神仙武侠伝 拳聖葉青道人 〜闘弟子勇者之器篇〜


  曰く、遂古の初は、誰か之を傳道せる。
  上下未だ形あらず、何に由りてか之を考ふる。
  冥昭盲闇なる、誰か能く之を極はむる。
  馮翼として惟れ像あり、何を以てか之を識れる。
  明を明とし闇を闇とす、惟れ時れ何か為せる。
  陰陽三合す、何れか本にして何れか化なる。

    ――『楚辞』天問

  其を知るは、唯天と仙人のみ。



 “真人”という存在がいる。
 九万里の彼方を自在に駆け、天地万物の理を知る“タオ”の体現者。
 それは、後に“仙人”とも同一視された。
 『抱朴子』にて、天にあるは天仙、地にあるは地仙と呼ばるる者達である。
 人では訪れることのできない仙境に遊び、陰陽五行の運行を自在にし、いかなる森羅万象にも姿を変え、天を飛び、地を奔り、波を枕とするもの。
 燃え盛る炎を踏んでも焼けることなく、青い波を踏んで歩き、翼で羽ばたくように俗塵を離れ、風を馬として雲を車とする。仰いでは北極星を飛び越えて、俯しては仙境へと降り立つ。
 鶴亀の導引に倣い、長生の呼吸と歩行法を知り、金丹を作り上げ、天壌無窮に命を永らえらせる者。不老不死という人間の理想の現れ。天命に随従せし者。
 蓬莱、方丈、瀛洲、崑崙の宝を自らのものとし、金銀の木々と川に囲まれ、弱水の果てに彼らはある。
 それが真人――仙人である。彼らは“道”を知り、万物斉同、絶対無差別の真理を知る。

 しかし、仙人の全てが深山幽谷にて遊ぶわけではない。
 塵埃にまみれた俗界に、敢えてその身を置く道の体現者もまた、この世に存在している。
 彼らが何を思って仙境を去り、俗の世に留まるのか、凡俗なる身では到底理解することはできない。
 彼らは仙境を去らねばならなかったのか。或いは自らの意志で去ったのか。
 不老不死とも言われる長き長き時を生きるゆえの退屈故か。
 それすらも、人は理解することができない。
 ただ、その事実を理解するだけである。

 ここに、一人の女仙がいる。
 名を葉青と言う。齢五百を超える地仙であるという。
 歴史が千年の灰燼と成り果てた、塵埃の世に彼女は現われた。
 幼き体躯ながら、その豊満な胸は陰陽を自在に操る術を心得る証左である。
 いかなる気まぐれか、彼女は自らが道を極めていた深山よりこの地上に降りてきた。
 彼女は、とある街に“道観”――否、“道場”を設けた。曰く、仙人と雖も金が必要――とのことであるが、実際には深遠な、仙人にしかわからぬ理由があるやもしれず、凡俗なる身ではそれを理解することは到底及ばぬのである。
 彼女は武林の世界の導き手として、この現し世へと舞い降りたのであった。

 そんな葉青――以後、イェチンと表記する――の道観ならぬ道場には人があふれていた。既にその門人は五人を超えており、門人ならぬ客人たちも毎日足を運ぶという有様であった。
 時は昼下がり。秋の道場の側に生える紅葉の盛りは終わり、冬の足音が迫っていた。道場の開け放たれた遣戸からは肌寒い風が入り込んでくる。
 今日道場に来ていた客人や門人たちは道場から退去し、今は小さな影が一つぽつんと板張りの道場の上に立つのみである。

「寒くなってきたのう」

 赤い旗袍を纏った童女が遣戸より散っていく紅葉を眺めていた。この道場の主にして、五百年の時を生きる“仙人”である。果てなき道を極める修行の果てに、天帝か太上老君か、いずれの神かはわからねども、神の手により昇仙することとなった少女である。イェチンの顔に目がけて風が吹き、後ろで束ねられた髪をゆらゆらと揺らす。
 幼い容姿をしているが、その胸は豊かである。これこそ、彼女が仙人として、己の陰と陽を自在に操ることができることの証であった。
 凡俗では遠く及ばぬ神仙の身故に、彼女が真に凍えるなどということは無いのかもしれないが、それでも彼女もまた塵埃の世に居を構えし者。季節の移り変わりというものを感じないはずはなかった。
 そんなどこか侘びしく寒々しい空を見上げていると、不意にひたりひたりと、道場の床を歩く音が響く。イェチンが振り向けば、そこには一人の小柄な少年、或いは少女が立っていた。

「師匠、僕と戦って欲しい」

 深緑の外套に身を包んだそれは、短くそう告げた。外套で顔の半分を隠しているために表情は一見してもわかりづらい人物である。空虚な、光なき瞳でイェチンを見る。この人物はヴェスル。「勇者」の器を自称し、いずれ「勇者」をなると公言している。イェチンの門人の一人であり、一応はこの道場の弟子第一号ということになる。
 肉体的には少女であるものの、「勇者」には性別は必要ないと断じて己の性別をどちらとも決定しないヴェスルであったが、外套を外せば、わずかに少女らしい四肢が露わになる。

「応、それは無論構わんが……急にどうした、その格好は」

 イェチンは眉を上げて怪訝そうな顔をした。それはヴェスルがいつもの短いズボンに緑の上着を着ていなかったからである。外套の下には、イェチンと似たような、緑色の旗袍と思しき衣服を身に着けていた。
 ただ、その上にさらに黄色い道袍を羽織っており、いささか珍妙な姿でもあった。道袍には太極図が大きく描かれており、どうにも観光客向けのような気配を漂わせていた。拳法家と道士を折衷したかのような格好である。
 ヴェスルはそのようなことは一切気にしておらず、恥じる様子もなくイェチンの前に珍妙な姿を晒す。
 イェチンは呆れた様子でぽかんとそれを見つめる。特に道場で道着などを配っていたわけでもないため、ヴェスルの行動は突飛なものである。その様子を感じ取ったのか、ヴェスルが口を開く。

