名簿/466447
- 駆ける。駆ける足音。石畳の上をがつんがつんと。靴の底が叩く。
- ぜいぜいと口から漏れる呼吸音。吸い込めど吸い込めど身体は冷える様子を見せない。
- 湿度高い空気。額に滲んだ汗が目へと流れ落ちそうになって、慌てて服の袖で拭う。
- 何故駆けるのか。単純な理由。追われているから。何に追われているのか。単純な理由。わからない。何故だ。何故。
- 足がもつれた。その場へと投げ出されるように転ぶ。身体を庇うように、右の肩から落ちた。鈍痛。
- は、は、は、と。まるで笑うように吐息は小刻みに。足の筋肉が疲れに痙攣を始めている。立ち上がらねば。立ち上がらねばならぬ。
- 地へと手を付き、身を持ち上げようとした所で。音が耳に届いた。
- ぺたん、ぺたん。硬い靴底ではない。何者かが歩く音。それは、前方から訪れて。己の正面。5mほどの距離をおいて止まった。
- 「何処へ行こうというのでござるか?」 聞こえたのは、未だ年若い少年の声。声変わりは終わっているだろう。疑問を載せて問いかける。
- 地面に臥せったこちらからでは、逆光になって見えない。烟る街を照らす街灯の灯りが、目前の影の顔を隠している。
- 「今更でござる。何もかも」が、と。言葉続くのを待たず。吠えた。喉から迸る力ある声。
- それが大気に溶けるのと同時。己の影から湧きいづる黒。夜を裂いた。殺意を載せて襲いかかる。
- 口が笑みに歪む。何者かなど、知った事ではない。そうだ。逃げる必要などなかったのだ。己の前のこの無作法者など、最初から、こうして―――
- 街灯が割れる音。周囲が闇に落ちる。霧深いこの街に、天の光は届かない。漆黒。身体に纏わり付く湿度が心に白を感じさせるだけ。
- そして、己の迸らせた黒い殺意に、手応えはなかった。確かに捉えたと思った瞬間に闇が落ちて。それにかき消されるように、殺害の確信も塗り潰されて。
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- ばるん。 それは、機関の始動音。
- 「街道神コラト。旅半ば、眠る旅人を守護した夜の神」
- ばるばるばる。 それは、機関の駆動音。
- 「機関の灯りを手に入れ、鋼鉄の馬車を得た人の中。お前は居場所を失った」
- 漆黒の闇が、仄赤の。赤熱する鉄の色に照らされる。
- 「消えるのを恐れたか。旅人から啜っていた夜の恐怖が、欲しくなったか」
- そこにあるのは、腕へと大きな布地を巻きつけた、少年の姿。
- 「堕ちた神コラト。裁定を下す。何にも依らない、俺の裁きだ」
- 光の源は、その両の手が握った長物。刀の柄。 音の源は、その両の手が握った長物。その刃。
- 「夜へ、還れ」
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- 死なぬはずの神を殺す。それは神殺しの刃。自動の回転鋸にも似た。
- 振り上げられ、振り下ろされたそれは神を断ち切り、悲鳴をその駆動音の中に飲み込んで。
- 神は死んだ。真っ二つに断ち切られて。死骸は夜へと、溶け消えて。
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- ここは霧の街。機関を手に入れた人の街。そして、排斥された、神の街。
- 人はここを、倫敦と呼ぶ。
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