名簿/451338

お名前:
  • 男は、長い川を渡っている。

    その瞳に光はなく、その歩みに意思はない。
    ただ、身体が前に倒れるのを防ぐために一歩を、次の一歩を踏み出しているから、前に前にと進んでいくだけで、
    何処かにたどり着くための歩みでも、何かから逃げるための歩みでもなかった。
    踝までを、感覚がなくなる程の冷水に浸しながら、音も立てず、水を掻き分けるようにして先へと進んでいく。
    そうすることが彼に課された義務であるように、そうすることが自然であるように、先へ、先へと。


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      • その道のりが有限であれば、いつか何処かにたどり着く。
        だが、たどり着こうという意思がなければ、その道は何処にも繋がっていない。
        事実、どれだけ進んでいても、何一つ掴めず、何処にもたどり着けない道のりがそれを証明していた。
        何時間、あるいは何日歩いただろうか。
        疲れはない。空腹感もない。胸に、それらがこぼれ落ちる空虚な穴が空いているかのように、彼の身体には何もなかった。
        ただ、身体を冷酷に冷やす、凍てつく水の感覚が、自身との境界線を曖昧にするほどに自分の身体を包み込んでいた。
      • ここは、冬の海だ。
        男は、そう思った。
        思ったのではなく、最初から知っていたことを思い出したようだった。
        その認識を元に、男が少し遠くに目を凝らすと、そこには男の認識通りに流氷が漂っていて、
        更に目を凝らせば地平の先にまでその景色が広がっていることが分かった。
        辿りつけないのも無理は無い。
        最初からこの世界は、凍てつく海だけで構成されていたのだから。
        男は嘆息し、境界が曖昧になった身体を海水に揺蕩えながら、初めて歩みを止めた。

      • ――立ち止まれば無音。
        静謐と静寂がそこにあった。
        掻き分ける水すらもやがて水面となり、無音の刃が鼓膜に痛みを与えていく。
        その世界に自己しか存在しないことを知ったとき、身体が少しだけ軽くなるのを感じた。
        背中に、腸(ハラワタ)に、背負って抱え込んできたものが取り零れていくような気がして、軽くえづく。
        しばらくするとそれがただの錯覚であるかの如く、身体が再び重さを取り戻し、男は大きく呼吸をしなおした。

      • 「――なんや。見覚えある、阿呆がおる」


      • qst084109.png


      • 潮騒の音に混じって、男の耳に聞き覚えのある声が届いた。
        静寂の世界に遠慮無く割り込んできて、我が物顔で居座っていた。
        その声が聞き間違えでないことを、何故か男は知っていた。

  • 男は少しだけ、誰にも見られないように笑い、顔を上げて、苦笑いを零した。
    目の前にいる、少女のような何かに向かって、小さく嘆息してみせる。
    少女は、目深に被っていた面を片手で持ち上げ、呟いた。


  • qst084108.png



  • 「相変わらずの――間抜け面やね」





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  • 「何やの、俯いて歩きおって。
     何ぞ、大事なモン落としでもしたん、青年?」


  • qst084100.png

    冗談とも、本気とも取りきれない曖昧な言葉に、男は言葉に詰まる。
    先制して悪態の一つでも吐いておくべきだったと悔やんだときには、悔し紛れの言葉が口をついて出ていた。

    「その辺に落ちてたら苦労しないんだよ」
    「せやんな。
     よう知っとるわ」


  • qst084101.png

    飄々と言ってのけるその仮面の少女に、男は眉根を寄せて尋ねる。

    「何で、こんなとこにいる?」
    「それはやな、ここが何処かを分かってる人間が言うセリフやで」

    言われて、再び言葉に詰まる。
    突然の覚醒と意思の付与に事実を認識するのが遅れた。
    闇雲に歩いていた先ほどまでと違って、自分が一人の個として目の前の仮面の少女と会話していることに自覚をした途端、
    考えないようにしていたいくつもの疑問が海の中からぽかりと水泡のように湧き上がってくる。


  • qst084107.png

    ――腹部を、覆う灼熱感。
    喉奥を上がってくる、血の味と、喪失感と――。

    フラッシュバックのように思い出される記憶。

    男は、その事実を咀嚼し、大きく息を吸った。
    内心の動揺は、その瞬間と同じように外側には漏れず、会話中の僅かな無言の時間だけがその場に違和感として存在していた。

    「――そうか。
     ……死んだのか、俺は」

  • 「さあ、どうやろねえ?」
    「お前が居ることが証拠になるだろ泥人形。
     死んでも治らなかったか、頭」
    「なんや、調子出てきたやん。
     どっちが泥人形やねん、死んだような目で歩いてきよって。ああ、すまん自分の死んだような目は生まれつきやったな」
    「仮面叩き割るぞ美少女(笑)。
     ……もう一度聞くぞ。何でこんなとこにいる」

  • 少女は小さく笑い声を零し、小さく首を傾げてから。

    「『待っとった』言うたら、恋に落ちてくれるん?」

    「――胃が痛む」
    「なんでやねん! 草ばっか食いよるからやろ!
     胃ぃ鍛えんかい胃ぃ!!」
    「お前草馬鹿にしたら恋じゃなくて別の場所に落とすぞ。
     生憎肉食系女子を許容出来るような胃は生まれつき持ってなかったからな」
    「ああ、喰うってそういう」
    「お前二秒でいいから真面目に俺の話を聞く能力ある?
     とりあえずワイヤーで縛らないと聞けない?」

  • 「背、伸びてんな」

    その言葉は。
    何の飾り気も、他意もないはずなのに。
    男の内部に、深く、深く突き刺さった。
    余りにも簡単に揺らぐものだと、自分で呆れながら、大きく息を吸って、吐いた。
    ため息として誤魔化せたことを、男は祈った。

    その短い一言には、年月の「静止」と「空白」を同時に突きつけられたような、そんな感覚を男に与えた。

    「……何年経ったん」
    「二年」

    短く、なんとか言葉を返す。

    「伸びるはずやんな」

    少女は、感慨深くそう呟いた。

  • 「大変、だったんだ、ぞ。
     お前とルームシェアしてた、テイリス、とか、お前が居なくなって、
     それでも、それぞれ、まあ、生きてだな」

    違う。そんなことは、どうでもいい。
    伝えるべき言葉が悪態や世間話に押し流される。

    「騒がしい奴が、急にいなくなって、教室も少しだけ静かな時期が、あって、
     ピピルンや、ジョージは……お前がいなくなって、深夜の駄弁り仲間が減ったって。
     料理も、二人分作る方が、三人分作るより難しいんだが、そういう、ことじゃなく」

