あらすじ †
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- はァ〜〜〜、時は遡ること1,000余〜
我らが領土〜 国境線はおろかカーマローカの名すら無い時代〜 はぁーベンベン
北方には山脈隔てて〜 大国・北の雪国がぁ〜〜〜
東には餓えた狼〜 牙を研がす新興の騎馬民族がぁ〜〜〜
南方には砂を血で濡らす紛争地帯〜 旧レオスタン連邦がぁ〜〜〜
そして西には属州獲得に明け暮れる〜 旧西方諸国連合が〜〜〜
四方八方、大国に囲まれ〜 山篭りの田舎部族の命運は〜 吹けば飛ぶよな儚きもの〜〜〜 -- フォルトゥナ
- はぁ〜 よ〜〜〜っいとっ! -- エマ
- ……。 -- レーラア
- 折り悪く〜 北の雪国では未曾有の大地震〜〜〜 国外への活路を求めた〜 一部急進派の領土拡張策の動きあり〜
時同じくして〜 東の餓狼〜 西方領土獲得を目指して〜 我が領土にちょっかい掛けだす〜〜〜
旧西方諸国連合〜 東の脅威を懸念してか〜 天然要害の我が領土に前線基地を置く構え〜
南のボンクラ〜 昔っから隣接地で喧嘩状態〜 背後の連邦を嵩にして〜 調子こく〜
まとめると〜 同時期に東西南北から侵攻されそー は〜 やんなっちゃうわー ベベンベン -- フォルトゥナ
- はァ〜どーした トゥナちゃん! -- エマ
- …………。 -- レーラア
- そんな中〜 現在カーマローカの名目首都・シュラインの旧称〜 バシューガに〜
憂国の志抱く三人の若者現る〜 はァ〜 ベベンベンベベン♪
異国の侵略いかほどのものぞー と楽観視するー 諸氏族を尻目に〜 三人の若者は深刻な危機感を抱いていたァ〜 -- フォルトゥナ
- はぁ〜 そんで ど〜なった! -- エマ
- ………………。 -- レーラア
- トンチキに歌い狂う姉と、調子外れな合いの手を入れていた弟子を、今まで冷ややかに見守っていたレーラアだったが、
歌が三人の若者のくだりに触れたあたりで、ごくごく僅かに表情を曇らせた。
- 色々あって〜 バシューガのベグ(氏族長)になった22歳佳人才媛のこの私が〜 破竹の勢いで当時のカーマローカ領を統一〜
一つにまとめられた田舎部族は〜 四方からの侵攻に対して〜 一世一代の賭けに出る〜
はぁー ベベンベンベンベンベベンベン♪ -- フォルトゥナ
- はぁ〜ちょーいとトゥナちゃ…………えっ!? い、色々は? その色々は飛ばしちゃうんですか!? -- エマ
- 人はぁ〜 完全自由独立の政治形態よりも〜 一つの大きな傘の元に統治されていたほうがぁ〜
得てして風通しもよく〜 複雑な糸の様に絡み合う政治と外交の問題がぁ〜 一本化されて解決は楽になる皮肉ぅ〜
というわけで当時の諸氏族代表の私がぁ〜 旧西方諸国連合の諸公会議に〜 殴りこみをかけるぅ〜
「おどりゃー ワシらの土地に土足で踏み込むとはどーいう了見しとんじゃワレーオラー まーワシらも大人じゃけんのぅー おどれらの目的に協力したるさかいに他のボンクラども黙らせてくれんかのぅワレ?」 ※語り部分
超意訳するとこんなことを言ったのか知ら〜ん? ワタシ緊張してて良く覚えて無〜い ベベンベン -- フォルトゥナ
- ……よ、ヨッ! 名調子! -- エマ
- ……酷い脚色ね。 -- レーラア
- こうして我々は〜 少しばかりの犠牲で〜 民族の独立自治を勝ち取り〜
私は〜 当時の西方諸国連合を束ねる長『諸王の王』より〜 フォルトゥナ・シュラインの名を賜り〜
マイリトルシスターはエヴァの名を頂き〜 カーマローカ領が制定され〜 バシューガ氏族はシュラインに名を変え〜
さらには私が『諸王の王』より享け賜りし御寵愛によって〜 ダカール氏族やトロン氏族といった〜
今に繋がる有力氏族たちが誕生し〜 西域風の名を付ける儀…… -- フォルトゥナ
- 誕生……? ご、御寵愛って……え? じゃ、じゃあフォルトゥナ様って、わ、私の……え、え? あれ? -- エマ
- ……王の御寵愛は置いといて。私の知る限り、姉さんが産んだ子供は六人。
その六人がシュラインに住まう氏族の祖であったのは事実。その一人がダカール氏族の祖であったのも、これまた事実。 -- レーラア
- はぁ〜 色々あったよ こーの千年〜 ベンベン
無粋な茶々が入ったから〜 今日はこれにておーしまい ベベンベン
合いの手乱したエマちゃんはコレの刑に処します。コレ (複雑な手のサイン) -- フォルトゥナ
- フォルトゥナ様の唄は事実を基にしたフィクションです。
実際の団体や人物、事件とは一切関係がないのかもしれません。
省略された色々 †
三匹の蛇 †
