邪神大殲/たとえ永久の別れに導かれようとも

 

 

 ――遥か過去。

 ――千年の古の出来事。

 ――遠き東の国にて。

 

 

 都のはるか上空には禍々しく輝く星があった。

 昼間であるにもかかわらず、太陽の光は覆い隠され、空は常闇に染まっていた。

 かつて天照大御神が天窟屋にお隠れになったときのように、世界はまさに「常夜往く」

有様となっていた。

 終末のような雰囲気が都中に立ちこめ、貴賎問わず人々は恐怖に戦き、唖然とした様子

で空を見上げている。太陽が覆い隠され、闇に覆われた皇都の上空には凶星が浮かび上が

っていた。

 妖しく輝く星であった。とても夜空に輝く優雅な星々とは思えないほどの威圧感と存在

感をそれは放っている。まるで満月のように巨大であり、赤黒い光をそれは持っていた。

 闇に閉ざされた世界では、五月蠅なす邪悪な神々が喚き、悪行がいたるところで行われ

ている。まさしく、終末の世である。僧や陰陽師がいかなる祈祷を行っても、空にある「そ

れ」は消えることがなかった。

 太陽の光さえ覆い隠して。

 空に妖しく輝き続け。

 世界を常夜に導いた。

 再び、世界は天孫降臨以前の、禍々しき国へと戻ろうとしていた――

 