    前髪を、右手でくしゃりと掴む。口の端が傍目から見ても分かるほどに歪み。
    胸の内に綯い交ぜになった感情が、そのドロドロとした感情のまま外側に吹き出して。



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    「……何で、死んだ」


    男の言葉は――糾弾という形で、外側に表出してしまう。

  • 少女はその言葉を聞いて、少しだけ息を吐いてから静かに面を深く被り、


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    「ごめんな」

    と、小さく呟いた。

    男は、顔を押さえたまま、俯く。

    「……違う、そう、じゃない。
     俺は、別に、お前に謝って欲しいとか、そういうんじゃ、ない。
     俺は……俺に、とっても、他の連中と同じように」
    「ええよ。無理せんでも。
     きっとな……こんなとこに居ったら、そう言われてまうと思ってたんやわ。
     ……逆に、言うて貰えて、安心したわ」
    「悪い。……何回でも言える。
     ……何人分でも、言えるわ。フロニー」

    男は、小さく、少女の名前を呼んだ。

  • 「せやな。うちも、おんなじことうちに向かって言いたいわ。
     ……自分や、テイリスやモイリーが苦しんでたのと同じで、うちも苦しんでたんやからな。
     全部、見えとったから、ここから」
    「何だよ、それ。
     趣味悪すぎるだろ……」
    「せやんな。……何回も、何回も呪ったし、叫んだわ。
     そんでも、どうにもならん言うんが分かって、ようやく待つ言う選択肢が出てきてん。
     だから、もっぺん言ってええかな。待っとってん。ヒューイ。
     ヒューイだけやない、死にたがりの誰かさんが、もしかしたら来るかもしれへんて、思うてたから」

  • 「……何だそれ、怖いわ」
    「ふっふっふ、そして貴様は黄泉路の道連れとして選ばれてん。
     恨むなら死んだ自分の運命を恨むがええわ!!
     さあ向かおか、結婚という名の墓場へな!!」
    「死んだら治れよ馬鹿は。
     ……何年掛かるか分からないのに、ずっと待ってた筋金入りの馬鹿に掛ける言葉じゃないが」
    「おや、あんま嫌そうな顔せーへんねんな。
     死んでんねんよ、自分。もっと嫌だ!生きたい!言うて暴れるもんちゃうん」
    「……さあ。
     実感沸かないのか……かなり前からこういう覚悟をしてたのか、どっちかだろうな」

  • 男は、小さく嘆息する。

    「守る相手のいない、縛られるものの無い人殺しの末路なんて。
     ……ずっと、こんなもんだと思ってた。
     最期にお前と話せたのは、何かの間違いだろって、今でも思ってる。
     もしくは、俺が都合良く俺に見せてる、勝手に創りだした幻想か何かだろ……」

  • 「せやったらヒューイん中のうちって意外と美人やってんなー、自分で思うわ。
     でももうちょい胸あったことない? DかEくらいはあった気ぃすんねんけど」
    「……もういい。
     あんまり、そういうの続けられると、溺れそうになる。
     ……死のつかの間に見た夢にしては、救いがあったよ。幻影だろうが、感謝くらいはする。
     ……もういい、フロニー」
    「良うないよ?」

    男は、その言葉に顔を上げた。
    少女は、腕を組んで、首をひねった。
    「良う、なかったよ。
     うちは。
     せやから。
     ……きっと、ヒューイも良うないで」

  • 「俺の中のお前、捻くれ過ぎ」
    「女体も知らんと女を語んなや多分童貞」
    「人のこと言えんのか多分処女。
     だから……こういうのが、もう良いって言ってるんだが?」
    「なんで幸せにならへんの?
     どうにでもなるんに。どうにでもしたるんに」

    苛立ちを超えて、男に殺意が芽生えた。

    「お前が言える言葉じゃない」
    「うちだから言えるねん。
     そして、言うために、うちはここに居る。
     それが、ヒューイが聞いた、うちがここに居る理由や。
     ちょっと長なるけど、寝ずに聞けや。
     ヒューイがうちに言いたいこと山ほど抱えてきたように、うちかて、自分に言いたいこと山ほどあんねんぞ」

    少女のその言葉に、男は深呼吸をして、自分の中の怒りを収めた。
    丁寧に10秒数えて、怒りにお引取りを願うと、聞いてやるとばかりに仮面の少女を睨み返した。


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  • 少女は、少しだけ顎を上げると、何かを思い出すように訥々と喋り始める。

    「……幸せに、なれへんと思ってた。
     初耳かもしれへんけどな、うち、笑う以外出来へんねん。
     どんな悲しいことがあっても泣けへんし、どんなに辛いことがあっても笑顔やねん。
     後天的なモンらしいけどな。なんぞ気づいたらそうなっとった。
     まあ、やから仮面着けててんけど」
    「そっちの方が恥ずかしいとは思わなかったのか美少女」
    「恥ずかしいけど、恥ずかしいんは仮面やろ。
     素顔を気味悪がられるよりナンボかマシや思うてたんよ。
     好かれても嫌われても、それは仮面を被って演じてる人格と外見なわけやろ。
     やったら、うちはそうやってこの世界と折り合いをつけて生きていかなあかん思うててん」

  • 「……せやからな、そんな片輪、けして幸せになれへんと思うてたよ。
     普通の人間でも掴むの難しいようなそんなもん、なんで自分が掴めるねんて。
     生きているだけで他人を不快にする人間が、なんで幸せになれんねんて。
     何処行っても気味悪がられてきたから、開き直って仮面被って養成学校来るまで、ずっとそう思うてた。
     実を言うとな、多分同類を探しててんな。
     特異な環境にあれば、似たような人間も集まって来るんやないかって、そう期待してた。
     それがテイリスであって、多分ヒューイやってん。
     テイリスやヒューイが、本心でうちのことどう思うてたかは知らんけど、うちは少なくとも、同類や思うてた」

    仮面の少女は、少しだけ俯き、呟く。
    男はその言葉に肯定も否定もせずに、ただ佇んだまま耳を傾ける。

    「互いに負い目があるから、互いの距離を適正な距離に出来る。
     そんな相手やと、勝手に思うてた。
     やから、多分一緒におって気とか使ってなかったんやろな」

  • 「うちがテイリスの問題に首を突っ込んだんは、親切心なんかやない。
     ただ、あの姿にうちを重ねてただけやねん。
     もっと言う。うちより程度の酷いあの子が幸せになれたら、うちも幸せになれるんやないかって、そう思ってた。
     やから、テイリスにも、一度だけ謝っとかなあかんねんな、うち」
    「――お前が」