不確かなものを追い求めたがために確かなものを失う。
大勢と異なる視点で物事を考えたがために余人の気付かぬものに気付くが、当たり前のことを見過ごし、損なう。
古今東西繰り返されてきた普遍的な過ち。
バシューガ氏族の三人の若者も、この過ちを犯す。
「北の直接的な脅威は無し。彼の地における大災害も、主流派に外征到らしめる要因には成らず。もし仮に動きあれども、『黒竜の山』が軍勢の南進妨げるであろう。現実的に考えて、西への進軍・結託を注視すべし」
「では、その西は?」
「寄り合い所帯の宿命か、どこがババを引くかで揉めている最中、といったところかしら? 大規模な派兵は無し。その代わり奴隷商連中と傭兵の姿がチラホラと。遠くない内にバシューガは金につられた連中と一戦交えることになりそうね。……東は?」
「東端のマルジュ、その一部が騎馬民族らと結んだ、と。不確かだ。が、捨て置ける報でも無い。是を聞いた多くが、得心いった顔をするもので。それほどまでに、東は浸透してきている。唯一の救いは彼奴らの政体がひどく不安定なこと、か」
「……南は?」
「論じるに及び申さず」
「相も変わらずジュールフと南は犬猿の間柄……ということ?」
「然り」
「南の背後に控える連邦。彼奴らが動く気配、今は無い。であれば、ジュールフの者らに任せるが最善、か。余力あらば我らも助力のこと、念頭に置くべき、と」
「……それで、つまり?」
「隷属、選択の埒外にて」
「我ら、西との戦は不可避、か」
「然り」
「勝てるの?」
「誇りある死は必定」
「……死ぬのだけは死んでも、イヤ」
「ではやはり、契約しかあるまい、な」
バシューガの地には封じられていた産土神が存在した。
遠い遠い昔に外から流れ着き、零落して名すら失った神の成れの果て。
契約して名を喰らわせることで、超常の力を与えてくれるという願いの神。
呼び覚ませばとんでもない厄災をもたらすということで、彼の者と契約することは固く禁じられていた。
三人の若者は、目前に迫る災禍を払うためならば後にもたらされる厄災も已む無し、と禁を破る。
それが全てのはじまりだった。
アジ・ダーカ †
かくて三人の若者の契約は成された。
一人は人を超える魔導の力を欲し、一人は全てを知る力を欲し、一人は永遠の命を欲した。
代わりに彼らは自らの名を失った。
彼らを見知っていた誰もが、彼らの名だけ記憶から消えていた。
勿論、彼ら自身の記憶からも。
禁を犯した彼らにバシューガ氏族の老人らは新しい名を与えた。
アジ・ダーカ。
蛇人間の意であるその名。
表すところは、唆す者、禁を破った者。
蔑称ではあるが、それはもっぱら敬称の意を含んで、人々が口にすることとなる。
人を超える魔導の力を欲した男。彼は炎を自在に操る力を得た。
魔導技術など馴染みの薄かった当時の彼の地において、それは人の技ではなく、まさしく人智を超えた力『魔法』そのものであった。
詠唱や術式も無しに炎を操る男。彼は『炎のアジ・ダーカ』と呼ばれることとなった。
永遠の命を欲した女。彼女は自らの願いが叶ったかどうか、最初は半信半疑であった。
永遠の命が得られたのか試そうにも、本当に死んでしまっては元も子もない。
だが程無くして、とある出来事により、彼女は不死を得たと確信に到る。
同じくして他の者も知ることとなり、彼女は『不滅のアジ・ダーカ』と呼ばれることになる。
そして全てを知る力を欲した女。彼女だけがただ一人、契約したことを後悔していた。
彼女が得られたのは望んでいた全知全能の知とは程遠い、異質なモノであった。
最初は直接目にした人物の名が見える。ただそれだけであった。
なるほど、これが名を失くし名を喰らう神の『全てを知る力』であったか、と彼女は得心し、同時にひどく落胆した。
つまるところ、名も無き産土神が与えられるのはその力の範疇内である、と彼女は理解し、こんなつまらない力のために、と後悔した。
しかし徐々に彼女の後悔の質が違ってくる。
初めは目にした人物の名が見えるだけであった(ちなみに他二人の契約者を見ても、名は見えなかった)
だが数日して彼女の『目』は、明らかに目前のものとは違う光景を捉えるようになる。
それは今居る場所から、ごく近いところの情景であったり、そこに住まう動植物であったり、或いは人間であったりした。
そして見える光景は日に日に範囲が広がってゆく。
この見えるモノは一体何を意味しているのか? 彼女はとある考えに至って、背筋に冷たいものが走った。
『全てを知る力』が見せるモノは徐々に広がっている。とすれば産土神の『全て』は日々増しているということになる。
そしてそれは最終的にどういった結果に落ち着くのか?
