も満足も一瞬で潰えてしまうこと。
    終わってしまえば後に残るのは萎れた皮袋だけ。
    
    ──人形のように愛らしく保っておける力があれば良かったのに
    
    綺麗なドレスを着せて自分のテリトリーに飾っておく、その光景を想像しただけで身震いした。
  - 「が、あ、がっ、あ　あ゛あ゛あぁぁ゛、あ゛あっ、が、あい゛っ゛…だ、い゛だっい」
    「いたい゛、っい゛、だ、いいたいいたいいた、あ゛っあ゛、あ゛ぐ」
    「ごっ、め゛、なぁっ、い、ごめんなっあ゛っ…」
    喉の奥から絞り出すような悲鳴に、少女は恍惚の息を漏らす。
    少女の細い指が温かい肉を掻き分けて、骨に触れて、腹膜に包まれた内蔵を慈しむように撫でる。
    その行為一つ一つに、こうして身を捩って許しを請う得物が愛おしい。
    「可哀想に、痛いのね？苦しいのね？」
    「大丈夫安心して、すぐ気持よくしてあげる」
    「愛してるわ、私の永遠の恋人。」
    ぬるりと指が引き抜かれれば、指にねっとりと絡みつく血を脂。
    舌で雫を舐め取れば、その感触と鼻孔に抜ける香りで軽く達した。
    
    エリザベートはもはや虫の息で、痛いと訴えるだけの力さえ残ってない。
    ひゅうひゅうと喉の奥から苦しげな呼吸を漏らして…
    「……あい」
    ポツリ、と呟いた。
    その呟きに少女が反応を返す事はない。
    少女の興味は、いよいよメインディッシュの吸血行為に注がれていた。
  - さようならエリザベート、君がもう少し思慮深くあればもっと君の物語を続けられたのに。
  - 「…ぁは…っ♥」
    
    「あいされているのね？」
    鈴を転がしたような声。
    舌足らずな子供のように無邪気な調子で
    「私、あなたにあいされているのね…？」
    「嬉しい　私も貴方を愛してる」
    「愛してるから、愛してるの、愛してる　愛してる…」
    
    少女が異常に気付いた時、全ては終わっていた。
    右手に力が入らない、手足が異様に重い、倦怠感が身体を支配する。
    まるで流れ水にでも漬けられたような気怠さ。
    エリザベートの異能が、少女の肢体を蝕んでいた。
  - 少女に裂かれて、あれほど臓腑を弄られた筈の腹は、まるで何事も無かったかのように滑らかで。
    ただてらてらとそこを伝う血が、月の光に照らされて艶かしく。
    
    何が起こったのか、とても少女には理解出来なかった。
    出来る筈もない、まさか、よもや自分の能力が奪われたされたとは想像もつくまい。
    
    狂気に濡れたエリザベートの目が、その場にへたれこんでただ驚愕の表情を浮かべる少女を見下ろす。
    
    ─愛してる
    
    それは恋する乙女というには熱っぽすぎる、愛と呼ぶには狂気に駆られすぎている。
    たかだか人間相手に、少女は初めて恐怖を覚えた。
    逃げようとタイルを引っ掻く手、ずりずりと蛞蝓が這うようにエリザベートから離れる少女。
    実に無様だ、誇り高い吸血鬼にあるまじき姿。
    
    少女はエリザベートから逃げ出したかった。
    誇りなんて知ったことではない、どんなに無様でもアレから離れられるなら喜んで捨ててやる。
    
    耳に届くエリザベートの足音が、まるで死へのカウントダウンに思えた。
  - 「逃げないで、大丈夫」
    「愛してるから、愛してる…」
    
    両手を広げて、ゆったりと少女に歩み寄る。
    穏やかな声色である、だがこの状況でその穏やかさは逆に狂気だ。
    
    「愛してるから、もっと愛して…」
    
    少女の頬に、エリザベートの細い指が触れる。
    背後からその両頬を撫でるように、慈しむように触れて、撫でて…
    撫でた指は首を伝って肩へ、それから少女の身体を引き起こすように
  - 吸われていく、奪われていく、搾り取られていく
    埋められない、埋まらない、奪われて出来た隙間はぽっかりと開いたまま崩れていく。
    悲鳴を上げるための声が無い、私の声、私の声とは一体どんな形をしていたか、と少女は
    失われていく、決して失われる筈のなかった命が失われていく。
    英雄と呼ばれた男の剣で断たれてなお、失われなかった命がこんな愚鈍そうな女の両手で奪われていく。
    屈辱と恐怖に満たされた頭のまま、少女の意識は途絶えた。
    