    その言葉に、男は言葉を挟んだ。

    「お前が、どう思ってようが。
     テイリスはお前に、感謝してて、大事なものを、もらったって、そう思ってる、だろ。
     だったら……そんな謝罪、あいつも貰っても、困るだろ」
    「痛いとこ突くなあ、ヒューイは。
     せやな。あの子が追いかけてたんは、こんな生の感情を持った人間じゃなく、あの子を導いてやれる指標やってんもんな」
    「それも……違う。
     辞めろ、バカ。気を使わない相手だったんだろ。俺に、気を使わせるな。
     お前がもしフロニーでも……フロニーを悪く言われれば、腹が立つんだよ、俺の」

  • 少女は小さく笑い、頭を下げる。

    「せやな、悪い悪い、歳取ると愚痴っぽくなんねん」
    「取ってねえだろ17歳」
    「せやったな19歳」
    「俺の胃をイジメるのを辞めろ」
    「なんか、懐かしいな、こういうの。
     まあ、んでな、よう考えてみたらな、なんでそんなこと思うてたんか、バカバカしくなったんよ。
     誰かに許してもらわんかったら幸せになれへんなんて、誰が決めたルールやねんて。
     そんなルール、最初からおかしかったんやって、そう思った」

    少女は少しだけ仮面を持ち上げると、尋ねる。

    「似たようなこと、思うてんねやろ。
     でなかったら、人殺しの末路なんて言葉、出てこーへんもんな、ヒューイ」

  • 男は少しだけ視線を逸らし、すぐに戻す。

    「思ってる。
    ……これが、相応しい末路だって、心の底から思った」
    「……せやったら、誰に許して欲しいん」

    男の脳裏に、何人かの顔が閃いて、人知れず奥歯を噛んだ。

    「私は貴方を殺しました。
     謝るから許してください、って懇願して……誰が許してくれる」
    「許して貰わんかったら、謝らんのかい。
     どうせ手に入らんかったら、最初から諦めるんかい。
     うちは……もうどうしようもなくなってから気づいてん。
     それって、ただの甘えやろ」

  • 「……うちは、甘えとったよ。
     幸せになられへんのは、最初から不幸であったからやって。
     どうしようもないことが前提にあったからって、自分では絶対手に入れられへんもんやって思って。
     やから、最後まで独りで、全部失ってから気づいたわ。
     もっと、在り来りな、何処にでもある幸福を、心の底から願っていれば、
     自分の手の中にある数少ないものを幸福って呼ぶことも出来たんやないかって」
    「それを……今度は俺に押し付けるのか。
     生前、テイリスにやっていたことを、今度は俺にってことか。
     フロニー……それは、お前が俺を知らないから言えるんだ。
     ――他人ごとだから言えるんだろ」

    少女は胸を張る。
    その男の刺のある言葉を、真正面から受け止めて。

    「他人ごとだから言うんや。
     ヒューイ、うちは自分の『他人』で良かったと思うわ。
     うちは、自分の境遇や過去、何一つ知らへんよ。
     何もかんも知らんまま、自分と出会ってたった数年を一緒におっただけの、言うてしまえば他人やからな。
     でもな、うちは、自分のことを世界で一番幸せになって欲しいと思うてる他人やっていう自負もある。
     そんくらい、勝手に想うくらいは自由やろが。
     そんで、勝手にまた背負わすよ、うちではもうどうしようもないものを、ヒューイ、自分はまだどうにかできる線上に居るからな」
  • 「……自分勝手甚だしいな」
    「知らんかったん。うちってこんな感じの美少女やで」
    「いや、いっそ清々しい程お前だよ。死んでも治らない系統の」
    「せやんな。でもまだ自分の方が上や思うで。
     ……なんで気づいてへんのかって思うんやけど。ちょっと耳済ませば聞こえるような声を。
     うちはな。
     ヒューイみたいなんは、一人じゃどうにも出来へんのやないかって、思っててん。
     うちより重症で、うちより程度が酷い自分みたいな人間を、無理やり幸福にしたるには。
     押す力と、引き止める力の、2つが要るんやないかって。
     やから、うちは、ここで、自分を押したろうと、ずっと思っててんな」

  • その声は、少しずつ男の中に大きく反響を始めていた。
    死の淵に、自分と相手しかいなかったその世界に、確かに呼ぶ声が聞こえてきている。
    彼を必要とし、彼を少女の呼んだ「ありきたりな幸福」としようとしている声が、聞こえてきていた。

    「はよ、気づけって。思うてたよ」
    「……俺は今殴られてもいい立場にいるんだと知った」
    「うちは、正直死んだほうがええと思ってる」
    「安心しろ、少なくとも今は死んでる」

    男は振り返り、その声を聞いた。

    「……そうか。
     こんなに大声で呼ばれてたのに、さっきまで気づかなかったんだな」
    「だから言うたやろが。
     ――相変わらずの間抜け面や、って」

    少女が肩を竦めると、男もそれに併せて肩を竦めた。

  • 「……なあ、ヒューイ。
     うちの夢やねん。
     化け物でも幸せになれるいう物語を見るのが。
     しかも、それを自分がお膳立てしたってなれば、多分もう成仏してまうんやないかなって思ってる。
     やから、自分勝手で、傲岸不遜な、完璧美少女のうちは言うわ。
     うちが許すから、幸せになれ」

    男は、仮面の少女の方を向く。

    「なんだそれ。
     ……命令か?」
    「告白やな」
    「お断りします」
    「フラグ立ってなかったか。リセットしたろかな」
    「二度と電源入らなくなるから辞めてください。
     ……それで、お前はいいのか。
     ……こんなこと聞くのは、卑怯かもしれないが」
    「ええんちゃうん。
     正直な、うちが、うちと一緒に贖罪のために死んでって言うたら、自分喜んで死ぬやろ。
     そんなん、なんか腹立つねんな。それよりは、自分らが苦しんで苦しんで、その果てに見つけた幸せ見る方が、
     ……なんか、楽しいやん」
    「……ドSめ」

    男が肩を竦めると、今度はそれに併せて少女が肩を竦めた。
  • 「例えばそんな『もしも』が存在出来てたら。
     そう思えるだけで、うちは充分やわ」

    少女は、小さくそう呟くと、一歩だけ男と距離を置いた。
    それは、誰の目から見ても明らかな、境界線を跨ぐ一歩だった。

    「……俺は、本当は……お前と居るのも気楽で、
     それだって、身の丈に余るくらいの幸福だって、ずっと思ってた」
    「せやな。まあ、同じような気分やったよ。
     自分やピピちゃんたちと話してたときのうちが、一番うちらしかった」
    「……なんでお前は。
     そうなんだ」
    「さあ。
     きっと、そうだから、うちやったんやろ」