「――“剣”ではなく、“拳”で戦うから。僕も師匠に合わせる。勇者はファッションも重要だと友達から聞いた」

「そ、そうか。じゃが、何もそのような格好でなくとも。慣れていないから戦いづらいじゃろう。別に私は普段の格好で構わんのじゃぞ。私別に剣を使うこともあるし……」

「大丈夫。勇者はいろんな装備を身につけるもの。何の問題もない。形から入ることが大事」

 きっぱりとそう言ってのけたため、イェチンもそれ以上何も言えなくなってしまった。

「まあ、うぬがそれで良いのなら良いが……」

「師匠も、ラバースーツを着てた。あれもきっと修行の一つ」

「それは言うな。別に修行でもなんでもないわ! 思い出さすな!」

 暗澹たる記憶が脳裡に蘇りそうになったので、イェチンはそれに強く蓋をした。
 やれやれ、と言った様子でイェチンは肩を竦める。ヴェスルは「勇者」になるための修行を積みたいと言って、この道場に入門した。服装は誰かに入れ知恵をされたか、影響を受けたか、であろう。イェチンはそう判断した。何にせよ、ヴェスルが戦いたいというときは、何かを得んとしているときである。師がそれを拒むはずなどなかった。
 イェチンは弟子に寛大な優しさを常に示しているのだ。

「良い良い。ならば手合わせするとしようぞ。じゃが、あまり手加減はできんぞ。ためにならぬからのう」

「手加減はしなくてもいい。僕は師匠の本当の力が見たい――」

「ふん、よく言うた。いいじゃろう、ならば五百年の鍛錬の力をとくと見るが良い。ヴェスルよ」

 ここに手合わせが成立した。刹那、長閑な気配は那由多の彼方へと消え去った。今やここは戦場。死合うための場所と定義された。
 二人は道場の端と端に分かれ、相対する。道場の中がしんと静まり返る。道場は闃然とした雰囲気に包まれていく。天地草昧、天地開闢以前の渾沌の只中にあるかのように、二人の意識は、闘いという場に合一していく。
 ヴェスルは足を上下に三歩ほど開き、手を胸の前で交差させる。これがヴェスルの構えであるらしい。しかし、どの武術の流派にも見られない奇妙な構えであった。

「珍しい構えじゃな。そういった構えを教えた覚えはないが」

 ぴりぴりと張り詰めた空気はそのままに、イェチンが「ほう」と声を漏らして、ヴェスルに言った。
 ヴェスルは拳を握り締めると、イェチンを見据える。空虚ではあるものの、あまりに曇りなく、純粋な瞳である。

「これは、デクス真拳――」

 ぽつりと、その拳法の名前を呟いた。

「デ、デクス真拳……!? なんじゃそれは!」

「かつて、「勇者」が用いたとされる拳術。僕の村に伝えられていた伝承の一つ。とはいっても、この千年で実際の戦闘に用いるのは僕が初めて。師匠が知らなくても仕方がない」

「ふーむ……なるほどのう。拳法を使う勇者とは驚きじゃな。じゃが、そのような付け焼き刃的な拳法で、私を破れると思うておるのか?」

「この拳術は「試練の儀」で何度も練習してきた。付け焼き刃じゃないよ――さあ、師匠。闘おう。僕は、全力で行く」

「――良し。来い……ハッ!」

 イェチンは息を吸って、吐いた。気功術である。仙人は自らの命を永らえさせる気法や歩法を身に着けているといわれる。呼吸により体内を循環する「気」を制御する。それは内丹術としても知られ、自らの体内に「内丹」を編み上げる。道を極めた神仙は、自らの体内に仙薬を作ることさえ可能なのである。一瞬にして、体内の「気」が全て入れ替わった。
 彼女の体内に、凄まじい力が漲り始めた。体内の気を巡らせていくことによって、瞬時に己が力を高めていくのだ。常人であれば、何年もの修行の後に入念に潔斎や斎戒を行い、五穀などを絶ってひたすらに気を練ることでようやく到達できるかできないかといった境地に、イェチンは刹那の内に到達してしまった。
 イェチンの体が、天地と一体となるような力を生み出す。その身が、太上老君が持つような「八卦炉」となったといえる。
 既に、彼女を構成する陰気と陽気は和合していた。それは、彼女自身が太極と――“道”と一つになることを意味していた。それが、ごく自然なのだ。流れる水の様に。これこそ、仙道を極めし者のみが到達できる、神のごとき位階。明鏡止水の境地であった。即ち、彼女の中に一つの「宇宙」が誕生したに等しいのである。
 鳳笙の典雅な音の重なりさえ聞こえて来そうな、荘厳な姿がヴェスルの前に現われた。イェチンの周囲が、桃源郷の如く光り輝いているようにさえ見える。

 イェチンは構えを作る。ヴェスルには、イェチンの周囲を包む気、その流れが見えるようであった。あまりに澄んで、清らかで、混じりけのないオーラがそこにはあった。そこに飛び込んでいけば、一瞬にして敗北する自らの未来が容易に幻視された。それほどまでに、実力の差というものは明白だった。闘う前から、それがわかってしまうのだ。
 相手はあまりに大きい。大きすぎる。その体躯はヴェスルより小さくとも、イェチンは九万里を翔ける鵬に他ならなかった。ヴェスルは地上でただそれを見つめるだけの存在と成り果てた。
 これこそが、仙人の、“真人”の姿か――ヴェスルは直感的に理解した。果たして、自身はこのような存在と相対すべき存在なのであろうか。そういう疑問さえ湧き上がる。だが、この境地を体得すれば、ヴェスルがなるべき「勇者」に近づけるということも同時に理解した。
 「勇者」とは力あるゆえに孤独である。「魔王」を滅ぼす力があるゆえに、「魔王」に堕ちる――まさしく、ヴェスルが倒さんとする「魔王」がそれであった――ことさえある。それを防ぐには、自らの善と悪。陰と陽。それを完全に制御しなければならない。表裏は一体のもの。仙人はそれを知っている。故にこそ、“道”と合一を果たすことができるのだ。ヴェスルは、それを学ぼうとしているのであった。
 乱と静。強と弱。剛と柔。上と下。白と黒。光と闇。生と死。陽と陰――それら全てが、そこにあった。全ては一つであり、同じものなのである。目の前のイェチンこそは、“道”――森羅万象を生み出す根源そのもの。

