+
| |
|
+
| |
|
+
| |
|
+
| |
|
| 黄金歴 280 年 3 月 | ひとりぼっちとはどういう意味なのかを考えてみる。 「おやすみ」と言って寝室に篭もれば、朝までひとりぼっちなのだろうか? 十数センチの厚さの壁と、数メートルの廊下の長さだけの隔たりで、そんな事は言えやしないのだろう。子供ならそう思うかもしれないが、そこに居るし、勝手に居なくならないときちんと理解できていれば、それはひとりぼっちではないのだろう。 同じ事が友人等にも適用できる筈だ。向こう三軒両隣、遥か山谷川を超えた先、国境の隔たり、もしかしたら宇宙の果て、次元の壁を越えてだって、そこに確かに居ると信じているならきっと、それはひとりぼっちではないと思えるのではないだろうか。容易に会えはしなくても、手紙が届けば、また容易でなくても会いに行けるのなら、いや、もっと、二度と会えないようなそういう隔たりがあったのだとしても? 詳しくは体験してみないと解らないが、親しい人ができたら、そう簡単にはひとりぼっちにはならないのだと思う。もしも、もしも、そう、二度と会えないような、二度と会えないような、つまり、その人が死んじゃっても、親しくなれてそれがしっかりと記憶できていていつでも鮮明に思い返せるならひとりぼっちではないのかもしれない。 きっとひとりぼっちなんてものは幼稚な感情なのだ。「そこに居る」って信じられないような子供が、拠り所をなくしたと勘違いして、この世に自分ひとりきり、なんて考えてしまうわけだ。だとすると私は、「おやすみ」と言って扉をくぐった人の背中を見送って、ぼろぼろと涙を流していることになるのだろう。あの人達はいつまで経っても何が起こったとしても扉から出てこないけれど、あの向こうで眠って居るんだって信じて、それで、笑顔だってなんだって私は、色褪せない形で思い出せるし、なんなら絵にだってなんにだってかきおこしたりできるんだから、それは、寂しいけれどもひとりぼっちではないのだ。 |
|
|
+
| |
|
+
| |
|
+
| |
|
+
| | I never writ,nor no man ever loved. |
|
|
+
| |
|
+
| |
|
+
| |
|
- Then can I drown an eye, unused to flow, for precious friens hid in death's dateless night, and weep afresh love's long-since-cancell'd woe, and moan the expense of many a vanish'd sight.
|
+
| |
|
+
| | 生きていなければ過去に思いを馳せることも許されないのだ |
|
?
|
|
|
|
|
|
|
|
|