    男の胸の中で、罪悪感が形となり、声となって外側に出る。
    それは、涙という形を取らずに外側に吹き出てきた、確かな感情だった。


  • 「フロニー。
     ごめん。
     ……俺は、生きたい」
    「あはは。
     よう、言えたな」



  • 二人の間に、明確な距離を以って、男は少女に、少女は男に向けて語りかけた。

    「教室でお前と過ごす日々に、安らぎがあった。
     もしかしたらあれは、確かな想いだったかもしれない。
     でも、もしそうだったとしても、俺の中でそれが形になる前に……お前は消えてしまった。
     お前が居なくなって、何もかも手遅れになってから、ずっと悔やんでたよ。
     でも、それすらも、偶像化したお前なんじゃないかって思って、苦しんでた。今俺の前に立つお前ですら、本人であるなんて、俺には言い切れない」

    「実はうちも好きやったよ。
     一緒におって楽しかった、それが想いの全部や。
     でも、それがうちとしての本心やとしても、もううちでは幸せにしてやられへんねん。
     自分の中で偶像として形作られた何かは美しいかもしれへんけど、偶像は手なんて伸ばしてくれへんねんな。
     ……ずっと、ここから見よったけど、好きやから幸せになって欲しい言う、単純な好意の形で以って、言うわ」

  • 男は。
    ヒューイ・アンソニー・ジングラは、
    少女に背を向けて、声のする方へと、一歩踏み出し、言った。

    少女は。
    フロニー・フィラシオは、
    その背中に向けて、自分の仮面を片手でずらし、言った。
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    「――だから、ごめんフロニー。
     もしかしたら、愛していた人。

     もしもの話には、ならなかった。俺は生きるよ、この声と」

    qst084124.png

    「――だから、ありがとうヒューイ。
     もしかしたら、愛せた人。

    ふたりとも、今度会うときは、ちゃんと満面の笑顔で迎えたるからな」

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  • 男は、長い川を渡っている。

    その瞳に光はなく、その歩みに意思はない。
    ただ、身体が前に倒れるのを防ぐために一歩を、次の一歩を踏み出しているから、前に前にと進んでいくだけで、
    何処かにたどり着くための歩みでも、何かから逃げるための歩みでもなかった。
    踝までを、感覚がなくなる程の冷水に浸しながら、音も立てず、水を掻き分けるようにして先へと進んでいく。
    そうすることが彼に課された義務であるように、そうすることが自然であるように、先へ、先へと。


    • qst084081.png

      • その道のりが有限であれば、いつか何処かにたどり着く。
        だが、たどり着こうという意思がなければ、その道は何処にも繋がっていない。
        事実、どれだけ進んでいても、何一つ掴めず、何処にもたどり着けない道のりがそれを証明していた。
        何時間、あるいは何日歩いただろうか。
        疲れはない。空腹感もない。胸に、それらがこぼれ落ちる空虚な穴が空いているかのように、彼の身体には何もなかった。
        ただ、身体を冷酷に冷やす、凍てつく水の感覚が、自身との境界線を曖昧にするほどに自分の身体を包み込んでいた。
      • ここは、冬の海だ。
        男は、そう思った。
        思ったのではなく、最初から知っていたことを思い出したようだった。
        その認識を元に、男が少し遠くに目を凝らすと、そこには男の認識通りに流氷が漂っていて、
        更に目を凝らせば地平の先にまでその景色が広がっていることが分かった。
        辿りつけないのも無理は無い。
        最初からこの世界は、凍てつく海だけで構成されていたのだから。
        男は嘆息し、境界が曖昧になった身体を海水に揺蕩えながら、初めて歩みを止めた。

      • ――立ち止まれば無音。
        静謐と静寂がそこにあった。
        掻き分ける水すらもやがて水面となり、無音の刃が鼓膜に痛みを与えていく。
        その世界に自己しか存在しないことを知ったとき、身体が少しだけ軽くなるのを感じた。
        背中に、腸(ハラワタ)に、背負って抱え込んできたものが取り零れていくような気がして、軽くえづく。
        しばらくするとそれがただの錯覚であるかの如く、身体が再び重さを取り戻し、男は大きく呼吸をしなおした。

      • 「――なんや。見覚えある、阿呆がおる」


      • qst084109.png


      • 潮騒の音に混じって、男の耳に聞き覚えのある声が届いた。
        静寂の世界に遠慮無く割り込んできて、我が物顔で居座っていた。
        その声が聞き間違えでないことを、何故か男は知っていた。

  • 男は少しだけ、誰にも見られないように笑い、顔を上げて、苦笑いを零した。
    目の前にいる、少女のような何かに向かって、小さく嘆息してみせる。
    少女は、目深に被っていた面を片手で持ち上げ、呟いた。


  • qst084108.png



  • 「相変わらずの――間抜け面やね」





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  • 「何やの、俯いて歩きおって。
     何ぞ、大事なモン落としでもしたん、青年?」


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    冗談とも、本気とも取りきれない曖昧な言葉に、男は言葉に詰まる。
    先制して悪態の一つでも吐いておくべきだったと悔やんだときには、悔し紛れの言葉が口をついて出ていた。

    「その辺に落ちてたら苦労しないんだよ」
    「せやんな。
     よう知っとるわ」


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    飄々と言ってのけるその仮面の少女に、男は眉根を寄せて尋ねる。

    「何で、こんなとこにいる?」
    「それはやな、ここが何処かを分かってる人間が言うセリフやで」

    言われて、再び言葉に詰まる。
    突然の覚醒と意思の付与に事実を認識するのが遅れた。
    闇雲に歩いていた先ほどまでと違って、自分が一人の個として目の前の仮面の少女と会話していることに自覚をした途端、
    考えないようにしていたいくつもの疑問が海の中からぽかりと水泡のように湧き上がってくる。


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    ――腹部を、覆う灼熱感。
    喉奥を上がってくる、血の味と、喪失感と――。

    フラッシュバックのように思い出される記憶。

    男は、その事実を咀嚼し、大きく息を吸った。
    内心の動揺は、その瞬間と同じように外側には漏れず、会話中の僅かな無言の時間だけがその場に違和感として存在していた。