「――これが、あの星神の力か……!」

 神官のような白き浄衣を身にまとった男が地に膝を突き、空を見上げた。

 男の周囲を無数の糸の集合体のような結界が張られ、男を守護していた。魔術的な光が

結界内に満ちて、傷ついた男の体を癒していくも、その傷は深く、完全な治癒にはいたら

ない。

 糸の結界は徐々にその「編み方」を五芒星へと変え、浄衣の男の左右の手の甲へと戻っ

ていく。糸の結界は消え、男の手には魔術的な燐光を放つ五芒の星が浮かび上がった。そ

れはまさに伊勢の海女たちが身に着ける魔よけと同じものであった。

 血が流れる口元ぬぐい、男はふらふらと立ち上がる。空にはあの巨大な妖星が光り輝い

ていた。

「もうよせ惟朝! その体ではもう無理じゃ……!」

 男の懐から突如、年若い少女のような声がした。その刹那、男の懐より、一冊の分厚い

和綴じの書物が飛び出した。それは魔術的な刻印が表紙に刻まされており、煌々と光り輝

いていた。

 それは宙に浮き、ひとりでにぱらぱらと開き始め、眩い光と共に頁がばらばらとはじけ、

魔法円のようなものが書物を中心に浮かび上がり、人の形を取っていく。

 現れたのは、一人の幼い容姿の少女であった。白く輝く神に、金の瞳。あまりに白い肌

に、変形した和服を身に纏っている。およそ人ならざる気配を漂わせる少女であった。

 少女はどこか心配そうな顔をし、ここから先は行かせないとばかりに男の前に立ちふさ

がる。惟朝と呼ばれた神官風の男は口元にわずかに笑みを作り、首を横に振る。

「……駄目だ。私が都を去り、逃げ出せば都は滅ぶ。彼の邪悪にして異形のものは、日の

本を蝕み、犯していくだろう。それは、許してはならない」

「それは、そう、じゃが……! 今のお前の体で、奴に勝てると思うておるのか!? 今

は、今は耐える時じゃ! 耐えて、形勢を立て直して……!!」

「駄目だ。それは、ならない。私達倭文の者は、彼の邪悪と戦うために生まれた存在だ。

祖なる倭文神のように、私も彼の邪悪を封じなければならない……そのために、私はそな

たを編んだのだ、『倭文祭文註抄集成』……あれは放置しておけばますます力を得る。倒す

のは今しかない。わかるだろう、シトリ」

「く、ぅっっ……」

 惟朝にそう言われると、少女は二の句が継げなくなってしまう。少女の名は『倭文祭文

註抄集成』という書物に宿った化身である。シトリと呼ばれた少女を著したのは、全国に

存在する倭文部を束ねる倭文氏の一人、倭文惟朝という男。そう、今少女の目の前で言葉

を告げる男自身であった。

「じゃが……ならば、どうする。お前のその体であの神を倒せる、などと血迷うたことを

いうわけではなかろうな……!」

 このままでは男は確実に死ぬ。彼の邪悪なるものども。外つ神の瘴気に狂い、死ぬ。自

らの父とも言える存在を少女は死なせたくなかった。邪悪と戦い、国を、君を守り死ぬこ

とが男の定めであると心得ていても。

「今のお前ではあの神には勝てぬ! わきまえよ……わからぬわけではなかろう、父上ッ

……!」

 半ば悲鳴のように声を荒げてシトリは言う。こうしている間にも、外つ神の攻撃の「第

二派」が訪れるかもしれない。時間の猶予はない。「第一波」により都の半分が壊滅してし

まった。空から降る星に、人は抗う術を持たない。

 当然、この男が勝てるはずもない。

 人の身では、とても、勝てない。

 しかし、ただ一つだけ方法はあった。あの邪悪なる星を封じ、都を救う方法が。

 少女は、それを敢えて言わなかった。言えなかった。

 だが、残酷にもそれを男は口にしてしまう。血みどろになりながらも。傷つきながらも。

自らを破滅に追いやるその方法を、口にする。

「……もう一度、アマツミカボシを呼ぶ」

 そう、短く告げた。

「……〜〜ッ!! 馬鹿なッ! わかっておるのか!? もうお前の力はほとんど残って

おらぬ! そんなことを、そんなことをもう一度すれば……!!」

 シトリは拳を強く握りしめる。肩が震える。幼いその目じりには、涙さえ浮かんでいた。

「……死ぬのじゃぞッ! 父上ッ!!」

 シトリは、叫んだ。

 駄々をこねる子供のように涙を流すシトリの頬を、惟朝はそっと撫で、涙をぬぐう。

 その顔には、笑みがあった。これより死のうとする人間の顔とは思えない。

「……魔を倒して、この国の人々を守れて死ぬのならば、本望だ」

 シトリは首を横に振る。「いやじゃいやじゃ」と泣いている。この時のシトリは、惟朝に

記されて十年ほどしか経っていなかった。その身に膨大な宇宙の智慧や邪悪、外道に対す

る力を宿していても、心はまだ幼いままだった。

 そんなシトリを慈愛に満ちた目で惟朝は見つめ、その手を伸ばし、シトリを抱きしめた。

「あ……」

 父と呼ぶ男に抱きすくめられ、シトリの身の振るえはにわかに止まる。

「……すまない。シトリ。まだ幼いそなたを残して逝く私を許せ」

 惟朝は静かに告げる。

 倭文氏は、神代の時代に邪悪なる星の神、「天津甕星」を誅した……否、“懐柔”した倭

文神の子孫である。神代より、この国を守るために外つ神の眷属である邪悪な存在と戦い

続けてきた。その運命を担ってきた。そして、今後もそうあり続けなければならないもの

だ。

 シトリはそんな倭文氏の男によって著された書物だ。倭文氏が邪悪と戦うための用いる

知識や力を後世に伝えるために記されたものだ。十二分に、彼らの運命がどういうもので

