「はっ、はっ、はあっ…はっ」

息を切らし、夕暮れの街をひた走る小さな影。
その端正な顔立ちを見知る者であれば、群雲の一座のルージィという少年だ、と、すぐに思い出しそして驚くだろう。
普段の明るい表情から想像も出来ないほど曇り、今にも泣き出しそうなそれを目の当たりにするのだから。

そんな周囲の様子など目に入らないままに、ただひたすら走る。
町はずれにある古ぼけた旅籠、それが目指す場所だった。

大きな道から狭い路地を抜け少し開けた場所、何度も足を運んだ、見慣れは景色が目に映る。
夕日を背に受け黒い影を纏う建物の姿は、少年の心を代弁するかのごとく不吉で禍々しく見えたに違いない。

それでも、少年は足を止めないまま扉を押し開け、転がるようにエントランスへと入り込む。
同時に来訪者を告げる鈴が荒々しく音を立てた。

「っく、はぁー、ふー」

暴れる心臓を押さえつけるかのように状態を屈めると、両手を膝にあて、体が求めるままに何度も息を吐く。

いつもなら、いつもなら、小さい妖精が天井裏から顔をのぞかせ、そして嬉しそうな笑顔で出迎えてくれるはず。
しかし待ってもその気配が感じられない、その現実が少年の胸を締め上げた。

「…ソーニちゃん!」

呼吸を整え、ここまで会いに来た相手の名を呼ぶ。
だが少年の期待はことごとく裏切られる。
そして虹裏亭で聞いたあの言葉が、また脳裏をかすめるのだ。

「…戻っておらんよ」

「!」

はっとしてその声の主に向き直る。
幻聴ではなかった、聞きたくないそれをまたも聞かされた。
それも、あの子の事を引き取って世話していた、あの子がとっても感謝しているって言っていた人に。

怒りとも悔しさとも悲しみとも取れないごちゃ混ぜの顔をして

「…僕、探してきます!」

大きな声と荒々しい鈴の音をその場に残し、少年は宿の主人に背を向け、再び夕暮れの中に飛び出して行った。



あれから何度、夜の帳が下りたんだろうか。
あれから何度、声を枯らし、足を棒にし、擦り傷だらけにして、そして探し疲れて眠ったのだろうか。
ふら付く足取りでその宿の扉を押し開ける。
宿の入口に響く寂しげな鈴の音、それは今の少年の心を代弁するに十分すぎた。

「うーっ…ぅう…」

天井裏への梯子、その脇に座り込むや、抑えきれない嗚咽がその口から洩れる。髪を掻き毟るたび大粒の涙が床を濡らす。
認めない認めたくない、でも現実はどうだ。あれだけ探してもどこに見えない、あれだけ呼んでもあの声は返ってこない。
心がギシギシと悲鳴をあげ今にも折れてしまいそうだ。いや、もう、壊れた方が、楽なのかも

「飲むかね?」

唐突に掛けられた声、そして甘いミルクの匂いに少年は呆けたような顔を上げる。
湯気を上げるカップを半ば強引に渡され、手のひらに感じる暖かさに誘われるように一口。
そのまま、ごくりと喉に流し込むと

「…ふぁ」

自然に安堵の吐息が漏れた。
もう一口、もう一口…
体の求めに応じるままに、それを綺麗に飲み干し、大きく息を吐く。
そこにもう一つ同じものが差し出されると、遠慮がちに、しかし正直にそれを受け取り

「ありがとう、おじさん…」

宿の主人を見上げ、そう素直な言葉を出す。

「落ち着いたようだの」

宿の主人は柔らかな笑顔でそれに応え、暖炉の前のソファーに座るように目くばせをする。
気遣いに感謝しつつソファーに体を預けると、ちょうど真向かいにある三つの小さな寝顔が目に入った。

「あれはソーニちゃんの…」

友達の妖精だと言うのはすぐに分った。
そして彼女たちも友達の帰りをずーっと待っているのだと気付く。

「諦めずあの子を待っているのは、ルージィ君だけではない、という事じゃよ」

その言葉と一緒に毛布を手渡される。
だけではない、との言葉が差すのは何も自分と妖精たちに限らない。
おにいちゃんもそうだし、心配してここの宿に来てくれた人が全てそうなんだろう。

少し温くなった蜂蜜入りミルクをくーっと飲み干すと、それを一番待ち望んでいるであろう人の姿を見る。
いつも通り変わらぬ優しい表情を返され、少年の表情も緩む。

(大丈夫、僕はまだ頑張れるよソーニちゃん)