    「――そうか。
     ……死んだのか、俺は」

  • 「さあ、どうやろねえ?」
    「お前が居ることが証拠になるだろ泥人形。
     死んでも治らなかったか、頭」
    「なんや、調子出てきたやん。
     どっちが泥人形やねん、死んだような目で歩いてきよって。ああ、すまん自分の死んだような目は生まれつきやったな」
    「仮面叩き割るぞ美少女(笑)。
     ……もう一度聞くぞ。何でこんなとこにいる」

  • 少女は小さく笑い声を零し、小さく首を傾げてから。

    「『待っとった』言うたら、恋に落ちてくれるん?」

    「――胃が痛む」
    「なんでやねん! 草ばっか食いよるからやろ!
     胃ぃ鍛えんかい胃ぃ!!」
    「お前草馬鹿にしたら恋じゃなくて別の場所に落とすぞ。
     生憎肉食系女子を許容出来るような胃は生まれつき持ってなかったからな」
    「ああ、喰うってそういう」
    「お前二秒でいいから真面目に俺の話を聞く能力ある?
     とりあえずワイヤーで縛らないと聞けない?」

  • 「背、伸びてんな」

    その言葉は。
    何の飾り気も、他意もないはずなのに。
    男の内部に、深く、深く突き刺さった。
    余りにも簡単に揺らぐものだと、自分で呆れながら、大きく息を吸って、吐いた。
    ため息として誤魔化せたことを、男は祈った。

    その短い一言には、年月の「静止」と「空白」を同時に突きつけられたような、そんな感覚を男に与えた。

    「……何年経ったん」
    「二年」

    短く、なんとか言葉を返す。

    「伸びるはずやんな」

    少女は、感慨深くそう呟いた。

  • 「大変、だったんだ、ぞ。
     お前とルームシェアしてた、テイリス、とか、お前が居なくなって、
     それでも、それぞれ、まあ、生きてだな」

    違う。そんなことは、どうでもいい。
    伝えるべき言葉が悪態や世間話に押し流される。

    「騒がしい奴が、急にいなくなって、教室も少しだけ静かな時期が、あって、
     ピピルンや、ジョージは……お前がいなくなって、深夜の駄弁り仲間が減ったって。
     料理も、二人分作る方が、三人分作るより難しいんだが、そういう、ことじゃなく」

    前髪を、右手でくしゃりと掴む。口の端が傍目から見ても分かるほどに歪み。
    胸の内に綯い交ぜになった感情が、そのドロドロとした感情のまま外側に吹き出して。



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    「……何で、死んだ」


    男の言葉は――糾弾という形で、外側に表出してしまう。

  • 少女はその言葉を聞いて、少しだけ息を吐いてから静かに面を深く被り、


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    「ごめんな」

    と、小さく呟いた。

    男は、顔を押さえたまま、俯く。

    「……違う、そう、じゃない。
     俺は、別に、お前に謝って欲しいとか、そういうんじゃ、ない。
     俺は……俺に、とっても、他の連中と同じように」
    「ええよ。無理せんでも。
     きっとな……こんなとこに居ったら、そう言われてまうと思ってたんやわ。
     ……逆に、言うて貰えて、安心したわ」
    「悪い。……何回でも言える。
     ……何人分でも、言えるわ。フロニー」

    男は、小さく、少女の名前を呼んだ。

  • 「せやな。うちも、おんなじことうちに向かって言いたいわ。
     ……自分や、テイリスやモイリーが苦しんでたのと同じで、うちも苦しんでたんやからな。
     全部、見えとったから、ここから」
    「何だよ、それ。
     趣味悪すぎるだろ……」
    「せやんな。……何回も、何回も呪ったし、叫んだわ。
     そんでも、どうにもならん言うんが分かって、ようやく待つ言う選択肢が出てきてん。
     だから、もっぺん言ってええかな。待っとってん。ヒューイ。
     ヒューイだけやない、死にたがりの誰かさんが、もしかしたら来るかもしれへんて、思うてたから」

  • 「……何だそれ、怖いわ」
    「ふっふっふ、そして貴様は黄泉路の道連れとして選ばれてん。
     恨むなら死んだ自分の運命を恨むがええわ!!
     さあ向かおか、結婚という名の墓場へな!!」
    「死んだら治れよ馬鹿は。
     ……何年掛かるか分からないのに、ずっと待ってた筋金入りの馬鹿に掛ける言葉じゃないが」
    「おや、あんま嫌そうな顔せーへんねんな。
     死んでんねんよ、自分。もっと嫌だ!生きたい!言うて暴れるもんちゃうん」
    「……さあ。
     実感沸かないのか……かなり前からこういう覚悟をしてたのか、どっちかだろうな」

  • 男は、小さく嘆息する。

    「守る相手のいない、縛られるものの無い人殺しの末路なんて。
     ……ずっと、こんなもんだと思ってた。
     最期にお前と話せたのは、何かの間違いだろって、今でも思ってる。
     もしくは、俺が都合良く俺に見せてる、勝手に創りだした幻想か何かだろ……」

  • 「せやったらヒューイん中のうちって意外と美人やってんなー、自分で思うわ。
     でももうちょい胸あったことない? DかEくらいはあった気ぃすんねんけど」
    「……もういい。
     あんまり、そういうの続けられると、溺れそうになる。
     ……死のつかの間に見た夢にしては、救いがあったよ。幻影だろうが、感謝くらいはする。
     ……もういい、フロニー」
    「良うないよ?」

    男は、その言葉に顔を上げた。
    少女は、腕を組んで、首をひねった。
    「良う、なかったよ。
     うちは。
     せやから。
     ……きっと、ヒューイも良うないで」

  • 「俺の中のお前、捻くれ過ぎ」
    「女体も知らんと女を語んなや多分童貞」
    「人のこと言えんのか多分処女。
     だから……こういうのが、もう良いって言ってるんだが?」
    「なんで幸せにならへんの?
     どうにでもなるんに。どうにでもしたるんに」

    苛立ちを超えて、男に殺意が芽生えた。

    「お前が言える言葉じゃない」
    「うちだから言えるねん。
     そして、言うために、うちはここに居る。
     それが、ヒューイが聞いた、うちがここに居る理由や。
     ちょっと長なるけど、寝ずに聞けや。
     ヒューイがうちに言いたいこと山ほど抱えてきたように、うちかて、自分に言いたいこと山ほどあんねんぞ」

    少女のその言葉に、男は深呼吸をして、自分の中の怒りを収めた。
    丁寧に10秒数えて、怒りにお引取りを願うと、聞いてやるとばかりに仮面の少女を睨み返した。


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  • 少女は、少しだけ顎を上げると、何かを思い出すように訥々と喋り始める。

