変身忍者不空 〜天魔襲来〜 一の巻「はじめての変身」  ボンボリの灯りのみが照らす薄暗い房室の中に数人の影があった。畳の敷かれたその小 さな部屋で、一つの密議が行われていた。  部屋の奥には一人の女性らしき影があった。女性の前には御簾が垂れており、その顔や はっきりとした姿は掴むことができない。そして、その女性の前には三名ほどの、忍装束 に身を包んだ女忍者が控えていた。  一面は物々しい雰囲気に包まれ、深刻な話をしているのは誰が見ても明らかであった。  ここは滅の里のとある屋敷の奥の奥。さるやんごとなき忍者の一族の邸宅であった。こ の秘密の部屋で、とある物についての密議が重ねられていた。  今から数年前に、滅の里に所属していた忍、九鬼法相が持ち出した秘密の巻物――『補 陀落経』について。 「あれは……まだ取り戻せないのですか」  凛とした色彩に満ちた声が、房室に響く。御簾の奥にいる女性から発せられたものであ った。 「『補陀落経』は忍の起源にも関わる経典……そして、我が家が代々この里に保管していた ものです。我が家が管理し、我が家が受け継いでいかねばなりません」  女性の美しい声を耳にするたび、彼女の前に控える忍たちは震えていた。畏れを抱いて いるのだ。 「はっ……申し訳ございません。法相めは穏の里に逃げ込みまして……うかつには手を出 せぬ状態でございます。法相はかつて我が里でも有数の手練れだった男……一筋縄ではい かぬというのが現状でございます。ですが、ですが必ず、『補陀落経』を取り戻してみせて ごらんにいれます」 「そのような言葉はもう聞き飽きました」  忍の言い訳を一周し、御簾の奥の女性は静かに忍を睨み付ける。青い眼光が忍を捕え、 震えがらせた。 「貴方がたもわかっていると思いますが、予言されたあの「天魔」の降臨まで、もう時間 的余裕はほとんどないのです。すぐそこまで来ているのです。『補陀落経』を取り戻すこと ができません、ではすみません。あれは我が家に伝わるもの……私にこそ必要なものなの です。『補陀落経』に選ばれ――変身忍者不空になるのは私でならねばならないのです!  この家のため、そしてこの里のため……天魔を討ち、穏の里を滅ぼすためにはあの力が必 要なのです。私が適合者に違いありません。以前のことは何かの間違い――それを示すた めにも、必要なのです」  御簾の奥の女性はぎゅっと着物を強い力で握りしめる。語調には悔しさがにじみ出てい た。数年前、この女性は、この里、この家に伝えられていた最秘密の経典である『補陀落 経』を用い、『補陀落経』に記される、自在忍――天魔を滅ぼす力を持ち、全ての衆生を救 う現世の仏の化身――、変身忍者「不空」になろうとしていた。その力を用い、来たるべ き天魔を滅ぼし、己が力の優位性を示し、敵対する穏の里をその力で滅ぼし、忍界の頂点 に立とうとしていたのである。  しかし彼女は『補陀落経』に選ばれなかった。何度経典に書いてある通りにしても、変 身忍者不空にはなれなかったのである。変身忍者不空となることを嘱望されていた彼女に とって、これは誇りを大いに傷つける事態であった。  さらに、どこからかこの『補陀落経』の事を知り、それを己が野望にのみ使おうとして いる彼女の事を知った、この滅の里の旧家の出であった九鬼法相という男忍がこの経典を 奪取し、里を抜け、穏の里へと逃げ込んだのであった。  『補陀落経』に書いてある真実はあまりに重大であり、さらに「変身忍者不空」の力を 悪用されれば恐ろしい事態を招くということを懸念した法相の一大決心であったのだ。法 相はまだ幼い娘を連れて里を脱出した。  当然、それを取り戻そうと滅の里から追っ手は出たものの、一気に里に襲い掛かれば全 面戦争になる可能性があり、法相へと直接手を出すことが難しかったのである。法相が任 務で里の外に出ているところを狙っても、彼は手練れであり、常に追っ手は敗北している 状態であった。 「……よろしいですか。どんな手を使っても、取り戻しなさい。忍にとって正々堂々など という言葉は阿呆の言葉です。いいですが、どのような手を使っても構いません……『補 陀落経』を取り戻しなさい」 「し、しかし、里の上役の許可もなく勝手に……!」 「おだまりなさい。里の存続にかかわることです。私が許します……いいですね?」  女性は有無を言わさぬ勢いで言った。最早この配下の忍たちが逆らえる状態ではなかっ た。「御意」とだけ、忍達は返事をした。 「変身忍者……自在忍者「不空」になるのはこの私です。ほかの誰であってもなりません。 私こそが、『補陀落経』の力を最大限に引き出せるのです。……法相も人間、弱点はあるも のです。確か、あの男には娘がいましたね……あの娘を利用なさい。彼も父である身。必 ずや、隙を見せるでしょう……」  彼女がそう告げると、一斉に忍者たちは四方に分散し、消えていった。  『補陀落経』を取り戻すために。  九鬼法相は穏の里から下った指令のために山道を駆けていた。正確には、任務を終えて 里に帰還している途中であった。  切り立った崖を飛び越え、森の中を自在に飛び回り、里への帰還を急いでいた。今回の 任務は彼にとっては何ともない、かなり簡単な部類の任務であった。  