カーター家の崩壊  彼の夢見る者カーターが、我々の手の届かない、時空連続体の彼方、夢の門の果て、壮 麗なる夕映えの都に消え去ってから、幾星霜を経た。真に夢を見ることを可能とした彼の 夢見る者は、もはやこの覚醒の世界には存在せず、銀の鍵の門を飛び越えて、あらゆる時 空、時間の中を漂っているのである。  偉大なる魔術師であったカーターの消失は、あらゆる憶測を呼んだが、真に正しき理解 をしたものはほとんど存在しなかった。夢見る者でなければ、カーターの消失の理由を知 ることは叶わなかったのであり、それは当然と言えた。カーターは今や幻夢郷にあるとも、 遥か彼方の惑星の魔術師と融合したとも、夢見る人の間で噂された。  現在のカーターのその身は、銀の鍵の門の世界を巡り巡り、壮麗なる夕映えの都を目撃 したのちに、混沌の哄笑と共に、遥か彼方の惑星へと飛翔した。カーターの精神はその惑 星にいた不定形の魔術師と融合し、己が故郷へ、幻夢郷を目指して、帰還の策を練ってい るのであった。夢見る人でもこの事実を知っている者は少なく、カーターは今や幻夢郷の 夕映えの都の王として君臨しているという伝えも、正しくないのである。  その真実を知っている者は、カーターが覚醒の世界と幻夢郷を行き来していたころ、親 交を結んだとされる、四ヶ森家――有史以前の時代に開闢の伝説を持つ家系――歴史にさ さやかな足跡を残した九人の先代、宇宙的な魔術を使い、アフリカへと消えた「アストロ ナイン」と呼ばれた先代が存在する家――その物的証拠がない故に、古ぶるしき伝承は真 実とはされていない名家――の始祖、その翁のみである。四ヶ森の翁はカーターの帰還を 待っているともされるが、その真偽は定かではない。  カーターは数世代を過ぎた後であっても、未だ帰還すること叶わず、その失踪は伝説と なり、カーターは伝説上の人物となっていた。カーターの子孫たちは、カーターの残した 魔術の伝え、超古代の魔術について記した書物を大切に保管し、その知識を使い、魔術師 として大成することで、大いなる隆盛を迎えていた。彼の伝説の大魔術師、カーターの子 孫であるという事実は大きい。カーター家の者たちは、初代カーターから伝えられた、大 いなる秘術の伝えを守った。カーターが残したもう一つの「銀の鍵」を大切に守っていた。 その秘術は表に公開されないものであったが、その秘術を正確に扱えたものもまた、カー ター家に存在していなかった。  秘術を正確に扱えるような者が現れることを願い、カーター家の者は秘術の伝承を続け た。しかし、秘術は使えなくとも、カーターの残した他の魔術は強力で、非常識なもので あった。時空と空間の制御に関する魔術、異次元の彼方に存在する無限に泡立つ虹色の球 体から知識を得る魔術など、他の魔術師では扱えないようなものばかりであり、カーター 家の者は持てはやされ、やがては貴族の地位まで上り詰めていた。  華やかなりし貴族の世界。偉大なる魔術師の家系はそこに足を踏み入れた。  カーター家には多くの貴族の子弟や魔術師が集まるようになった。カーター家の持つ豊 富な魔術資料や器具は彼らにとっても魅力的であった。やがて、カーター家の屋敷は魔術 屋敷と呼ばれるほどに、魔術に関係するものが集められるようになった。  しかし、こうして世俗に積極的に関わることになったがゆえに、カーター家に伝わる、 深遠なる秘伝の法の意味は、さらに忘れ去られるようになり、二十代を経るころにはもは や正確に、その秘伝の法の真意を知るものはカーター家にいなくなった。古来より伝わる 書物などを紐解いていけば、先祖が克明に記しているのであるが、実際の利益にならぬ秘 伝の法を顧みる者はほとんどいなかった。カーター家は魔術の家系として隆盛していくと ともに、初代カーターの残した窮極の秘術を忘れていったのである。  秘伝の法、窮極の秘術、幻夢郷と覚醒の世界を繋ぐ唯一の理、銀の鍵の門を開く方法、 真に夢を見ること、それらを覚えていたカーター家の伝統は、だんだんと忘れられていく のであった。現世的な繁栄を重視したが故であった。  しかし、それであってもカーター家は繁栄していた。秘伝の法は、現世の利益などには 到底結びつかない深遠のものであった。たとえ、それが失われたとて、カーター家の基盤 が失われることはなかった。カーター家は伝説の魔術師を祖に持つ魔術師の家系、貴族と して繁栄を遂げた。  