呼び覚ませばとんでもない厄災をもたらす。
全てを知る力を欲した女……『知のアジ・ダーカ』は今更ながらに先人の諫言を思い出し、一人漠然とした不安に包まれていた。
拡散 †
「なんだ私にも使えるじゃない」
拍子抜けといった様子で『不滅のアジ・ダーカ』が掌中の炎を揺らめかせた。
『炎のアジ・ダーカ』が語っていた力の使い方。何とはなしに彼女が試してみると、ごくあっさりと炎は顕現した。
『知のアジ・ダーカ』も同様であった。彼女もまた、すぐに炎の力を使うことが出来た。
契約した三人ばかりではない。
バシューガ氏族の中でも同じように、炎の力を使うことが出来る者が何人か現れる。
そして日増しにその数は増えていった。
『炎のアジ・ダーカ』は、
「戦を前にして戦力が増えるのは喜ばしい」
と、自らが願い手にした力を、他の者が持っても嫌な顔一つしなかった。
時を同じくして、更に変化の兆しが表れる。
三人のアジ・ダーカが契約を交わす前に、三日熱に罹った老人が居た。
高熱が出ては引き、また出ては引きを繰り返し、とうとう三度目の高熱が出た。
こうなっては老人の体力で助かることは、もう無い。それは経験的に明らかなことであった。
しかし三度目の高熱は、老人の命を奪うに至らなかった。
奇跡が起きた、と老人の家族は喜びに沸いたものだったが、それも束の間。
四度目の高熱が出た。
家族は俄かに表情曇らせる。医者代わりの祈祷師も大変に訝った。老人は息も絶え絶えであった。
三度目の高熱で死に至るか、極々稀に完治する。それが今までの常であったからだ。
この事が耳に入った『知のアジ・ダーカ』は、それまで抱えていた不安が輪郭を伴って徐々に形作られていくのを感じた。
死病に喘ぐ老人の元へ様子を見に行く足が自然と速まる。
息を切らせて病に伏せる老人を見る彼女の『目』には、何も写らなかった。
契約した者と同様、老人の名を見ることが出来なかった。
不死は死 †
「……つまり、我々が願った力、他の者も手にした、と?」
「然り」
「万々歳じゃないかしら? 炎の力に不死の体。これで負ける要素は無いわ」
「……断ずるは性急」
「不死かどうかは、まだ、分からぬ。それに知の力、未だ他の者、宿した気は無い」
「まぁ、いいんじゃない? 知の力なんて役にたつワケでもなし、不死でなくともコレがあれば十分」
夜闇の空気を炎の鞭で切り裂いて、『不滅のアジ・ダーカ』は上機嫌に笑った。
その目には己が力への過信による高慢の輝きを湛え、薄い唇を不遜な形に歪ませては笑いを散らす。
「分からなければ試せばいい」
発した彼女にしか聞こえぬ程の呟きは、夜気の流れにジワリと這って、暗がりの淵へと融けていった。
彼女は契約の日より実験を続けていた。
最初は掠り傷ほどの、徐々に切り傷から肉を抉るほどの傷を、自身に与える。
いずれの傷もすぐに治る。人には有り得ぬほどの再生速度で。
しかしこれらの結果も、彼女の確信得るには至らなかった。
本当に死んでしまうほどの傷。それを与えてもなお生きていなくては、それを目にしなくては不死といえない。
自らの体で試すわけにはいかない。万が一にも失敗は許されないのだ。
一度で良い、一度で良いから試すことが出来れば……。
「今宵これから起きる全ての責は私が負おう」
『不滅のアジ・ダーカ』は堂々たる態度で、病床に居並ぶ面々を圧した。
五度目の高熱で心身は磨耗し、瞳の輝きが今にも消え失せそうな老人を前に、彼女は短刀煌かせ掲げ持つ。
「この一振り、害する刃に非ず。我らバシューガ氏族の命運別つ裁断の一撃」
あくまで朗々と公明正大に響かせる声音とは対照的に、『不滅のアジ・ダーカ』の目は一片の澄みも無く、妖しい輝きに満ちていた。
彼女から発せられる威に圧倒されて身動き取れぬ面々を尻目に、短刀は無情にも老人の心の臓へと目掛けて振り下ろされた。
「御覧なさい! 確かに心臓抉ったのに死んでいない!」
一時は『不滅のアジ・ダーカ』の一撃によって絶息していた老人が、程無く息を吹き返した。
血臭漂う病床で、恐れ戦く老人の家族を前にして『不滅のアジ・ダーカ』は高らかと笑う。
その高笑いの傍らで、再生しきらぬ致命傷と身を蝕み続ける死病によって、ひゅうひゅうと、か細く息を続ける老人の姿があった。
戦端 †
「戦の許可を、願いたい」
「ならぬ」
『炎のアジ・ダーカ』の請願を、バシューガのベグ(氏族長)は、にべもなく断った。
「しかしベグ、戦はもう避けられません、が?」
「カラリューフは仇為すものに非ず。元の血は違えど昔日よりの同胞。戦にはならぬ」
ベグの答えを受けて、黙って座していた『不滅のアジ・ダーカ』はつまらなそうに鼻を鳴らして口を開いた。
「カラリューフに滞在していた奴隷商と傭兵が山裾に天幕を張り始めたのに? 戦にならない? なら始まるのは一方的な略奪かしら?」
「ベグ。これらの動きをカラリューフが許した。ということは、彼奴ら西方に属したに他ならず。是を討たば、我らの誇り損なわれることになろう」
カラリューフはバシューガ氏族が棲息する山より、西に一日ほど歩いた距離に存在する村である。
文化的には西方寄りで、西域より派遣されてきた名ばかり僭主の手により建設された教会なども存在した。
