エウスカディ家出身 バスコ 423587 Edit

ID:423587
名前:バスコ
出身家:エウスカディ
年齢:60
性別:
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前職:
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理由:
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状態:
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その他:ステータス/戦歴




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手記より Edit

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…彼を導いてきた目的は、神秘的であるとはいえ、不可能なことではなかった。
 彼はひとりの人間を夢みたかったのだ。
 それを小さな完璧さで夢み、現実の上におきたかったのだ。
 この魔術の計画は彼の魂の全量を使いつくした。…
                                  ボルヘス「円環の廃墟」


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霧の深い朝、いつもの指定席には先客がいた。
しかたなく私はその隣に腰を下ろす。晴れていれば広場全体を見渡せるベンチだ。
途中の一休みにはちょうどいい。
そうだ、私も早朝の散歩が日課のどうということもない老人になりおおせた。
哂うべきことだろうか?

だが、隣の男は私よりさらに年を重ねているように見えた。
枯れ枝のような指を膝の上で組み、眼はしっかりと前を見据えたまま微動だにせず
その時男の口から声が漏れでてこなかったなら、私は出土したばかりの木乃伊が放置されてると勘違いしたかもしれない。

「…準備は済んだのかね?」
男の言葉はどこかはるか遠くの地底から響いてくるように感じられた。
その時はっきりと気がついた。彼は私を知っており、私は彼を知っている。
澱のように沈殿した日々の記憶のなかに埋もれてしまっていた棘だ。
「ああ、もうすっかり」
「随分と長くかかったものだ」
「しょうがない。なんといっても才能の欠如だ。あの頃はよく言われていたよ」
「40年か」
「正確には…44年だ」
「思い出せたのか?」
「代わりに昨日の昼に食べたものも思い出せなくなったがね」
音のない笑いが暫し2人の顔に浮かぶ。

「あの話は誰が最初に持ち出したのだったかな」
「イグナチオだ。狡っからい情報屋だ。結局一緒には来なかった」
「彼にはその後?」
「いや、一度も会ってない。何しろ俺は記憶を…それに…とにかくいろいろと立て込んでたからな」
霧が深い。あの向こうには40年前の景色が広がっているのだろうか?
「アルフォンソ、ディエゴ、ニコラス…それに俺を入れた4人で出発したんだ。そうだ…別に大それた野心や欲が
あったわけじゃない。いや、いや…どうだかな。やはり自らが招いた結果なんだろう」
わかっていると答える代わりに男は2度掌を振り、しかし決して私の方に顔を向けなかった。
「準備は済んだのだね?ならもう思い煩うことなどあるまい。お前はお前の運命に決着をつけなければならないのだよ。そうだろう、古い友…」
フランシスコ。男が呼びかけたその名は私の胸に微かな痛みを与えた。
ずっと忘れていた…私の名前だ。



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  ………

  • 黄金暦40年6月 エブロー平原に駐屯中のアストゥリアス軍において兵士が地中から肉の塊を掘り起こし疫病が蔓延する
  • 同8月 ジュランソン侯の愛妾が疫病にて死亡
  • 黄金暦41年11月 ジュランソン侯乱心により所領没収
  • 黄金暦87年3〜5月 メディナ・アサーラで内乱
  • 黄金暦90年1月 クェンカ地方の鉱山付近のみで大規模な地震発生
  • 黄金暦101年2月 東方辺境でミノタウロスの娘が目撃される
  • 黄金暦120年秋 クェンカ族アストゥリアス将軍に討伐され壊滅 直後将軍は失踪
  • 黄金暦132年5月 バスクの森

  ………
  ……
  …

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………

夜が迫っている。
往く手に広がる森は既に冥く、その麓に染みついた斑点のような集落の姿はどこか現実味を失って見えた。
イグナチオの話を信じるなら、あそこが目的地となるのだが…
「さて…」私の隣に並んで遠望していたアルフォンソがいつもの皮肉めいた口調で呟く。
「あいつの情報はここまでの百マイルについては正しかった。ここからの1マイルもそうであってほしいもんだな」
その答えはひとまずはあの村にあるのだろう。背後でへばっているディエゴとニコラスを急かし、歩みを再開する。
濃い空気と水蒸気に燻ぶる彼方の景色にふと私は距離感を見失い、軽く眩暈を覚えた。