    「……幸せに、なれへんと思ってた。
     初耳かもしれへんけどな、うち、笑う以外出来へんねん。
     どんな悲しいことがあっても泣けへんし、どんなに辛いことがあっても笑顔やねん。
     後天的なモンらしいけどな。なんぞ気づいたらそうなっとった。
     まあ、やから仮面着けててんけど」
    「そっちの方が恥ずかしいとは思わなかったのか美少女」
    「恥ずかしいけど、恥ずかしいんは仮面やろ。
     素顔を気味悪がられるよりナンボかマシや思うてたんよ。
     好かれても嫌われても、それは仮面を被って演じてる人格と外見なわけやろ。
     やったら、うちはそうやってこの世界と折り合いをつけて生きていかなあかん思うててん」

  • 「……せやからな、そんな片輪、けして幸せになれへんと思うてたよ。
     普通の人間でも掴むの難しいようなそんなもん、なんで自分が掴めるねんて。
     生きているだけで他人を不快にする人間が、なんで幸せになれんねんて。
     何処行っても気味悪がられてきたから、開き直って仮面被って養成学校来るまで、ずっとそう思うてた。
     実を言うとな、多分同類を探しててんな。
     特異な環境にあれば、似たような人間も集まって来るんやないかって、そう期待してた。
     それがテイリスであって、多分ヒューイやってん。
     テイリスやヒューイが、本心でうちのことどう思うてたかは知らんけど、うちは少なくとも、同類や思うてた」

    仮面の少女は、少しだけ俯き、呟く。
    男はその言葉に肯定も否定もせずに、ただ佇んだまま耳を傾ける。

    「互いに負い目があるから、互いの距離を適正な距離に出来る。
     そんな相手やと、勝手に思うてた。
     やから、多分一緒におって気とか使ってなかったんやろな」

  • 「うちがテイリスの問題に首を突っ込んだんは、親切心なんかやない。
     ただ、あの姿にうちを重ねてただけやねん。
     もっと言う。うちより程度の酷いあの子が幸せになれたら、うちも幸せになれるんやないかって、そう思ってた。
     やから、テイリスにも、一度だけ謝っとかなあかんねんな、うち」
    「――お前が」

    その言葉に、男は言葉を挟んだ。

    「お前が、どう思ってようが。
     テイリスはお前に、感謝してて、大事なものを、もらったって、そう思ってる、だろ。
     だったら……そんな謝罪、あいつも貰っても、困るだろ」
    「痛いとこ突くなあ、ヒューイは。
     せやな。あの子が追いかけてたんは、こんな生の感情を持った人間じゃなく、あの子を導いてやれる指標やってんもんな」
    「それも……違う。
     辞めろ、バカ。気を使わない相手だったんだろ。俺に、気を使わせるな。
     お前がもしフロニーでも……フロニーを悪く言われれば、腹が立つんだよ、俺の」

  • 少女は小さく笑い、頭を下げる。

    「せやな、悪い悪い、歳取ると愚痴っぽくなんねん」
    「取ってねえだろ17歳」
    「せやったな19歳」
    「俺の胃をイジメるのを辞めろ」
    「なんか、懐かしいな、こういうの。
     まあ、んでな、よう考えてみたらな、なんでそんなこと思うてたんか、バカバカしくなったんよ。
     誰かに許してもらわんかったら幸せになれへんなんて、誰が決めたルールやねんて。
     そんなルール、最初からおかしかったんやって、そう思った」

    少女は少しだけ仮面を持ち上げると、尋ねる。

    「似たようなこと、思うてんねやろ。
     でなかったら、人殺しの末路なんて言葉、出てこーへんもんな、ヒューイ」

  • 男は少しだけ視線を逸らし、すぐに戻す。

    「思ってる。
    ……これが、相応しい末路だって、心の底から思った」
    「……せやったら、誰に許して欲しいん」

    男の脳裏に、何人かの顔が閃いて、人知れず奥歯を噛んだ。

    「私は貴方を殺しました。
     謝るから許してください、って懇願して……誰が許してくれる」
    「許して貰わんかったら、謝らんのかい。
     どうせ手に入らんかったら、最初から諦めるんかい。
     うちは……もうどうしようもなくなってから気づいてん。
     それって、ただの甘えやろ」

  • 「……うちは、甘えとったよ。
     幸せになられへんのは、最初から不幸であったからやって。
     どうしようもないことが前提にあったからって、自分では絶対手に入れられへんもんやって思って。
     やから、最後まで独りで、全部失ってから気づいたわ。
     もっと、在り来りな、何処にでもある幸福を、心の底から願っていれば、
     自分の手の中にある数少ないものを幸福って呼ぶことも出来たんやないかって」
    「それを……今度は俺に押し付けるのか。
     生前、テイリスにやっていたことを、今度は俺にってことか。
     フロニー……それは、お前が俺を知らないから言えるんだ。
     ――他人ごとだから言えるんだろ」

    少女は胸を張る。
    その男の刺のある言葉を、真正面から受け止めて。

    「他人ごとだから言うんや。
     ヒューイ、うちは自分の『他人』で良かったと思うわ。
     うちは、自分の境遇や過去、何一つ知らへんよ。
     何もかんも知らんまま、自分と出会ってたった数年を一緒におっただけの、言うてしまえば他人やからな。
     でもな、うちは、自分のことを世界で一番幸せになって欲しいと思うてる他人やっていう自負もある。
     そんくらい、勝手に想うくらいは自由やろが。
     そんで、勝手にまた背負わすよ、うちではもうどうしようもないものを、ヒューイ、自分はまだどうにかできる線上に居るからな」
  • 「……自分勝手甚だしいな」
    「知らんかったん。うちってこんな感じの美少女やで」
    「いや、いっそ清々しい程お前だよ。死んでも治らない系統の」
    「せやんな。でもまだ自分の方が上や思うで。
     ……なんで気づいてへんのかって思うんやけど。ちょっと耳済ませば聞こえるような声を。
     うちはな。
     ヒューイみたいなんは、一人じゃどうにも出来へんのやないかって、思っててん。
     うちより重症で、うちより程度が酷い自分みたいな人間を、無理やり幸福にしたるには。
     押す力と、引き止める力の、2つが要るんやないかって。
     やから、うちは、ここで、自分を押したろうと、ずっと思っててんな」

  • その声は、少しずつ男の中に大きく反響を始めていた。
    死の淵に、自分と相手しかいなかったその世界に、確かに呼ぶ声が聞こえてきている。
    彼を必要とし、彼を少女の呼んだ「ありきたりな幸福」としようとしている声が、聞こえてきていた。