短時間で任務を終えた法相は、あと少しで里に帰りつくと言う事であった。  その時である、突如、法相が走る道の天を覆う木々から、鋭い刃物が法相目がけて飛び 出してきた。  法相は忍者の研ぎ澄まされた感覚でそれにすぐさま気づき、僅かな動きで飛んできた刃 物を避ける。  カカカ! と音を立ててクナイが地面へと突き刺さった。法相へ向けてクナイが放たれ たのだ。 「――そこにいるのはわかっている。俺に対して奇襲戦法は通用せんぞ。出てきたらどう だ、滅の忍よ」  忍装束に身を包んだ法相は、木の上に向かってそう言った。すると、木の上から一つの 影が飛び降りてきた。それは紫色の改造忍装束に身を包んだくのいちであった。 「流石は九鬼法相殿。一筋縄ではいかぬと見える」  顔の半分は面頬で隠されており、目元しか見る事は出来ないが、にじみ出る気配からし て、中々の手練れのくのいちであることは間違いがなかった。 「今更滅の里に戻れとは言わん。だが、貴殿が奪った我が里の秘伝の経典――『補陀落経』 だけは返していただく。そうすれば、最早我々は貴殿をつけ狙うことなどせん。普通に穏 の里の忍として暮らしてもらって結構。どうだ、貴殿にとっても悪い話では――」 「断る」  くのいちの言葉を遮り、法相は強く断言する。 「俺が里を抜け、『補陀落経』を持ち出したのは、『補陀落経』の悪用を防ぐためだ。あれ は私利私欲のために使っていいものではない。お前たちに……お前たちの主人に『補陀落 経』を渡しては俺が抜け忍となった意味もない。そうお前たちの主人に伝えておけ、無駄 だ、とな」  鋭い眼光でくのいちを睨み付け、法相は言う。 「……ま、そうであろうとは思っていた。こんなことで渡すわけはないというのはな。だ が、今回はなんとしても『補陀落経』を手に入れろとのお達し……貴殿を殺してでも、『補 陀落経』を奪い取らせてもらおう。――来いっ!」  くのいちは突如そう叫んだ。すると、木の中から二人のくのいちがさらに姿を表せた。 三人のくのいちの容姿はほぼ同じ。姉妹であるようだった。そう、この三人のくのいちこ そ、先程滅の里にて『補陀落経』奪還の指令を受けていた三人の忍であった。 「参りました、姉様」 「では法相殿、お覚悟を。もうその懐の中に『補陀落経』が入ってあるのは存じ上げてお ります。……最早手加減などいたしませぬ。死んでくだされ。我ら滅の里三姉妹、三幻― ―いざ参る!!」  ヒュン! と三人のくのいちは風を切り、法相へと駆け出す。 「「「忍法――三位一体!!」」」  くのいちは一斉にそう叫んだ。そうすると、突如三人のくのいちの姿がぶれ始め……混 ざり合っていく。くのいちの姿一つに重なっていき――そして、一つのくのいちとなった。 そう、三人のくのいちが合体したのである。 「外法の術を使い、怪忍となったか……! 合体忍法……だが、そんなもので俺を殺せる とは思わないことだ!」  法相は刀を抜き、向かってくる合体忍者三幻へと向かって駆け出した。  三幻の使った忍法とは「合体忍法」と言われる、己の体を改造することにより使うこと の出来る外法のものだった。忍法により体が物理的に一つに融合し、その力も速さも三倍 になるというものであった。  法相目がけて、三倍の力で三幻が刀を振るう。 「くっ……三倍の力か! だが、俺には通用せんっ!!」  法相はその刀を己の方で受け止める。その力は三倍となった三幻にも負けてはいない。 鍔迫り合いになり、互いに押し合っていく。――だが、ただ力が、速さが三倍になるだけ が、忍法「三位一体」ではなかった。 「「「「せあーっ!!」」」  掛け声とともに一つのくのいちとして合体していた三幻が突如分離し飛び上がる。三人 のくのいちとして再び顕現したのだ。これぞこの合体忍法の神髄であった。攻撃は分離し て避け、三人で攻撃し、そして再び合体し、三倍の力と速さで攻撃する――実に面妖であ り、恐ろしい忍法であった。 「ちぃっ!!」  これまで法相が受けていた刀の力全てが消えてしまう。勢いあまり前のめりになったと ころを、三人のくのいちが狙う。三方向から刀の刺突が迫る。 「効かぬと、言ったはずだッ!!」  一気にその場を跳躍し、三攻撃を法相は避ける。再びくのいち達は合体し、三幻となり、 法相へと向かっていく。  忍者対忍者の死闘の幕開けであった――  そしてわずかな時が経った。わずかな時間ではあるが、双方ともに、かなりの時間を戦 い続けた心地がしていた。忍者の戦いとはそういうものである。戦いは終盤を迎えていた。 三人の忍者が分離し合体するという忍法により法相は翻弄されていたが、それでも元々の 技量の高さ故にそれを捌き、今は法相が優勢であった。 「……さて、そろそろ終わりにしよう。俺の娘が帰りを待ちわびているのでな」  そうすると、法相は一つの構えを作った。腕を顔の前で交差させる。それはさながら、 二つの龍の頭のようであった。 「行くぞ、忍法……「雙龍大昇天」!!」  二つの手から強烈な忍法が繰り出される――その直前であった。  合体くのいち三幻が法相に近づき、囁いた。 「ああ……その帰りを待つ娘は、今頃どうなっているだろうか」 「なっ……!?」  法相は絶句した。それは一瞬の好きであった。