そこは遠景から想像したとおりの貧しい村で、当然ながら宿と呼べる代物もなく、我々は村人の白眼に晒されながら
交渉の末に村長の家に逗留することとなった。
当初私達はここに来た理由を隠しておくつもりであったが、それは意味のないことだというのがじきにわかった。
「あなたがたは――」
村長は(髪の白い初老の痩せた男だったが)もはや人生に起こるあらゆる出来事に飽き飽きしているといった声音でこう語った。
「《森》を目指してきたのでしょう。同じような人々が5年前にも、12年前にも、29年前、35年前、57年前…
とにかくどこからか話を聞きつけて稀に訪れるのです。
ですが…やめておいたほうがよろしいでしょう。決してあなたがたによい結果は齎しません。森は――」
むしろ淡々と言葉を続ける。
「あなたがたの夢想するより遥かに恐ろしいものなのです」

ここでイグナチオが齎した《森》に関する風説を書き留めておくべきだろう。
それは一見よくある眉唾話のように思われた。
危険を冒して足を踏み入れた者の願いを叶えるなど――だが、そこには幾つかの付帯条件があるとのことだった。
(我々の興味を誘い果ては酔狂にも現地を訪れるというような行動をとらせた原因は実にその部分にあったのだが)

まず第一に、願いは「本来なら得られるはずのないもの」であること。
たとえば富や名声といった世俗的な願いは努力や才能、運によって手に入れることができるため、《森》は聞き届けない。
また、一方的に何かを得られるとは限らず、願いに見合った何かを(代価として)失うこともあるという。
特に《森》を受け入れられるほどの器でなければより一層――
イグナチオは現に森に行き帰ってきた男に出会ったという(村長の話と照らし合わせればおそらく5年前か12年前か…)。
男は――イグナチオの言葉を借りるなら――「体の中がすっかりがらんどうになっていた」らしい。

にわかには信じられず、今こうして森を目の前にしても、百歩譲って何らかの比喩だったのだろうとの解釈が浮かぶ程度でしかない。
どのみち我々が通う画学校が長期休暇中の気楽な物見遊山。馬鹿げた土産話の一つでも持ち帰れればいい。
少なくとも私はそのような心積もりでいた。

その夜、アルフォンソが居なくなった。

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我々3人はまだ信じられずいた。
今、アルフォンソは村の共用の石蔵の中に押し込められている。そうせざるを得ない理由があった。
「やっぱり…森に入ったのかな。そのせいかな…」
ニコラスが血の気の失せた顔と声で誰にともなく尋ねる。
普段は口数の多いディエゴは一言も発せず、厳重に閂をされた石蔵を睨んでいる。
誰が答えられよう?だが、彼が発見された状況からそうとしか考えようがなかった。

失踪した翌日、森と村の境で徘徊していたアルフォンソを村人が見つけ連れてきた時、我々はその変わり果てた様子に愕然とした。
至るところ血と泥で汚れ木の枝で服と皮膚が切り刻まれていたからではなく、いわば彼の魂の変貌に。
彼は正気を失い――というよりも全く一つのことのみに心を奪われ――喋ることに――彼は、アルフォンソは
一体どの瞬間に息を継いでいるのか――今まで聞いたこともない不可思議な言語
(何らかの解析し難い法則に従った微細な抑揚とリズム、音の変化、アクセントを我々は認めた。あえてたとえるなら
歪な金属の車輪が苔むした起伏をいつまでも転がっていくような音の連なりで、奇妙にも破裂音や擦過音は含まれていなかった)
を大声で中空に途絶える間もなく全く休まず虚ろな眼で喚き続けていた。

それはまるで遥か遠い別の宇宙から、途方もない莫大な質量を有する言葉の塊が
思いがけず開削した彼という通路を越えて溢れ出してきているような、根源的な畏怖にも似た感情を我々に与え、
村人たちが速やかに彼を石蔵に閉じ込めた理由も容易に理解できた。

そうでもしなければこの世界は彼の言葉で埋め尽くされてしまう!

