円形のテントの中。 リルカ・バントラインとテント中央の焚き火を挟んで対面にいる年老いた呪い師。 彼は目の前にある盤に小石や黄色い砂を落としながらリルカを占おうとしている。 静寂。走る緊張。 「お主は……」 メディスンマン――呪い師だけが許された化粧と 鳥類の羽を染めて作った鬣のような装飾を身に纏う老人はゆっくりと語りだす。 「来年の今頃に大きな運命の転機を迎えるだろう。そしてそれを乗り切れるかどうかで自身の命が」 「待ったー! ストップ!!」 慌てて占いの言葉をかき消すリルカ。 「私が知りたいのは自分の寿命じゃないから! 私が教えてもらいたいのは」 思わぬ早とちりに眉を顰めてパイプを燻らせる老占い師。 次の言葉を言うために息を呑むリルカ。 「―――世界の終わりについて」          『猫と器と世界の終わり』 「世界の終わりですか……」 「ええ。この先に世界の終わりがあると聞いたから」 正座し、膝に手を置いたまま猫科獣人のリルカは老人を見る。 「私は世界の終わりを見たいの。だからこの場所にやってきた」 「ほっほっほ……」 メディスンマンはパイプから紫煙を放つと糸のように細い目を柔和に歪ませた。 「旅人はあれを世界の終わりと呼びなさるか。私どもにとっては世界の果てと呼んでおりますが」 「世界の果て?」 「ええ……そこから先に世界はない。誤謬なき世界の終わりでもあります」 パチパチと音を立てて燃える炎。パキッと小さな音を立てて焚き木が爆ぜる。 「そこはグレートスピリットの力が及ばない場所でもあり、神の住まう場所」 「グレートスピリット?」 「そう、我らが信じる偉大なる力……全ての魂が還る場所であり最後の塒」 「つまりそこは死者が向かう場所なの?」 「違いますな」 老人は失礼と言ってパイプを裏返すと焚き火に糖蜜で固めた煙草を捨てる。 「そこは楽園です」 「楽園…世界の終わりは楽園なの?」 「ええ」 リルカは耳をぴこぴこと動かし、老人の言葉を反芻する。 若人の迷いを知ってか知らずか老人は手元の瓶にパイプを潜らせ、汚れを取っている。 ミニサイズの水煙草にも見えてその実違う、奇妙な作りの喫煙具だった。 「そこは我らがグレートスピリットは加護を与えられない。  だがそこに住まう者は何の心配をすることもない……魂の安らぎを得られると聞く」 「…………」 リルカは老人の言葉を待つ。楽園の意味、終わりの意味を知るために。 「戦士たちが悲しい夢に惑わされ、飲み込まれぬように。  我々は世界の果てに向かうことを禁じている。  だが……神の世界から何かの手違いで落とされたものを神に返しに行くことは認められている」 「……それは神様のものを返すために世界の終わりに行くということ?」 「そうだ。だが世界の終わりに行って帰って来た者はいない……」 老人は白目部分が灰色に濁った眼でゆっくりとパイプを持ち上げる。 「私たちの集落はとても小さい。  成人男性は少なく、そのどれもが家庭を持っている。  誰一人欠けても我らが部族にとって厳しい事態になるだろう…  そして使命を背負った命を投げ打ってまで神の器を持って世界の終わりに向かう者はいない」 事情を察することができず小さく首を傾げるリルカ。 「簡単なことだよお嬢さん。あなたが神の器を持って世界の終わりに行ってはくれないか?」 その言葉が意味する者。片道切符を手渡す代わりに世界の終わりへと導くという意志を含む言葉。 リルカは立ち上がると尻尾で足を、手で太腿をぱたぱたと払う。 そして愛刀『旋空』の入った鞘を手に目を細める。 「神の器を持つことで世界の終わりを見ることができるのなら。そして一つ訂正を」 集落の人間から村長と呼ばれる老人が皺を寄せて白い眉を顰める。 「私は旅人じゃない、渡り鳥よ」 リルカの言葉にしゃがれた声で笑う老人。 「そうだったか、すまないな渡り鳥。では神の器をそなたに託そう」 そう言って老人が取り出したもの。 彼が言う『神の器』の輝きを目の当たりにしてリルカは驚きの色を隠せない。 「これは…………」 二時間後。 集落の若者が案内をし、リルカは世界の果てへの旅路を続けていた。 昼間の短いスコールが終わると亜熱帯樹林は熱い地面から立ち上がる靄に包まれた。 目の前にかかるオリーブグリーンの葉を手で払いのけるリルカ。 「あ、待って」 「?」 「凶暴なアリがいる、手で葉っぱ触るよくない。手が骨になる。危ない」 無表情ながら、普段よりやや青白い顔で案内役の若者にお礼を言うリルカ。 