そして、そのカーター家の伝統が、跡形もなく消え去る時もまた、近づいてきていた。  カーター家、二十八代目当主――三十代、ランドレアの祖父にあたる男――が家督をつ いた時、既にカーター家の崩壊の序幕は降りていたと言える。  二十七代目当主は不審な死を遂げた。その真実はいまだ明らかになっていない。二十七 代目と二十八代目は、二十八代目の結婚に関して争っていたが、二十七代目が死んだこと により、二十八代目の結婚問題は解決された。二十八代目が結婚したのは、とある片田舎 の魔術師の家系である、ウェイトリィー家の娘であった。色白で、無口な娘が彼の結婚相 手であった。何故、二十八代目がそんな片田舎の魔術師の娘を娶ったかは定かではないが、 夢見る者の間では、初代カーターが超えたとされる銀の鍵の門――窮極の門とも称される ――の謎に迫るためであると噂されていた。  ウェイトリィー家は、地元では大層評判のよくない一家であった。怪しげな妖術を使っ たり、娘の夫に関しては口を閉ざすということなど、大よそ怪しげな妖術師という扱いで あった。とても、カーター家の正妻に相応しい家系ではなかった。  それ以降、二十八代目は、魔術の研究に乗り出し始めた。それは、これまでのカーター 家の当主が忘れてきた、初代カーターが伝える銀の鍵と、秘伝の法についての研究であっ た。それへの熱の入れようは異常であり、家の蔵書はもちろん、異端とされる魔術書にま で手をだし、研究をつづけた。  その研究は途方もないものとなり、何十年とたっても完成することはなかった。二十八 代目とウェイトリィー家出身の正妻の間には子供は産まれず――産ませなかった、考えら れる――側室との間に男子が誕生する。これが後に二十九代目となるカーター家の当主で、 ランドレアの父である。ランドレアはウェイトリィー家の血は引いていないこととなる。  ランドレアの父が成長し、結婚してランドレアを儲けたときになっても、二十八代目、 ランドレアの祖父の異常な研究は止まらなかった。異端の魔術書だけでは飽き足らず、異 端、禁忌の魔術を専門とする魔術師などを家に呼び寄せ、地下室にて毎夜毎晩、サバトじ みた、おぞましい儀式を繰り返したのである。古の魔術器具、邪教との接触、魔道書の解 読、それらにつぎ込んだ資金は莫大なものであり、さすがのカーター家も傾いてしまうほ どのものであった。  禁断の魔術を研究しているとなれば、当然カーター家であっても罪は免れない。それ以 上に、カーター家の財力を揺るがしかねない研究は到底、時期当主であるランドレアの父 にとって、認められるものではなかった。とある日、ランドレアの父は、地下室へと向か おうとするランドレアの祖父を呼び止め、研究を中止するように求めた。しかし、それは 意味をなさず、逆にランドレアの祖父の怒りを買うのみであった。 「この馬鹿者めが。この盲目にして無知なる男めが。我々の始祖たる初代カーターが残し たものを解読せずして、何がカーター家か。銀の鍵を忘れ、秘伝の法を忘れ、何が我々か。 平和に慣らされたこの馬鹿息子めが。良いかよく聞け。わしが今行っていることこそ、カ ーターの残した秘伝の法の解読だ。窮極の門を開き、初代カーターが垣間見た、無限なる 知識、虹色の球体……イア、ヨグ=ソトホート……幻夢郷、カダスの縞瑪瑙の城の謎…… それらに迫るものであるぞ。それこそ我らの使命ではないか。今こそ銀の鍵を用いて、窮 極の門を開き、初代カーターに相見えるのだ……イア、シュブ=ニグラート……お前は知 らぬ。ヨグ=ソトホートに認められた我が始祖の事を。アカシャ年代記に接触し、無限な る知識を得て、わしも創造するのだ――彼の夕映えの都を。真に夢見る事……真に夢を見 る者こそこのわしだ。わしが初代カーターの跡を継ぐのだ。邪魔をするな、愚かな息子よ。 夜鷹の鳴き声が聞こえる前にこの場を去るがよい……ルルルル、ルルルル……イア! ヨ グ=ソトホート! 全にして一なるものよ! 真白のヴェールで顔を隠せしものよ! わ しを幻夢郷へと導いてくれ! あらゆる時間! あらゆる空間! あらゆる世界を越える 力を、わしにも与えてくれ!」  ランドレアの祖父はこのような意味の不明なことをランドレアの父親に口走ると、地下 室へと向かっていた。ランドレアの祖父の隣に、いつの間にか付き添っている、長身痩躯 で褐色の肌を持つ男――祖父の側近――が、静かにランドレアの父に気味の悪い笑みを浮 かべ、ランドレアの祖父を追って、地下へと去って行った。