だが、忍者同士の戦いにおいては、その 一瞬が命取りとなる。普段の法相ならば、どんなことを囁かれても動じなかっただろう。 敵の忍者の言葉を信用するなど、忍者はしてはならないのだ。だが、忍者であると同時に 法相は人の親であった。娘が危険に晒されているとささやかれて、平静ではいられなかっ た。それの真偽がどうであれ。 「ぐ、ぐ、あ、ああああーっ!!!」  その隙を突かれた。法相が気づいたときには、彼の腹部には三本の刀が突き刺さってい た。血が溢れ、黒い忍装束に染みが広がっていく。 「貴様ら、貴様らぁぁあっ!! 華厳に、何をしたあああああっ!!」  般若のような形相で法相は三幻へと叫んだ。その声たるや、大地震わす龍の叫びとも違 わぬものだった。その意気に押され、三幻は後ずさるが、その顔には勝利の笑みが浮かべ られていた。 「さあ……それは自分で確認すればよろしいのではないかな……だが、お前はここで死ぬ。 お前の最後だ! 法相ッ!!」  そしてとどめの一撃を三幻が繰り出そうとした時だった。 「言われずとも、そうさせてもらおう」  法相の刀が三人のくのいちを切り裂いていた。 「ば、ばか、な、あの傷で、動けるはずが……ぐ、あああっ!」  ばたりばたりと三人のくのいちが倒れ伏していった。  法相は刀を収めると己の傷の具合を確かめる。致命傷である。忍術でもおそらくはわず かに命を永らえさせるぐらいしかできないであろう。 「ぐ、ぅっ……だめ、か、致命傷を与えられなかった、か……!」  くのいち三人は倒れているが、傷は浅く、衝撃で気絶しているだけというのは法相にも 分かった。だが、最早とどめを刺している時間も、体力も存在していなかった。それより もまず、法相には確認すべきことがあった。 「待っていろ……華厳!!」  娘の名を叫ぶと、法相は穏の里目がけて駆け出して行った――  法相が山道にて合体忍者三幻と戦いを繰り広げていたころ、穏の里の入り口付近で、小 柄な少女が一人、所在なさげにうろうろとうろついていた。 「まだかな……ったくおっせーんだよ親父は。もう戻ってる時間だろ……」  この少女こそ、法相の一人娘である九鬼華厳であった。まだ幼いながらも、父親の技量 と性格を受け継ぎ、強力な戦闘忍者へと成長しはじめていた。  華厳はいつもこうして父親の任務からの帰りを待ちわびていた。言葉に直接は出さずと も、父親の事を尊敬し、愛していたのである。法相はいつも時間通りきっちりと帰還する のが常であった。しかし、今回に限ってはそれを大きく超過していた。華厳は大丈夫だと 思いつつも、心配していた。  そうすると、向こうのほうから一つの影がこちらに向かって駆けているのが見えた。華 厳の父法相が戻ってきたのである。 「あっ、戻ってきた!! 親父―っ!! おそかったじゃねーか! どうしたんだよっ!」  華厳は父に向かって走り出し、その大きな腕に抱きついて、嬉しそうに父を見上げてい った。その父の姿はやけに傷ついており、疲れている様子が見えた。 「お、親父? ど、どうしたんだよその傷……いつも、そんなんじゃ……」 「よお華厳。悪ぃな、今日は少し任務に手間取っちまってな。待たしちまった。ああ? こ れか。心配すんな、大した傷じゃねえよ」  大きな腕で小さな華厳の頭を法相は撫でた。華厳に何かされた様子はない。どうやら先 ほどのくのいちの言葉は、法相の動揺を誘う虚言であったようだ。  法相は平静を保っていたが、それは忍術にて止血し、痛みを極限まで抑えていたからで あった。気を抜けばすぐに倒れ、絶命してしまうであろう。しかし、まだ幼い娘の前でそ れをすることはできなかった。自分の存在が、華厳にとってあまりにも大きいものである ことを法相は悟っていたのだ。 「さて……華厳。俺はすぐに行かなきゃならねえ。上の指令でな、それも緊急のだ。すぐ にいかねえといけなくなった。極秘任務だからお前にも内容はいえねえが」 「ええーっ!? 今帰ってきたばっかじゃんかよっ!! ちょっとぐれー休んでいっても ……」 「いや、駄目だ。すぐにいかねえとならねえ……それでだ、少しお前に頼みがあるんだよ」  そういうと、法相は懐から一つの巻物を取り出した。かなり古めかしい巻物である。 「えっ、親父、これって……」  これは法相がいつも肌身離さず持っていた『補陀落経』そのものであった。滅の里から 持ち出し、先程のくのいちたちが欲していた伝説の経典である。 「そうだ、『補陀落経』だ。お前にも前に話したと思うが、俺たちがこの里に来ることにな った理由の巻物だ。大事なものだ。俺の任務は多分かなり長くなる。すぐには帰ってこれ ねえ。だから……華厳、お前に託したい。長い任務になるからな、無くしたり盗まれたり したら困る。お前が護ってくれ、華厳。お前ももうそろそろ一人前の忍だ。護れねえなん てこと、ねえだろ?」  笑顔で法相はそう華厳に告げる。華厳はどこか不安そうな顔だ。今までの父ならそんな ことはいわなかったはずだ。自分で護ると憚らなかったはずなのに。 「あ、ああ、護るんなら守ってやるぜ! 親父の代わりにな! で、でも親父、長い任務 って……それに、やっぱり親父が持ってた方がいいんじゃ……」 「いや、良いんだ。お前が持て。