「――行きます」

 どこからともなく、銅鑼の音が道場に響き渡った。
 今、乾坤は分かたれ、天地は開闢した。
 元初の渾沌は二元に分かたれ、闘いという宇宙を創世した。

 それを号砲として、ヴェスルは一気に床を踏みつけ、前へ前へと躍り出る。それは跳びはねる魚のごとき動きだった。床を蹴り上げ、着地して後すぐにまたそれを繰り返す。
 軽やかに、されど力強く。ドン! と道場全体を揺らしながら、ヴェスルはイェチンへと迫る。イェチンはただただ静かにその様子を見据えていた。
 ――まるで、挙動の一つ一つが見えてしまうかのように。

「紋章――発動!」

 北方の大洋を泳ぐ鯤のようにヴェスルは飛び上がり、叫ぶ。
 それは発動の兆し。それはヴェスルが発現させた、「勇者」となるための力。
 千年の間、一族が待望し、遂に得た「器」の力。
 目を灼くかとも思われるほどの強烈な光が炸裂しする。
 ヴェスルの額には黄金に輝く紋章が浮かび上がった。蝶のような刻印である。
 それと連動するかのように、ヴェスルの頬、首筋、腕、腿と、身体の至る場所に刺青の様に刻印が浮かび上がっていく。
 それがヴェスルの全身を輝かせる。全身を駆け巡る紋様はヴェスルに力を与える。
 魔王を倒すための力。運命を覆すための力――ヴェスルの一族がそう信じた力。
 無限とも思える力がヴェスルの中を走り回る。抑えきれないほどの強烈な力だ。
 かつて「勇者」が“神”より与えられたとされる奇跡の紋章。
 それはヴェスルの力を何倍にも引き出す。
 意識が何十倍に加速して、世界を遥か後方へと遠ざけていく。
 最早、イェチンの仙人としてのあり方などを観察し、自分のものにするなどという余裕は消えていた。
 ただ、素早く、彼女に一撃を与えることのみが思考を支配する。弾丸のようにヴェスルは疾走する。

 一歩踏み出す。それは疾風の如く。
 一歩踏み出す。それは流星の如く。
 蝶のように自在に飛び回り、物理法則を超える。
 もし、この様子を常人が見ていれば、何一つ目で捉えることができなかっただろう。
 なにせ、まだ銅鑼がなってからほんの一瞬しか経っていないのである。
 ヴェスルは、瞬時に自らの拳――或いは、剣――が届く間合いに飛び込んだ。ふわり、と道袍が着地の勢いで捲り上がる。
 ヴェスルの交差した腕は今や光芒をたなびかせ、二対の剣となっていた。握っていた拳を手刀の形に変えれば、溜めていた力、一種の「気」が一気に開放される。拳は剣となる。
 必殺の一撃。ヴェスルはイェチンへと一気に迫り、二つの“剣”を振り下ろす。
 一瞬。僅か一瞬で、勝負は決するはずだった。この一撃を受けて、イェチンの体は後方に吹き飛ぶ。
 先手必勝。それで終わりのはずであった。そう、そのはずだった。
 ヴェスルの声が響く。二つの“剣”が光の軌跡を描く。

「デクス真拳奥義――双剣一擲、天地開闢!」

 ――渾然一体となった天地を分かつような強烈な一撃。
 ――相手が、常人であったならば、それで決していた。
 ――しかし、相手は常人などではないのである。

 それは、必然として――


「すまぬが、それは既に見切っておってな」

「なッ……!」

 ヴェスルの放った双剣一擲の一撃を、イェチンは両の手で受けた。
 交差し、イェチンを切り裂こうとする“剣”たる“拳”は、それだけで勢いを失った。全ての勢いを吸い取られてしまったのだ。否――絡め取られ、流されたのだ。
 まるで滑って行くかのように、交差する腕はいなされ、左右に流されていく。
 それはあまりに自然な動き。清流を泳ぐ魚のように、水のように、イェチンはそれを行った。ヴェスルの手を読み切り、流れるような動作で攻撃を無効化する。
 ヴェスルの腕は左右に解き放たれ、胴を護る手段はなくなった。腕で防御手段を取るのは容易い。しかし、この闘いでは、その隙があまりに致命的である。
 その隙に、イェチンは踊るように、流れる水のように、滑りこむように、ヴェスルの懐に踏み出した。

 ――やられる!

 ヴェスルの思考はその未来を幻視した。イェチンの右手がこちらへと伸び、一撃を放とうとする。これをまともに受けてしまえばヴェスルの負けは必至だ。

「まだッ……!!」

 その小さな手がヴェスルの胸に触れるより前に、ヴェスルは渾身の力を振り絞って体を左に捻り、回転させる。イェチンの手はヴェスルの手に触れることはなく、ヴェスルはその不安定な状態から上半身を屈め、イェチンへと下からの蹴りをはなった。
 蹴りの勢いは鋭く、破壊力を持ったもの。この蹴りで相手に隙を作り、イェチンから一端距離を取る算段だった。しかし、それは失敗に終わった。

「こんな……!?」

 ヴェスルの足はイェチンの左腕によって受け流され、彼女が手首を返せば、ヴェスルの体は巻き上げられ、勢い良く中に舞い上がったのである。まるで、自らの勢いをそのまま利用されてしまったかのような出来事だった。
 イェチンの動きに無駄はない。相手の力を利用できるならそうしてしまうのだ。まさしく“道”である。全てを生み出し全てを受け入れる存在であるからこその技。
 そして、その力が開放される時である。今、ヴェスルは勢いを失った。次に来たるはイェチンの力による攻撃だ。気功術により、仙丹を生み出す「八卦炉」にも等しくなったイェチンの体からは、その体躯からは信じられないほどの、山さえ破壊しかねない強烈な一撃が放たれる。
 彼女が地面を蹴れば、身体は軽々と宙に浮き、空を舞うヴェスルに一瞬で接近する。空中でヴェスルに向かって手刀を放つ。ヴェスルはなんとか防御の姿勢を取るも、その力はあまりに強く、ヴェスルの身体は隕石のような勢いと轟音で床に向かって弾き飛ばされる。追い打ちのように、彼女が体内で練った気を手のひらの先から放ち、ヴェスルに襲いかかっていく。金色の光が球となっていくつも発射される。
 気功弾の追撃なども受けつつ、地面に激突する瞬間、ヴェスルは空中で体勢を立て直し、受け身を取りながら床を転がり、立ち上がって二本の足で床を踏みしめる。