そう自分を励まし、急速に訪れた睡魔に誘われる様に深い眠りへと落ちて行った。



ふわふわとした浮遊感、そしてあらゆる枷から解き放たれたような開放感。
どこまでも静かで、どこまでも穏やかな世界。

意識がぼやけ薄らぎ拡散していくような感覚
恐怖はなく、まるで母親に抱かれるような安らぎ

このままぬるま湯の様なまどろみの中に溶けてしまいたい、そう思える場所に一つの異物があった。

それは悲しみと恐れにまみれた小さな影。
帰りたいと泣きながら、誰かの名前を叫びながら、このまま消えてしまう事を恐れながら、彷徨う。
だがそれも時間の問題だろう、いずれは静けさに呑まれ平穏の中に淘汰され消えてゆく。それだけの存在。

それが当たり前の世界、摩耗した心を癒すのに必要な事。

(りりぃ…きっど…てゅれー…しょぼー…まりあ…)

だが深い眠りの中に訪れた少年はその影が気になった。

(…ぐれーずどー…ちるの…あいー…せれすー…びーん…)

助けを呼ぶように、その存在を求めるように

(りーま、ふぃえー…まっしゅ…えにー…まっどー…)

ただただ名前を呼び、探し続けるその小さな姿

(くれい…せしる…あちょー…さーん…とびぃ…)

どこかで聞いた懐かしい

(えりるー…すとふぅ…うぃるー…じゅーん…もこぉー)

どこかで見た、思い出さなくちゃいけない気がする

(…めありー…みやぁ…あぽろ…よーむー…おねーさん…)

うん、そうだ、いつも僕を笑顔にさせてくれた

(とまと…さくらいー…めーりん…るすと…ぼろんー…)

僕の大切な、大切な…!

(る…ぃ、るーじぃ…!)

(……!……!)

声を大にして名前を叫んだ。それが音として感じられない。
目で探そうとするも、見えているのか見えていないのかすら分らない。
それでも、その気配を逃すまいと懸命に追う。方法なんて知らない。
ただ近くに近くに、そう思い続けた。

不意に、空色の髪をした妖精の驚いた顔が脳裏に浮かび、何かを掴み取ろうと懸命に右手を伸ばす。

その指に、小さい手が



「ソーニちゃん!」

毛布を跳ね除け起き上がる。
薄暗く肌寒いそこは、眠る前にいた古ぼけた宿の見慣れた場所。

(夢…かぁ)

心の中でそう呟くと、ほんの一瞬小さな手に触れたはずの右手を眺める。
その愛おしい感触がまだ残っている気がすした、でもきっとそれも錯覚。
夢のようにすぐに消えてしまう、今だけの儚いぬくもりなんだろう。

ふと、手の向こうにある窓から、ちらちらと白い何かが見えた。
雪だろうか、どうりで寒い訳だと思う。
右手を左手で包むように合わせたのは、それを少しでも長く感じていたいという無意識の行動なのだろう。

「あれ…」

何気なく自分の手を見て思わず声が出た。
雪だと思った白い何かは、そこを目指すかのように舞い落ちてくる。

(なんだろう、これ…)

指で触っても冷たさも何も感じられない。掬おうとしても手をすり抜け消えていく。
不思議な事に、その白く光るものは次第に増えていくようだ。
どこから?そう考えたとき、夢の中で触れ合った感じがまだ消えていない事に気づいた。
消えていないどころか、何かに誰かに、触れている触れられている感触、それが間違いなくある。

自然と手の平を上向きに揃えていた。その光をこぼさないように、大事なものを受け取るかのように。
それが次第に形を成し、色を帯び、手に懐かしい温もりと重さが、少しずつ、少しずつ。

「あ、あ…」

腰が抜けたかのようにぺたんと座り込む、足ががくがくして力がはいらなかった。

あの日から、望んで、望んで、望んで得られなかった大切な存在。
それが今、手の中にある。
右手の人差し指を掴んで離さないまま、ついさっき見た夢そのままに。

「は…あ…」

何か言おうとして言葉が出ないまま、これが現実であることを確かめるように、そっと妖精の空色の髪に触れた。
柔らかく懐かしい、もう何年も触っていないような錯覚すら覚える感触、
そして、手のひらから感じられる温もりと脈動に心が満たされ、溢れた。
堰を切ったようにぼろぼろと温かい涙がこぼれる。
それを拭おうともせず、そっと両手を胸に抱き

「おかえり、ソーニちゃん…」

震える声で、はっきりと愛おしいその名前を紡ぐ。

どんな物より大切だと思った小さなぬくもりをその胸に感じ、雪舞う聖夜は更けていく。