ランドレアの父は、この男に 非常な嫌悪感を覚えた。  ランドレアの祖父は、自信が連れてきた怪しげな魔術師どもに、異端の魔術書や魔術器 具を地下に運び込ませていた。その時運び込まれた者の中には、今や寝たきりの状態にな っていた、祖父の正妻――ウェイトリィー家の女――もいた。その日の祖父の興奮具合は 異常であり、何やら大きな実験を行うつもりであるようだった。ランドレアの父はそれを 止めることはもはや不可能だと悟り、ランドレアと自らの妻、使用人たちをカーター邸の 離れへと移動させた。  そしてここに、カーター家の崩壊が始まったのである。  カーター邸の地下では、異様な光景が繰り広げられていた。地下にはかがり火がたかれ ており、その中では異端の儀式が執行されていた。床には環状列石が置かれ、異形の魔法 陣が血で描かれていた。環状列石の中心には、ウェイトリィー家の女、すなわち祖父の正 妻が据えられていた。異端の魔術師どもが環状列石を囲み、祖父もその中に加わっていた。 褐色で長身痩躯の男は、祖父の後ろに立ち、その様子を眺めていた。  祖父は『カダス文書』と呼ばれる、カーター家に伝わっている、そのほとんどが欠落し た文書を手に持ち、古の印を片手で結びつつ、超古代のナアカル語とよく似た言語にて、 呪文を詠唱していた。周りの魔術師どもは、ひたすら「ヨグ=ソトホート」の招来を願う 文句を呟き続けていた。  やがて、その呪文の詠唱は高潮し、異様な空気が空間に満ちはじめた。祖父は銀の鍵を 懐から取り出し、それを二三回、扉の鍵を開けるように回した。かがり火にその姿が照ら され、異様な影となって壁に移る。そうしたとき、どこからともなく、忌まわしきフルー トの音色と、太鼓の響きが聞こえ始めた。太古の音色、おぞましき、慄然たる空気を孕ん だ音色が、彼のものの招来を告げていた。 「イア、イア、ヨグ=ソトホート……全にして一なるものよ、我が願いを聞き入れ給え。 我は汝に願い奉る――彼のカーターを導きし門を此処に、呼び寄せたまえ。汝が姿を現し 給え。銀の鍵は今、汝の扉を解きはなてり――ルルル、ルルル、ルルルル……イア! ヨ グ=ソトホート! 汝の娘を今此処に連れてきた! さあ、わしに与えてくれ! 幻夢郷 への道を! 時間と空間を支配する力を!」  その祖父の言葉と共に、空間は歪んだ。地下室の天井に、巨大な門じみたものが出現し た。それは形容することのできないものであった。常にその門は色を変え、姿を変える。 虹色であり、無色であった。それは門。それは扉。それは穴。それは全て。それは一。そ れは世界。それは宇宙。それは知識。それは球体。それこそ、これこそ――ヨグ=ソトホ ート。  七色に光る球体が門より出で始めた。ウェイトリィー家の女は涙を流しながらそれを見 ていた。女が手を伸ばせば、名状し難い触手がその腕をからめとり、自らの球体の中に女 を引きずり込んでしまった。七色に永遠に分裂を続ける泡が、地下にその一部を顕現した のであった。  魔術師たちの興奮は最高潮に達した。全員がヨグ=ソトホートへの賛辞を述べ、サバト じみた興奮が空間を包んだ。祖父も感激したのであろうか、静かに目を閉じていた。しか し、その顔には緊張も走っていた。ヨグ=ソトホートを直視することができないのだ。そ れはまともに見てしまえば、それから伝えられる情報量に耐えきれず、脳が破壊されてし まうものであった。  その異様な興奮を、祖父の後ろに控える黒い男は、嗤笑をもって見つめていた。 「ヨグ=ソトホートよ……今一度、我は汝に願い奉る……汝の娘は、汝へと還した。今こ そ、我に、幻夢郷への道を開きたまえ、空間と時間を支配する力を与えたまえ。全にして 一なるものよ。対価は全て揃えた。汝の娘、汝がカーターに与えた知識、魔術の器具、銀 の鍵、それらをすべて、汝にお返しする。故に、我に力を与えよ。カーターにしたように、 カーターのように、夕映えの都を、我に与えたまえ――」  ヨグ=ソトホートはそれに応えることはない。虹色の無数の球が光るだけである。そし て、門がさらに開き始めた。ヨグ=ソトホートから伸びる泡の触手は、カーターの祖父を 掴み、引き寄せる。そして、祖父の頭の中に、古のものどもが奏でる古代の音色が響き渡 る―― 「……違うっ!? これは、これは違う……! これは、わしの求めるものではない。な いぞ、ヨグ=ソトホート!! これは、違う、これは、外なる宇宙! これは蕃神どもが 踊り狂う世界ではないか! 