隣接地に住まうバシューガ氏族との仲は昔から良好で、ごくごく簡単な交易や、嫁入り婿入りも盛んに行われていた。
しかしそうした仲睦まじさに、終わりの時が近づいているのを、バシューガのベグは認めざるを得なかった。
二人のアジ・ダーカの指摘に、氏族長の老人は深い深い息を吐いて観念したかのように肩を落とした。
時の流れは無情にも積み重ねてきたものを全て押し流してゆくか、と嘆息混じりに呟いては『知のアジ・ダーカ』に視線を転じる。
「大姪よ、ぬしも同じ考えか?」
「然り」
ベグは目を伏せ首を横に振る。
「ぬしらの力、人の争いには過ぎたる力。揮えば必ずや禍根残そう」
「じゃあ黙って奴隷商らの好きにさせろとベグは仰るの? 国の後ろ盾ある奴らは、異教と異国の民に容赦しないの。ご存知なくて?」
後ろ盾無くとも容赦ないでしょうけどね、と『不滅のアジ・ダーカ』は手をヒラヒラと振って皮肉気に唇を歪める。
彼女の言葉の通り、表向きに堂々と商売している西域の奴隷商は、同教徒を奴隷とするのを禁じられている場合が大半であった。
そうしたわけで、奴隷商にとって異国の地は格好の収穫場所であり、バシューガ氏族もその被害に何度か遭っている。
「スルタンのハレム入りなんてまっぴら御免よ。ベグ、貴方の大姪も果たして入城をお望みかしら?」
「……ぬしらが刃向ける相手は奴隷商、傭兵だけに非ず。背後に控える西域の国々。巨獣屠るに至る刃では無かろう」
「つまり、完膚なきまでに叩き潰されるよりかは、ほどほどに負けろと? 女達と若者に犠牲になれと仰るの?」
冗談じゃないわ、と憤り、目には烈火の如き怒りを宿して、『不滅のアジ・ダーカ』はその手に炎を躍らせた。
あわや一触即発の空気に、
「では、ほどほどに勝ち、我ら一人の犠牲も出さずに事を収めてみせれば宜しいのでしょう?」
と、場違いとも思える軽やかな調子で、やんわりと仲裁に入る者が居た。
四人の話し合いに闖入してきたのは、バシューガ・ベグの大姪のうちの一人……『知のアジ・ダーカ』の姉であった。
徐々に契約者と同じ力を手にしていった者たちと同様、彼女も既に名を失っていた。
この時、「ベグの大姪」「知の蛇の姉」などと呼称されていた彼女こそ、後年初代カーマローカ辺境伯に任ぜられる、フォルトゥナ・シュラインその人であった。
扇動 †
「此度の戦い、討滅するは、幾たびも我らが同胞の誇り汚してきた卑しき拐引の徒。他には決して一滴の血も流れぬと確約しよう」
ベグの代理として遣わされた『知の蛇の姉』は、バシューガの面々を前にして朗々と語りかける。
氏族長とて、強制的な徴兵権は無い。戦に赴こうとすれば、民に説明し、兵を募らねばならない。
とはいえバシューガ氏族は小規模の集合であり、いざ戦いとあらば、男達は競って武器を手にし立ち上がる。
特に領土的支配欲の無かった彼らは、戦は専守防衛のみと限られていたので、応戦せざるを得ない状況ばかりであったのだが。
そうした事情もあって、本来ならばベグの代理である『知の蛇の姉』が気炎を吐いて修辞を尽くすことも無いのだが、今回は状況が違った。
山裾に展開を始めた奴隷商と傭兵の一隊。その数は明らかにバシューガの戦闘員より多い。
それだけではなく、今回の戦いはその背後に西方諸国連合が控えているという。
あくまでそれは予断に過ぎなかったが、アジ・ダーカらがそうした可能性と危機感を基に『契約』を交わした内実は民に知れ渡っていたので、不確かである西方の軍勢が、確たる事実であるかのように大勢は誤認してしまった。
つまり、ここに至って今まで楽観視していたバシューガ氏族の多くがベグと同じような危惧に囚われた、ということである。
有り体に言えば、民は怖気づいていた。
アジ・ダーカらに言わせれば、何を今更……といったところであろう。
だが少数ながらも恐れることなく、ベグ代理と共に意気軒高と拳を高々と振り上げる者達が居た。
契約者らと同じく名を失った者。徐々にその数を増している、炎の力を身につけた者たちであった。
「……これだけで大丈夫なのかしら?」
「これだけ居れば十分。まだ名を失っていない人達も何人か付いてきてくれて万々歳よ」
30人ほどの武装した集団を引き連れて、西の山裾目指す『知の蛇の姉』は陽気に言い放って機嫌良さそうに鼻歌口ずさむ。
それに冷ややかな視線を遣って、『不滅のアジ・ダーカ』は再び不平を口に出した。
「炎の力がある連中ならともかく、無い人らなんて大してアテにはならないでしょう?」
「今回必要とするのは目撃者。我らの側に立たぬ証言者」
なおもご機嫌に謡うように言葉を紡ぐ姉を見て、『知のアジ・ダーカ』は、その鉄面皮とは裏腹に内心穏やかではない。
『炎のアジ・ダーカ』は、やれやれまたかと、無言のままに嘆息して肩を竦める。
「戦うのは貴方達三人だけ〜」
今度は謡うようにでは無く、本当に唄う。ビブラート効かせ、大袈裟な身振りを添えて。
「……っ!!!!!!!!!!」
それを受けた『不滅のアジ・ダーカ』は怒り心頭、白い頬を紅潮させて、見目麗しい容色に凡そ相応しくない罵詈雑言を並べ立てるのであった。
「はぁ……」