    エリザベートが両手を離せば、ゴトン、と頭が落ちる。
    色の失われた瞳、乾いて罅割れた唇…ぱらぱらと砂になって崩れていく。
    
    少女の名は奇しくもエリザベート
    かつては平凡な少女であり、吸血鬼に村を滅ぼされた少女であり、手に入れた力に理性を忘れた少女。
    いくつかの村を思うまま鮮血に染めて、狩人に追われて
    同じ名前の少女に全てを奪われ、散っていった。
異能が発現したのは１年生の頃でした。
- 故郷からここへ、一緒についてきてくれたメイドが居ました。
  何でもしてくれました、私はただ座っているだけでした。
  だって何をすれば良いのかわからなかったから
  だって何をしろとも言われなかったから。
  - パパから手紙が届きました。
    妹が産まれた、という手紙でした。
    だからつまり、私はもう本当に本格的に要らなくなった、という手紙でした。
    ママの思想は時代遅れだった、失敗だったと
    そういう手紙でした。
  - 二度と戻ってきてくれるな、二度と父と呼んでくれるな
    そういう手紙でした。
    だから私はいよいよ一人になったのでした。
    最低限のお金は出す、と書かれていましたが
    その最低限に、メイドのお給料は含まれていないようでした。
    だからメイドはその日で屋敷に戻ると
  - 私は悲しくなりました
    私に彼女を止める手段はないのです。
    ああでも　ああでも一人は嫌です。
    一人は寂しいです、側にいてください
  - 縋り付いて振り払われました
    覚えているのはそれだけです　そこまでです
    
    彼女が倒れていました。
    私の望みどおり彼女はどこにもいかなくなりました。
    　いけなく　なりました。
  - 一命は取り留めた、と　聞きました。
    後遺症が残ったとも聞きました。
    「気にすることはない、異能の暴走だから仕方ない」
    偉い先生にそう、言われました。
  - でも私は知っています。
    それがしょうがなくなんて無いことを。
    私はどんな形でも良いから彼女を引き止めたかったのです。
    けれどこんな私のために足を止めてくれる筈が無いことを知っていたのです。
  - だからこうするしかなかったのです
    だって生きていれば必ず私の側から離れて行ってしまうならこうするしかなかったのです
  - 一人はいやです　一人はいやです
    寂しいのはいやです　捨てられるのはいやです
    いやなことはきらいです
    行かないで行かないで　どこにもいかないで
    ここにいて私の側にいて
    それ以上は何も望みません　いてくれるだけで良いのです
  - いてくれるのなら死体でも構わない
    むしろそのほうが望ましい
    だって死んでしまえばどこにも行けないでしょう
  - 人形のように愛されました
    だから私もそういう愛し方しかわかりません
    
    誰も私の側に寄らないで
    私はそういう愛し方しか出来ません　食虫植物のような女です
    ゴミのような女です　クズにも劣る女です
    異能がそう証明しました
    だから誰も私の側に寄らないで
  - ああ
    でも
    
    一人はいやです…
エリザベート・ゲッテンベルムは貴族の一人娘である。
- もしくは貴族の一人娘であった。
  - 数年前に母を亡くした。
    父親はすぐに後妻を娶った。
    後妻はすぐに孕んだ、産まれたのは男であった。
  - ならばもうエリザベートは必要無い、必要無くなった。
    黙って微笑んでいるぐらいしか満足に出来無い、器量の悪い娘は必要無くなった。
  - ゴミはゴミ箱へ
    豚は屠殺場へ
  - じゃあ要らなくなった娘はどこへ？
  - エリザベートは何も知らない
    電気の付け方も水の出し方も知らない
    電球が切れたら変えれば良いのだという、それすら知らない
  - だってそんなこと、淑女がやるものじゃないと言われたもの…
  - 食べ物の買い方も、服の買い方も、お金の稼ぎ方も
    洗濯の仕方も、その手段すら知らない
  - だって誰も教えてくれなかったじゃない…
  - 道の歩き方も、友達の作り方も、スマートな会話の方法も
    ただ黙ってそこにいることだけ、望まれたエリザベートは何も知らない
  - だってしょうがないじゃない、誰も誰も教えてくれなかったんだもの…
    誰もそんなこと私に望まなかったんだもの
    だからしょうがないじゃない…！
  - しょうがない、本当にしょうがない
    もう少し頭が悪ければ、せめてその言い訳で自分を騙すことが出来るくらい頭が悪ければ幸せだったのに
――とある男の話をしよう
- 　
  - 男の好みは至極単純。
    人間であることと、平凡であること。
  - それさえ揃えば顔も身体も関係ない。
    狂おしい程に愛している。
    狂おしい程に愛していた。
  - ああ、しかし満たされない。
    男の愛は女の血で喉を潤すまで満たされない。
  - 意気地なし、甲斐性なし、臆病者
  - 愛した女に罵られながら男は逃げる。
  - 人としての女を愛した
    それがそうでなくなったとき果たして愛は保てるのか？
  - その覚悟から逃げ出した。
    