 だが、イェチンも早かった。宙にあったはずの彼女の身体は、豊かな胸と旗袍の裾を揺らしながら、刹那の間に体勢を立て直したヴェスルの前に現れていた。間髪入れず技が繰り出され始める。
 それは怒涛の連撃であった。「技」に次ぐ「技」――幾つもの「技」が絶え間なく、連続して繰り出されていくのだ。目にも留まらぬ速さで、一つの演舞であるかの如く、ヴェスルが捌いても捌いても、それは止むことがない。
 イェチンの小柄な体躯から次々ヴェスルを襲う一撃は、全てが急所を狙うものである。ヴェスルが腕や手、或いは脚さえ使ってそれらを防いでも相手の連続した技は速すぎた。肘、指先、裏拳、掌打による連撃がひっきりなしに続く。至近距離での攻防はヴェスルにとって不利だった。
 ヴェスルの技の多くは「一撃必殺」を主眼に置いたもの。勝負を素早く決めるためのもの。距離を取らねばと考えても、その隙は一分足りともないのである。
 それでも、ヴェスルは相手の技を捌く合間に、手刀や正拳、蹴りを繰り出す。紋章の力で強化されたそれは、普通ならば捉えることは非常に難しいものだ。しかし、イェチンはそれをすぐに見極め、繰り出された手足を受け流し、絡めとり、つかみとって、一気にヴェスルをイェチンの間近まで引き寄せる。

 套路――そう呼ばれる、超至近距離での接戦が始まった。間合いがあまりに短く、手数の少ないヴェスルでは対応しきれない。イェチンは急所目掛けて拳や蹴りを放ち、ヴェスルはその防御に追われる。だがそれも長くは持つまい。防御が崩れれば、相手の怒涛の連続攻撃を打ち込まれ、ヴェスルは打倒されるに違いない。
 連撃を加えながら、イェチンは足への「気」を集中させ始めていた。ヴェスルにもそれは感じ取る事ができ、いよいよ決着をしようとしているのだと理解した。これ以上の防戦は不可能であった。ならば、一か八か。自爆覚悟の決死技を繰り出す他なかった。

「デクス真拳奥義――」

 防戦の最中、ヴェスルは防御をやめて、自らの足元に右手を向けた。すると、その右手から強烈な光が発せられ、爆発的な勢いを伴う光弾が炸裂した。その炸裂に呑まれて、ヴェスルの身体は勢い良く背後に吹き飛んでいく。イェチンはすんでの所でそれを躱し、軽やかな足取りで数歩身を引いた。ヴェスルは大きなダメージを自ら負ったものの、相手との間合いをある程度取ることは成功した。
 そして――

「――破岩一槍脚!」

 地面を蹴り飛ばし、残る力を右足から放つ蹴りに全て集中する。
 突き出した右足を槍に見立てた一撃必殺の蹴り。岩をも砕くと言われるそれが、破岩一槍脚である。
 イェチンはそれに呼応するが如く、足を上げて、凄まじい勢いで迫るヴェスルの蹴りを迎え撃つ。ちらりと裾から脚の付け根が見え隠れする。
 そして、脚に集中していた「気」を今こそ解放する。

「――龍激脚!」

 二つの影が、交錯した。
 ヴェスルは蹴りを放った後に床に着地し――
 倒れ伏した。
 ヴェスルの蹴りが決まるよりに先に、イェチンの龍激脚がヴェスルの腹部に命中していたのである。
 この手合わせ、ヴェスルの完敗、師の完勝に終わった。

「……ちとやり過ぎたか。多少手加減はしたんじゃがな」

 イェチンは上がった足を下げ、倒れたヴェスルに頭を掻きつつ走り寄っていく。

「大丈夫か。起きなさいヴェスル。急所は外して――……ッ!」

 駆け寄ろうとした足が止まり、翻って距離を取る。
 ヴェスルより非常に禍々しい気配をイェチンが感じ取ったためだ。
 倒れ伏したヴェスルはゆっくりと起き上がり、イェチンの方を見る。そこに、ヴェスルの表情はなかった。

「渾天の門は開かれた。渾天を穿つ穴より注がれた渾沌は器に注ぐ。故に、器は門となった」

 額に浮かび上がる蝶のような紋章の色は反転しており、そこから溢れ出す“闇”がヴェスルの顔を、身体を覆っていた。ヴェスルの顔にある穴――目、鼻、口、耳――はその闇に覆われていき、“無貌”の状態となっていった。その声はヴェスルのものではない。老若男女の判別のつかない、人ならざる声である。
 イェチンへの明確な害意と殺意にそれは満ち満ちていた。
 口はなくとも、明らかに彼女を嘲笑っている。それが、ヴェスルの額の紋章から溢れ出している。
 世界への侮蔑、背徳、冒涜、嘲笑――宇宙の外側から、それらが来たるかのように。ヴェスルの身を通じて、何かが現れいでようとしていた。ヴェスルを包む闇は、ヴェスルが全身に刻まれた紋様をなぞるかのように侵食し、饕餮文のような紋様を全身に浮かび上がらせていく。

「これは……渾沌、か……?」

 イェチンはその様子を見て顔をしかめ、呟いた。思い出すのは四凶のうちの一つ、「渾沌」である。とはいえ、何故そんなものが今ヴェスルの身体に現れているのか、ということである。
 日頃からヴェスルは「勇者」の器であることを自称していた。となれば、何かしら悪しき存在にも憑依されやすいということであろうか――今イェチンに想像できるのはそのぐらいのことだった。
 だが、相手がなんであれ、やることは決まっていた。恐らく、今は目の前のものについて考えても何かが判明するわけでもあるまい。
 イェチンは再び構えた。再び気功術にて体内の「気」を瞬時に入れ替える。
 既にその身は太極と合一した。“道”の体現者が渾沌と対峙する。