どうしてこの二人はいつもこうなのか。顔を突き合わせれば喧嘩ばかり。
つっかかる彼女。挑発する姉。激昂する彼女。笑う姉。
お決まりの光景を目にして、『知のアジ・ダーカ』は深く深く溜息をついた。
緒戦 †
『カーマローカ(バシューガ氏族)総勢30、奴隷商・傭兵連総勢300。山裾の荒地にて対峙す。』
『寡兵をものともせず、カーマローカの民は10倍の兵を散々に撃ち破った。』
と、後々に書かれた史書には記述されているが、実態は以下の通りである。
手勢を全て潜ませて、アジ・ダーカらとベグ代理の4人だけが、西方の尖兵の前に姿を現わした。
100メートルほどの距離を隔てた軍勢から視線を逸らさず、『炎のアジ・ダーカ』は身振り手振りで潜ませた民に合図を送る。
指示を受けた男らは、敵側から覗い見ることの出来ぬ山陰で、どーんどーんと大きく鼓を打ち鳴らした。
軍勢の注意が此方に向けられたの見て取ると、『炎のアジ・ダーカ』は腹の底から響く声を震わせた。
「西方のかたがた! 剣佩き、弓携えて、我らがバシューガ氏族の領界に押し入らんとすらば、荒掠の意思ありとみなし、我ら迎撃す!」
これを受けて傭兵方の隊長は、意外そうに眉を跳ねさせ吐息を漏らす。
大声で発せられた警戒の言葉が、西方諸国で広く普及していた共通語だったからである。
相手を東の山猿蛮族としか思っていなかった傭兵隊長は、修辞伴う異人の台詞を胸の内で繰り返しつつ、頭上にはためく自家の旗を見上げた。
「これは参る。社交場貴族の我が次兄より、よほど言葉のアルテに通ずと見える」
傭兵隊長は無常漂う声音で呟き、つと視線を天から地、戦列共にする奴隷商らの一隊へと転じた。
進軍。警告などお構い無しに、混成一体、軽兵の群れは歩を進める。
もはや彼らの頭の中では戦の勝敗など決まりきったことであり、戦利品の分配に遅れを取るまい、という風情であった。
「ふむ……奴隷商らの一隊がやや先行、騎馬無し、軽歩兵のみ、と。理想的な状況……かな、ベグ代理殿?」
「ええ。では早速、手筈通りに」
「うむ……矢への備えは、任せた」
ベグ代理に力強く頷いてみせた『炎のアジ・ダーカ』は、『知と不滅』の二人にちらっと目配せ送る。
二人の女に甘い微笑を振り撒いてから、向かい来る軍勢に眦を決して諸手をかざした。
詠唱も無く、陣も無く、魔導器の一つも無く。
ただの一挙手、そして敵を燃やし尽くすという意思のみで。
炎は生まれ、軍勢の一角を飲み込んでいった。
「それにしても、あっさり引いていったわね。傭兵のやつら」
「彼らは実に骨の髄まで傭兵だった。ただ、それだけよ」
自軍に損耗の可能性あらば、すぐさま撤退する。そうした傭兵の本分を、数々の実例通じて知っていたがゆえの戦いであった。
戦いはベグ代理が事前に宣言した通りに終わった。
死傷者、奴隷商らの90人余り。
残る数人の奴隷商と無傷のままであった傭兵等は、猛り狂う炎の海を前に、天幕も放って逃げ出していった。
僅か1分、ただ一人の男の手による戦果であった。
その戦果を上げた当の本人……『炎のアジ・ダーカ』は、喜ぶどころか戦いの前よりもよほど険しい顔つきで、己が手をじっと見つめていた。
重い沈黙のみが、彼の周囲に横たわっていた。
戦のあとに †
勝利に沸き立つバシューガ氏族の中には、余勢を駆ってカラリューフに攻め込もうと言う者も決して少なくはなかった。
しかしベグは厳重にそれを禁じ、傭兵等が遁走の末に置き去りにしていった物資の略取も固く禁じた。
緒戦から二日後、傭兵等が遺していった物資を、ベグが直々にカラリューフへと送り届けることとなった。
勿論、三人のアジ・ダーカとベグ代理も同行してのことである。
傭兵と奴隷商らの逗留先であったカラリューフには既に彼らの姿は無く、恐々とした村長が、バシューガ氏族の者達を丁重に迎え入れた。
「此度は互い、不運に見舞われた。我らの友誼に変わること無いのは勿論、西方の方々と敵対する意思は微塵も無い」
バシューガのベグがそうした旨を告げると、カラリューフの長は、
「友の寛容なる差配と慈悲に感謝する」
と、涙を流して手を取り合っていた。
「くっだらない! 政治は老人の悪徳に拠って為る、って正にこのことね!」
悪態ついて床に敷いた地図をバシバシ叩く『不滅のアジ・ダーカ』に、『炎のアジ・ダーカ』は幕家に篭る香の煙を見遣りながら、静かにそっと告げる。
「では我々は、若者の美徳を、果たすとしよう、か」
「東を討つ。彼奴らと結ぶ必要なし。徹底して穿つ」
彼の言葉を継ぐように、『知のアジ・ダーカ』は広げた地図の東部に指這わし、冷たい声音で断じた。
「相手は騎馬、か。あの迅さ、炎で捉えるにも、厄介か」
「馬で来るかしら? 山岳じゃ機動力も発揮できないでしょ?」
その問いに『知のアジ・ダーカ』は、地図に留めていた指を更に東へと進めた。
「遠く東、ウーガンなる民、能く馬を操る。断崖絶壁ものともせず、水の上すら駆けると」
「要害の地でも駆ける騎馬、か」
「つまり……西方には山脈が多いから、まずテストも兼ねてその騎馬兵を投入してくる可能性が高いってこと?」
「然り」
幕家の内に重い沈黙が横たわる。相手の騎兵を如何とするか?