    「はよ、気づけって。思うてたよ」
    「……俺は今殴られてもいい立場にいるんだと知った」
    「うちは、正直死んだほうがええと思ってる」
    「安心しろ、少なくとも今は死んでる」

    男は振り返り、その声を聞いた。

    「……そうか。
     こんなに大声で呼ばれてたのに、さっきまで気づかなかったんだな」
    「だから言うたやろが。
     ――相変わらずの間抜け面や、って」

    少女が肩を竦めると、男もそれに併せて肩を竦めた。

  • 「……なあ、ヒューイ。
     うちの夢やねん。
     化け物でも幸せになれるいう物語を見るのが。
     しかも、それを自分がお膳立てしたってなれば、多分もう成仏してまうんやないかなって思ってる。
     やから、自分勝手で、傲岸不遜な、完璧美少女のうちは言うわ。
     うちが許すから、幸せになれ」

    男は、仮面の少女の方を向く。

    「なんだそれ。
     ……命令か?」
    「告白やな」
    「お断りします」
    「フラグ立ってなかったか。リセットしたろかな」
    「二度と電源入らなくなるから辞めてください。
     ……それで、お前はいいのか。
     ……こんなこと聞くのは、卑怯かもしれないが」
    「ええんちゃうん。
     正直な、うちが、うちと一緒に贖罪のために死んでって言うたら、自分喜んで死ぬやろ。
     そんなん、なんか腹立つねんな。それよりは、自分らが苦しんで苦しんで、その果てに見つけた幸せ見る方が、
     ……なんか、楽しいやん」
    「……ドSめ」

    男が肩を竦めると、今度はそれに併せて少女が肩を竦めた。
  • 「例えばそんな『もしも』が存在出来てたら。
     そう思えるだけで、うちは充分やわ」

    少女は、小さくそう呟くと、一歩だけ男と距離を置いた。
    それは、誰の目から見ても明らかな、境界線を跨ぐ一歩だった。

    「……俺は、本当は……お前と居るのも気楽で、
     それだって、身の丈に余るくらいの幸福だって、ずっと思ってた」
    「せやな。まあ、同じような気分やったよ。
     自分やピピちゃんたちと話してたときのうちが、一番うちらしかった」
    「……なんでお前は。
     そうなんだ」
    「さあ。
     きっと、そうだから、うちやったんやろ」

    男の胸の中で、罪悪感が形となり、声となって外側に出る。
    それは、涙という形を取らずに外側に吹き出てきた、確かな感情だった。


  • 「フロニー。
     ごめん。
     ……俺は、生きたい」
    「あはは。
     よう、言えたな」



  • 二人の間に、明確な距離を以って、男は少女に、少女は男に向けて語りかけた。

    「教室でお前と過ごす日々に、安らぎがあった。
     もしかしたらあれは、確かな想いだったかもしれない。
     でも、もしそうだったとしても、俺の中でそれが形になる前に……お前は消えてしまった。
     お前が居なくなって、何もかも手遅れになってから、ずっと悔やんでたよ。
     でも、それすらも、偶像化したお前なんじゃないかって思って、苦しんでた。今俺の前に立つお前ですら、本人であるなんて、俺には言い切れない」

    「実はうちも好きやったよ。
     一緒におって楽しかった、それが想いの全部や。
     でも、それがうちとしての本心やとしても、もううちでは幸せにしてやられへんねん。
     自分の中で偶像として形作られた何かは美しいかもしれへんけど、偶像は手なんて伸ばしてくれへんねんな。
     ……ずっと、ここから見よったけど、好きやから幸せになって欲しい言う、単純な好意の形で以って、言うわ」

  • 男は。
    ヒューイ・アンソニー・ジングラは、
    少女に背を向けて、声のする方へと、一歩踏み出し、言った。

    少女は。
    フロニー・フィラシオは、
    その背中に向けて、自分の仮面を片手でずらし、言った。
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    「――だから、ごめんフロニー。
     もしかしたら、愛していた人。

     もしもの話には、ならなかった。俺は生きるよ、この声と」

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    「――だから、ありがとうヒューイ。
     もしかしたら、愛せた人。

    ふたりとも、今度会うときは、ちゃんと満面の笑顔で迎えたるからな」
  •  
  •  
  • とても。
    とてもとても幸せやったよ。

    ありがとうな。
  • 命が終えるまでの数秒間。
    少しだけ残された私のロスタイム。
    腹部からあふれ出る赤も、もう見えないし、
    化物の息遣いも、もう聞こえない。
    私の中にだけある閉じた世界の中で、少しだけ私の話をしよう。 -- 2011-07-14 (木) 19:18:35
    • テイリスに問うた何故は、自分にも返ってくる。
      何故、自分はこんなにも人の中にいることを求めたのか。
      自身の異質さを認めていながら、どうして孤独に身を潜めていることを選ばなかったのか。
      仮面を被って、道化と笑われる道を選んだのか。 -- 2011-07-14 (木) 19:20:43
      • きっと、そこにあったのは寂しさとか、孤独感のような弱い感情ではなく。
        きっと私は、誰かに強く愛されたかったんだと思う。

        褒めてもらえたのだ。
        笑顔でいれば。
        微笑んでいれば、最初は褒めてもらえた。
        ……愛してもらえたんよ。 -- 2011-07-14 (木) 19:21:54
      • ……笑顔をくれたのだ。
        微笑んでいれば、微笑が返ってきた。
        笑っていれば、みんな笑ってくれると思っていた。
        ……いい子にしていれば、愛してもらえると信じていたのだ。
        今にして思えばそんな呪いの縛鎖の中にいながら、その縛鎖を檻にして人との壁を作っていた自分は、
        とても滑稽だったと思う。 -- 2011-07-14 (木) 19:26:57

      • ……そうか。
        うちは、笑いたかったんやなくて。
        誰かに笑ってて欲しかってんな。
        いや……
        それも……ちょい、違うか。

        (小さく息を吐く。涙が零れた)
        (悲しみでなく、おそらく幸福で) -- 2011-07-14 (木) 19:28:58
      • (天を仰ぐ。ずっと探していたものが、見つかった気がしてもう見えない目頭が熱い)
        うちは。
        きっと、笑うてくれる家族が欲しかったんや……。
        うちが本当に欲しかったものは……。
        同じ屋根の下でうちとおっても笑顔でいてくれる誰かと……幸福に暮らすことやったんや……。