粘つく泥濘を踏み越えながら樹海を進む。 「危険な場所への案内を頼んでごめんなさい」 そしてこれがお礼の次の言葉。 「いい、謝らない。世界の終わり、神様の国。神様に神の器返す当然のこと。  僕たちがやること、普通。でもリルカサンあなたに頼むことごめんなさい、キモチ痛い」 青年はリルカに神の器を持たせることに負い目を感じているようだ。 リルカは首を左右に振ってそれに答える。 「私が神の器を持って行けば世界の終わりが見られるのよね。  それなら是非とも行きたいわ、旅の途中で世界の端を知ることができるのだから」 「神の器、キラキラしてスベスベ、そしてキレイで丈夫。  神様が創ったものだから。返しに行くとても名誉なこと。  でも世界の果てに行くリルカサンの旅、終わるかもタブンです」 「へぇ。楽園だったら本当に住み着いてしまうかも」 「それリルカサンの喜び正しい?」 「さぁ」 リルカが自分にとって何が正しいことなのかは分からないとゆっくり言うと 黒い肌にいくつもの刺青をした若者はそれに頷いて見せた。 「それと村長さんは共通交易語がかなり上手かったわね」 「オサ、外の世界から貴重なもの買うことある」 「貴重なもの?」 「カンキリとか」 くすくすと笑うリルカ。 「そうね、缶切りは貴重だわ……」 「森が乾く、木が枯れる、カンバツ起こる。缶詰は大事」 「森の部族だものね。飢饉が起こったら大変」 「自分たちと森の恵みで生きる、大事とても。僕たちの誇り。  でも食べられない、死ぬ、困るとても。誇りより家族の命、長引かせること選びたい」 立ち止まって振り返る部族の青年。 「でも機械で作ったご飯食べる、グレートスピリット怒る」 「それじゃ内緒にしてなくちゃ」 青年は豪快に笑い、進んでいた西の方角を指差した。 「あっちが世界の果て。西に真っ直ぐ行く、半分の日で世界の果て」 「このまま進めば半日、ということね」 「そう、その言葉合う」 「ありがとう。案内はここまででいいわ……名前、教えてくれる?」 「僕、名前パウロン」 「パウロン、あなたたちの村では別れの挨拶はどうするの?」 パウロンは浅くお辞儀をした。会釈にも似ている。 「マルカム アンムスタォ! パウロンの名前によりグレートスピリットの加護を願う」 「なるほど……」 発音はとても難しかったが、相手を真似てリルカは頭を下げた。 「マルカム アンムスタオ。渡り鳥リルカ・バントラインの名においてあなたにグレートスピリットの加護を」 青年はにこりと笑うと踵を返して去っていった。 その背中には白い泥を使って描かれた幾何学模様。 別れを心に刻むとリルカは世界の終わりを目指して西へ歩き出した。 極端に高い湿気と深呼吸をすれば咽てしまいそうなほどの熱気。 何度か耳を伏せて溜息をしながらリルカは西へ歩き続けた。 亜熱帯樹木を真っ黒にする凶暴なアリを避けて迂回することを6回、進路上の毒蛇を鞘で退ける手間を4回。 刀を抜いて周りに集まってきた蚊を切り払う作業を72回ほど繰り返す。 リルカは鬱蒼とした森が開けてきたことに胸の高鳴りを覚えていた。 『世界の終わりとはどんな場所なのだろう? 楽園とは一体?』 彼女が旅を続ける理由には旺盛な好奇心を満足させるためでもあった。 ちょっとだけ足早になり、見えてきた光のようなものへ向かっていく。 そして樹木が途切れる場所に辿り着き――― 「……街?」 彼女が辿り着き、目にした世界の終わり。それはごく普通の街並みだった。 昼過ぎに遅い食事を取る者、子供を連れて買い物に勤しむ主婦。 リルカにはそれはどう見ても世界の終わりにも楽園にも見えなかった。 街の入り口で立ち尽くしているリルカに肌の黒い男が話しかけてきた。 身なりが良く、挨拶は耳に馴染む流暢な共通交易語。 「やぁ! まさか東の森から旅人がやってくるなんて! 珍しいな、観光目的で?」 「………あの」 戸惑いながら何とか言葉を紡ごうとするリルカ。 「世界の終わりに向かって歩いていたのよ。そしたら迷ったのかここに出て…」 「んん? 君は迷ってなんかいないぞ。ここが世界の終わりだ」 「?」 リルカは疑問符を1ダースほど浮かべ、首を傾げる。 尻尾は落ち着かない様子で左右にゆらゆら。 「ここは東の森に住む部族にとっては確かに世界の終わりなんだ。  物質文明が栄えた街だからね、グレートスピリットを信じる者にとってここは異質なコミュニティさ。  だがここは蚊に刺されて熱病になることもなければ水を汲みに行ってワニに食われることもない。  毒蛇が出れば役人が捕まえて殺しちまう。