敗北の序章/凌辱され、失われても空に在る星は未だ墜ちず
鉄が砕けていく。
鋼が砕けていく。
星が砕けていく。
それは圧倒的な絶望だった。
それは圧倒的な力の差だった。
大気圏の向こう側、地球と宇宙が接する場所で壮絶な戦いが行われていた。
否、それは蹂躙か。
戦闘と呼ぶにはあまりにその形勢ははっきりしていた。
「ぐ、うぅぅっ……！ このまま、では……！」
宇宙空間に浮く一つの巨大な影があった。それは鉄。それは鋼。それは巨人。
どこか禍々しい気配すら発する鋼の巨人がそこにいた。
人型であるはずだが、右足部分は折れ、左胸には巨大な穴が穿たれ、もはやそれは人の形を保てていなかった。
黒き巨人は既に崩壊寸前であった。目の前の存在によって、容赦なく蹂躙された結果である。
左胸がえぐられた結果、まるで操縦席のような場所が露出していた。その場所には、白く輝く髪を持った幼い少女が座っていた。
宇宙空間で生身を晒しているにもかかわらず、窒息することもなければ、体が破裂することもない。どうにも、人ならざる少女のようだ。
少女もまた、この黒い巨人と同じように傷ついていた。変形した和服のような衣装はところどころが破れ、白い肌が露わになってしまっている。体のいたるところに生々しい傷が刻まれ、血が流れていた。
黒き巨人はこの少女の操縦するロボットであるらしかった。非常に頑丈そうに思われるその装甲も、何か途方もない力によって圧潰し、抉られてしまっていた。もはや戦う力など残ってもいないように見える。
「動け……動かんか！ アマツミカボシ！！ 我らはまだ、立ち上がらねばならん！」
白髪の少女は操縦席の中でコンソールをドンと叩き、叫ぶ。それに呼応するかのように、アマツミカボシと呼ばれた機械の巨人は弱弱しく右手を前に伸ばす。しかしその直後、その右手も破砕し、宇宙の藻屑と消えていった。
「くっ……！ やはり、術者なしでは……！」
焦りの入り混じった声で少女はその絶望を露わにした。そして、目の前にいる「それ」を見る。この巨人がここまで朽ち果ててしまう原因となったものを見る。
「おのれ……！ おのれっ！ この、混沌めがっ……！」
少女の目の前では何かが嘲笑っていた。少女を。巨人を。世界を。
目を赤く輝かせ、宇宙の闇よりもさらに暗い闇を、それは纏っていた。
一見すれば、それは人型のようだった。普通の人間の大きさである。宇宙空間に浮かび、少女と同じく窒息することも破裂することもしていない。
赤い口元を愉悦の形に大いに歪ませ、「それ」は哄笑を宇宙に放つ。無酸素の世界であっても、それは確実に少女の頭へと響いていく。
人の形をしていながら、異形。人間の男性の顔の形状に似た頭部は避け、そこから赤い三つ目が少女を覗いていた。常人が見れば、瞬時に正気を失ってしまいそうなおぞましい光景がそこにあった。
「もう少しやるかと思っていたが、随分と期待外れではないか。彼のアル・アジフの写本たるものよ。やはりオリジナルには敵わないのか？」
「黙れ！ 黙れ！ ……我は世界最高の魔導書だ。原典さえ超える……！ そして、今ここでお前を倒すのだ……外つ神を」
少女が「混沌」と呼んだ存在の嘲りに憤りを見せ、少女は叫ぶ。だが、最早少女自身もわかっているように、「混沌」に抗う術はない。
「混沌」は、まるで赤子の手を捻るようにして、このアマツミカボシという機械の巨人を嬲っていった。その普通の人間ほどの大きさの体で。
「もう少し賢いと思っていたのだがね……今君が虚勢を張ったところで、何にもならない。それとも、まだ嬲られたいのかな？」
「ッ……！」
屈辱に身を震わせ、少女は強く強く混沌を睨み付ける。
もう、それしかできない。
「……さて、このまま君を壊してもいいのだが、それでは聊か面白味に欠ける。1000年を超える因縁の対決の結末にしてはあまりにも退屈だ。倭文の者たちが滅んでもなお戦い続ける可憐なる君の終焉にしては、あまりに面白くない」
混沌の笑みがさらに深まる。裂けた口がより三日月の形に近くなっていく。
「だから、そうだな。ゲームをしよう。私の遊び相手となってくれ。愛しの倭文祭文註抄集成」
「な、なんじゃと……何を、言っている……！」
混沌の意図がわからず、困惑した声を少女は上げる。「殺すならば殺せ」と叫ぶが、混沌はそれを無視して、言葉を続ける。
「君は面白い存在だ。そして、今後面白い運命にも出会う。それを、ここで奪ってしまうのは惜しい。惜しい。私は君を買っているんだ、わかるかな？」
禍々しい気配が強まり始める。鉄の巨人から放たれる禍々しさとはまた異質な、圧倒的な禍々しさが、少女の周りに満ちていく。
「な、なんじゃ……！？」
少女の視界を闇が覆っていく。操縦席自体が、何か不定形の闇に覆われていっている。
「――だから、まず手始めに屈辱を刻もう。徹底的に、君という存在を凌辱しよう。それでもなお立ち上がってこそ、私を楽しませることができる……」
「やめろ！ 何をする気じゃ！ やめろ――！！」
少女の視界を完全に闇が覆う。ねっとりとしたゼリーのような感触が、少女の体を包む。
「君という物語を演出してあげるんだ。感謝したまえ。そして、ヒロインはまず敗北しなければならない。そう、それが私の美学だ」