    逃げた先でもまた愛を求めるのに
――女の話をしよう。
- 　
  - 人形のような女が良い、と人は言った。
  - 人形のような女が良いのね、と女は信じた。
  - 　
  - 束縛に次ぐ束縛。
    へし折れそうな細腰と窒息しそうなコルセット。
  - お前のためだよ、と人は言う。
    私のためなのね、と女は笑う。
  - かくして人形が出来上がる。
    一人では満足に何も出来ない、依存を体現した人形が。
  - ああそれでも
  - 誰かの下で愛されてさえいれば、確かに幸福だったのに
【黄金歴249年3月】
- ───　卒業式の後、故郷へ向かう船の甲板にて
  - 「えっ……なんで普通にいるんですか…」
    （遠くなる学園を眺めて感傷に浸っている最中、視界に入った男に露骨に嫌な顔をする。）
    （何か最近影が薄くて、すっかり存在を忘れていた教師の姿がそこには在った。）
    （大変に気分が悪そうである、THE海の上、なう。だから当然か。）
    （しかし卒業だしようやくお別れかと思ったら、なぜ里帰りする自分と同じ船に居るのか疑問に思っていると）
    （普段より青白いのに、一層青くなった顔色のまま気怠そうにその理由を答える。）
  - 「最近色ボケして忘れてるけど俺エリちゃんの監視者だし…」
    「何かあったらの時の為についてないといけないのね…エリちゃん早く死なないかな…」
    「なんでそういうこと本人の前で言うの！？なんでぇ！？」
    （ど真ん中ストレートの暴言をぶつけられて弱る。）
    （…とはいえ、考えてみればこれといった干渉はしてこないし）
    （監視がついているおかげで自由にやれている部分があるのは否めない、否めないので、強くそれを咎めることも出来なかった。）
    「………ところでどの辺りまで監視してるんですか…？」
    （普段ジローとごろついたりいちゃついたりしている時、そういえば不自然に居ないな…と今更気付いた。）
    （恐る恐るの言葉に、すっと目を背ける教師。）
  - 「石ぶつけたくなるようなイチャイチャの辺りはちゃんと見ないふりしてあげているので、安心して欲しい」
    