あるかは知っている。シトリもまた、邪悪と戦うために編まれた書物なのだ。

 狂える詩人によって、この星に潜む邪悪について克明に記されたとある書物。魔物の咆

哮をその書名に関する異形の魔導書――『アル・アジフ』。それを和訳し、さらに日本に伝

わる秘められた神話や魔術を余すところなく記した書物。それが『倭文祭文註抄集成』で

ある。

 故に、生まれた時からそれは了解している。父が自分を手に取り邪悪と戦い始めた時か

ら知っている。

 その強烈な魔力により、自我が芽生え、シトリとして顕現した時から知っている。

 これは、定められた運命。倭文の者は邪悪と戦い、死ぬのだ。

 平穏な人生など、許されてはいない。

 シトリが惟朝と過ごした日々はわずかな時に過ぎない。そのほとんどは邪悪との戦いに

費やされた。

 それでも、それでもなお、僅かな平穏な時に、惟朝は父としてシトリに接した。いつか

滅びゆく運命であっても。自我が芽生えた己の魔導書に、シトリと名を授け、慈しんだ。

 その日々を、シトリは忘れ去ることはできない。その時はあまりに短すぎる。あまりに

短すぎた。

 もっと男と共に過ごしたい。自我が芽生えてしまった魔導書は、そう思ってしまうのだ。

 それを知っているがゆえに、惟朝は倭文に謝罪する。許しを請う。

 父として、子に。

 最大限の愛情を以て。

()んでくれ……星神……アマツミカボシを」

 涙目のシトリをまっすぐ見据えて、倭文神が封じた神の名を告げる。

「それが……私の、最後の願いだ」

 そうして、静かにシトリから身を離した。

 涙を流しながら。嗚咽しながら。それでもシトリはようやく落ち着きを取り戻して。

 立ち上がった惟朝を見上げる。涙に濡れて、泣き腫らしていても、その瞳には再び、強

い輝きが宿った。

「……いいだろう。我が父にして我が主。倭文惟朝よ。我はお前の願いを聞き入れる」

 しかし、それだけではなかった。

「じゃが、我を残して、などと言うのは許さぬ。我と父上は、もう既に一心同体じゃ。父

上が逝くならば、我も往く……良いな」

 強い意志を以て言い放つ。絶対に曲げぬという鉄のような意志である。

 それを感じ取ると、惟朝は静かに目を閉じ、唇を強く噛みしめ――

「わかった」

 とだけ、シトリに向かって言った。

「――よしっ! ならば行くぞ、我が父! 我が主! 外つ神なぞ、我らがこの国より、

世界より、追い出してくれよう! ――そして、打ち倒すのじゃ!」

 シトリと惟朝は空を見上げる。空に穴を開けたかのように輝く、邪悪なる星を。

「あの邪悪なる外つ神を……あれを呼び寄せた、安部清明を!」

 邪悪なる星の浮かぶ空に、一人の人間が浮かんでいた。禍々しき狂気の笑みを口に湛え

た男が浮かんでいた。額には第三の瞳が開き、光を放っていた。顔の半分は深い闇に侵さ

れ、その闇からは不定形の触手がいくつも蠢いていた。

 そう、空に浮かぶあの男こそが、この都を襲う災禍を引き起こしたのだ。

 

 

 後に伝説化され伝えられる陰陽師――安部清明、その人であった。

 

 

 

「……では、行くぞ。我が主」

「ああ、行こう。友に我らは、破邪の星となる」

 二人の決意は決まった。

 すでに迷いはない。

 故にこそ、再び彼らは呼び出すのだ。星の神を。

 一度はあの外つ神の攻撃を受け、倒れた星の神を。

 星を討つには星を。神を討つには神を。

 かつて天に背いた妖しき星。そして、倭文神によって言向けられた神。

 ――天津甕星を招ぶのだ。

 

 シトリが光と共に本の形状へと戻り、頁がひとりでに本より離れていき、複雑な魔法円

を描きながら、惟朝の周りを回転し始める。

 これはシトリが使う最大の術法。神を呼び出すための儀式。

 そして、惟朝は神にその願いを奉る。神への祝詞を、読みあげる――

 

大天原(おおあまのはら)神留坐(かむづまりま)す――」

 

 惟朝を中心とした魔法円が強く光りを放ち始め、虚空より糸――あるいは布――が顕現

し、漢字とも仮名とも違う文字を象っていく。

 それは神代の時代の言葉。神代文字と呼ばれるものの一つ。倭文文字であった。

 倭文の魔術の行使のために用いられる文字。それが燦然と輝く。

 その間にも惟朝の祝詞は続いていく。神の降臨を乞う祝詞を続ける。

 突如、惟朝の背後の空間が割れ、その闇の中から、何かが現れようとしていた。光り輝

く闇が、そこから這い出でようとしていた。

 それは、星。

 それは、神

 かつて天に在り、神々を恐れさせた邪悪なる星。

 そして、邪悪を討つ星となったもの。

 機械の体にその魂を封じ、外つ神を戦うもの。

 巨大な、あまりに巨大なその御姿が今、現れようとしていた。

 鋼の体を拘束するようにまとわりついている神の糸を引きちぎりながら。

 どこからともなく笙、篳篥、龍笛の音が響きわたり始める。平調調子のような音楽が鳴

り響き、神の来臨を告げていく。音が吹き荒れていく。闇の中より、それは独りでに奏さ

れている。

 そして――

 

「――悪しき神を打ち遣らへ給へと、畏み畏みも白す!!」

 

 惟朝の祝詞の終わりとともに。神の来臨を乞い、邪神を打ち倒してくれとの嘆願ととも

に、遂にそれは来た――

 機械の神、星の神、荒ぶる神。

 空に在りて天の神に背きしもの

 

 ――アマツミカボシが!