        だとしたら。
        うちは。 -- 2011-07-14 (木) 19:31:12
      • (思考は、ここで途切れる)
        (最期に何を思ったのかは、きっともう、誰も知ることはない)
        (物語にするには余りに小さい最期に見つけた幸福を、小さな手のひらから零すまいとした少女の生涯は、静かに幕を下ろした) -- 2011-07-14 (木) 19:34:18
  • 「フロニーちゃんは、お母さんが死んでも泣かなくていい子ね」
    最初の呪文はそれだったように思う。

    別段不幸な境遇に育ったつもりはない。
    母は早くに夭逝していたけれど、父は健在だったし、私に愛情を注いでくれた。
    不在がちな父によって孤独に晒されないよう親戚の小母さんはたびたび私の世話を焼いてくれたし、
    きっともっと辛い境遇の人から見れば、なんと恵まれた子供時代なんだろうと、そういう感想が出てくるだろう。 -- 2011-07-13 (水) 03:33:13
    • ただ、子供ながらにして母親がいないという境遇は人から見れば同情に値し、
      賢しかった自分はそれを理解していたから、努めて笑顔でいようとは思っていた。
      そうすれば周りの人も笑顔を返してくれる、全てが上手くいく。
      それが小さな私が小さな世界を守るために編み出した、最初の処世術だった。 -- 2011-07-13 (水) 03:35:39
      • その処世術が頓挫したのは父が死んだときだった。
        傭兵だった父の仕事は理解していたし、いつかはそういうことが起こることも理解はできていた。
        あまり顔をあわせることがなかった父親だったため、大きな悲しみが胸を打つことなく、
        ただ娘にあまり合えなかった父のことを思うと、少しだけ哀れむくらいには私の内心は育っていた。

        だから泣くほどの辛さはなかったけれど、
        それでも、私は笑うほどの余裕はなかったはずだった。
        人並みに、悲しんではいたのだから。 -- 2011-07-13 (水) 03:38:20
      • 「貴方……どうして笑っているの?」

        小母にそう尋ねられ、私は首をかしげた。
        笑っているつもりはなかったのだ。
        自分の顔に手を触れるが、手で触れてどんな顔をしているか分かれというのは、酷な話ではないか。

        「貴方のお父さんが、死んだのよ……?」
        理解している。それに、悲しんでもいる。
        でもそれは、伝わらなかった。言葉にしても、感情にしても。

        悪罵と共に頬を叩かれ、葬式を追い出され、後ろ指を指されながら雨に降られたところで、
        自分が決定的に人間として壊れていることに気づいた。
        溜まり始めた水溜りに写る自分の顔だけが……まだ笑っていた。 -- 2011-07-13 (水) 03:42:31
      • 長年受けた賞賛という呪いによって、自分の顔が微笑み以外の形を表現できなくなっていたと気づいたのは、その翌日だった。
        腫れた頬を水で洗い、鏡を見た自分がまだ笑っていたことに気づいたときは、それはそれは戦慄したものだ。

        以来、自分の部屋にはけして顔全体を見ることができる鏡を置かないことにしている。 -- 2011-07-13 (水) 03:45:59
      • 小母は翌日に頭を下げて謝罪をしてきた。
        いわゆる土下座というやつで、笑えることに本気で謝罪をしているようだった。
        感情が高ぶってしまい、つい叩いてしまった、許してほしい。そんなことを言っていたように思えるが、詳しくは覚えていない。
        その謝罪の奥に見える「敵愾心」「優越感」「憐憫」その三つの感情が、嫌というほど伝わってきたから。
        皮肉なものだ、こっちの感情は伝わらないのに、相手の感情ばかり伝わってくるなんて、と私は内心で思った。

        翌日には家を出た。小母は一度引き止めはしたものの、二度目はそれを承諾した。
        少女の姿をした化物を外に追い出すための、世間体との折衝だと思うと、少し笑えた。

        ただ、今思えば、きっとひねくれていたのは私の内心で、彼女は本当はいい人だったのではないかと思う。
        だが、そのとき覚えた私の感情も一つの真実であるとするなら、私は百回人生があったとしても、百回とも家を出ていただろうとも思う。 -- 2011-07-13 (水) 03:52:33
      • 私は家を借りた。
        寝泊りしていた施設から小母の名義を借りたいと文書で送ると、返事は印鑑の押された書類で帰ってきた。
        それから数年、何度も何度も「表情を変えようとする」なんていう訓練を続けた。
        結果は見ての通り。私の表情筋はおそらく精神をストッパーとして、一切の動きを止めていた。

        生活をしなくてはならない。日雇いの労働先を探した。
        もちろんそこでも人間関係は生じる。懇意にしてくれた人もいる。
        ただ、一ヶ月過ぎ、二ヶ月過ぎると必ず全員が私に近寄ろうとはしなくなった。
        常に、何があっても、相手がどんな状況であろうと笑っている少女が、正しく理解されるなんて夢物語は、どこにもなかったからだ。 -- フロニー 2011-07-13 (水) 03:57:46
      • 化粧を始めたのもこのころだった。
        感情が表に出ない分、それが不自然に見えないような化粧はないかと模索を始めたのが発端だった。
        結果化粧の腕は上達し、表情筋に関する知識から、エンバーミングという道に出会うことになるまでそう時間はかからなかった。

        死体の顔を復元する。後ろ指を指されるような仕事ではあったが、
        それは私にとって唯一、他人の表情筋を見ることができる機会だった。
        最悪な暗い感情を引き連れて、私はその道へと自分を進めていった。 -- 2011-07-13 (水) 04:01:20
      • そして私は冒険者として登録が許される、15という歳を迎える。
        父は冒険者上がりの傭兵だった。
        その道に進むことに躊躇いはなかったが、丁度そのとき新設の冒険者養成学校が開校するという情報を耳にした。

        私は、学生の経験がない。
        年上が理解できないものを、同級の友達が理解できるはずがないと、諦めていたからだ。 -- 2011-07-13 (水) 04:03:03
      • 私は仮面を被ることにした。きっと、徐々に離れていかれるよりは、誰も近寄れないくらい近寄りがたいほうが傷つかないでいいに決まってる。
        疎まれ、謗られ、バカにされれば……それを覚悟していれば、傷つかずに済む。
        道化になろう。
        泣いていても笑顔の化粧で分からない、クラウンになろう。

        私は仮面を被ることにした。 -- 2011-07-13 (水) 04:05:56

      • 未だ、その仮面は剥がれていない。

Last-modified: 2013-07-06 Sat 06:48:50 JST (3940d)