    「いやこれはマジで、あのワンちゃん超勘良いんだけど　やっぱ俺犬苦手だわ…」
    「本当だからスーツケースで殴打するのをやめろ！」
    （その台詞でホッとしたのか、中身は詰まってないけれど、高級品故頑丈なスーツケースを何度も何度も振り下ろすのを止める。）
    （よっぽど海の上が苦手なのか、ぐったり座り込んだまま殴打されている姿を見ると若干可哀想にもなってきた。）
    「……中入ります？甲板より客室のほうがだいぶ楽だと思いますよ」
    （ジャージの首元を掴んだままずりずり引っ張っていく。）
    （快速便とはいえ、故郷まで１０日は掛かる。そういえばこの人、客室ちゃんと取ったのかな…と不安になったが）
    （勿論取ってなかった。）
    （…とりあえず、適当な女の人を口説いて同衾してたので大丈夫かな…と自分を納得させた。）
- 【黄金歴249年3月】
  ───　船旅5日目　朝
  - （メールを送信する→エラーで戻ってくる→甲板に出てメールを送信する→エラーで戻ってくる…）
    （5日めに起こった緊急事態に頭を抱える。）
    （デンパナイ・メールトドカナイ…）
    （圧倒的にジロー分が不足してきたので毛布を抱いて寝る。わびしい。）
    「ぬいぐるみとか…もってくればよかった……」
    （実家まであと5日。エリちゃんは果たして無事帰郷することが出来るのか。）
- 【同月】
  ───　船旅7日目　朝
  - （もそもそパンを齧って、死んだ魚みたいな目で毛布を抱いて寝るだけの1日が今日も始まる。）
    「そん　なに…」
    「…そんなに。」
    （あまりに部屋から出てこないので、さすがに心配になったのか）
    （そういう置物みたいになってるエリちゃんを見てドン引きする。）
    「……異能暴走しかかってない？大丈夫マジで…？」
    「わぅ……」
- 【同月】
  ───　船旅8日目
  - （学園で過ごした楽しい生活を１から思い返して寂しさを紛らわす作戦に入る。）
    （虚しい。）
    （虚しいけど、既に読破した本を再び読み返す作業よりは楽しい気がする。）
    （…が、今頃皆なにしてるのかなあ…がスイッチで鬱になった。）
    「うー…うー……」
    （毛布を抱いて頬ずりしてみたものの、ただひたすらに侘びしかった…）
- 【同月】
  ───　船旅9日目　夜
  - （甲板に出て夜の海をぼーっと眺めている。）
    （そろそろ故郷が見えてくる頃だろうか…）
    （どのような顔をして父親に会えば良いのか、卒業証書を見せたら少しは褒めてくれるだろうか）
    （…ひょっとして、引き止められたりはしないだろうか）
    （学園に入るまでの自分とは、だいぶ違う。変わったと思う。だからひょっとして、万が一…）
    （そうなったらどうしよう…）
    （そんな不安のような期待のような感情を抱えながら、黒くうねる海をただ眺める。）
  - （どちらにせよ、学園都市へは戻る。）
    （異能のせい…というのもあるが、それよりも何よりも）
    （大切な友人がいて、大事な恋人が待ってくれている。）
    （だから何があっても戻る、そう決めてはいるけれど…もし万が一）
    （まだ娘でいて良い、戻ってきてここに暮らしても良い…と言われたら）
    （そんな期待を抱く自分も居る。）
    （血は水よりも濃い…とはまったくもって真実だと思う。呪いのように自分の中にこびりついて出て行かない。）
    
    （──　考えていても仕方がない）
    （首を振って、余計な考えを振り落とす。）
    （…明日の今頃には結果がわかっていることだ。だからせめて今は、何が起きても冷静に受け止められるよう）
    （体調だけは整えておこう…と。）
    
    （部屋に戻ったら教師が寝ていた。）
    （船内二股がバレて危うく殺されかけたとの事。そのまま海に落とされれば良かったのに…）
    （とりあえずそれで緊張が幾分解れたのか、割りと良く眠れた…）
- 【黄金歴249年3月】
  - ───　ゲッテンベルム邸
  - （数年ぶりに身につけたコルセットの窮屈なことといったら。途中何度気を失いそうになったか分からない。）
    （本来のウエストが53cm程度…として、今のウエストは48か、9か…。）
    （良く昔は平気な顔で背筋を伸ばして歩けたものだと思う。）
    （…そもそも、こんなもの付けてこうしてうろうろ歩きまわるのが例外なのだ。）
    「…顔すっげー白いんだけど…」
    「っていうか、普通迎えとか寄越すもんじゃないのこういうの」
    （どこへ移動するにも馬車を使って、自分の足で歩くのは屋敷の中ぐらい…）
    （という生活だからなんとか耐えられたのであって…）
    （返事をする気力もない。というより声を出したら倒れそうな気がする。）
    （曖昧に頷いて、のろのろと煉瓦の道を歩く。）
    
    （…到着日時は教えていた筈だけれど、覚悟はしていたけれど、迎えの馬車は無かった。）
    （使者が居るでもない。ひょっとして手紙が届いていなかった？）
    （それとも、勘当する予定の娘に出す馬車など無い？）
    （苦しさが先立って、どうにも考えが纏まらない。悲しいとか切ないとかよりまず苦しい。）
    （憂鬱になる余裕も無く屋敷へ辿りつけた…という点では、コルセットに感謝すべきか）
  - 「……うわ…」
    （数年ぶりに見た屋敷は、随分と様変わりしていて…）
    （何というか…近代的、というか…真新しく改装されていた。家を間違えたか、と戸惑うほどに、以前の面影は残ってない。）
  - （覚えのある従者に導かれ、屋敷の中へ入る。）
    （ただいま、とはとても言えない。内装もやはりガラリと変わっている。）
    （何気なく、いつ改装したのか…と聞けば、自分が出てすぐに、との答えが戻ってきた。）
    （それと、ゲストルームはたくさんあるけれど私の部屋がないことも教えてもらった。）
    （ついでに、そのたくさんあるゲストルームは今日も明日も明後日も埋まっていて、貸す部屋もないと）
    