 ヴェスルを乗っ取った闇は、ヴェスルを夷まわしの傀儡のように動かしていく。腕を広げ、からりからりと弄ぶように、回されていく。そして、かちりと音が響き、無い瞳でイェチンを見つめ、右手を伸ばし、無い口で息を吐く。
 それは邪なる仙気。ふっ、と噴いた瞬間に幾つもの邪気がヴェスルに取り憑いたものから溢れだし、それは黒檀のように黒い妖気となる。漆黒の暴風はイェチンを包まんと凄まじい勢いで迫る。ごうごうと嵐のごとき音が道場に響き、魑魅魍魎や鬼神どもの嗤い声が道場を揺らす。

「貴様、一体――いや、うぬが何かは知らぬ。それは重要なことではない。だが、その子は私の弟子だ。返してもらうぞ」

 先ほどのイェチンの気配とは明らかに異なっていた。
 幾万の邪気が迫ろうとも一向に恐れるところはなく、強い眼差しでそれを射る。その眼差しはまさしく人知を超え、遥か高みへと至った宏大無辺なる神仙のもの。
 こぉん、と古代の「編磬」を打って響かせたような音が響く。
 その時、イェチンの瞳の輝きが変貌を遂げた。鬼灯のように赤い虹彩が転ずる。光が収束し、一つの輝きを導き出す。それは黄龍や麒麟のごとき、あるいは天に瞬く星のごとき黄――“黄金”へと移り変わった。
 イェチンが神仙としての真の力を発揮した証左であった。目に見えるほどの気がイェチンの身体を包み、その溢れる力は天地を鳴動させる。そこに在るはまさしく神仙。武を極め尽くした果てに登仙した女傑――拳仙、そして“拳聖”と称えられる武の真人。

「――邪鬼は疾く退散すべし」

 イェチンは両手の人差し指と中指だけを立て、後の指は握りこんでいく。これは“剣印”、あるいは“剣訣”と呼ばれる印の結び方の一つである。

臨、兵、闘、者、皆、陣、列、前、行敵の刃物にひるまず戦う勇士たちが前列に陣取って行く――」

 六甲秘祝“九字”――葛洪の『抱朴子』巻十七「登渉」の中で山に入る際に唱えるべきものとして言及される。「山に入るには宜しく六甲の秘祝を知るべし。祝りて曰く、臨兵闘者皆陣列前行と、凡そ九字。常にまさに密かにこれを祝らば、辟けざる所なし」と。これを唱えれば邪気を祓うことができると言う――を唱えながら、結んだ剣印で中空に幾つもの線や弧を描き、禹歩で数歩進む。
 万魔の呪詛を込めた暴風が、呪文を唱えるイェチンを貫かんと迫り――!

「ハッ――!!」

 掛け声とともに、イェチンは右足を勢い良く前へと進め、剣印を結んだ右手を“剣”として、唐竹割りのごとくまっすぐ振り下ろす。瞬間、イェチンに迫っていた呪詛の暴風が、真っ二つに切り裂かれ、巨大な岩に衝突した川の流れのように、イェチンに割られるようにして、あらぬ方向へと消え去っていく。邪気はイェチンの唱えた九字により割られ、消滅した。
 邪気は全て祓われたが、イェチンの目の前の渾沌は嗤うのみ。その邪気が祓われたのを見て、感嘆の声さえあげると――“無貌”が変化を遂げる。糸の切れた傀儡のようにだらりと上半身や腕を投げ出す。闇がヴェスルを包み込み、その四肢全てを絡めとり、肌や衣服までも浅黒く染める。
 “無貌”の顔には次々と穴が開いていく。七つの穴である。目、鼻、口、耳――双眸は禍々しく赤い光を放っており、口は邪悪に歪みきる。そして、その額には八つ目の穴。赤く輝く第三の眼が開眼していた。
 きりきりと音を立てるようにして上半身が起き上がり、イェチンにおぞましい笑みを向ける。

「成る程、さすがは音に聞こえた神仙。六甲秘祝とは――だが、既にこの勇者の器は、魔王としての魂を受け入れた。天壌無窮に生きる神仙とて、一度開いてしまった天の門を閉じることは叶わない。満たされた器はここに在る。直に、全ての終末を告げるものが降誕する。――そして、彼の勇者は世界を滅ぼすものへと再び転ずる」

「……魔王、じゃと!? クッ!!」

 イェチンは驚きの声を上げた。
 ヴェスルは勇者の器だと言っていたはず――その思考の一瞬を突き、ヴェスルに取り憑いた渾沌が、地を蹴ってイェチンの前に躍り出て、黒く染まった右手を伸ばす。
 イェチンは即座に身体を勢い良く反転させ、その勢いのまま弾丸のように宙を舞い、開け放たれた遣戸から道場の外へと飛び出していく。

「借り物の道場を壊されてはたまらん……!!」

 イェチンのこの道場は借り物である。弟子たちの月謝を徴収していても家計は火の車である。この戦いが常人の域で終わるものでないのは明白だった。そうすれば、道場が無事である道理があるはずもない。イェチンは咄嗟の判断で道場の外へと飛び出し、戦場を道場外へと移す。

「な、なんじゃこれは……!!」

 外へ飛び出したイェチンが見たのは、変わり果てた空模様だった。昼下がりの秋の蒼天は姿を消し、血のように赤い空が無限に広がる。さらに異常なのは、空に浮かぶ太陽である。あろうことか、その数は神話の時代の様に「十」――そのどれもが漆黒の輝きを放っていた。道場の外に広がっているはずの町並みは赤黒い霧に包まれ、消え去っており、道場だけがその空間にぽつんと存在していた。