炎の力で焼こうにも、圧倒的な速さで以って面で押し寄せる騎馬。討ち漏らす恐れは高い。
少数でも突破されれば乱戦となる。そうそう炎も使えない。歩兵中心、しかも寡兵のこちらに勝ち味は薄い。
ならば騎兵を揃えるか? しかし、数も質も圧倒的に劣る騎兵が居たところで、何の役にも立ちはしないのは明白であった。
いっそ不死の体に任せて血みどろの抗戦に持ち込むか?
だがそれは、つまるところ、無策の果てに過ぎない。
無言の内に思案巡らす三人のアジ・ダーカ。
幕家の中で流れる空気は白檀の香に満ち、白い煙の軌跡が彼らの周りを覆う。
煙の軌跡、乱れず。それは空気震わす声も、動きも、一切が停止していることに他ならない。
その停滞した場に、そっと外気が流れ込んできた。
「今度は女たちの力を借りましょう」
風が淀んだ空気を洗い流す。『知の蛇の姉』は柔らかな夜気と共に幕家の内に入ってくると、悠然と微笑む。
「みなの力を合わせて勝ちます」
先陣の狼煙 †
「まったく情けないったらありゃしないわよね、マルジュの連中!」
「勝利は恐怖を退け、更なる恐れを誘う」
「……マルジュが恐れてるのは東の騎馬民族? それとも私達?」
「さあ」
『知のアジ・ダーカ』の素っ気無い返答を気にする風でもなく、『不滅のアジ・ダーカ』は馬上で手綱を握り締める。
騎上で揺れる二つの影は、背後に追い縋る五騎の軽騎兵に気を配りつつも、緊張感の欠片も無い平素の御喋りを続ける。
疾走する馬上で、よく舌を噛まぬものである。
「ちっ……流石に詰められてきたわね! ねぇ! まだなの!?」
「もう少し。隘路抜けるまで」
「簡単に言ってくれるじゃないの! 操縦してるこっちの身にもなってみなさいよ! 足痛くなってきたわ!」
「がんばって」
己が背中にしっかりと抱きついている女に肩をポンと叩かれれば、『不滅のアジ・ダーカ』は、
「……くぅ〜〜〜〜」
と、顔を真っ赤にさせて歯噛みし、手綱を繰って更に馬を加速させる。
つと無造作に『知のアジ・ダーカ』が背後に顔を向ければ、甲高い声を上げた五人の騎兵が、派手な動作で示威的に剣を振り回していた。
携帯した弓に手を掛ける事も無く、馬の追い足にはまだまだたっぷり余力を残して、男達は狩りを楽しんでいた。
相乗りした二人の若い女など、常日頃から戦場で鞭鐙を合わせている彼らには、嬲り甲斐のある格好の獲物と映ったことであろう。
「あとちょっと! 準備いい!?」
「うん」
友の怒号に涼しく答えると『知のアジ・ダーカ』は身を捩るようにして、背後に迫る騎兵に片手を向けた。
林道の隘路を抜けた瞬間、彼女のかざした手から密度の高い炎が迸り、先駆けの一頭を呑みこんだ。
突如出現した炎に、先頭は成す術も無く焼かれ、後続は驚きふためく馬を御するのに精一杯の体(てい)であった。
元来臆病な馬はもとより、乗り手の方も突然の事態に動転し、完全に彼らは浮き足だって燃え盛る炎の前で右往左往していた。
狼狽する彼らの視線の先、炎の向こう側で揺らめく影。
馬上の女の鋭い翠眼が煌くと、騎兵四人は音も無く蒼い炎に包まれた。
蒼炎は駿馬に暑さを感じさせることも無く、ただただ、彼らの仮初めの主のみを燃やし尽くしていた。
夕暮れを背に一頭の騾馬と四頭の見事な黒毛馬を引き連れて、『不滅のアジ・ダーカ』は不満そうに愚痴を垂れていた。
「本隊を釣り上げるだけで良かったんだから……別にこんな苦労しなくても」
「戦果上々。頑張ってくれたおかげ」
貴女が、と付け足した『知のアジ・ダーカ』に、不滅の彼女は面映ゆい気持ちを押し止めて鼻を鳴らした。
「ま、まあ、ここ最近は西に東に駆けずり回ってる私達だからっ、悪路に強い馬が有れば助かるものねっ」
「ともあれ口火は切った」
冷たく断じた友の調子に、いつもと違った色合いを感じ取った『不滅のアジ・ダーカ』は、すっと眦を細めて暮れゆく空を見遣った。
「……あ〜あ、戦なんて本当くっだらないわ。さっさと終わらせましょ。ね?」
「……うん」
いつになく優しい声音の友に、『知のアジ・ダーカ』は弱々しく頷く。
残照に映る二人の影が無言の内にそっと寄り添い、蹄の奏でるワルツだけが静かに流れていた。
騎兵殺し †
稜線に騎兵の影が200ばかり窺えた。
露出した岩肌と転がる無数の石ころなどには全く意も介せず、ちょろ禿げた緑を踏みしめて、東の騎馬兵たちは軽々と山岳を往く。