 

 空間の裂け目から現れた巨体が光となり消え、惟朝を中心にして巨大な五芒星の魔法陣

が浮かび上がり、その巨体が再構成されていく。

 遥か異国の言葉で、デウス・マキナと呼ばれるそれに惟朝は乗り込んだのだ。

 どの世界のものとも思えない特殊な機械群に囲まれながら、惟朝はアマツミカボシの操

縦席へに座っていた。同じくシトリも操縦席に乗り込み、その奇妙な機械群から伸びる舵

を握っている。

 二人は謳うように言葉を放つ。魔を討つ定めを担った者たちが、皇都の空にて叫ぶ。

 

 

星神(アマツミカボシ)

汝は大天原に浮びし神なる星

汝は天に背きしまつろわぬ星

そして、邪悪を滅ぼす力なる星

汝が在るところに荒ぶる神は無く

久遠に臥したる禍つ神の夢をも打ち砕かん

星空の果てより来たれ――

 

――神殺しの星(アマツミカボシ)

 

 

 雄々しき叫びが都の空に木霊する。

 機械の巨人、否、巨神が都に出現したのだ。

 人々は畏れを以てそれを見る。黒く光る鋼の体を見る。

 機械の神の頭上には、五芒の星が光り輝き、その星の中心には、巨大な輝く玉があった。

 これこそ天津甕星の封じられた宿魂石にして、星そのもの。

 この姿は、天津甕星という神が倭文神によって、機械の体に封じられたものなのだ。

 星神というあまりに巨大な力を持つ神の一部、それが形を伴って降臨したのだ。

「さあ、往くぞアマツミカボシ! 我が主!」

 アマツミカボシは空を天蓋のように覆う巨大な妖星を見上げる。アマツミカボシの力か

ら激しい魔力の奔流が溢れはじめる。

 

オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ!

 

