《機械姫》  少女が歩いている。  少女が歩いている。深夜のスラム街の路地を。  まだ歳若い少女だ。幼い、とも言っていいだろう。長い銀色の髪を風に棚引かせ、薄い 赤の瞳で自らが歩む先を見据えている。人気の無い路地、汚らしいゴミが散乱し、鼠が駆 ける路地の先を見据えている。  明らかにこの場所には不釣合いな少女。銀色の髪に白い肌、奇妙ではあるが仕立ての良 い服装。このスラム街においては異質、危険なもの。この少女はそうであった。この場所 においては異端者。夜道を一人で歩く無防備な少女である。  しかし、少女のもっとも奇妙な点は、他にある。  それは少女の右腕であった。  それは明らかに異質であった。  鋼鉄に覆われた腕。歯車がむき出しになった腕。螺子で留められた腕。溶接された腕。  それは機械、銀色に輝く機械の腕であった。  少女の右腕が月明かりに煌いていた。機械の腕を持つ奇怪な少女が深夜のスラム街を歩 いていた。  この少女は何者か、このスラム街の住民は未だ知らないだろう。この少女が何のために このスラムを徘徊しているのか、知るものはいない。ただ、知るのは少女のみ。  少女はメアリー・ローゼンクロイツという名であった。かつて少女は、ここではないど こか、ここにはいない誰かに一つの称号を与えられた。  鋼の右腕を持つ、機械の少女。  《機械姫》と。  少女は路地の果ての開けた場所へとたどり着いた。建物と建物に囲まれた広めの空間だ。 長方形の縦長の空間。奥には排水が流れており、異臭のする場所であった。少女はそこに 足を踏み入れ――足を止めた。  肌寒い風が吹きぬける。銀の髪が風に揺れる。少女はまるで彫像のようにその表情を変 えない。薄赤い瞳で、目の前を見据える。目の前に居るものを、見据えている。  「それ」が、そこには居た。  少女、メアリーがたどり着いた広場の置くには、緑色の燐光がひとつ、ふたつと現れて いた。そして、その燐光が瞬く間に増えて、あたりを不気味に照らし始めていた。  その燐光に囲まれるようにして、「それ」はいた。  何十個と存在する眼を緑色に輝かせ、凶悪な牙を何本も備え、強靱な鉤爪を持った二本 の腕、二本の脚を持つ、黄色い雪男めいた巨体がそこに居た。背中からは無数の触手が生 えて、全てが別の方向に向かって蠢いていた。その頭はウナギのような形をしていた。そ こから、伸びた緑色の眼が全て別の方向を見ていた。しかし――メアリーが空間に足を踏 み入れた瞬間、全ての眼はメアリーを見据えた。緑色の眼光がメアリーを見据えた。  あまりにおぞましい、吐き気を催すように気持ちの悪いもの。5メートルはあろうかと思 われる黄色い奇妙な繊毛に覆われた巨体に見据えられてしまった。メアリーはまともに見 てしまった。普通ならばその場で嘔吐してもおかしくは無い。そのばで恐怖に泣き叫んで もおかしくは無い。その場で狂ってもおかしくは無い。それほどまでの化物と、メアリー は対峙していた。  ぼとり、と化物の口元から何かが落ちる音がした。それは人間であった。最早全身血塗 れとなり脳漿は噴き出、眼球は無くなり、内臓がまろびでていて、皮が剥がれ、肉は削げ 落ちていた。最早それが男か女かもわからない、無残な有様であった。メアリーの目の前 の化物は人間を喰っていた。哀れな人間が、ゴミクズのように喰われていた。  普通ならば、ここで逃げ出してもおかしくは無い。あるいは、脚が竦んで恐怖に倒れて しまってもおかしくは無い。  そう、普通ならば。  だがしかし――メアリーは普通ではなかった。  メアリーは表情を一つも崩さない。狂気に顔が引き攣ることも、恐怖によって泣き叫ぶ ことも、無い。ただ表情を変えずに、冷徹な視線で目の前の化物を見ていた。恐怖も、狂 気も、何も感じない。メアリーは「それ」を恐れてはいなかった。 「GRRRRRRRRRRUUUUUUUUUUU!」  怪物の奇怪なうめきが広場に響く。それを聞くだけで、人は死ぬ。人は正気を失い死ぬ。 この世のものではない叫び声。メアリーはそれをまともに聞いてしまった。  だが、メアリーが狂死することはなかった。ただ先ほどと同じように、表情を崩さず、 冷徹な瞳で「それ」を見るばかりだった。  そして、化物はメアリー目掛けて駆け出した。