何かを護りながら戦うというのも修行の一環だ」  華厳の言葉をさえぎって法相は言う。時間がなかった。早く伝えるべきことを伝えなけ ればならない。 「……いいか、華厳。もしもこれから、ものすごくヤバいことになったとき……お前が滅 の里の連中に追われて追いつめられたりしたときだ……そのときは、この言葉を唱えろ。 「オン・ハンドマダラ・アボキャジャヤニ・ソロソロ・ソワカ」……忍の記憶術で覚えて おけ。いつでも言えるようにしとけ。今すぐにだ。……そうすれば、きっとこの『補陀落 経』がお前に力を貸してくれるぜ。いいな、ヤバいときはそれを使うんだぜ。俺がいねえ から護ってやれねえしな」 「え、あ、ああ、わかったよ、親父……「オン・ハンドマダラ・アボキャジャヤニ・ソロ ソロ・ソワカ」……なあ、これってどういうことなんだ? 守ってくれるってどういうこ となんだ……?」 「……いいか、頼んだぞ、華厳。……これから、色々辛いこともあるかもしれねえ。苦し いこともあるかもしれねえ。だけど、負けるな。お前は俺の娘だ。忍の道っていうのはま さに忍ぶ道だ。耐えろ、そして道を切り開け。お前なら出来るはずだぜ。……じゃあな、 俺はもういかないとならん。あばよ、華厳」  華厳の質問には答えず、ただそれだけ言うと、法相は華厳に『補陀落経』を手渡し、後 ろを振り向き、先程とは違う方向へ向かって駆けて行った。 「あっ、待てよ親父! 待てって!! なんでそんな、永遠の別れ、みたいなこというん だよっ! 死ぬわけじゃねーんだぞっ! なあ、親父、長いってどれくらいなんだよ…… 親父ぃーっ!!」  華厳の言葉にも振り返らずに、法相は消えていった。明らかに様子のおかしい法相に、 華厳は不安を覚えていた。まるで死出の旅の別れのような言葉を残して、父は消えていっ た。 「……ここまで、くりゃあ大丈夫、だろ。気配も消してある……あのままあそこにいたら、 術が解けちまう、ところだったからな……」  深い森の奥まで法相は来ていた。既に歩くこともままならず、その場に倒れこんでいた。 「あいつの目の前で死んだら……あいつ、泣いちまってだめ、だろうからな……俺が死ん だのを目にしたら、戦えねえかもしれねえ……」  あのくのいち達は今頃意識を取り戻し、法相が去って行った穏の里のほうへと向かって いるはずだった。華厳は里のすぐ近くにいた。あのくのいちたちと遭遇しても、里のもの がすぐに駆けつけるだろう。そう法相は考えていた。  自らの命が絶たれたことを知れば、華厳はこれから来たるべき戦いを戦えないかもしれ ない。それ故に心を鬼にして、あのような嘘までついて、ここまで逃げてきたのである。 自身が死ぬ姿を見せないために。 「それに……あいつは、おそらくあれに選ばれている、はずだ……あいつなら、変身でき る……『補陀落経』の力を使えるはずだ……華厳……辛い、使命かもしれねえ……だけど、 お前なら、やってくれると、信じているぜ」  息も絶え絶えになり、法相の絶命は近かった。 「俺は無理だった……あれを護ることしかできなかった。だけど、お前なら……華厳…… たのん、だぜ……あば、よ……」  そういうと、最後の力を振り絞って、指で一つの印を切った。 「……忍法「魂魄転生」……最期くらいは、お前の力に、なる、ぜ……華厳……がんばれ、 よ……俺は、いつも、お前の中に、いるから、な……」  すると、突如法相の体が燃えあがり始めた。忍法「魂魄転生」は、忍が最期の時に使用 する秘奥義である。己が体を燃やし、最後の魂の力を任意の人物に与え、力を強化できる というものである。父の魂は子に宿り、子を強くするのであった。  そして、炎はより強く燃え上がり……法相の体を燃やしつくしていった。灰と、なるま で――  華厳は、呆然とした様子で父親が去るのを見ていた。結構な時間、父親が去ったのを眺 め、ふと『補陀落経』に視線を落とした。ふるぼけた巻物。これに、里を抜け出してまで 護る価値があるのかどうか華厳にはわからなかった。だが、華厳は父親から言われた通り、 これを護ることを誓うのだった――父親が帰ってくるそのときまで。  その時であった。父親がやってきた方向から駆けてくるものがあった。その影は三つ。 そう、法相が気絶せしめたくのいち、三幻であった。 「……! ここは穏の里かっ! 奴め……里に逃げ込んだか!?」 「だがあの傷だ。そこまでできるはずがない……」 「いやまて、前を視ろ……あの娘、もしかすると法相の娘ではないか?」  法相を探し三人のくのいちはあたりを見渡していたが、ようやく華厳に気づくと一気に 視線を彼女へと向けた。 「……何だよてめーら。もしかすると滅の里のくのいちか? そうだ、あたしが九鬼法相 の娘、華厳だ……あたしらを追ってきたんなら、相手になるぜ?」  キッと華厳は三人を睨み付けた。まだ幼いが、里の者としての使命は心得ている。滅の 里のものをこちらの里に入れるわけにはいかなかった。 「チッ、法相は逃げたか……再び探さねば」 「まてっ! あの娘が持っているのは……」 「『補陀落経』……!?」  彼女らは華厳が持っている『補陀落経』に気が付いた。それを感じ、華厳は強く『補陀 落経』を抱きしめた。 「……これは渡さねーぜ。