    （確かに、手続きだけ終えて帰されるかもという覚悟はしていたが）
    （それが改めて現実になると、少し辛い。）
    （それでもまだ苦しさの方が優っている、だからまだ我慢出来る。）
  - （客間へ通されて、お茶が出るでもなくひたすらに書類にサインをさせられた。）
    （中身を読む暇もない、急かされて急かされて…追い立てられながらサインをする。）
    
    （教会の偉い人とやらも来た。）
    （色々誓わされたけれど、正直この辺りから意識が朦朧としていてあまり覚えていない。）
    （とどのつまり、教会から破門された。しかしそこで初めて）
    （ああ、私って一応何らかの宗教の教徒だったんだなあ…と思った程度には、どうでも良いことだった。）
    （私を囲む人の顔色というか、表情から察するに…ここに住む人的にそれは死刑宣告に近かったらしい、けれど）
    「…どうでもいいなあ…」
    （思わず呟いてハッとした。）
    （…誰の耳にも私の呟きは届いていなかったようで、すぐに胸を撫で下ろす。）
    （神様の加護なんて無くても、幸せに生きることぐらい出来るもの。本当に、どうでもいい。）
  - （全ての手続が終わった頃には、日が暮れていた。）
    （…結局、本当にお茶の一つも、パンの一つも出なかった。）
    「…別にいいわ、入らないもの」
    （呟いた声が虚しい。）
    （透明人間になったようだった、誰も私を見てくれない。）
    （誰も私の話しを聞いてくれない、誰も誰も…）
    （まるで4年前に戻ったみたい。）
    
    「…ねえ」
    「あの…あの、あの…！話しかけているのだけれど…！」
    （ただ4年前の私と今の私は違う。）
    （黙って俯いて一人だなんて拗ねるものか、と声を上げる。声をかける。）
  - 「パパ……、いやあの、今はもう…そうじゃないのかもだけれど」
    「便宜上！あの、パパはどこにいるかしら」
    「……せめて最後に一度くらい、あってくれても良いと思う」
    （見せたいものがある、話したいことがある。）
    （せめて、ここまで育ててくれてありがとうというお礼ぐらい言いたい。）
    
    （別に今更、さっきまでの手続きを取り消してくれるかもしれないだなんて甘い夢は抱いていない。）
    （ただ一言、褒めて欲しい。）
    （よく頑張った、と言って欲しい。せめて最後にそのぐらい…良い娘じゃなかったとしても、そのぐらい許されるでしょう？）
- - 【黄金歴249年3月】
    ───　帰途
  - 「ご旅行ですって」
    （いつの間に戻ってきたのか…というか、どこにいっていたのか）
    「…三日前に出発して、戻るのは一ヶ月後…でしたね」
    （ぼんやりとしながら応じる。）
    （この時期に？と思わず笑ってしまう。）
  - （そこまで会いたくなかった、と意識されていたことを喜べば良いのだろうか。）
    （それとも、素直に悲しんで良いのだろうか。）
    （わからない、苦しいのがコルセットのせいなのかどうなのか、それすらもわからない。）
    
    「エリちゃん、ナーバスになってるところ悪いんだけど」
    「…それ、走れんの？」
    「ふぇ」
    「人気者だねエリちゃん」
  - （…甘い幻想を一握りの希望も残さず打ち砕いてくれたことには感謝すべきかもしれない。）
    （教会の追ってから、人の間を縫うように逃げつつポジティブに考える。）
    （落ち込んでいたら捕まる、捕まったら殺される。いや死なないけれど、痛いのは嫌だ。）
    （血塗れで帰ったらさすがに心配されてしまう。）
    （…絶縁した娘を生かしておく義理なんてどこにもなかった。）
    （むしろ無意味なスキャンダルの種になる前に始末してしまったほうが、安心だろう。）
    （…よく毒を盛られなかったものだ、と思う。思えば、お茶の一杯も出なかったのはある意味、使用人たちの優しさだったのか）
  - 「動き…づ、らい！！！」
    （１パージ。）
    （突如叫んでドレスを脱ぎだした女に周囲の人から悲鳴が上がる。）
    「何してんの！？」
    「裾ずるずるで動きづらい！走れない！！」
    （周囲の人が一斉に空間を開けたせいで呆気無く追いつかれてドレスの裾を掴まれる。）
    （馬鹿め！抜け殻だ！！）
    
