名簿/496064

  • ――黄金暦242年 7月
    夏の深夜のことであった。少女は突如目覚めた――否、完全な覚醒とは言えない。夢遊病のようなものだ。
    少女、グレーテは言いようもない不安に襲われ始めていた。理由は彼女にはわからない。ただただ恐ろしく、寂しく、頭の奥底から何かが響いてくるということしか感じられなかった。
    「ア……お兄様、お兄様、どこ……お兄様、どこ……?」
    ベッドから起き上がると、ふらふらと寝間着のまま今は亡き兄を呼びながら、兄を探し始めた――外へ。 -- 2013-03-07 (木) 01:00:27
    • 「お兄様……お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様……どこ、どこに、いっちゃったの……お兄様ぁっ……!」
      悲痛な叫びを上げながら、グレーテは夜の街を歩く。人など歩いてもいない時間である。
      少女がそんな中、一人寝間着姿で、兄の名を呼びながら徘徊しているのは異様な光景であった。
      そう、この街に来てから、少女は夢遊病のような状態になることがあった。兄をただただ求め、夜の街をさまようのである。兄を求めなければ、彼女が封印した忌まわしい記憶が、蘇ってしまうかもしれないのだ。
      「お兄様、おにい、さま……どうして、どこに、いるの……」
      薄暗い街路地を歩きながら、少女はただ兄を探していた。見つけることのできるはずもない兄を。 -- 2013-03-07 (木) 01:08:12
      • 少女は路地裏に入って行った。人気のない路地裏だ。暗い夜……狭い通路……兄と共に逃げ出した時のことを想起させる場所であった。
        この夢遊病状態の事を、グレーテはほとんど記憶していない。グレーテはこの夢遊病になるときは、歩くルートも全てが毎回同じであった。毎回、繰り返すのである。
        そんな闇の中、少女の進行方向には二つの人影があった。柄の悪そうな男が二人、まるで少女を待ち構えていたかのように、そこにいたのである。
        「へえ……本当に来やがった。あいつがいってたことは嘘じゃなかったんだな」
        「まあ、なんでもいい。こんな楽な仕事でいいっていうんだ。あんなガキをやっちまうだけなんだからよ」
        「ああ、しかし、なんだ。趣味の悪いやつもいたもんだぜ……」
        グレーテはただひたすら「お兄様」と呟きながら、進行方向にいる二人の男など見えていないかのように、進んでいく。 -- 2013-03-07 (木) 01:34:53
      • 少女はぶつぶつと呟きながら路地裏を進み――ついに二人と対峙した。
        「よおお嬢ちゃん。ちょっといいかな?」
        背の高い方の男がグレーテに声をかけた。グレーテはそこでようやく二人に気づいたらしく、二人を見ると、びくっと体を震わせ、怯えた表情を見せた。
        「あ、あれ……? ここ、どこ……? 私、寝てたのに……あ、れ? 貴方たち、だ、れ……?」
        グレーテは男に話しかけられようやく正気に戻ったようだった。夢中遊行しているさいの記憶はなく、今の状況に困惑しきっていた。
        「あ? 何言ってるんだこのガキは……まあいい。お嬢さん、おじさんたちはちょっとある人から頼まれてねえ……べつにお嬢ちゃんに恨みとかあるわけじゃねえんだが……ちょっとばかし、苦しんでもらうよ」
        男はそういうと、残虐な笑みをグレーテに向けた。 -- 2013-03-07 (木) 02:21:40
      • 「おい、とっととやっちまおうぜ」
        背の低い方の男がせかすように言った。「ああ、そうだな。できるだけ苦しめるようにっていうご注文だったからな……全く、趣味が悪いぜ。お嬢ちゃんも何があったか知らんが可哀そうにな……よっ、と!」
        そう背の高い男が言ったかと思うと、男の拳がグレーテの小さな腹に打ち込まれた。
        「か、はぁっ!?」 グレーテの軽い体が小さく中に浮く。グレーテは何が起こったかもわからないまま、強烈な腹部への痛みに悶え、腹を押さえ、えづく。目を見開いて蹲る。 -- 2013-03-07 (木) 03:46:30
  • 冒険者の街の一角に建てられた病院がある。白い外壁に包まれた、純白の建物があった。
    看板には【ディノグラー医院】と書かれている。精神に関する症状を主に取り扱う病院であった。
    その診察室で、三人の人間が顔を合わせていた。白衣を着た初老の精神科医と、その助手である若い青年、そして患者である幼い姿の少女だった。
    「ありがとうございました、先生。言われた通り、お薬、ちゃんと飲みます」
    小さな少女はぺこりと二人に頭を下げた。
    「きちんと飲むのだよ、グレーテ君。それと、記憶の喪失についてはあまり深く気にしすぎないことだ。余計に症状が悪化してしまうかもしれないからね……大丈夫、直に治るよ」