あれから何時間経っただろう。あるいは束の間か。
私はぼんやりとした意識で幻視する。
石蔵の闇の中、雑多な農具や貯蔵品に囲まれ蹲るアルフォンソが、彼の、彼ではない言葉を吐き出し続けている。
闇を震わせている。言葉が半ば物質化し闇を埋めていく。
すでに喉は破れ血が靄となり彼の周りを漂い、しかしそれでも彼は止むことなく――

「だが、このままにしておくわけにはいかないだろう」
ディエゴがふいに口を開いた。立ち上がりながら吹っ切れたように明るい口調で続ける。
「一つ思いついたことがあるんだ。俺一人でも試してみようと思う」

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われ人生の半ばにてとある暗き森のなかにありき……
                                     ダンテ「神曲」


日は既に傾き、森の中は一足早く夜の領域へ滑り落ちようとしていた。
それにつれて気温も下がり始め、初秋とはいえ何の準備もなく野天で一晩を過ごさねばならないという予測に気が重くなりながら
我々は道もない森の湿った空気を掻き分けて進み、互いを励ますように話を続けた。
「…しかし不親切な連中だよ。せめておおよその方角ぐらいは教えてくれてもいいものだろうに」
「どうかな。彼らも知らないのかも。村からほんの十数分程度の位置までしか足を踏み入れた跡がなかったからな」
「でもアルフォンソがそんなに奥地まで入り込んだとは思えないよ。夜通し歩いたとしても…あちこち迷ったろうし」
「何にせよ、近くまでいけば遺跡か、なにか道標のようなものがあると思うんだよ。しっかり目を配れよ二人とも」

いずれにしても情報があまりにも不足していた。
とはいえこれ以外には――ディエゴが提案したように、森にいる何か…アルフォンソをああした何者かに対して
彼を元に戻してくれるよう願い事をするほかなかった(あのような状態に対して医者が何の役に立とう?)。
最初はディエゴ一人で行くつもりだったようだが、私とニコラスで説得して結局3人一緒に森に入ることにした。
3人なら願いを聞き届けられる確率も増える――などと単純に考えていたわけではなかったが、何にせよ
求める相手の姿も場所も不明なままである以上、人数が多いほうが得策であることは違いあるまい。

下生えを踏み分け、無秩序に伸びた枝や蔓に邪魔をされつつ、歩き続ける。
一応は森の中央(と推測した方角)へ向けて進んでいたつもりだったが、いつしかそれも怪しくなっていた。
夕闇は次第に深く、森の過剰なまでの生命の数々がざわめき出しているように聞こえ(甲高い声で啼く未知の鳥、その羽ばたき。
遠くに大型の動物の気配)、我々が深刻な運命に陥りかけていることを予感させた。
用意してきた松明に火をつけ――何という無力な光だろう!――なおも進む。
「この先どこかに開けた場所でもあれば少し休むか…」
先頭を行くディエゴの声もどこか弱々しい。

そのままで一時間、あるいはそれ以上歩いただろうか。
3人とも倦み疲れていた。それほどに道なき場所を確たる手がかりもなく歩き回るという行為は体力を容赦なく奪う。
交わす会話も次第に少なくなり、元々が運動不足な私は灯りをたよりに少し遅れてなんとかついていった。

突然に灯りが消失し、ディエゴの驚いたような叫びが聞こえてきた。
「ディエゴ!ディエゴが落ちた!崖だ、畜生!」
恐慌をきたしたニコラスが私の追いつくのも待たず、悲鳴とともに走っていく。
今や星の光も届かない全き漆黒に取り残され、私も少なからず動転しながら必死でニコラスの後を追った。
まずニコラスを捕まえ気を落ち着かせ、2人でディエゴを捜さないと――さもなければこのままでは…