    （するりとドレスから抜けだして走る、走る。）
    （よもや故郷で下着で全力疾走することになるとは思わなかった、つらい）
  - 「裾だけ破れば良いだろ！？馬鹿なの！？」
    「馬鹿じゃないもの！馬鹿じゃないもの…！！」
    「急に裾なんてやぶれないわ！先生こそ強いんならやっつけてくれれば良いじゃない！！！」
    「これ以上教会の人間敵に回したら怖いし…」
    （ぎゃんぎゃん言い合いながら、港を目指してひたすら走る。）
    （さっきより走りやすくなったのは、あれかしら）
    （下着で全力疾走してくる痴女を見て怯えた人が道を開けてくれるからかな…）
    （今の私モーゼみたい…そんなことを考えながら、コルセットのヒモを引っ張る。）
    「っそぉい！！」
    （２パージ。）
    （コルセットを放り投げる。悲鳴が上がった、この痴女を見る目、慣れたものだわ）
  - （追手が怯んだのがわかる。）
    （それもそうだろう、ここまで往来で恥ずかしげもなく脱ぐ女見たことあるまい。）
    （別に恥ずかしくない訳じゃない。恥ずかしい、死ぬほど恥ずかしい。）
    （さすがに下着は恥ずかしい。）
    （これは水着、これは水着…！自分に言い聞かせる。）
    「エリちゃん平坦な身体でよかったな！走り易いな！」
    （イラッとした、目の前に見えてきた海に叩きこんでやろうか…と）
    
    「…！！　せんせー、船出ちゃってる？！」
    （遅かった…！…というより、早くつきすぎたのかもしれない。）
    （けれど悠長に船を待っている暇はない。となればあの船に乗るしか無い…）
    （今から走っても間に合わない、既に船は港を離れて掌に収まりそうなほど小さくなってしまっている。）
    （万事休す。捕まって二度と帰れないのだろうかと）
    「エリちゃん歯食いしばってろよ！」
    「ふへっ？」
    （思った瞬間身体が浮いた。）
    （小脇に抱えられているのだ、と理解するより早く景色が線のようになる。）
    （呼吸が止まる。急に音が聞こえなくなった。）
    （強い衝撃の後、視界が一面の青になって…）
  - （次の瞬間、痛かった。）
    （バラバラ頭の上に木くずが降ってくる。）
    「…え、なに………？」
    （周囲を見渡せば、小麦の袋か何かだろうか。）
    （ついでに離れた所で死んだみたいに大の字になってる教師がいる。）
    （…どこかの小屋にでも落ちたのか、と思ったが鼻を突く潮の匂いと、やけに揺れるこの感覚。）
    「…船？」
  - （私を抱えて全力で助走をつけて、跳んだのだ　と後から聞いた。）
    （あの距離を？と疑わしく思ったが、現状確かに船に乗っている以上信じざるを得ない。）
    「…………贅沢は言わないけど、せめて快速便だったら良かったのに……」
    （船の中、膝を抱えながらぼやく。）
    （一ヶ月、一ヶ月船の中。しかも下着で。荷物も置いてきて。）
    （ほぼ裸一貫での帰還…あまりに格好悪すぎる…、しかも約束より随分遅れてしまう）
    「その発想が既に贅沢じゃねえの！？」
    「捕まらないで逃げれただけ感謝するべきじゃねえの！？俺に！？」
    「………感謝してますけど……」
    （ため息をつく。）
    （……どうやって説明すれば良いのだろう、この状況。）
    （なんとか死守していた端末を見てもう一度ため息。）
    （せめて早くつながる範囲に入ってくれないものか…）
    
    （何となくこういう感じで、最初で最後の里帰りは終了した。）
    （ついでにエリザベート・ゲッテンベルムは事実上死亡扱い。）
    （エリザベート・ゲッテンベルムのお話はこれでおしまい。）
  - （これから始まるのはただのエリザベートのお話）
    （色々あるだろうけれど、今までの出来事に比べればなんだって乗り越えられるだろう、と楽観的に考える）
    （…というか、そう考えないとやってられない。）
    「一ヶ月ー……！！！」
    （エリザベートが海上都市に戻るまであと２９日。）
    （戻った頃にはスキンシップ不足でしおしおに憔悴していたという…）

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