    初老の精神科医はそう言うと、少女に笑みを浮かべた。少女もその笑みに、にこにこと答えた。
    薬を受け取ると、少女は何度も礼をしたのちに、診察室から去って行った。 -- 2013-03-04 (月) 16:34:05
    • 去って行った患者の少女の名はグレーテ。この精神科医と助手とは、この街に来てからの付き合いであった。
      とある事件の証人となったが、その事件に関する記憶を喪失しているグレーテの治療に携わったことからの関わりであった。
      ――頻発性健忘症。それが彼女の症状だった。まれに、自分の行動に関する記憶を喪失するのであった。その治療のために、少女はこの病院に通っていた。
      「彼女の記憶喪失は……回復するのでしょうか。いえ、教授の診察を疑うというわけではありませんが……実際には、教授はどうお考えでしょうか」
      診察室に「教授」と呼ばれた初老の精神科医と若い助手は二人だけになり、助手がまず口を開き、精神科医へと問うた。
      「脳の外傷等が原因ではなく、心因性の健忘症だ。過去のトラウマが原因とみて間違いないだろう。彼女が喪失した記憶を戻させるためには、催眠療法なども使えるだろうが……基本的に、失った記憶は彼女にとって好ましくはないことだろう。無理に思い出させようとすれば、症状が悪化するかもしれんな」
      椅子に深く腰掛けながら精神科医は言った。
      「では……やはり、そのトラウマとは、彼女が遭遇したあの“事件”でしょうか……」 -- 2013-03-04 (月) 16:46:36
      • “事件”とは、グレーテが町に来たばかりの頃に遭遇したものである。グレーテは5人の暴漢に襲われたのだが、気づくと、少女の周りは血の海であり、5人の死体が転がっていたというのである。
        何が起こったかグレーテは覚えておらず、ただただ恐怖に慄いているばかりであったという。犯行現場の状況もあり、彼女は殺害の嫌疑をかけられ、重要参考人として官憲に連れて行かれたものの、凶器は見つからなかった。
        この少女が5人の男を殺せるかという問題もあり、別の犯人がいるという可能性が浮上し、彼女の記憶に眠る事件の真相を呼び起こすため、精神科医は召喚され、治療にあたっていたのであった。
        警察も誰も彼もが、彼女の記憶喪失の原因は、事件のショックによるものだと考えていたが、この精神科医は違っていた。
        「いいや……そうとも言い切れん。もしかすると、さらに過去のことが原因になっている可能性がある。あまりにも記憶の喪失が頻発すぎるからな。おそらく……思い出させないようにするための、心の防衛機能だろう」
        パイプを口にくわえつつ、淡々と精神科医は言った。彼の言ったことに、助手は大きく驚いていた。
        「では、彼女の健忘症は、あの“事件”が直接の原因ではなく、原因はもっと過去にあると……? 確かに、あれほど強力な喪失ですからね……。しかし、教授……そうすると、彼女の記憶を蘇らせることは、彼女のためにならないのでは?」
        「君、少し勘違いをしているね。確かに“事件”の解決には彼女の記憶が必要だが……彼女が祖の復活を望んでいるというわけではない。我々が治すのは、彼女の頻発性健忘症だ。事件の記憶の復活に関しては、彼女が求めない限りは行うべきではないだろう」
        その言葉に、助手はどこか安心したようであった。「ええ……我々がすべきことは彼女の記憶の復活ではなく、健忘症の治療、ですからね」
        「が、かなり珍しいケースだ。君もよく記録を取っておきたまえ。今後の精神病理学の発展につながるやもしれんケースだ」
        「わかりました、教授」 -- 2013-03-04 (月) 17:03:54
      • そして、助手も己が業務のために診察室を後にした。残されたのは初老の精神科医のみであった。
        「やはり、私の見立て通りか。あの“事件”を起こしたのは彼女で間違いない。記憶喪失と過去のトラウマ……そして、あの事件現場。おそらく間違いない。彼女の精神の変容が外部に何らかの影響を与え、暴漢どもを殺戮せしめたのだ」
        精神科医は立ち上がると、窓の外から夕焼けの街を眺めはじめた。
        「……私の理論を証明するときが来た。精神の変容は肉体の変容をも引き起こす。精神の力の証明だ。……彼女について、詳しく調べさせるとしよう。あの薬の効果も、そろそろ現れてくるころだろう」
        その精神科医の顔は、少女に向けたやわらかい笑みからすれば、考えられないような冷徹な表情であった。医学者として、科学者としての本性がそこにはあった。 -- 2013-03-04 (月) 17:14:17

Last-modified: 2013-03-07 Thu 03:46:30 JST (4084d)