 アマツミカボシが叫ぶ。大地が震え、天が揺れる。

 巨大な魔法陣がアマツミカボシの背後に現れ、一対の翼のようなものを構成していく。

「――星間を駆ける科戸神の翼よ!」

 それは巨大な鋼の翼となり、風を孕みながら、禍つ空へと羽ばたいていく。

 すると、空に浮かぶ安部清明が酷薄な笑みを強め、手を天に掲げた。禍々しい魔法円が

浮かびあがる。それは五芒星を逆さにしたようなものである。

 それと同時に、星の彼方から、いくつもの“星”が飛来し始めた。禍々しい炎を纏い、

恐るべき勢いを以て、「再び」都に降り注ごうとし始めていた。

「――第二波が来るぞ! 主!」

「わかっている! ――すべて撃ち落とす!」

 アマツミカボシの赤い三つの眼が輝き、科戸の風と共に、凄まじい速さで皇都の空を羽

ばたいていく。鋼の巨体がこうも軽々しく飛ぶ姿は現実からかけ離れていた。だが、これ

は神の戦いなのだ。あらゆる常識は通用しない。

「銀鍵招喚! あらゆる扉を開き、あらゆる時を超える鍵よ! 我が手に来たれ!」

 巧みにアマツミカボシを操りながら、惟朝が叫ぶ。アマツミカボシの右手にアラベスク

模様めいた魔法陣が現れ、その中から巨大な銀色の鍵、あるいは剣のようなものが姿を現

した。

 これこそ銀鍵。彼の銀鍵神社に祭られている神体そのものである。それがアマツミカボ

シの右手に出現した。あらゆる世界への扉を開けるとされる銀鍵を持ちながら、滅茶苦茶

な軌道を描きながら、アマツミカボシは迫りくる流星群へと飛ぶ。

「術式解放! 科戸の風(ハストゥール)!」

 シトリが叫ぶと、緑色の燐光がさらに強烈な風を巻き起こし、アマツミカボシを押し上

げていく。風の神の力が今、アマツミカボシに宿っている。

 そして、その風の勢いに載せて、アマツミカボシは空間を超える。

 アマツミカボシの姿が消えたかと思うと、迫りくる一つの流星の前で突如姿を現した。

 科戸の風の天の八重雲を吹き放つことのごとく、易々と闇なる空間を駆けて、瞬時に空

間を跳躍したのだ。

「――一つ!」

 銀鍵が振るわれる。アマツミカボシと同じ大きさほどの流星が、一気に切り裂かれ――

消滅する。その破片が地に墜ちることはない。なぜならば、星を斬った瞬間に、銀鍵によ

って流星は異空間へと飛ばされたのである。

 恐るべき神の力であった。

 次々とアマツミカボシは空間跳躍を行い、瞬時に流星の前に移動し、星を斬り、それを

虚空へと消し飛ばしていく。どれ一つとして、再び地に墜ちることはない。魔導回路が唸

りを上げて蠢き、術式の展開に必要な計算を、シトリが全て行い、魔力の続き限り、惟朝

は銀鍵を振るう。

「同じ手が何度も通じると思うな! う、ぐ、ぅぅっ……!!」

「惟朝ッ!?」

 アマツミカボシは全ての流星を異空へと斬り飛ばした。しかし、その分惟朝の魔力の消

費は激しい。傷口も開き、血反吐を吐いていく。もう瀕死と言ってもいい。アマツミカボ

シを動かせているのが奇跡といっていいほどだ。

 「もうこれ以上は」という言葉をシトリは噛み殺した。既に主も自分も、死ぬ覚悟だ。

ここで止まるわけにはいかない。まだ、あの邪悪な星は、安部清明は空に在るのだ。止ま

ってはならない。諦めてはならない。

「……時間をかけていては私の体が持たない。シトリ、一気に勝負をつけるぞ」

「応ッ!」

 背中の翼が大きく開き、さらに上空に在る安部清明向かって飛ぶ。フレアが巻き起こり、

銀鍵を構えたまま、一気に安部清明を切り裂かんと振りかぶる。あの凶星を招喚している

のは安部清明である。彼を倒せば全ては終わる。

 相手が人の体であろうと、アマツミカボシは容赦しなかった。安部清明は人の形を取っ

てはいても、魔人である。邪悪なる神の化身である。手加減などする必要は全くなかった。

「安部清明ィィィィィィッ!!」

 しかし、銀鍵が安部清明に届くことはなかった。

 彼の右手から逆五芒星の陣が発生し、銀鍵を防いだのである。

「チィッ! なんという男じゃ!」

「この男は魔人だ! だが、早々何度も持ちこたえることなどできぬはずだ! なら

ば!!」

 さらなる術式を解放し、一気にこの魔人なる陰陽師を滅ぼさんとした時だった。ニィッ、

と安部清明は非常に邪悪な笑みを浮かべた。

「待て惟朝! 何かかおかしいぞ!」

「――なっ、これは……!!」

 異様な気配を感じ取り、アマツミカボシは安部清明より離れた。刹那、安部清明を中心

に、非常に複雑な魔法陣が形成された。それは狂った幾何学により描かれ、見ただけで吐

き気を催すほどにおぞましいものだった。アマツミカボシに乗っていなければ。惟朝は発

狂していたことだろう。

 その魔方陣の輝きに呼応するがごとく、空に在る妖星が鼓動を始めた。星がますます巨

大に膨れ上がり、天を覆っていく。まるで超新星がその場にあるかのようであった。

 邪悪なる星から、名状しがたい光が放たれた。形容することのできないこの世ならざる

光。それが星の中心を割り開いていく。そして、異形の「何か」がこの宇宙に顕現しよう

としていた。

 刹那、狂気の波動が一気に都目がけて放たれた。それをまともに受けた人間は一瞬にし

て発狂し、燃え上がって消えていく。「それ」を見てしまったがために。

「なんだ、何が起きている! このままで、都が……!!」

「――そうか!」

 そのとき、シトリが叫んだ。狂気の波動を受け、苦痛にゆがんではいるものの、何かに

気づいたような表情である。

「あの空に浮かぶものは「星」ではない――あれは、「門」じゃ!」

「門、だと……!? ……そうか! 外つ神の門! 常闇の門か!」

 空に浮かぶ星は星ではなかった。それは門であった。外つ神がおわす狂気の世界。それ

に通じる空間の穴だったのだ。安部清明の目的は、この世界に外つ神を招喚することだっ

たのだ。

 あまりに恐ろしい気配が満ちていく。何か、この世に在ってはならないものが顕現しよ

うとしているのだ。

 