親父から託されたもんだからな……あたしから奪おうってんの か? いいぜ……かかってこいよ。ぶちのめしてやる!」  威勢よく啖呵を切って華厳は身構える。 「何? 娘に託しただと……彼奴め、どういうつもりだ」 「だがこれは都合がいい。この小娘ならば、すぐに奪うことは可能だろう。里の前だが… …すぐに奪えば問題はない」 「ああ、千載一遇の機会……これまでの汚名を晴らさせてもらうぞ!!」  そう言うと、三人のくのいちは一斉に華厳に向かって襲いかかった。 「きいてりゃ好き勝手いいやがって!! 誰が小娘だ! 何がすぐに奪うことができる だ! あたしを舐めたら……いたくつくぜっ!!」  負けず嫌いの華厳は彼女らの言葉に腹を立て、こちらからも向かっていった。負けず嫌 いゆえに、里に救援は呼ばなかった。その時間がなかったというのもあるが。しかし、頭 の中では、三対一は厳しい――そう分析していたのであった。  華厳の戦闘のセンスは抜群であった。三人相手でも引けを取らず、敵の攻撃を上手く捌 き、反撃していった――だが。 「中々良い動きをするな……さすがはあの法相の娘か。だが、これはどうかな?」 「「「忍法「三位一体」!!」」」  三人のくのいちがそう叫ぶと、くのいちの体が一つに融合していく。このような怪忍法 を見るのは、華厳にとって初めてであった――否、穏の里のゼンマイなどは例外ではあっ たが―――故に、その衝撃たるや、計り知れないものだった。 「……!? ば、馬鹿なっ! 三人が、一人に……!? どーゆーことだよっ!!」  三倍の力と速さを手に入れた合体くのいち三幻の登場に、華厳は動揺してしまった。実 戦経験もほとんどない華厳にとって、この相手はかなり不利であった。 「う、くぅ、うあ、あああああっ!!」  華厳は一気に吹き飛ばされる。だがすぐに追撃が始まり、三幻による嬲りが始まった。 とても今の華厳では敵う相手ではなかった。 「あ、くぅ、あひ、あ、い、あああああっ!!」  華厳の体は傷つき、ダメージを受けていく。吹き飛ばされ、倒れ伏したところで攻撃が 一時止まる。 「どうだ、華厳。我々に敵わないのはわかっただろう? だから、すぐにそれを寄越せ。『補 陀落経』はお前が持っていても仕方のないものだ。さあ、渡せ」 「嫌だッ!! 誰が渡すもんかっ!! これは、あたした護るんだっ!!」 「なら……死ね!」  そして、三幻が刀を振り上げた時であった。  華厳は、『補陀落経』を護るように抱きしめながら、危機が迫った時に父親が言うように 教えてくれたあの奇妙な言葉――真言を唱え始めていた。 「オン……ハンドマダラ・アボキャジャヤニ……ソロソロ……ソワカッ!!」  華厳が真言を唱えた瞬間である。突如、『補陀落経』がまばゆい光を放ち始め、華厳ごと 包み始めた。 「な、なんだ、なんだこれは……う、わっ!」  三幻はそれに怯み後ずさる。  華厳も驚愕の表情でそれを見ていたが、何やら様子がおかしいことに気が付いた。周り 風景が次々と変わっていくのである。先ほど戦っていたくのいちの姿も、穏の里もどこに もなかった――  ――虚空蔵に接続……アーカーシャの門を開く――  ――補陀落渡海……選ばれし者の浄土往生――  ――自在忍……「不空」となるもの――  ――天魔を滅ぼすもの――  ――心念不空の索をもってあらゆる衆生をもれなく救済するもの――  ――華厳―― 「なんだ、ここ……一体、どうなって……!?」  華厳はいつのまにか、ぼやけた光に包まれた、真っ白い世界の上に立っていた。そこは 煌びやかな海の上であった。蓮の葉がいくつも海面に浮かんでいた。海の色は金色に輝い ており、まるで現世のものとは思えなかった。 「こ、これ……極楽、か? あたし、死んじゃったのか……!?」  何となく、古老などから聞いていた極楽の景色と似通っていた。華厳は海の上の蓮の葉 の上に立ち、あたりを見回した。あまりに広大であり、果てが見えない。まさに極楽浄土、 仙界と言っていいような、異界の風景であった。  すると、華厳の前を包んでいた霧が晴れはじめた。そして現れたのは――巨大な山であ った。 「で、でかっ、なんだ、この山……!?」  その山は八角の形になっており、とても奇妙であった。華厳がこれまで見たことのない 金や銀の花をもつ木々が栄え、この世ではありえない美しい色にその山は輝いていた。華 厳はそれを言葉もなく、息を呑んで見る事しかできなかった。  華厳はこのまだ、この場所がいかなるものか知らなかった。だが、こここそが……彼の 補陀落浄土」であり、目の前の山こそが、かつて補陀落渡海を決行した僧侶たちが目指し た「補陀落山」であった。華厳は「補陀落浄土」へと至ったのである。  金や銀、そして七色に輝く山の上には、煌びやかな衣装に身を包んだ、中性的な顔の人 物が、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。そして、山の周りを何人もの僧侶らしい人間 が、蓮の葉の上に座り、穏やかな笑みを浮かべていた。全てもののが、華厳を見ていた。 「観音、様……?」  その中性的な人間の慈悲に満ちた笑みは、かつて華厳が見たことのある観音菩薩像の姿 ととてもよく似ていた。