「神仙の戦いにふさわしい場所を用意したまで――さあ、拳聖よ。魔王降臨のための礎となってもらおう」

 渾沌はけたけたと嗤い声を上げ、道袍の袖をはためかせながら、イェチンを追跡する。
 二人は当然のように空を飛ぶ。それはさながら雲中の飛燕のようである。渾沌はイェチンに追いつくと、その黒い拳を放つ。幾つもの連撃、そのどれもが必殺の威力の込められた技が繰り出されていく。ヴェスルでは到底出せないような技の連続。
 イェチンはその連撃を流星の如き速さで次々といなしていく。拳と拳、脚と脚がぶつかり合う度に衝撃波が走り、天地を揺らす。二人が繰り出す拳と脚の速度は既に常人の眼に捉えられるものではなくなっていた。
 次々と戦場は移動し、何度も天と地を飛び跳ね行き来し、神話の戦いが繰り広げられていく。様々な仙術が繰り広げられ、地から幾つもの岩が付き出し、大風が舞い、地の底から激しい水流が吹き出す。竜巻のように砂塵が舞い上がり、その中で雷鳴が何度も轟く。
 イェチンは壁を走り、気功弾を放つ。渾沌も同じように気を放ち、それを相殺する。
 互いに仙気を吹き出せば、それだけで剣や槍、棍が出現し、それを用いた連撃の応酬となる。
 そんな異界と化した世界であっても、イェチンは渾沌と互角に戦いを繰り広げていく。

 戦いは転機を迎える。そのとき、渾沌は地にあり、イェチンは天にあった。イェチンは気を体内で最大限まで練り、それを相手に一気に解き放つ抱排手を放とうとしていた。そのために一気に天から地へと駆け下りていく。

「万象を喰らえ――饕餮拳」

 渾沌は地に身体を屈め、獲物を狙う獣のような姿勢を取る。次の瞬間、曲げた身体を撥条として、獲物に飛びかかる虎のごとく天へと飛翔する。腕は大きく上下に開かれ、まるでそれは巨大な獣が口を開いているかのような光景であった。
 それは四凶の一つである「饕餮」の力を宿す邪拳。渾沌は降りてくるイェチン目掛けて――食らいつくようにその手を、振り下ろした。腕より闇が吹き出し、全身の饕餮文が光を放つ。

「くぅ、あああああっ!!」

 イェチンの叫びが木霊する。即座に抱排手へとつなげるための動きを狙われ、饕餮拳がイェチンに食らいついたのだ。噛みあわせる様に渾沌の腕が交差し、イェチンの腹部を激しく打撃する。と同時に、宇宙の深淵から溢れ出すような闇の邪気がイェチンの全身を締め上げ、喰らおうとする。
 すんでの所でイェチンは防御態勢を取り、体内の気を自在に操作して、その闇を振り払い、致命傷は免れる。しかしその身体は衝撃のため大きく天へと跳ね飛ばされ、その身体は道場の瓦屋根へと落下した。

「かはぁっ……!?」

 落下の衝撃でイェチンの体が数度屋根の上で跳ねる。それを追うように渾沌は壁を蹴り上げ、屋根の上へと舞い上がり、着地する。
 強烈な衝撃を受けたとはいえ、イェチンは神仙である。その程度では体に傷がつくはずもない。相手が屋根へと至ったと気づくや、すぐに体勢を立てなおして対峙する。先ほどの一撃はイェチンを仕留め損なったのである。

「そうだ、それでいい。この神話の戦いにより、器へ流れこむ外なる渾沌はその濃度を増していく。勇者を殺す勇者……否、魔王の依代としての真価が解放されていく」

「何をいっておるが知らんが、そのようなことにはならぬ。うぬはここで私が倒し、ヴェスルを取り戻すのだからな。……私は怒っておる。ただでは済まさんぞ」

「クク……ならば来るがいい。“器”ごと壊す気でな」

「ほざけ。私がそのようなヘマをすると思うか」

「さて、どうかな。天地陰陽の理を知る仙人でも、世界の外から溢れる渾沌を止めることはできん」

 その後、一時の静寂があった。
 それは勝敗を決する戦いの前兆。ほんの僅かな凪。
 ヴェスルを操る渾沌は薄い笑いを浮かべ、イェチンは金の瞳でそれを強く睨みつける。
 イェチンは理解していた。相手が何であるかはわからないものの、自分と互角の力を持つものであるということを。そして、次の瞬間には大技が繰り出され、決戦となることを。
 相手はヴェスルに憑依している「何か」である。一撃を放てばヴェスルまで傷つける可能性がある――しかし、そのようなことをイェチンは考えなかった。それは無駄だからである。イェチンはヴェスルを救う「技」を思考する。
 相手の言うことは不吉で示唆的であるが、今はその疑問を頭から締め出す。目の前の戦いのみに集中する。イェチンにはそれが可能である――今や、彼女は太極であるゆえに。

 ――そして、時は至った。
 二者は同時に声をあげる。

「紫微宮に奉安されし天帝の剣。三清たる元始天尊、太上道君、太上老君よ、我に“道”との合一を。降魔斬妖の剣よ、今こそ北辰天極の彼方より招来せよ……宝貝――太極七星剣!」

「天門よ開け。渾天の外より溢るる渾沌は今こそ器に満つる。元初にして真一なる渾沌を殺し、終末にして破滅の渾沌を呼ぶ剣。倏忽は永劫を滅せり。今こそ宇と宙の彼方より招来せよ……宝貝――渾沌七竅剣!」

 二者の叫びとともに天地が鳴動した。

 イェチンの叫びはまさしく「天」へと通じた。その叫びと共に、イェチンの足元に太極図と八卦図が出現する。息を大きく吸い込めば、今やイェチンの身は一つの「八卦炉」となり、天地陰陽の気をその体内へと取り入れる。
 煉丹さるるは“陰陽二気”――イェチンの胸前に閃光が走り強くそこを輝かせていく。
 その時、天が光に満ちた。イェチンの遥か頭上の赤い空が切り裂かれ、七つの星が煌々と輝いた。北斗七星――紫微宮、天極の彼方から、それが至る!
 天地を切り裂くほどの輝きと勢いを以て、それは天より飛来する。流星のごとき輝きを北辰から零して、イェチンの胸元の光へと吸い込まれていく。太極の力がそれに結び合う。