「天之、御中主――神」

 

 安部清明がそう呟いた瞬間、シトリと惟朝の顔は一気に蒼白になった。

「天之御中主神、じゃと……!? まさか、天之御中主神(アザトース)を招喚するつもりなのか!?」

 シトリの声は悲鳴のようであった。

 天之御中主神とは古事記の天地初発の段に登場する始原神である――無論、その神では

ない。今現れようとしているのは異空の始原神、別天之御中主神(ことあめのみなかぬしのかみ)というべき存在であった。

 白痴にして盲目。想像することさえできない異空の神の王。外つ神の主。

 それは『アル・アジフ』にさえ曖昧にしか記述されていない唯一絶対の存在。

 外つ神さえ恐れる、宇宙の破滅そのもの。

「あんなものがここに顕現すれば……都、否、否、日の本、世界そのものが瞬時に破壊さ

れてしまうぞ!」

 シトリの声には非常な焦りの色があった。惟朝もうなり声のようなうめきをあげる。

 おそらく今は、ほんの一部、身体の何億分の一が出現しただけに過ぎない。それだけで

あるのに、都はほぼ壊滅状態となっていた。生きている者がどれだけいるだろうか。たと

え完全に顕現しなくても、この星、宇宙全てを破壊するだけの力を、それは持っていた。

「どうする……どうする、惟朝!」

 泣きそうな顔でシトリは言う。その言葉に、惟朝は静かに答える。

「……シトリ、冷静になれ。まだあれは完全にこの世界に顕現はできない。星辰も完全に

揃っていない。無理やりな招喚となるわけだ。ならば、何が何でも安部清明を倒し……ア

マツミカボシで門を閉じるしかない」

 それは非常に危険な作戦であった。門に近づけば近づくほど、狂気は増し、存在そのも

のへの危機に発展していく。

 だが、そうするよりほかはなかった。元より、死出の旅である。

「わかった――地獄の果てまで共に行くぞ、父上」

 シトリも覚悟を決めた。二人の愛する国を、世界を、こんなところで終わらせるわけに

はいかないのだ。

 そして、二人の死出の旅が始まった。

 外なる世界への――

 

 

「――倭文祭文註抄集成の名のもとに命ずる。倭文神による全ての拘束を解除せよ」

 瞬間、操縦席の中が闇に閉ざされ、禍々しい気配が満ち満ちていく。

 アマツミカボシの頭上にあった五芒星が消え、頭上には妖しく輝く星のが残った。

 

オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ!

 