とても………、そうだな。『快適な街』なのさ」 男は時折探るように言葉を選ぶ。だがそれ以外は饒舌に語り続けている。 「グレートスピリット信仰をやめればここに住める。  部族出身の者でもここでは平等だ、チャンスを掴めば良い暮らしもできる。  信仰の引き換えの文化的な暮らし……部族の人間にとってはまさに世界の終わりさ。  オレも森の部族にいたんだが十二年前に『神の器』を届けた先で見事に世界の終わりを見ちゃってさ。  そして気に入ったんだよ、ほら見てくれ」 男がシャツを捲って腹を見せる。まじまじとそれを見るリルカは刺青を見つけることができた。 「刺青は大分消したんだ。でもちょっと残ってる。  消すのはとんでもなく痛いし跡も残るからイヤなんだ。金もかかる。  ああそうそう、話を戻そう。この街を一発で気に入った俺は共通交易語を覚えた。  目利きを覚えて古物商になったんだがこれがスマッシュヒットでさ、今じゃ別荘を買うくらいだ。  今じゃ部族の中でしきたりや教えを守って狩りをする生活なんて考えられないね。  それがもう部族の言葉をよく思い出せないくらいさ。冗談だと思うかい? いいや本当の話さ!」 リルカはその話が冗談だとは思わないが話は長いと思った。 「街の役人が時々、森に入って『神の器』を決まった場所に投げるのさ。  それを合図に部族を出たがっている者に村長は神の器を届ける役目を任せる。  ……公然と村を出て自由に暮らせとは言えないんだろうな、グレートスピリットの教えに反する。  あのジイさんは元気にしてたか? また今度、こっちの薬を届けてやらないとな。  偉大なるメディスンマンもまじないだけで人を治すわけじゃないってコト。ああこれは内緒だからなお嬢さん?」 俯くリルカ。 森の中のような強烈な湿気はないが照りつける太陽がどこか自分を苛んでいるようにも感じられた。 「なぁ、あんたのその腰モノ。凄い値打ちモノだぜそれ。譲ってくれれば家を買えるくらいの金を出すぜ」 「旋空のこと……?」 リルカは親友から託された刀を手にする。今度はそれを男がまじまじと見る番。 「こいつは凄いや…買い手がいくらでも出る!  どうだ、それを手放して旅を終わりにしたらどうだい?  ここは良い街だからさ。あんたも地に足のついた暮らしができるし働けば何不自由のない生活が手に入るぜ?」 その提案にリルカは目を瞑る。 長い年月に刻まれた深い皺を歪めて笑う村長の顔がよぎった。 そして尻尾を一振り、リルカは悪戯を思いついた猫を思わせる表情で声を張った。 「マルカム アンムスタオ!」 呆気に取られた様子の男はしばらく喋ることも忘れる。 そして一本取られたとばかりに自分の額を手で叩き、大声で笑い出した。 「はははは! マルカム アンムスタォか……さようならって言うなら仕方ない、これは参った」 高らかに笑う男の発音は、決して部族の言葉を忘れていたようには聞こえなかった。 リルカは微笑むと刀を腰に差す。 「冒険の依頼が受けられる酒場を探しているのだけれど」 「あんた冒険者か?」 「渡り鳥よ」 「渡り鳥か……そりゃ地に足をつけるってのが魅力的には聞こえないだろうなぁ。  ここから西にしばらく行った街にある、女の足でもほんの二時間だ」 「ありがとう」 顎に手を置き、東の森を見る男。 「そうか……もう神の器を持ってここに来る奴がいないのか…  皆、それぞれがグレートスピリットを信じているんだろうな…旅人に託したんだからなぁ……」 物思いに耽る男の長い独り言に巻き込まれないうちにリルカはもう一度お礼を言って別れた。 そして市場に行き、保存食を買い足すと旅先で物々交換に使えそうないくつかの品物を購入する。 市場で見かけた精密な懐中時計の輝きは魔王だった友人からもらった自分の懐中時計と 村長が使っていたパイプの鈍い光沢をリルカに思い出させた。 世界の終わりと呼ばれた街を出る頃、思い出したように荷物の中から『神の器』を取り出す。 ガラスで作られたそれを覗き込めば街並みも、遠い森の景色も歪んで一緒くたになる。 「ねぇバントライン」 誰も相槌を打つ者がいない彼女の独り言。 「本当に世界の終わりがあるとしたら、その先にあるものは世界とは呼ばないのかな?」 神の器を下ろし、踵を返す。 彼女は西へ西へと旅を続けるだろう。まだ世界は終わっていないのだから。 リルカは設置されていたゴミ箱に神の器を捨てる。 神の器――コーラの瓶は鈍い音を立てて他の瓶とぶつかり、ゴミ箱の中ほどにひっそりと納まった。