思わず、華厳はそう呟いてしまったのである。この「補陀落山」 が観音菩薩の降り立つ場所であることなど、華厳は知る由もなかった。  そして、山の周りで蓮の葉に乗って浮かんでいる僧侶たちこそ……『補陀落経』を著し た異端の忍集団、「補陀落宗」のかつての面々であった。  「忍即仏」という異端の教義を持ち、忍者でありながら僧侶である彼らは、遠い将来に 天魔という恐ろしいものが地上に降臨し、世界の全てを破壊するという光景を幻視し、そ の未来を変えるために、「補陀落宗」の全員が、補陀落渡海船という四方を鳥居に囲まれた 船に乗りこみ、補陀落山を目指して海の彼方へと旅立った。補陀落浄土に往生し、成仏し て、衆生を救うために。そして、天魔への対抗策として『補陀落経』を著したのである。  観音と補陀落宗の面々が、補陀落経に記された真言を唱えた華厳をこの浄土まで導いた のである。華厳はあまりのことに、ほとんど声も出すことが出来なかった。  そうすると、中性的な顔立ちの人間が、山の上から華厳に対して手を伸ばした。すると、 まばゆい光の球が手から放たれ、それが華厳へと向かっていき――華厳の胸の体の中に入 って行った。 「なっ……これ、は……!?」  不思議な力が己の体にやどったことを華厳は悟った。そう、観音から、華厳は与えられ たのである。来たるべき天魔と戦い……遍く衆生を救済する存在、自在忍……変身忍者不 空となるべき資格を。  そして、観音は再びやわらかい笑みを向けた。言葉は何も発せられることはないが、華 厳の中には、直接何かが語りかけられていった。  華厳の体に光の球が入り、変身忍者不空として選ばれたときである。突如、観音と補陀 落宗の面々、補陀落山が急速に遠ざかり始めた。 「あ、ま、、待って……!」  だがそれは止まることなく。やがて全てが遠ざかり、華厳の視界から消えていった――  ――虚空蔵に接続……アーカーシャの門を開く――  ――自在忍となるべき光を与え――  ――すべての真言、印を伝え――  ――選ばれしもの――  ――今こそ、時は来たれり――  ――唱えよ――  ――オン・ハンドマダラ・アボキャジャヤニ・ソロソロ・ソワカ――  ――蓮華を持し、空しからず敵を打ち破る尊よ。出現したまえ。出現したまえ――  気づくと、華厳は穏の里の前に立っていた。浄土へと至る前の場所に戻ってきていたの だ。 「あ、現れた……!? どこに消えていたというのだ……!」  三幻は驚愕の表情を浮かべていた。浄土と現世では時間の流れが違った。華厳はかなり 長い時間浄土にいた気がしていたが、現実では一瞬の事であった。  そして、華厳は『補陀落経』を手にし、それを構える。  すべてのことは、既に頭の中に記されていた。あらゆる知識が存在する虚空蔵に接続し、 変身忍者不空への即忍成仏のことは、全て頭が、体が理解していた。その理屈や意味など は、今はまだわからずとも。 「オン・ハンドマダラ・アボキャジャヤニ・ソロソロ・ソワカ」  華厳の口が開き、ごく自然の事であるように真言を唱えていく。  華厳は腰まで『補陀落経』を持っていく。すると、補陀落経がくるくると回転し、自在 に伸縮し、腰へと巻きついていく。 「蓮華を持し、空しからず敵を打ち破る尊よ。出現したまえ。出現したまえ」  その瞬間、華厳の体を金色の光が、浄き光がつつみ始める。華厳の足元には大きな蓮が 出現し、台座のように機能しはじめる。 「変――身――! 忍法「即忍成仏」!!」  変身忍者不空へと疑似成仏する忍法、「即忍成仏」が今ここに発動したのである。  黄金色の光の中で、華厳の服が次々に消えていきはじめる。華厳は両手を伸ばし、『華厳 経』の力に全てをゆだねていく。  そして、次は四つの鳥居――あの補陀落渡海船と同じような――が華厳の周りに出現し、 華厳の周りを回転しはじめる。その間、華厳はただ『補陀落経』に記された真言を唱え続 けている。  黄金色の光が、裸になった華厳の体を服の代わりに包み始める。華厳は両手で印を結ん でいく。印を結ぶたびに、黄金色の光が奇妙な服へと変化しはじめる。これこそ、「補陀落 経帷子」に他ならなかった。普通、死者が切るような経帷子とは全く違う特殊なものであ る。  顔は特殊な面頬で覆われていき、それは仮面のように華厳の顔を覆う。忍者の首に巻か れている布も変化し、梵字の書かれたものになっていく。  ――ついに、ここに「変身忍者不空」が姿を現した。滅の里の旧家の女でも、華厳の父、 法相でも成し遂げられなかった「即忍成仏」を華厳が成したのである。  金色の光が消えていく。しかし、変身忍者不空には後光が差していた。その経帷子はま るで鎧のような素材であり、赤とも金色ともつかぬ光を放っていた。首には長い布が巻か れており、そこには梵字による真言が書かれている。変身忍者不空の周りには、二つの法 輪――いわゆるチャクラム――が浮かんでいた。顔を覆う仮面は、最初は慈悲深い仏のよ うな表情であったが、それは今は怒りに燃えるような表情に変わっている。天魔を、悪を 滅ぼすための、戦いの姿になった証拠である。輝く二つの眼、そして額には、縦長の瞳が 光り輝いていた。  蓮の花の上に出現したそれは、まさにこの世に出現した仏であるかのような姿であった。 