 バキン! と音を立てて、アマツミカボシの口が大きく開く。目が煌々と光り輝き、邪

悪な力が満ち満ちていく。

 それはアマツミカボシを無理やり、神代の時代の闇に戻す禁断の術式。半ば暴走にも近

いものである。倭文神によってこの世界の神になった天津甕星を拘束する力を全て解いて

しまうのだ。そのかわりに、外つ神そのものの力を得ることができる。

「が、あ、ああ、ああああああああっ!!」

「ぐ、ぐう、うぐうぅぅぅぅっ!!」

 電流や炎が操縦席の中で暴れまわり、シトリと惟朝の叫びが響く。

 それでもなお、二人は諦めずに、アマツミカボシの手綱を取る。アマツミカボシは暴れ

まわるものの、ついにその標的を目の前の安部清明へと向けた。

 アマツミカボシの叫び声とともに、先程は比にならぬほどの俊足で再び安部清明へと激

突していく。あの逆五芒星の魔法陣が出現するも、それを易々とアマツミカボシは突き破

り、銀鍵で安部清明を貫きながら、神速で持って、空に浮かぶ巨大な「門」へと飛翔する。

安部清明は満面の笑みを浮かべながら、銀鍵によって宇宙の果てへと飛ばされていった。

「い、ぎ、ぃいいぃぃっっ!!」

「持ちこたえろ、シトリ、アマツミカボシ! このまま別高天原に入り、門を閉じれば、

後は――!!」

 名状しがたい破壊の波動が迫り、次々とアマツミカボシの体が爆ぜていく。左手も左足

も爆裂したが、それでもなお外なる宇宙向けてアマツミカボシは飛翔していく。

 門より外つ神の一部を見てしまい、惟朝は恐ろしい吐き気に襲われるも、それに耐えき

り、全速力で門へと向かっていく。

 そして、あと少しで破滅の宇宙へと到達し、銀鍵で門を閉じんとした時である。

「――今までありがとう。シトリ。私はそなたを生み出して、本当によかったと思ってい

る」

「ふん、何をいまさら……我らは一心同体を誓ったのじゃぞ? 別れの言葉のようなもの

を吐くでない」

 シトリは不敵に笑って見せる。この先待つ運命がどのようなものであれ、父親とともに

あるのならば、何も怖くはないと思っているためだ。

「いいや――ここでお別れだ。永遠のな」

「……何?」

 シトリは怪訝な顔をした。共に戦い抜こうと誓ったはずであるのに、惟朝は奇妙なこと

を言っていた。

「……そして、すまない。そなたを、私はこれからも苦しめることになる。この先、いつ

果てぬともわからぬ戦いに、身を投じさせることとなる」

「な、何を。何を言うておるんじゃ……! それはお前と共に、じゃろ? 我らは共に、

あの別高天原に……!」

 しかし、惟朝は静かに首を横に振った。

「……それは私だけだ。あの狂気の世界で永劫に苦しむのは、私だけでいい。だから、だ

からそのかわり――」

 泣きながら、惟朝はシトリを見た。そして、最後の笑みを向ける。

「いつか、いつか――この邪悪なる神々を討ち滅ぼしてくれ。アマツミカボシと共に。お

前の主べきなるものと共に」

「……違う! 我の主は父上だけじゃ! まさか一人で往こうとしているわけではなかろ

な! そんなことは、我が――!!」

 その言葉は続かなかった。アマツミカボシが一気に消え去り、シトリの体の中へと戻っ

たのだ。

「……なっ!?」

「倭文祭文註抄集成の主なる倭文惟朝が命ずる。――常世の時計よ、現れよ」

 中空に浮きながら、惟朝は無理やりシトリの記述に介入し、ある術式を解放する。

 それは「常世の時計」と呼ばれるものである。神の時計。神が操る時間というものに干

渉できるものである。だが、そんなものは、到底人間に扱いきれるものではない。

「常世の時計じゃと!? 何を、何をして……まさかっ!?」

 目を見開いて、シトリは叫ぶ。男が何をしようとしているかわかったのだ。

「限りなく私は今、宇宙の深淵に近づいている。これならば、干渉できる。因果律に。

別常世思金神(ヨグ=ソトース)に到達し、常世の時計を以て、時を作り変えることが出来る……」

「待て! じゃがそんなことをすれば惟朝はどうなる!? 本来これは人の手には扱えぬ

神器じゃぞ!!」

「……私という存在を贄とする。私が外つ神の贄となることで、この安部清明の引き起こ

した事象そのものを……“なかったことにする”」

 常世の時計により時間を操り、その歴史自体を変えようというのであった。無論、人の

扱える代物ではない。それゆえに、外つ神に自らの身を差し出し、永遠の時の贄となるこ

とによって、宇宙の因果律そのものである別常世思金神(ヨグ=ソトース)に介入し、この都の破壊も、門の