威容を誇る騎兵団と、なだらかな尾根を隔てて対峙するバシューガとマルジュの面々に、僅かばかりの緊張が走った。
「さて、方々の準備はよろしいだろうか?」
『炎のアジ・ダーカ』が周囲にゆっくりと視線を巡らす。
ほど近くに居る炎の使い手たち、思い思いの得物を手にするバシューガとマルジュの男ら、そして尾根筋の背後に控える女たち。
「細工は流々仕上げを御覧じろ。あとは二手、三手と打つだけよ」
と、『知の蛇の姉』が余裕をもって彼に答えれば、
「……ふん。急拵えのチャチな細工だけどね」
と、『不滅のアジ・ダーカ』は面白く無さそうに鼻を鳴らした。
十全とは言い難い戦を前にしての普段と変わらぬ遣り取りに、同胞等の最前に立つ『炎のアジ・ダーカ』は、
「……頼もしいものだ、な」
と苦笑して、後ろに控える女たちに向けて合図を送った。
中天から白々とした陽光が降り注ぐ尾根の上に、空気を引き裂くような甲高い笛の音が鳴り響き、次いで軽重交えた鼓のリズムが加わった。
てんでバラバラで纏まりを欠いた音の集合。
それを敵方の伝令か鼓舞の類と見て取った200余りの騎兵は、機先を制するべく素早く駆けだした。
なだらかな、しかして通常の騎馬であれば行軍速度の維持すら困難な尾根を、戦闘速度で軽妙に駆け回る。
数の上では同等だが、まるで陣の様相を呈していない歩兵ばかりの敵方を、我先に食い破らんかと各々が競うように……だが横一線での厚みはある程度保ったまま……騎兵の群れは縦横無尽に展開していく。
「人馬一体」
「まさしく。あの機動力、馬のみに因るものではあるまい。超人的な騎馬術、か」
岩肌を蹴って跳躍する黒毛馬に、目を瞠って感嘆の息を漏らす『知』と『炎』のアジ・ダーカ。
「乗りこなせずとも、あって困るものでは無いし……」
『知の蛇の姉』は掌中で固い殻に覆われた木の実を弄びつ、押し寄せる軽騎兵を蒼い瞳で冷静に見据えていた。
「予定通り、頂いてしまいましょう」
両陣営が互いの姿を認め相対した距離、それが半分ほどに縮まった頃であろうか。
「……我につづけ!」
と、勇ましく叫んだ『炎のアジ・ダーカ』が騎兵の波に手をかざせば、居並ぶ炎の使い手たちもそれに倣った。
彼らの動作と意思に応じて、疾走する騎兵の行く手……尾根の端から端まで横一直線に、炎が舐めるように這う。
何の前触れも無く現れた火の手。厚みのある騎兵の進軍妨げるには甚だ不十分であったが、ことはそれだけで終わらなかった。
炎の走った線上で、耳を劈く破裂音が無数に響き渡り、騎馬の足元では小石が軽く跳ね上がった。
けたたましい破裂音を不意に間近で浴びせられ、馬にしてみては堪ったものではない。
足並みは乱れに乱れ、隊列などあったものではなく、急にせき止められた速力は、そこかしこで相互いにぶつかりうねる。
今まで前方のみに集中していた奔流が、突如として巻き起こった音の洪水に浚われ、進むことも叶わず、その場で淀み、渦を巻いていた。
「足は止まった! 良く狙い、燃やせ! 乗り手のみに狙いを絞れ!」
「焼き漏らしは徹底して斬り捨てろ! 一兵たりとも逃すな!」
大勢は決した。
30人ばかりの炎の使い手たちが、それぞれ二人、三人と燃やせば、あとは恐慌の内に逃げ惑う兵を、得物を手にした者達が追い立てて狩りだすだけであった。
こうしてバシューガとマルジュの面々は、一兵たりとも損なわずに東の騎馬兵の第一陣を打ち破り、200に及ぶ軍馬を手にすることとなった。
「上手くいってホッとしたわ」
『知の蛇の姉』は地面に転がる焼け焦げた殻を拾い上げて、ポツリと呟いた。
それを見て、彼女の妹は意外そうに眉を跳ねさせ、少し皮肉気に訊ねてみる。
「深謀鬼算に非ず、と?」
「軍馬があのテの音に慣らされていたら終わり。彼女が言っていた通り『急拵えのチャチな細工』だったわ」
原型止めていない木の実の殻を、指で弾いて宙に舞わせ、『知の蛇の姉』は愁眉を曇らせた。
パトラマの実。火にくべれば騒音撒き散らして弾け飛ぶ、硬い殻に覆われた落葉高木の実。
バシューガとマルジュの山中にいくらでも転がっているソレを、女達の協力で膨大な数拾い集め、会敵地点と思しき幾つかの場所に設置する。
そのことに一週間は費やし、その結実が今回の勝利であった。
「んー。あと数回は使える手かな?」