黒い粘着質の闇が少女の体に絡みつき、服の内部に入り込んでいく。どろりどろりとし闇が皮膚の上を這い、想像を絶する悪寒が体を走る。
「くぅ、ぅぅっ……この、闇は……！ な、何を、何を――！ あ、があぁっ！？」
そして、次の瞬間、少女の苦痛の声が上がった。
黒い闇の球体に覆われた少女が、その内部で悲鳴を上げた。
「ひぎいぃっ！？ いぎぃあ、ああああっ！ ひあ、あが、ああああああああっ！！」
その闇の中で何かおぞましいことが行われているようだった。布の避ける音、何かの貫かれる音、何かが締め上げられる音、それらが宇宙空間にも関わらず響く。
あらゆる穴という穴に闇が入り込み、蹂躙する。凌辱する。浸食する。
「あひぃぃっ！ ひあ、いあ、いああああっ！ やめろおぉぉっ！ いぎぃ、あ、があああっ！！」
びくんびくんと闇の中で何度も少女の体が跳ねる。やがて口も全て何かで覆われたのか、くぐもった声しか発さなくなる。
最高の魔導書と自称する少女の幼い肉の全てが。
最高の魔導書と自称する少女の記述全てが。
凌辱される。辱められる。覗かれる。解析される。奪われる。
闇が少女の、書物の内部をかすめ取っていく。あらゆる外道の知識、邪悪の知識が記され、それらに対抗する為の術を記したものが。
「ん、ふぅぅぅ、ふあ、ん、ぐ、ぅぅぅぅっ！！」
信じがたい苦痛を少女は受け続けていた。四肢を拘束され、無慈悲に、ただ無慈悲にその存在を犯される。邪悪なるものによって改竄されていく。
闇を注ぎ込まれ、力を奪われる。これまで1000年以上闇と戦い続けてきた誇りが穢されていく。這いずり回る混沌によって。這い寄ってくる混沌によって。
幼い肉も。最高の知識も。隠された神話も。全てが穢された。弄ばれた。
「あ、ひぃぁ、ふ、あ、あ……」
そして、闇は消えた。少女を包み込んでいた闇の球体は消えた。
そこに残るのは、その白い肌をほとんど晒した少女のみだった。
瞳から光は失われ、涙で顔は濡れ、皮膚を汗が伝っている。
足を開き、呆然とした様子で、宙を見つめていた。ぴくん、ぴくんと体が何度も痙攣し続けている。涙、汗などの体液があふれ出ていた。
「どうだった？ 君の仇敵に全てを覗かれ奪われル凌辱され辱められる気分は？ もう立ち上がれないかね？ このまま沈んでいくかね？」
混沌の笑みがさらに深まる。愉悦。快楽。それらの歪んだ感情が言葉となって表れていく。
「……だま、れ……」
目に光を失い、呆けた様子の少女だったが、混沌の言葉を受けると、瞳の奥にほのかに怒りの炎が燃え上がり、凌辱された身体を無理起こしながら、混沌を睨む。
「沈んでいくものか……我は貴様たちを全て屠る存在だ。こんなところで、負けて、くじけて、なる、ものか……」
邪悪と戦い滅んでいった倭文の者たち。自分を記した邪悪と戦う一族の者たち。それらに報いるためにも、少女は止まれない。
「――素晴らしい！」
そして、混沌は最高の笑みを浮かべた。
目を輝かせて。心底嬉しそうに。
「そう、そうでなくては。そうでなければ、私の遊び相手にはなれない。いいだろう、ならば見せてみろ。今度こそ、私を倒して見せるがいい。――邪神を以て邪神を滅ぼす者よ」
刹那、少女の胸部が光り輝き、そこから一つの和綴じの分厚い本が現れる。
これは『倭文祭文註抄集成』である。この少女の真の姿。この少女は、この書物の精霊なのだ。
「あ、ああ、あっ……何を、する気、だ……！」
現れた自分の本体に、力なく手を伸ばすも届かない。
「全て奪うだけにしてやろうと思ったが、それも面白くない。だから、こうしよう。全てを取り戻してみせるがいい、世界最高の魔導書よ」
その頁が一人でに次々と捲られ始め、頁の紙片が千切れていく。少女から失われていく。
「が、ぁ、あ、ああ――」
頁が破られていき、それと同時に少女の意識も失われていく。
鋼の巨人も瓦礫のように崩れ、光となって消えていく。
頁は注に浮き、少女から離れていく。
「なんの意志かはわからないが、魔導書が集う……面白いことじゃないか。その運命の中に、君も身を投じたまえ。そして、すべてを取り戻して、私の元まで戻ってきたまえ」
混沌が、右手を前に突き出す。一人宙に浮く少女に向かって。
「だから、せいぜい、始まりは忘却の海に浸っているがいい。そのほうが、君にとっては幸せかもしれない。この凌辱の記憶さえ、遠い闇に消えるのだから」
混沌の右手に昏い光が集まっていく。名状しがたい力が集っていく。
「――では、また会おう。君が良い主と出会えることを願っているよ」
闇の光が一気に放たれた。凄まじい衝撃が少女の意識を奪い、あらゆるページごと、吹き飛ばしていく。
混沌の眼下に広がる青い星。
その地球目がけて、少女とその頁は落ちていく。
墜ちていく。
鉄は砕け。
鋼は砕け。
星の神もまた力を奪われ、砕けた。
それでもなお、少女の意志は消えなかった。邪悪を滅ぼす思いは消えなかった。
少女は落ちていく。記述を奪われ、偽りの記憶を与えられて。忘却を与えられて。
改竄された記憶を頭に残して、少女は落ちていく。
とある街に、少女は落ちて行った。
その頁と共に。その頁は街へと散らばって行った。
冒険者の街へと。