招喚も、全てをなかったことにしようというのだった。

「やめろ、そんなことをすれば……! 死ぬことさえできなくなり、外つ神の世界で、永

劫の狂気に苦しめられることになるのじゃぞ!! 永遠に終わることのない苦痛を! 代

償を! お前が担うことになるのじゃぞ!? そんな運命があってたまるか!」

 泣き叫びながらシトリは言う。だが、惟朝は術式の行使を続ける。

 空に巨大な、そして異形の時計板が出現した。四つの針を持ち、異界の時を刻む時計が、

時を巻き戻していく。

「……都を守れなかったのは私の責任だ。このような理不尽を認めるわけにはいかない。

そして、そなたを失うわけにもいかない」

「それは、それはお前だけの責任ではないじゃろうっ! 何故じゃ! 何故じゃ!! 我

らは、共に……!! 父上ぇっ!」

「ここでそなたとアマツミカボシが消えれば、世界を守る者はいなくなる。彼の混沌の野

望を阻止する者はいなくなってしまう……すまない、シトリ。果てなき戦いにお前を投じ

てしまうことに、なるが……」

 世界の書き換えが始まった。因果律に惟朝が介入し、都を襲った理不尽という現実を、

作り変えていく。破壊された都が蘇り始め、発狂し、死した人間たちも蘇っていく。

 そのかわりに、惟朝へと、あまりにおぞましい触手が迫る。彼の四肢を拘束し、首を絞

めながら、外つ神の宇宙へと連れて行こうとする。

「ま、待てぇっ!」

 シトリはそれを阻止しようとするも、体が動かない。時が巻戻ろうとしているのだ。

「いつか、かならず、この、理不尽達を。邪悪なる、神々を、ほふ、り……」

 すでに惟朝は発狂しかけていた――いや、違う。発狂しかけてはいたものの、発狂でき

ないでいた。神の贄となるために、永遠の正気を運命づけられたのだ。狂うこともできず、

未来永劫、神々に弄ばれることとなるのだ。

「……今、ここに、私と、そなたの契約を、破棄、する……」

「待て、待ってくれ! 惟朝! 我は、我は、もっと、もっと……!!」

 二人の繋がりが今、断たれた。この瞬間、惟朝はシトリの主ではなくなったのだ。

「世界を……たの、ん、だ、ぞ……」

 そうして、惟朝は触手に飲まれ、門の向こう側へと消えていった。その門も、時が巻き

戻り、消えていき……あの狂気の事件は、跡形もなく、消えた。

 

「父上ぇええええええええええっ!!!!」

 

 シトリは泣き叫びながら、父を呼んだ。その体は落ちていく。見事復活した都へと落ち

ていく。

 惟朝が自らを永久の神の贄にしたために、惟朝は無限の苦しみを受け続けることになる。

それにより、都の破滅は失われた。倭文惟朝という人間のことは人々の記憶にはほとんど

残らなくなり、何をした人間なのかもわからなくなっていく。

 ただ、その男をはっきりと覚えているのは、シトリのみとなった。宇宙より、その存在

のほぼすべてを、惟朝は削り取られてしまった。

 邪悪なる神と戦うためにシトリを著した男は、消えたのだった。

 歴史は改変される。安部清明が邪悪な陰陽師であったという歴史は消えた。彼は伝説的

な陰陽師として名を残すこととなった。この惨劇も、全てはなかったこととなった。

 だがしかし、シトリは、シトリだけは、それを覚えている。忘れなどしない。永遠に、

永遠に忘れることはないだろう。涙を流しながら、シトリは己の魂に誓った。

「……わかった。我が父……我は、戦い続ける。たとえどんな絶望に苛まれても、どんな

苦しみに襲われても……主を見つけ、あの邪悪どもと戦い続ける」

 ぐっ、とシトリは手を握りしめる。

「そして、そして全ての外つ神を滅ぼし、いつか必ず、父上を――!!」

 

 ここに、憎悪の誓いが刻まれた。

 ここに、破邪の誓いが刻まれた。

 宇宙のすべてを弄び、世界を玩具とする邪神どもを滅ぼす誓いが。

 永遠の戦いの誓いが刻まれたのだ。

 シトリはアマツミカボシを借り、主を探し、邪悪を戦い続けることとなった。

 シトリの戦いがここに始まったのである。

 斃れていく主たちが作った血塗られた道を歩み。

 いつか、全ての邪悪を討ち滅ぼすために。

 

 都に戻りながら、シトリは何かの嗤い声を聞いた。

 遥か異空にて高らかに笑うものの声を。混沌の声を。

 シトリの宿敵となるものの嗤いを、聞いたのであった――

 

 

 これは、シトリが冒険者の街に至る前の物語。

 遥か過去、シトリの始まりの物語である。

 そして、シトリはいつか出会うはずである。共に邪悪を屠り、神々を破り、世界に光明

を齎す、主に――