本能的な恐怖。
夜の森の中で私達は排除されるべき異物だった。
木々が騒ぐ。下草や根に足を取られて転ぶ。意地悪く突き出た枝に顔や腕を何度も齧られるが構っている余裕はない。
頬が濡れているのは夜露だろうか。
むせるような緑と土の匂い。葉擦れのざわつき。過剰だ。
眼を塞がれた今は、それ以外のあらゆる感覚が森の過剰さに囲まれていた。
そうして唐突に私の足元にぽっかりと空隙があらわれ、私は果てしなくそこへと落ち込んでいった。

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死の感覚は私においては密接にある一群のイメージと繋がっている。
古ぼけた埃っぽい、しかし柔らかな光のさす生家。喪服を着た母の白い顔。小さな柩に納まった弟の姿――
全ての失われてしまったものたち――

朦朧とした頭でそれらのイメージを想起しながら、私はぼんやり辺りを見渡した。
すでに朝が近づいているのだろう、取り巻く景色が深い青の中に浮かび上がる。
ここは森を縫って流れる清流のほとりらしい。
堆積した落葉や雑草の茂みに邪魔されて見えないが、ひそかなせせらぎと冷気が伝わってくる。
身震い。
私は自分の衣服がすっかり湿っているのに気づいた。
立ち上がろうとして顔をしかめる。そこかしこに引っ掻いた痕があり、身体じゅうの骨と肉がずきずきと痛んだ。
どうやら片脚も挫いている。

その痛みがさらに大事なことを思い出させた。
あの2人はどうしただろう?

再び樹々が密生する方向に転じた目が、異様なものを捉えた。
次第に明るくなる曙光に反抗するように、一本の大樹の根元に凝固したままでいる闇。
一瞬、熊が蹲っているかと思ったがそうではなかった。
およそ生命としての質感が欠如した漆黒の澱。それだけがそこにあった。
如何なる自然現象がこれを生み出したのか。
いや、我々の自然とは無関係にそれはあるのだ。慄気たつ皮膚を通して私は直感した。

無言の対峙はどれほどだったろうか。
ふと闇が身じろぎし、いっそう膨らんだかに思えた。
次いで前置きもなくその中央に、鮮やかな夢のように何かのビジョンが映し出された。その姿は――
白く柔らかな裸身、豊かな胸乳、温かで慈愛に満ちた笑み…私と同じ燃えるような赤い髪。
若き日の母の姿。自分でも理解できない罪の意識とともに覗き見た――
幼い頃の数々の美しい思い出とともに、いつしか色あせ忘却の中に沈んでいったあの姿だ。

貧しいなりに幸せだった少年時代。弟が死に、家を手放し、母の表情が憂いに凍りつき、全ては失われてしまった。
そして今も――記憶が薄れ、思い出のイメージがおぼろに退色していくことは、一度失ったものを延々失い続けていくことではないのか?
なぜ…なぜこんなものを見せる?思い出させる?

現れた時と同じく唐突に闇の中の母が揺らぎ、消えていく。
「待って…待ってくれ!」
やっと声をあげた時にはもうそこに残像すらなく――また失ってしまったのだ。
私は――私は今こそ自らをここまで連れてきた無意識の願望に思い至った。魂を揺さぶるある暗い衝動とともに。
強く押し殺した悔恨と恐怖、拙い技量ながらも画家を目指したその密かな夢。

そうして確信していた。目の前に佇立するこれこそが森の主なのだと。

すまないアルフォンソ。しかし、君もそうだったんだろう?

