プロローグ

黄金暦92年8月


その日の月は白く、街に散らばるランプの灯に負けぬほど明るかった。

一人の男が、夜更けの街を歩いている。
黒革のコートに身を包み、全身を闇に溶かして、人気のない裏通りを進み行く。
彼はその日の仕事を終え、仕事場であり生活の場でもある事務所へと帰ろうとしていた。

調査屋としてこの街で生活を始めてから、2年近く。
街中を練り歩いたために、地理はほぼ把握することができた。

人の生き死に、人生の在り処。
この街のどんなつまらぬところにも、息遣いの聞こえぬ場所はなかった。
小さくも確かに萌え咲く充足が、男の奥底に根を下ろしていた。

(…2年…か…)

様々な顔…出会い、生きる姿を見つめた表情が闇を照らす。
くわえたタバコから小さな火花が飛び、冷たい路石へ落ちた。

ふと、静かな路地を踏む靴音が止まる。
男の脳裏から、物思いが消えていく。

(…何だ…?)

虫の羽音ほどの物音に、男は気付いた。
ゆっくりと視線を辺りへ巡らすが、猫一匹の姿もない。

そこへ、またかすかに届く音。
それは吼え声のように、低く尾を引いて消えていく。

(…犬か…?…いや…気配はない…)

また、音が聞こえる。
音が耳に届くたび、段々とその響きが大きくなる。

男は息を殺し、コートの袖から右手を覗かせる。
その肌の色が、夜の闇に同化していく。
黒く染まった手のひらから、5本の蔓が伸び、宙へ漂う。
それらは海底の草のように、ふらふらと揺れながら身をよじる。

蔓が捉える感覚の波が、彼の右腕を伝わる。
音、風、温度、魂の灯火。
彼の右手から伸びる蔓は、さながらむき出しにされた感覚器として、物音の主を探った。

(…遠いな…)

捉えた音の源が街の中にあるのは確かだが、正確な位置がわからないほどに遠く離れていた。

(……獣…?)

低い唸りの混じった、彼方の吼え声。
それは、野良犬のものではない。
激情の迸りを残した、狼に似た咆哮の残響だった。

男は紫煙を吐き、右手をコートに収める。
すると、宙を漂っていた蔓が力を失い、闇に溶けて消えた。

獣じみた咆哮はすでに止んでいる。
再び裏通りは静まり返った。
だが、彼の胸には未だ咆哮の残響が、言いようの知れぬ予感とともに燻っていた。

この街に生きる者たちの姿を見届けるために、彼はこの街へ帰った。
その行き着く先は、彼自身にも未だ見えそうにない。

紫煙を吐き、靴音のリズムに身を任せ、彼は再び歩き出す。
月が血と宿命の気配をその光の裏に隠し、街を見下ろしていた。