──夕暮れ時、以前は幽霊屋敷と呼ばれた場所。
黒塗りの窓は透明の物に変えられ、暗いイメージだった外壁は亜麻色に塗り変えられた
「これくらいでしょうか」
日課である掃除を終えて見違えるほど変わった屋敷
額の汗を拭う漆黒の衣を身に纏った女性。こう言う時は少し制服が窮屈に感じる
廊下の窓を開けて換気をする。冷たい風が頬を掠め落ち着きを取り戻す
いつまでも長い雨の季節を越えて少し肌寒い冬の季節が到来しようとしていた
隣の部屋から声が聞こえた。少し眠そうな声
「ビスダ、お腹空いたんだけど」
絵具塗れのエプロン姿の少女。趣味である芸術、絵画や彫刻などの制作作業の時はいつもこの姿だ
「はいはい、今ご用意しますね」
早速厨房に向かう。ケープを脱ぎ、手袋を外しエプロンと三角巾を身に着ける
「えっと……今日は」
以前の事件も終わり、最近はとても穏やかな生活が続いている。訓練や警護の仕事から解放され
今ではこの屋敷にてお嬢様……シルヴァラ・リベロンの従者をしている
住み慣れた屋敷を飛び出し、ビスダを連れてここまで来たのだ
ビスダはシルヴァラに以前の屋敷の者にはこの事は内緒にしてくれと命令されていた
勿論その点に抜かりは無かった。屋敷の者には充分釘を刺しておいた
そして奥様と旦那様……シルヴァラの父と母
リベロンカンパニーの代表取締役社長、ゴルドゥーム・リベロン
同じく副社長、ブローヴァ・リベロン
今は別々の土地で営業をしている二人にも
"お嬢様は学習旅行で暇を頂いております"と手紙を出しておいた
……しかし、さすがは旦那様と奥様。速達で返事が届き
「家出でしょ? 良いんじゃないかしら、社会勉強にもなるし」
「家出だろうな。良いんじゃないか。その間の護衛は頼むぞ」
と、口を合わせて送り出してくださった……と言うか押しつけられた?
だが、この生活も悪くないと料理本を開きながらビスダは思った

自分を拾ってくれた主、ゴルドゥーム様。居場所をくれたブローヴァ様
双方の役に立てる機会等滅多に無い。無論シルヴァラお嬢様のお役にも立ちたい

最近お嬢様の様子がおかしい。普段はアトリエに居るのだがいつにも増して籠りっきりなのだ
以前、旅の道中で吐血された事がある。本人は良くあることだと言っていたが心配だ
体が弱いのは知っている。まるで雪の様に白い肌と髪、色素の抜けた赤い瞳
先天性色素欠乏症。所謂アルビノである。元々病弱ではあったが長旅の疲れが災いしたのだろう
しかし……吐血まで行くと不安である。そこまでしてこの生活は必要か?
今すぐ医者にでも連れて行った方がいいのではないだろうか
自分は間違った事をしているのではないだろうか、今ならまだ間に合うのではないだろうか
迫りくる不安と戦いつつも、ビスダは今の生活を否定できないで居た
今はお嬢様の好きにさせてあげようと思う。狭苦しい生活、幼い頃から体が弱く外にも遊びに行けない
そんなお嬢様がせっかく自由になれたのだから。今の時間を大切にしたい
夕食の調理をしながら、ビスダは今晩は体力のつくメニューに取り掛かる事にした

「今ちょっと手が離せないから。廊下にそのまま置いておいて頂戴」
地下階──薄暗く湿った空気は相変わらずだ。勿論体にもあまり良い環境とは言えないだろう
そこに籠りっきりのシルヴァラ。カートに乗った夕食が寂しげにそこにあった
「お嬢様。少しお休みになられてはいかがでしょう?」
「デザートもご用意してありますよ。良ければ紅茶でも飲まれて一息つかれては」
「五月蠅いわね、今良い所なのだから少し黙ってて」
「ですが……お休みを取られずにずっと作業しているのは存じ上げております」
「これ以上は危険ですよ。休養を取らなければまた倒れてしまいます……」
「五月蠅いと言ったのが聞こえないのかしら? 用が済んだら早く次の仕事をなさい」
「……了解いたしました」

聞く耳持たなかった。だがこのままで良いはずが無い
年齢から言えば自分で体調管理も出来ないはずの子供のはずだ
今屋敷にはお嬢様を除いて自分一人しか居ない。多少嫌われても無理矢理休ませる他ないだろう
また別の部屋を掃除してから再度地下のアトリエ前まで足を伸ばした