「見よ、これこそが太極の力を得し七星剣――!」

 胸元に飛来したそれを右手で強く握りしめ、天へと掲げる。
 それは二尺ほどの長さを誇る直刀――黄金に煌めく剣。
 その刀身には太極が描かれ、七つの星が燦然と輝く。

 その切っ先を、渾沌へと向ける――

 渾沌の叫びと共に、体中に描かれた饕餮文のような紋章が邪悪な煌めきを見せる。
 渾沌の上半身――ヴェスルの上半身――が反り返り、慄然たる笑みを浮かべながら、渾沌はヴェスルの胸中へと手を突きこむ。闇を湛えた胸の中に腕が入り込み、天門――器――より、渾沌を溢れさせるものを引きずり出していく。
 ずるりと、それは引きぬかれた。あまりに邪悪な気配を纏う、天魔の剣。
 漆黒の刀身を燦然と輝かせて、それは現世へと現われた。イェチンの剣と似ていながら、あまりにも異なる二尺ほどの直刀。
 元初の無秩序である渾沌を殺した象徴である七つの穴が刀身に穿たれていた。その穴からは、闇が溢れだす。破滅の渾沌がその穴より溢れ出しているのだ。
 渾沌の遥か頭上の天には巨大な黒い穴が空き、剣に闇を次々と纏わせていく。

 ――渾沌七竅剣を握りしめ、渾沌は嗤う。その切っ先を、イェチンへと向ける。


 静寂が再び満ちる。
 二つの剣――太極と渾沌の剣が相見える。
 イェチンの頭上には北斗七星が。
 渾沌の頭上には巨大な黒い穴が。
 互いに、雌雄を決するために気が舞い上がる。
 天地開闢以前のような、静寂が満ちる。

 ――そして、再び天地は開闢した。

 二者は一斉に飛び出した。
 互いに構えるは天地を再び開闢させるような力を持った神話の剣。
 一歩踏み出すごとに世界に衝撃が満ち、天を震わせ地を揺らす。
 二人は剣戟を交えられる距離まで近づき、同時に剣を振り上げる。

「天地開闢――!!」

「渾沌七竅――!!」

 太極と渾沌を帯びた剣が衝突した。
 目を灼くほどの眩い/冥い輝きが満ちて、剣戟のために衝撃波が発生し、周囲を囲んでいた赤い霧を一瞬にして吹き飛ばす。
 如何なる言葉でも表現できぬような音が響き渡り、剣と剣は完全に拮抗していた。
 イェチンの太極七星剣は太極と七つの星の輝きを以て、天まで届くような光の条を放つ。
 渾沌の渾沌七竅剣は世界を再び闇に閉じ込めんばかりの冥い輝きを放つ、天を覆う。

「く、うぅぅぅっ……!!」

 イェチンの足元の瓦が割れ、体勢が一瞬崩れる。
 渾沌の狂気じみた笑いがけたたましく木霊し、その一瞬を突いて、一気に渾沌の剣がイェチンの剣を押し返していく。

「終わりの時だ。お前を倒すことで太極の力を得る。そうすれば、再びこの世界に私が干渉する事になる。勇者から魔王へ、そして魔王から救世主となった彼の勇者を再び、この手で闇に染めることができる!」

「ほざけっ! そう言った台詞を吐く奴は負けると決まっておるのだ!」

 イェチンが根負けしていく。
 このままでは剣は砕かれ、イェチンごと切り伏せられてしまうだろう。
 鍔迫り合いが続き、金属のひび割れる音が聞こえ始める――

「私はこの子の師でな! このような場所で敗北を見せるわけにはいかん!!」

 イェチンの剣の輝きが増す。
 剣に描かれた太極図がぐるりぐるりと高速で回転し、太極からの力をイェチンに与えていく。
 普通ならば耐え切れずに身が砕けてしまうほどの力――だが、彼女は今太極そのものだ。
 最早負ける通りなど、存在はしない。

「何……!! 太極の力を更に引き出すというのか!」

「違うな――ただの師匠としての意地じゃ」

 ニッ、と笑うと、イェチンは一気に剣を振るった――!!
 降魔斬妖の一撃が放たれる!

 天地をひっくり返したような凄まじい衝撃が二人を襲う。
 ガキン! と激しい音が響く。
 渾沌の握っていた剣が一瞬にして砕け散ったのである。
 溢れる渾沌は掻き消え、霧散する。ばらばらとこの世より消え去っていく。

 イェチンはこの鍔迫り合いに勝利した。後は振りぬいた太刀でもう一度相手を切り裂けば勝利する。
 しかし、イェチンの振りぬいた七星剣もまた――音を立てて砕け散った。
 彼女はそれに驚くことはなかった。“知って”いたからだ。
 そして、始めから剣で勝負を決するつもりなど存在しなかった。
 イェチンが用いるのは、“拳”――!!

「天に見放されたか! ならばこれで終わりだ! 太極を受け渡せ、神仙よ!!」

 事態を瞬時に理解した渾沌は一歩踏み込む。握りこんだ右腕には渾沌が満ち満ちている。
 これを一気に相手に叩き込む。そうすれば渾沌に呑まれ、イェチンもまた渾沌へと合一してしまう。
 イェチンも構えを見せる。だが僅かに遅い。致命的な隙であった。
 渾沌の一撃がイェチンを貫き――

 だが、そうはならなかった。勝利を確信した渾沌の一撃はイェチンを貫くことはない。

「昔者荘周夢爲胡蝶――」

 イェチンが言葉を述べる。
 時が止まった。
 渾沌でさえも、その事実を認識する事が困難だったのだ。
 それは一瞬のこと。そして、天地陰陽の理を知る仙人故にこそできた技。

 イェチンが述べたのは『莊子』の一節。
 かつて荘周が夢のなかで胡蝶となっていた。
 自身が荘周であることも忘れて、ひらひらと舞う。
 目覚めてみれば、荘周は荘周へと返った。
 しかし、今の夢は荘周が胡蝶となった夢を見ていたのか。
 はたまた、今は胡蝶が荘周になっている夢を見ているのか。
 彼にはそれがわからなかった。