「どうか――どうか願いを聞き届けてくれ。森の主よ。私に、この世界の全てをあるがままに、細大漏らさず視ることのできる眼と
視た何もかもをそのままに留めておける記憶を!あたかも私の内部に世界をそっくり描き写した絵が実現できる、そのような力を!」

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瞬間。
視界が眩い光につつまれた。
思わず目を瞑り、また開いた、その瞬間。
世界が変貌していた。

あらゆるものが内側から輝いていた。光ではなく存在の輝き。
樹も、土も、詰草の虫食いも、水滴も、蔓の左巻きも、花粉も、麝香鹿の糞も、蜘蛛の巣も、中空の粒子も。
私の眼は全てを捉えた。

二十歩先の糸杉の上から8番目の枝の先端にある葉に乗った一滴の朝露が光を反射するそのプリズムの色を58926色まで見分けることができた。
真西の方角の視角に収まる水平200度と垂直125度のうちに8014772種の黄金比を同時に発見した。そのうち一つの中心に位置する枝に止まった
体長1.2cmの砂色の甲虫の左第一肢に生える刺毛を一本ずつ数えられた。

そしてその全てが私の脳裡に留まり続け、視線を移すたびに記憶は加速度的に増大していった。
頭の奥で何かが焼き切れる匂いを感じ取れた。自覚のないまま胃の中身が逆流し、呼吸が詰まる。
今や時間と空間の幾重にも折り重なった世界が私の内側に構築されはじめ…
耐え難い充足感と多幸感に伴われながら私の意識は崩れ落ちていった――

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粗末なベッドの上で私は目を覚ました。
視界がぼやけてよく見えない。
どこからか鼻腔をくすぐるいい匂いが漂ってくる。
「ああ、気がつかれましたか」
その声は聞き覚えがあった。ということは、ここはあの村か。
村長は薄いたまねぎのスープを用意してくれ、私がうまく力の入らない手をなんとか操ってそれを飲む間
何があったのか説明をしてくれた。

私が(アルフォンソと同様に)夢遊病のように森から彷徨い出てきたこと。
その時には私の髪は真っ白に変色していたこと。
それから今日まで3日間眠り続けていたこと。
あとの2人はまだ見つかっていないこと。
アルフォンソは――私達が森に入った夜から朝にかけてのうちに石蔵の中からいなくなってしまったこと。
(2人のうちのどちらかが願いをかなえたのだろうか?それとも…)

私一人帰った後、彼らの家族や友人達に何と報告すればいいのか…
そう思い悩みはじめたとき、奇妙な不安感が頭をもたげた。
帰る…いったいどこに?私はどこからやって来たのだ?
そもそも私は――私の名前はなんと言った?

ここに来てからの記憶、過去の断片的な記憶は残っている。だがそれ以外は…
私の動揺のわけを知って、村長が悲しげに首をふる。
「よくあることです…バスクの森に入り、戻ってきた者は必ず何かを――心のどこかを失っている
しかしあなたはその程度で済んだ。運がいいと思うべきです」

そうかもしれない。何となくその理由もわかる気がする。
私は薄れていく意識の最後で願いの継続を拒絶したのではないか。だからこそ代償も少なかった。
かすむ目をしばたたかせながら私は思いをめぐらせる。
私は世界の秘密の一端に触れた。
澄み切っていて眩く活力に溢れ、完璧な調和に輝く世界。
それは途方もない恐怖だ。

とてもあんなところにはいられない。
我々は世界を冒涜しなくては住むことができないのだ。

……

さらに数日が経ち。
出立の準備を終えたところへ村長が話しかける。
「どうかお気を強くなさい。失ったものは多いかもしれないが
なんとなればあなたは《森》の軛から逃れ得た人(バスコ・エウスカディ)なのだから」

その言葉に黙って頷く。
生命が、魂がまだ手札として残っているならそこから新たにやり直すことだって可能だろう。
これからどうするか、私の中でいまだ整理はついていないが、いずれ旅の途中で答えは見つかるはずだ。
私はひとまずの塒と目した街へ向け、一歩を踏み出した。

  ………
  ……
  …



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おそらくは始原より密かに世界への干渉を続けてきた冥き存在――
現実の薄い膜を剥ぎ取り、渾沌と無極の王土を獲得せんとする狂気の意志