何故だ、何故だ! わしが求めたのは幻夢郷ぞ、こんな、狂 気の世界では……!」  そして、それは顕現した。地下室の空間は今や、紅の海となった。銀の門の鍵を越えた 先の、紅の海が顕現していた。今や地下室の空間は無限の空間となっていた。その空には 無限の星々が輝いている。そして、門の中から、虹色の球と共に、見えるのである。踊り 狂う不定形のものども、名状することの叶わない、外なる神々。文章で表現すること叶わ ないそれらを、魔術師どもは、祖父は、見てしまった。見てしまったのだ。 「イ、イア、イア、イアイイイイアイアイアアアアアアアアア!! 何故、何故ええええ え!! お前の言うとおりにしたのだぞ! “無貌のもの”よ! お前の言うとおりに!  門は開いたと言うのに! 娘も還したというのに! 何故だ、何故だ! いあ、いああ あ!! 見える! 古ぶるしきものども! 虹色の球! 踊り狂う蕃神どもが! あの賢 者バルザイが目にした光景をわしもみておるぞ! いひ、あ、ああぁぁぁっ! ヨグ=ソ トホート! アザトホート! 恐ろしい、恐ろしい白痴の王めが! あいあ、いあああ あ!! ねじ曲がり運動しよじれ、破壊する! 違う、違うぞ、私の求めた夕映えの都は ――此処ではない!」  悲痛な叫び。恐れ、狂喜、慄然、嘆き。それらの感情が祖父を包み込んだ。周りの魔術 師どもは既に死んでいた。それを見た瞬間に精神を、存在の全てを破壊されたのだから。  そして、紅の海で佇んでいた黒い男が嗤う言葉を発する。 「お前のような者が、あのカーターと同じ世界にたどり着けるものか、愚かな人間よ。私 のもとまでたどり着いたカーターのようになれるものか。お前には、白痴の魔王との謁見 がお似合いだ。無限なる知識など、人が手に入れられるわけがないであろう。はは、はは ……残念だったな! カーター家の男よ!」  黒き男の姿は今や、混沌の化身へと変わっていた。顔があるべき部分には、赤い燃える 瞳が三つ並んでいるのみであった。祖父の声にならない声が続く。すでにその精神は破壊 された。  門が閉じはじめた。男が求めた知識は消え去っていく。虹色の球が、門の中へと消えて いく。そして――一粒のかけらが門からこぼれ出た。門からこぼれ出たかけら。門から現 れたそれ。それこそ、その小さな小さなかけらこそ……白痴の王の、一部、種子であった。  紅の海で、爆発――いや、破裂――が起こった。アザトースの一部がこの世に顕現した のである。それは本当に、小さな小さなかけらであったが、全てを破壊するに充分であっ た。全ての存在を破壊する、無慈悲な暴力が全てを焼き尽くしていく。紅の海が焼け落つ。 空間が消滅していく。混沌の男は、それを哄笑と共に見つめていた。祖父も、魔術師も、 何もかもが、存在の根底から、根こそぎ破壊されていく。そしてそれは、元の空間にも及 ぶ。  紅の海は消えたが、地下室にもその破壊は伝わった。赤い光がカーター邸の全てを包ん だ。赤い光と亀裂が、赤い月の輝きと共に、屋敷を包み込んでいく。赤い光は収縮したか と思うと、瞬時に巨大化し、全てを破壊した。カーター邸は、赤い光と共に、その蔵書も 魔術器具も、財産もすべてを包み込んで、爆発した。否、それはそういうものではない。 宇宙の降誕を思わせる、原初の破裂と共にすべてが瓦解したのであった。  家のほとんどは瓦礫も残らず、まるで、あの忌まわしき“焼け野”のごとき空間と成り 果てていた。ただ、銀の鍵のみが、わずかに残った瓦礫の中に、突き刺さっているのみだ った。  ここに、カーター家は崩壊した。その様子を、ランドレアの父は、ただ絶望を持って見 つめているのみであった。幼いランドレアはそれを見せられることなく、この真実を知る ことなく、ただ、すやすやと眠りについていたのであった。  これ以降のカーター家の没落は、既に周知されていること故に、記すことはしない。こ れが、カーター家の崩壊の顛末である。  時は変わり、遥かなる宇宙にて、異なる惑星の魔術師と融合した初代カーターが、かつ ての故郷へと向かおうとしていた。特殊な衣を身にまとい、宇宙空間を駆けんとしていた。 かつて、親交を結んだ四ヶ森の翁の、「カーちゃんまだこないの? ワシまだ待ってるんだ けど」という言葉に応えるかのように、帰還しようとしていた。己が世界へ、己が生まれ た星へ。  しかしそれはまた、別の物語である。