どしんどしんという音が響く。化物が踏 み込めばアスファルトが砕け散る。無数の眼がメアリーを見据えて、突進をしてくる。当 たればひとたまりも無い。凄まじい速さでそれは突進を駆けてきた。当たれば人間の体は 四散する。完全な死が訪れる。  しかし、メアリーは臆することなく、すんでのところで体を大きく動かし、「それ」を避 けた。巨体は止まることができずに、メアリーの後ろにあった壁へと激突した。壁は崩れ 落ち、瓦礫が化物の上に降る、  メアリーは視る。右目の機械眼があの化物を視ている。メアリーの瞳が赤から色を徐々 に変え、青色まで変化する。メアリーの脳に電流が走る。情報を、引き出す。 「ムーン・ビースト」  メアリーはそう呟く。 「お前のことは既に記録されている。私の目の中に記録されている」  《機械王》によって与えられた、膨大な情報を記録された頭脳。そこに、“ムーン・ビー スト”と彼女が呼んだ化物のことも記録されていた。目の前の化物が、この世界に存在す る、怪異、幻想であるならば、それは彼女の眼から逃れることはできない。捉えてしまっ た。捕らえられてしまった。それならば、もう―― 「月の獣、人を捕食し、狂気を振りまく“怪異”、この世にあってはならない“幻想”―― 私は、お前の存在を赦さない」  《機械姫》の機械眼が“視”る。《機械姫》の中に埋め込まれた「数式」が目の前の存在 を分析する。対象の弱点を瞬時に判断する。メアリーは機械眼を通じてムーン・ビーストの 内面を覗きこむ。メアリーの頭の中に、ムーン・ビーストの全てが流れ込んでくる。その弱 点も、全てが。 「私はお前のような幻想が存在することを――否定する。私のこの右腕が、お前の存在を、 赦さない」  ムーン・ビーストが瓦礫の中から姿を現した。緑の眼光を凶暴に輝かせ、鉤爪を鳴らして いる。ムーン・ビーストがその強靱な足をばねにして、メアリーへと跳びかかった。  あの鉤爪を喰らえばたとえ鋼鉄の体でも一撃で粉砕されるだろう。  恐るべき威力を持った一撃が迫るその時、メアリーは。  《機械姫》は。  ――右手を、前へ  ――伸ばす  右腕が変異する。  機械で出来た右腕が、音を立てて。  右腕に組み込まれた歯車が回り始める。鋼が変容し、様々な刃が腕から現れる。  「数式」が「方程式」が展開されていく。  ただ、科学を肯定し、幻想を否定し、破壊するための。  「機械」なる右腕が顕現する。 「G,GRRRRRRRUUUUUUU……!」  右腕は受け止めた。  本来ならば、人など一撃で粉砕されてしまうような。  機械であろうとも、鋼鉄であろうとも砕いてしまう一撃を。  受け止めた。  きしみを一つも上げずに。  そして、《機械姫》は「機械眼」で視る。その冷たい視線で。 「ムーン・ビースト。月の獣。この時、この瞬間が、お前の終焉の時だ。――私の“方程 式”がお前を、分解する――」  ムーン・ビーストは本能的に察した。この右腕が、自分を殺すものであると。そして、 それに気づくには最早遅すぎた。 「GYYYYYYYAAAAAAAAAA!」  変異した右腕が、ムーン・ビーストの弱点である頭部を掴む。右腕から無数の刃が繰り 出され、ムーン・ビーストの強靭な体を貫く。  機械眼が発光し、右腕がさらなる変異を遂げる。  それは異形。異形の機械。  極度に熱された右腕が赤く輝く。そして、ムーン・ビーストの体も同じように発光し、 頭部は無残にも砕かれた。  だが、それで終わりではなかった。ムーン・ビーストの体に無数の文字のような亀裂が 入ったかと思うと、化け物の体が細切れになり、霧散していく。まさにそれは、分解され ていくように。跡形もなく、この世から消えていく。  塵も残さずに。  「機械」なる右手は、この怪異を跡形もなく、“分解”したのだった。  幻想の破壊を終え、《機械姫》は何もいなくなったそこで佇んでいた。変異した右腕が白 い煙を上げている。そして、それは音を立てて元の右腕へと戻って行った。 「ムーン・ビーストの破壊を完了」  どこかに報告するように、《機械姫》は呟くと、くるりと踵を返し、その場を後にした。  幻想、怪異を破壊する《機械姫》が、《機械王》によって創られたメアリーが、この街で 活動を始めた、その日の事である。