狂ったトラキア女、千の夢の主、蚕食者・・・百を越す異名で囁かれ、暗示される――
それは。
黒き魔女―― サラ・ローサ

彼女の存在を知る者は非常に少なく、そのうちある者は仇敵視しある者は恋焦がれ、姿を追い求めている
彼女は不老不死であるが、俗的な意味でのそれとは異なる

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黒き魔女の足跡を捜し求める者は少ないながらも存在が確認されている。
彼らは総称して「追う者」と呼ばれる。
その中でもっとも有名なのは(とはいえ極一部の関係者に知られるのみだが)
黄金暦40〜41年のジュランソン侯乱心事件であと一歩まで魔女を追い詰めたゼーゼル・ブラックロウである。
流行り病で亡くなった愛妾を蘇らせるために魔女の手を借りたジュランソン侯の居城に彼が踏み込んだ時には
すでに魔女も蘇った女の姿もなかったが、残された手がかりをもとに後を追い――歴史上から姿を消した。

しかしその後数十年にわたって魔女の蠢動が発見されなかったところから、彼が何らかの手段で
魔女を追い詰め、痛手を負わせたのであろうことが蓋然性の高い推測として考えられる。

そのことはまた、「追う者」たちに勇気と一つの共通認識を与えた。
始原より存在する魔女であろうと、ただの人間が傷つけ、殺し得るのだと――


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一つのアイデアが私の中で膨らみ、かたちを取りはじめたのはいつの頃だったろう。
熟達とは言えないものの、一通りの魔術の素養を身につけ、いわば知識と技術への自信が深まったためか。
或いは回復しつつあった記憶の助けを借りて、自分が何を求めているかについての認識が、心の奥底で再生されつつあったのか。
しかし最後の鍵は――

いずれにせよ私がなそうとしていることは外法。
地上の秩序と倫理に背く行いであった。

用意したのは密閉された部屋。
部屋の中央に寝台を一つ。
四方に燭台とハーブを混ぜたオイル。
その状態で私は寝台を睨み続けた。その上にあるイメージを投影しながら――

それは一人の人間。
女の胎からではなく私の魂のうちより、実体ある生きた人間を産み出そうという、これは実験なのだ。
それは若い男で、ごく平凡な容姿と健全な精神を有し、赤い髪と温和な情熱を備え、それからいくつかの秘められた力と――

3日が経ち、寝台の中央に僅かな窪みが現れる。
さらに2日が過ぎ、窪みは明確な人型をとりはじめた。
翌日、部屋に満ちるハーブの香りの中に私以外の体臭を感じ取った。
燭台を背後にした私の影が、寝台の上で立体的に歪む。
ここまで順調に事が運んだことに満足しながら、気を抜くことなく次の工程へと進んでいく。

私は丹念に身体の諸器官をイメージする。
内臓。脊椎。脳髄。眼球。内耳。歯列。血管。リンパ。性器。骨格。爪。皮膚。体毛…
一つずつ寝台上のしかるべき場所に、職人の手さばきで嵌め込んでいく。

………

Edit

「魔女」についての話を私に聞かせてくれた男は、自らのことを「追う者」だと称していた。
果たして娼館のダンスショーを眺めながらの話題としてふさわしかったかどうか。
ともあれ偶然そこで出くわした男には、私は以前別なところで貸しを作ったことがあり
(たいしたことではなく料理店での支払いが足りないのを立て替えてやった程度のものであったが)、
少々気まずい思いをしながらも、時候の挨拶や踊り子の品定めといった取るに足りない会話を交わした。
男は三十台の半ば、品のなさに少々辟易させられたが、物腰の端々から漂う暗い秘密の匂いが
私を惹きつけずにはおかなかった。この男は何かを隠している――