これこそ、天魔を滅ぼし、衆生を救済する「変身忍者不空」であった。 「な、何だこれは……!? まさか、『補陀落経』を使って変身したというのか……!? こ、 これは、一大事だ……報告、しなければ……だが……」  そのあまりの異様、後光に三幻は怯んでしまっていた。たとえ普通の人間でも、目の前 にいるのがこの世のものではないというのは理解できた。目の前にいるのが変身忍者不空 であるということを。 「あれを倒せば『補陀落経』が手に入る……いまなら、あの小娘が相手なら、まだ……!」  わずかな希望にすがりながら、三幻は不空へと向かい駆け出し、無数のクナイを連続で 投擲する。 「――往け。法輪よ。我が敵、その煩悩からの解放を」  不空の言葉に呼応するかのように、二つの法輪が回転を始め、向かってくる無数のクナ イにぶつかって行き、それらを砕き、破壊していく。 「く、ぅぅっ……まだ、まだだっ!! 分離ッ!!」  瞬時に三幻は三人のくのいちに戻り、間髪いれず、一斉に刀で不空へと切りかかる。だ が―― 「……!? いないっ!?」  切りつけた先には。もう何も存在していなかった。変身忍者不空は、彼女らの後ろに移 動していたのだ。瞬時に、移動した仕草さえ見せずに。 「馬鹿な、こんなバカな……! 移動した動作も何も見えないだと……人間業じゃない っ!!」  くのいちの一人がヒステリックに叫ぶ。まるで霞の如くして、不空は消えたのである。 「ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カン マン」  不空は真言を唱えると、手で印を切っていく。 「来たれ――煩悩を破壊する剣よ」  虚空から突如炎に包まれた剣の柄が出現する。不空はそれを掴みとると、虚空からそれ を抜き取っていく。倶利伽羅剣――仏敵を正しき道へと戻す剣を抜き取ったのだ。 「く、ぅ、ぅぅ、うお、おおおおおお!!」  再び三幻として合体したくのいちたちは。三倍の力をもって不空に切りかかる。しかし その剣戟全てが、不空の倶利伽羅剣により簡単に防がれていってしまう。 「生死即涅槃――煩悩即菩提――今こそ、汝らの煩悩を解き放ち、浄土への道を開かん」  すると、虚空から端に金具のついた縄が出現し、網のよう形状を変化させ、三幻を縛り、 拘束していく。こうして、最早彼女らの煩悩、邪悪は逃げられなくなったのだ。 「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラマニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタ ヤ・ウン」  不空は剣を構え、高く高く跳躍する。不可思議な輝きが体を包み、経文の詠唱がどこか らか聞こえてき始める。虚空蔵から無数の力が不空へと集まり、龍の絡みついた炎の剣の 輝きがどんどん増していく。 「不空遍照尊よ、大印を有する尊よ、摩尼と蓮華の光明をさし伸べたまえ――!」  そしてそのまま剣を構えたまま、一気に三幻の方へと降下し、剣を振るった。  凄まじい勢いと輝き、無量の光が三幻を包んでいく。 「うわ、あ、ああああああ――!!」  三幻の叫びが木霊する。  剣の光は全てを切り裂いた。音を立てて、縄が砕け散る。  三幻の周りには蓮の花が咲き始め、清らかな光が彼女たちを照らす。 「――涅槃、寂静。汝らの煩悩、既に消えたり」  憤怒の表情を浮かべていた不空の面が、瞬時にあの慈悲深い表情に変わり、体の色も金 色へと変わっていく。剣は虚空に消え、三幻らを振り返るその様は、まさに仏の化身と言 ってもいいようなものであった。 「……あ」  あれほどの強烈な攻撃を受けていたのにもかかわらず、三幻らの体には傷一つついてい なかった。不空が切り裂いたのは彼女たちの体ではなかった。彼女たちに憑りつく煩悩、 邪悪なる力、「外法」の忍法を破壊したのであった。最早彼女たちは怪忍ではなくなり、あ の合体忍法も使えなくなったのである。  三幻は呆けた表情で、どこかすっきりしたような顔で空を仰いでいたが、すぐに気が付 くと、三人は立ち上がり、不空を睨んだ。 「ま、まさか、これほどの力とは……! 覚えておけ、必ず、必ず、この屈辱は晴らす― ――!! 不殺など慈悲を掛けたつもりかもしれんが、後悔することだな!!」  そう叫ぶと、己が主人に事の顛末を伝えるべく、三人は脱兎のごとくその場を後にした のであった。  それと同時に、変身忍者不空の姿は霧のようにして消えていき、そこに代わりに現れた のは、服を着た、もとのままの華厳がいたのである。 「あ、ああ……」  華厳はただ何が起こったかわからず、体の異様な疲れを感じ、地面に膝をつき、大きく 息を吐いたのであった。  まるで体や口が己のものではないかのような、そのような感覚が強く華厳を襲っていた。 「おい、大丈夫か!」 「先ほどの光は一体何が……」  倒れ伏す寸前の華厳を、巨大な腕が受け止めた。それは頭巾で顔を隠した大男であった。 穏の里の上忍、猛々しい体躯の益荒男、刺草であった。華厳の父である法相の友人であり、 法相が心を許していたものでもあった。 「イラクサの、おっさん……」  力なく華厳は刺草に向かって言った。 