「万物流転――奥義、胡蝶の夢」

 荘周と同じ様に、今「渾沌」は「イェチン」になっていた――
 「渾沌」は夢を見ていた。自身は今「イェチン」であった。
 では、向かってくる「渾沌」が「イェチン」であるのか。
 故に、夢のなかで「イェチン」となった「渾沌」は躊躇した。
 その手を止めたのだ。彼は今夢の中にあるが、それが今起きていることなのか判断ができない。
 渾沌はヴェスルという器の中に注がれた存在。ヴェスルが夢を見れば、また夢を見る。

 奥義、胡蝶の夢――それは、天地陰陽の理を瞬時に操作し、相手に胡蝶の夢を見させる仙術であった。
 相手は困惑する。夢と現実を惑う。
 そして、その一瞬だけで十分であった。
 僅か一瞬の間の夢は終わり――「渾沌」は「渾沌」に戻っていた。

 気づけば、渾沌の懐にイェチンが踏み込んでいた。
 致命的な隙である。最早防御や回避は間に合わない。

「套路――」

 イェチンの流れるような動きが始まる。
 超至近距離での連続攻撃が渾沌に直接打ち込まれる。
 相手は防御できないままに、その一瞬のうちの連打をもろに受けていく。
 水が流れるように、踊るように、イェチンは何度も踏み込み、相手を追い詰め、防御に向かう腕や脚を払いのけ、相手の完全なる隙を作り上げる。
 その間に、全身に気を巡らせ、手足に最大限まで気を集中させる。
 そして、それを今こそ解き放つ――!

「絶招――抱排手!!」

 両手を開いて一気に相手の胸目掛けて突き出す、掌打――!
 全身全霊を込めて、体内の力と気を全て相手に注ぎ込む。
 足を踏みしめ、渾沌の胸にドン!! という衝撃が走った。

 ヴェスルの体内にイェチンの力と気が一斉に入り込む。
 ヴェスルはその場から動かないものの、すさまじい衝撃が後ろへと抜け、暴風がヴェスルの背後に吹き抜けていく。
 抱排手の威力は絶大である。相手の内蔵は全て破壊される。
 故に、ヴェスルの内臓もまた破壊され、死に至る定めであった――

 ――しかし、そうはならなかった。

「……そう、か。“器”に気を注いで……!!」

 ヴェスルには傷一つついていなかった。
 だが、渾沌は背後に吹く大風のように、凄まじい勢いでヴェスルの体から吹き飛ばされていく。

「当たり前じゃ。私を誰だと思っておる。天地陰陽の理を知る仙人じゃぞ?」

 イェチンは不敵な笑みを浮かべた。

「弟子を傷つけるわけがなかろうが」

 彼女は気をヴェスルの内蔵ではなく、“器”へと送り込んだのである。
 彼女の気によって器は満たされ、渾沌はヴェスルの体から追い出されていく。
 ヴェスルを覆っていた闇が次々に晴れ、黒く染まっていた肌も元のものになり、饕餮文も消えていく。
 弾き飛ばされた渾沌の一部が矢となって、空に浮かぶ「十」の太陽のうち、「九」を射抜いていく。かつての神話の様に。
 渾沌が形成していた異界が消滅していき、赤い空は消え、赤い霧は晴れて元の町並みが戻っていく。

「天門も閉じた、か……成る程。面白い。実に面白い。此度はこれにて諦めよう。だが、必ずこの“器”は魔王の魂を受け入れる――それが私の定めた運命だ。それこそが……」

「うるさい。さっさと消えんか。しつこいんじゃ」

「ハハ、ハハハ、ハハハハ――……」

 交渉を残しながら、渾沌は一つの黒い塊となって、空に開いた穴へと吸い込まれていった。その穴も、すぐに消滅し――

「……終わったか」

 屋根の上に立っていたのはイェチンのみであった。
 ヴェスルはいつもの姿にもどり、意識を失っていた。
 イェチンは小さな体でヴェスルを抱えると、そのまま道場へと降りていく。

「……しかし、あれは……」

 今日起きたことを考える。
 実際の所、ヴェスルの体を通じて悪しきものが現われた、程度にしかわからないことであった。
 おそらくは、ヴェスルも知らない秘密が、ヴェスル自身の体には秘められているのだろう。
 勇者ではなく魔王の器と、ヴェスルを操っていたものは言った。
 その意味はまだ判然としないものの、不穏な気配を残した。

「じゃが、まあ……とりあえず今は、休むとするか。流石に私も、疲れたからのう」

 ヴェスルを道場に下ろしながら、イェチンもまた床に腰を下ろした――


 そして、日が暮れた。

「……ん、あ、れ……師匠、僕は……眠って、て……?」

「おや、起きたか。いやいや、まだ起き上がらんでいい。今日は疲れたじゃろう。ちと私もやり過ぎてしまったからな」

 ヴェスルはイェチンの膝の上で目を覚ました。
 起き上がろうとするヴェスルをイェチンは静止する。
 ヴェスルは、渾沌のことは一切覚えていないようであった。

「……のうヴェスル。うぬは、勇者の器……勇者になりたいんじゃ、よな?」

「……うん、そうだけど。いつもそう言っているし。……どうか、したの?」

「いいや……なんでもない。もう少し寝ていなさい。気を失っていたわけじゃからな。食事はもう少し休んでからにするとしよう」

 イェチンは首を横に振り、優しげな笑みを浮かべた。

「師匠が、そういうなら……」

 ヴェスルはそう言いかけつつ、また意識を失った。
 体にかなりの負荷がかかっていたようだ。
 イェチンは今日のことは述べなかった。まだ不明な点が多すぎた。
 渾沌がいうことが事実であるならば、ヴェスルには酷な運命が待つことになる。

「……うむ、ひとまずは。休んでから考えると、しよう」

 もう一度そう自分に言って、遣戸から道場の上に浮かぶ満月を見つめた。





◇あとがき◇

いろいろ技追加したりして好き放題にしてすみませんでした。

書いたひと:冒険者/0016