何杯かのアルコールと見せかけの鷹揚さで神殿の扉はあっけないほど容易く開いた。
一度堰が切れればもう彼自身にも押し止めることはできず、私は男の持つ秘密のほぼ全てを引き出せた。
(ここで一点「追う者」たちの名誉のために付言せねばなるまい。この男は「追う者」としての資質・情熱に欠けるところがあり
そのための苦悩が彼を堕落へと導いてゆく途上に私と邂逅したのだ。以後の彼の消息は誰も知らない)

魔女の存在とその事績。さまざまな理由からそれを「追う者」たち。
各地に散りばめられた秘蹟をめぐる隠れた攻防の歴史。

男は言った。
「俺達人間が五感のみでかろうじて認識しているに過ぎないこの現実という代物が、いかに曖昧で頼りないものであることか!
魔女はその曖昧さを拡げる。増大させる。《現実の変容》、様々な手管を用いて、俺達にもはっきりと知覚できるほどにな。
あの性悪女の猖獗を見過ごしておけばどうなる。自分の見たもの聞いたもの何もかもが信用に値しないと皆気づいてしまう。
世界は徐々に狂っていき…ついには滅ぶだろう」
その言葉がようやく私を辿り着かせたのだ。私の運命を狂わせたあの40年前の森の真相に――

考えをまとめなければ。早急に、しかし万に一つの錯誤もあってはなるまい…
私の手元に積まれた知識の断片たちは、すでに答えを導き出すのに充分な数が揃っているはずだ。
それから数日、私は文字通り寝食を忘れてピースを選び、組み合わせ、描かれた絵を推測し、或いは一度バラバラに戻し、
時には男の言葉を裏付けるため図書館で文献を漁り、ついには自室の床に倒れこむ頃にはおおよその結論は出ていた。

準備が要る。
知識と技術。幾つかの道具と、そして何よりも時間と――
おそらく最終的な結末をこの目で見ることはないだろう。別にそれでもかまわなかった。
真に必要なもののためには他のあらゆることを犠牲にしなければならない。
私は私の運命をこの手に取り戻すのだ。

用意したのは密閉された部屋――


Edit

続いての作業は余程骨が折れた。
右手に力を入れるイメージ。寝台の上の腕がピクリと動く。少し持ち上げるイメージ。その通りに動く。
力を伝える実感と動いた時の満足も忘れるな。いい調子だ…
寝台から降り床に立ち上がらせるのに丸一日を費やした。だがこれで身体の動かし方は学んだろう。
翌日には本能的な情動の植え付け。さらに翌日には日常的な習慣。次には論理と計算の能力…
疎漏のないよう細心の注意を払いながら、一つまた一つと「心」を作り上げていく。
感情、欲望、性向、知識、経験…決して偽りのものと見抜かれぬよう、用心に用心を重ねて構築する。
あたかも複雑怪奇に回廊と通路の経巡っている楼閣を設計しているかのように。

心とは何か?
私は何度も自問した。それが要であったのだから。
たとえば非常によくできた精巧な機械の脳は、見かけは全く人間と同じように行動したとしても、心を持っているといえるのだろうか?
虫に心はあるのか?植物には?

思索の迷宮に入り込む私の前に一つの仮定が揺らめく。
心を心たらしめるもの。それは自己を自己と認めること。すなわち自我だと。
どうすれば「これ」に与えられる?
心を統御し、自分の意思で操縦し、いわば運命を自ら切り開く力――それは今なお私の手にある。

そうだ。
お前が私になればいい。
お前にかつて失われた私の名前を与えよう。

フランシスコ――

運命の歯車がガチリと噛みあう音がした。

私は扉を開け、また閉ざす。
地上への階段を、疲労に足を取られながら這い上がり、眩しい光に顔を顰める。

やがて背後の扉の向こうでお前は目を覚ますだろう。
胡乱に周囲を見回すだろう。隅に畳まれた服を身に纏い、外にさまよい出るだろう。
やがて偶然に導かれて私のもとを訪れるだろう。