「先ほど逃げていったくのいちは滅の里の者か……お前が退散させたのか?」  刺草に次いで現れたのは一人の少女であった。黒髪を頭の後ろでまとめ、腰に二つの刀 を備えた少女である。里の名家の一つである鳥羽家の当主、左文字であった。女であると いう生まれのために様々な苦労をし、今でも気負う所が多く、よく華厳と喧嘩をしている 少女だ。 「左文字も……ハハ、なんだ、おせーじゃねーか二人とも。もうあたしが……あたしが?  倒しちまったよ……」  力なく笑いながら、華厳は言った。 「華厳、何があったか話してはくれんか?」 「そうだ、滅の里の者が近くに来たとなると、何かよほどのことがあっだのだろう。俺と しても知っておきたい」  二人にそう尋ねられたので、華厳はぽつりぽつりと、これまであったことを話していっ た―― 「……『補陀落経』に、不思議な世界、変身忍者か……にわかにはなかなか信じられん話 だのう」 「だが現に『補陀落経』は華厳の手に在る。父親の法相殿が託したのは間違いあるまい」 「でも、事実だぜ。あたしはあの世界にいって、何かよくわからねーけど……忍法「即忍 成仏」を使えるようになったんだぜ」  どこか自慢げに華厳は言うのであった。情報が少なすぎ、また『補陀落経』に関しては、 この親子に任されていたところがあるので、刺草と左文字は何も言えないのであった。 「それで……法相殿は、どこへ行ったのかのう。華厳、知っておるか」 「えっ……? たぶん、あのくのいちたちと戦ったからだと思うんだけど……やたらと傷 ついてて。休んでけっていったんだけどよ、緊急の任務があるからって、あたしにこの巻 物を託して、どこかへいっちまったよ」 「緊急の任務……?」  刺草は首を傾げた。そのような話は特に聞いていなかったのだ。 「刺草……これは、まさか……!」  左文字が大体の想像はついたようで、思わず口に出そうとする。法相とはそういうこと をしてもおかしくない男であった。  しかしそれを、手で押さえるようにして、刺草はやんわりと制した。 「……ああ、言っておったよ。遅くなるとな。かなり時間がかかってしまうから、華厳に 『補陀落経』を預けておくとも言っておったわ」  わしゃわしゃと大きな手で華厳を撫でながら、刺草は言った。 「何だ、そーだったのかよ。変な心配して損したぜー。長いって言っても、どれくらいな んだ?」 「いや、それは……俺にもわからんよ。何せ、重大な任務だそうだからな」 「そうかー、親父が返ってくるころにはあたしも一人前の忍者になってるかもしれねー な!」  無邪気に喜ぶ姿を見て、左文字はどこか悲しげな瞳を華厳に向けるのであった。  あまり父の事に缶sにて話してばかりいれば、いずれ気づいてしまうこともあるかと思 い、左文字は話を変えることとした。 「まあいい。ちゃんと上に報告はしておけ。貴様はいつもそこが適当だからな」 「でもさー、あたしすごい力手に入れたんだぜー。なんだかよくわかんねーんだけどよー」 「聞けと言っているだろうッ!!」 「サモもそんなカリカリすんじゃねーよ、いつも怒ってばっかりだと皺になんぞ」 「なんだと……!! くのいち風情に心配されるようなことではないっ」 「あ? くのいち風情とはなんだテメー!! それだったらテメーも女じゃねーか!」 「うるさい! 俺は女ではない、忍だ!」  ぎゃあぎゃあと二人の言葉の応酬。そしていつものように喧嘩が始まったのであった。 「やれやれ、元気なことだのう。戦いが終わった後というのに呑気な……ま、らしいとい えばらしいが」  小さくため息をつきながら、刺草は二人の姿を見ていた。若いものは元気があっていい と言わんがごとく。 「しかし……」  刺草は天を仰ぐ。一番星が輝き始めている夜空だ。 「……逝ったのか、法相よ。お前ほどの男が……そうか」  巨漢が空に向かって合掌する。 「今度我々に下される、忍の秘伝の宝というものと……今回の件。果たして関係があるの かどうかわからんが……おぬしの娘のことは、お前に変わって、見ておくとしようぞ」  空に向かって、今は亡き法相に告げるように、言ったのであった。  それからというもの、毎日毎日、里の入り口に立って、華厳は父の帰りを待ち続けた。 雨の日も風の日も、待ち続けた。  既に父は死んだのではないかという話も当然耳にした。しかし、華厳は信じなかった。 親父がくたばるわけがないと言って聞かなかった。変身忍者になったことを伝えたい。ち ゃんと『補陀落経』を護ったことを伝えたい。その思いでいっぱいだった。  しかし――法相が帰ってくることはなかった。  今日に至るまで。伝説の財宝を探せという指令が下り、華厳が里の外に出て、今日に至 るまで。  ――法相は、帰還することはなかった。  こうして、九鬼華厳は数奇な運命により、変身忍者不空となり、滅の里の追手や、「天魔」 と呼ばれる謎の存在と戦う使命を背負うことになったのであった。  だが、華厳はまだその使命の意味にも、重さにも気づいてはいない。まだ、物語の歯車 は回りだしたばかりなのである。  闇を駆け正義を成す忍――変身忍者不空の、天魔を倒しすべての衆生を救う冒険は、ま だまだ始まったばかりなのである―― 第一話 終