「失礼致します」
「今度は何?」
「ベッドのご用意が出来ました。そろそろお休みになられては……」
「まだ寝ないって言ってるでしょ、いい加減にして。わた……」
どすん。床を叩く大きな音、恐らくは──
「お嬢様!?」
慌ててドアを開く、床には血溜まりが広がろうとしていた
急いで駆け寄り身を起こす。こんな時どうすれば良い。人命救助の心得を思い出す
ただの貧血らしい、無理も無い。そこら中に吐血した跡がある。こんな場所で一体何をしていたのか……
今はそれよりも看病だ。ビスダは倒れないと眠ることすらしないこの頑固者をどう宥めようか迷っていた
どれくらい時間が経ったろうか。きっともう真夜中だろう
「ここは……?」
力無い声で天井を眺めて、シルヴァラはベッドの上でそう呟いて目を覚ました
「お嬢様……余り無理を為さらないでください。お身体に障ります、唯でさえ元々丈夫では無い方ですし……」
言葉を選びながら宥めようとしたが一言で制止させられた
「黙りなさい。私のやる事にまで口を出して貰いたくは無いわ」
「しかし、お身体を壊されては元も子もありませんよ。お願いです、暫くお休みになってください」
「ええ、休むわ。この作業が終わったらね」
「……お嬢様!」
思わずビスダは声を荒げてしまった。シルヴァラが少し驚いて身を震わせた
「何よ。主の娘である私に口答えする気? 私が大丈夫と言ったら大丈夫なの。
 何様のつもり? これ以上口出しするようなら……」
「……いいえ、口出しさせて頂きます。また倒れられたら困りますので」
「……そう、じゃあ出て行きなさい」
「はい?」
ビスダは耳を疑った。思わず聞き返す程度には驚いた
「一日休暇を出すと言ったのよ。だからその間屋敷から出て行きなさい」
シルヴァラの表情は真剣だ。どう見ても冗談ではなさそうであった
「こ、困ります。お嬢様のお傍にお仕えするのが私の仕事であって……」
「……そう、仕事ね」
シルヴァラは少しだけ寂しそうな表情をした
「それじゃあ休むのも仕事よ。とにかくすぐ出て行きなさい」
「あの……ご機嫌を損ねさせてしまったのなら謝ります。ですので……」
「良いから出て行く、荷物をまとめなさい。近くの宿屋に泊るくらいの給料なら渡したでしょ」
そのまま背中を押されてビスダは外に放り出されてしまった
「お嬢様!? 開けて下さい!」
何度か扉を叩いてみるが虚しくその音が木霊するだけだった
「参ったな……」
辺りを見回す。辺りは静まり返って薄暗く、午前中には庭の手入れで草を刈ったので青い香りがどこまでも広がっていた
現在真夜中、これからどうしようかビスダは考える他無かった
……冷たく湿った風がこれからの天候が荒れる事をビスダに教えていた

あれから何時間経っただろうか。そろそろ辺りに陽が昇り始めていた
ビスダは雨の中ただひたすらに門の前に立ち尽くしていた
泊まる場所が無い訳じゃない。ただただシルヴァラ……お嬢様の事が心配なのであった
自分はあまり口の上手い方では無い。シルヴァラの機嫌を損ねさせたのもそれが原因なのだろう
それならば謝るまで。ついでに屋敷に不審な者が現れないか警護しておこう

ぴしゃり。
窓が動く音がした
「朝早いのね……。泊まれと言ったのだけれど、どうしてそこに居るの?」
ずぶ濡れのままビスダは問いかける
「お嬢様! お話したい事が……」
「……私は無いわ。忙しいの。あと一日暇を出すわ、それまで絶対に屋敷には入らないで。入ったらクビよ」
「お嬢様……私は……」
「良いからご飯でも食べてきなさい。空腹で倒れるわよ。」
ぴしゃり。
今度は窓が閉じる音
どこまでも冷たい朝の空気と静寂がビスダの身体を突き刺した
「何も食べていないのはお嬢様の方じゃないのか……」
身を刺す寒さよりも何よりもシルヴァラの体が心配だった
今度中に入ったらクビ、つまり此処から出て行けと言う事。ビスダには戻る場所等無い
だからこそこの命令に背く事は出来ない、だがこのままでは……
どうすれば良いか暫く思案していた、その時……

──遠くでまた床を叩く音が聞こえた気がした
「まさか……お嬢様!?」
命令に背いても構わない。お嬢様の命を最優先する、そんな簡単な事も分からなかった自分は従者失格だ
ドアには鍵はかかっていなかった。音のした方角へ一目散に駆けて行く
「お嬢様!」
一階にある一室。シルヴァラはそこにうつ伏せに倒れていた
「お嬢様……どうして……」
口元が血塗れだ。どうやら睡眠と栄養不足だったらしい。幽かな呼吸で眠っている
「ん……ぅ……」
ビスダの腕の中でうっすらと瞼を開ける、意識はまだはっきりとしておらず寝ぼけている

「ビスダ……」
「お嬢様! お気を確かに……今手当てを致しますから……」
ビスダの瞳からは後悔の涙が溢れていた
「ビスダ……た」
呼吸に合わせて聞こえる小さな言葉、ビスダはそれに気づき耳をすませた
「……誕生日……」
誕生日? ビスダは数秒首を傾げてから今日が自分の生まれたとされている日付だと言う事に気づく
ふと床に落ちている包装途中の物が視線に入った
綺麗な装飾が施されたブローチと……ビスダの肖像画だった
「お嬢……さ……」
ビスダは声を詰まらせた。どこまでが冗談でどこまでが本気か分からない
今までの行動はこれを自分に渡す為だったのだ。サプライズとしての
か細い腕で試行錯誤して自分の肖像画を描いてくれた
病弱な身体を押してまでもその作品に意気込んでいた姿を思い出す
……申し訳無くて、それとは別に嬉しくて堪らなくなった
またしてもビスダの瞳から涙が零れた。今度はシルヴァラへの感謝と忠誠を誓って

「ビスダ、お腹空いたんだけど」
食堂まで足を運ぶ。厨房からは軽快な包丁裁きの音が聞こえる
なんとかクビを免れたビスダが楽しそうに料理をしていた
「少々お待ち下さい、もうすぐ出来上がりますので」

ビスダがしているエプロンの下、ケープには綺麗な装飾が施されたブローチが輝いていた
──旦那様、奥様。もう暫くだけお嬢様の自由にさせてください