その時を楽しみに待ちつつ、今は少し休むことにしようか。


  Edit

「あの《森》の主なんだがね、今にして思うとあれは俺達みたいな変わり者の願いをかなえるためにいたわけじゃなかったんだろうな」
「かもしれんね」
「あれは…そう、もっと機械的な仕組みで、人間の意識の一番奥深くと外の世界を直接つないでしまうような…
そうだ、アルフォンソは、あれは何を心の中に抱えていたんだろうな」
「なんとなくだが、推測できることはあるよ。皮肉屋でなかなか他人に心を開かなかった。そのくせ弱いものには優しかった。
言葉が伝えられることの限界を知っている男だった」
気がつけば先ほどまでの霧は朝の光に駆逐されようとしていた。
「それと…」
「この街が名残惜しいのかね?それとも今になって気持ちが…」
どうやら私がぐずぐずと学校に行くのを渋っている子供にでも見えたらしい。
「いやいや、そうじゃない。ただ、最後に少し話がしたくなっただけさ。フランシス…ああ、彼の方だが、もう会ったかい?」
「うむ、話はしなかったがね…あれなら大丈夫だろう。浄玻璃鏡でも騙されるよ」
「そう言ってもらえると心強い。心血を注いで生み落としたものだからね。なにしろ彼は…
若々しい好奇心と、何かを激しく希求する情熱を持つ、魔女にとってはこのうえもなく美味な餌で、
なおかつ魔女を殺す毒を秘めた――悪魔(デアボロ)なのだから」

「だが、罠はあくまでも罠だ。活用するにはこちらも能動的に追いつめる必要がある」
「そうだな…追うこと。それが残る人生の主題となるわけだ」
追いつめ、殺す。「追う者」に共通するただ一つの目的。
「事が成れば、自由を手に入れられる。そうして我々も含めて人間たち皆が安心して眠れるようになる。違うかね?」
「いや…そうだな。その通りだ」
空手形だと鼻で笑わない程度には私も年をとり分別も蓄えた。
また、もし仮に魔女を仕留め得たとして――私にとってそれは最早さほど重要な問題ではないのだ。

「さて、荷物は不要と言ったが…」
「ああ、身の回りのものはこちらで整える。或る日散歩にでも出かけたように、ふらりと行方を消す。
いわばそれが仲間入りの儀式といったところだ」
ならこれが見納めか。心残りがないといえば嘘になるが、やるべきことはし終えた。
今は晴れやかな気分だ。
再び彼らを欺いているとしても。

すまない。しかし私はようやく自分が何者か悟ったのだ。
感謝しなければなるまい。ヒントを与えてくれたことに。

芸術家としての私の最高傑作に、おそらくはなるだろう。
魔女にとってはほんの余技かもしれないが、私の場合には全身全霊をこめる必要があった。
「追う者」たちはよくできた操り人形程度にしか認識していまい。
《現実の変容》は、人のなすべき業として果たして受け入れられるかどうか、それはわからない。
だが――
冷えた生命は長い年月を生き(火にだけは気をつけろ!)、それに伴い私も彼――(私)の中で生き続ける。
色あせることも、失われることもなく。
若き日より取り憑いていた恐怖も憧憬も昇華され、私の心は――ああ、とても気分がいい。
かつて私の内部に築こうとして挫折し、今度は私の分身として顕現させた。
不滅とはこういうことだったのか。

今頃は店の中で欠伸を噛み殺してでもいるだろうか?
魔女にだけは出会うなよ。
そうして、お前はお前自身を生きていけ。お前は(私)なのだから。

知らず指を目の横にまで上げてからそこに目指すものがないことを思い出し苦笑する。
「不思議なもんだ。この年になって視力が回復してくるなんてな…」
頭をふると赤毛の混じりはじめた髪が揺れる。
「散歩にでも出かけたようにふらりとね…そのほうが俺らしいだろうな」
馬車の中から振り返れば街並みは陽光に輝いている。
私はそこでの歳月に別れを告げるように、景色が彼方へと消えるまでずっと目を凝らしていた。
さらば――黄金の日々よ。


<了>











 


Last-modified: 2012-02-17 Fri 22:19:28 JST (4460d)