「……僅かばかり逃した兵、唆したのも?」
「此度の戦いは我が方の呪術がどうこう……とかいうの? 効果のほどは、相手が迷信深いのを願うまでね」
その二週間後。同数で攻めてきた騎馬兵を、バシューガとマルジュは全く同じ手段で打ち破る。
またも少数を生け捕って、おどろおどろしげな出鱈目で唆し、よく喧伝するようにと呪いの文言でさんざんに脅しつけてやった。
更に一ヵ月後。またもや進軍してきた騎兵達は、戦端開く前の鼓吹の音が聞こえた時点で半数は逃げ出し、戯れに放った火を見ただけで残りも遁走していった。
それ以降、東の騎兵たちが侵入してくることも無くなった。
果たして彼らが迷信深かったか、それとも戦の実害を恐れたのか、或いは別の要因か。
真相は誰しも計りかねるところであった。
予兆 †
「どうしてかしら? 戦勝重ねるほど貴方の顔は曇っていく」
「……そういう貴女も、表面では笑っていても、心中穏やかではないようだが? ベグ代理殿」
二人の男女は轡を並べて馬上からバシューガを見遣る。
先の戦いで手にした黒毛馬。マルジュと互いに分け合ったソレらを、村のあちこちで世話している姿が幾つも見える。
花月の柔らかい風を背に受けて、馬を進める二人の目には、いつもより少しだけ騒がしさを増した故郷の風景が、やけに眩しく映った。
『知の蛇の姉』は馬のたてがみを撫でながら、『炎のアジ・ダーカ』に、うっすらと微笑みかける。
「貴方が感じている問題と私が感じている問題。同じものかしら?」
「……異国に勝ち星あげることが我々の目的では、無い。外と結ぶこと。それが一番の目的であり、問題であろう?」
「勝てば勝つほど戦の気運は高まり、盟約結ぶ風向きは収束していく。……楽に勝ちすぎたかしら?」
「勝ち続けられる筈が、ないものであろうに、な」
蹄の音が静かに響く丘上の道で、二人揃って溜息を吐く。
軽やかに吹く春の風の中で、重く重く沈んでいくような溜息であった。
「内の問題も見過ごせないわ。これからどんどん大きくなっていくでしょうし」
「ご老人方と我ら……若年との断裂、か」
ベグをはじめとする村の年寄り。
アジ・ダーカらを中心とした、契約の力を得た者たち。
契約の力を得た者たちは壮丁の年代が最も多く、戦の中心になるのも彼らであった。
老年の者の中でも契約の力を手にした者が少なからず存在したが、彼らは決して戦に加わろうとはしなかった。
老人たちはアジ・ダーカに向けて、こう語った。
『ぬしらが欲した力、災いしか呼ばぬ。なぜ分からぬのか、なぜ分からなんだのか、不思議でならん。66冊の書から、真の英知を学び取れなかったのか』
老人たちは戦と、そして契約の力も否定し、拒み続けていた。
「……ベグ達は、正しい。しかし。しかし、だ。故郷の地と人々が、蹂躙されようとしているのを、黙って見過ごすことなど、出来ぬ」
「そう。こうして事態が一度転がり始めてしまった以上、私達は……私は上手くことを収めるために尽力するしかない」
「……妹のために、か?」
「貴方だって、そうでしょう? あ〜、癇癪持ちのあの子のためでもあるかしら?」
からかいの笑顔を浮かべる女に、『炎のアジ・ダーカ』は、ふっと甘い微笑みを返すことで答えた。
そんな二人の様子を遥か遠くで覗う者が居た。
深い木立が日差しを遮って、僅かばかりの陽光が差し込む大樹の根元。
樹木に寄りかかるようにして座り込み、ぼんやりと煙管を吹かしていたのは『知のアジ・ダーカ』であった。
彼女のみに授けられた知の力をもってすれば、目を瞑って意識を向けるだけで、遠く離れた場の様子も手に取るように分かる。
風に揺れる木の葉の一枚一枚、咲き誇る花の鮮やかな色づき、大空を悠然と飛翔する鷹の羽の動き。
その全てが脳裏に浮かんでは消えていく。
村に意識を向ければ、杖を支えに座する老人の咳きが、娘子が姦しく笑い合う様子が、馬の周りで騒がしく駆け出す稚児たちが。
そして丘の上に意識を向ければ、彼女の姉と数少ない友人が親しげに言葉を交わし、笑顔を交わす姿が見えた。
「……」
『知のアジ・ダーカ』は、ゆっくりと瞳を開いて木の葉の間から垣間見える青空に向けると、重たく紫煙を燻らせる。
「どうして、どうして、姉さんは……」
そのあとに続く言葉は無く、自分でも判然としない感情を胸の内に。
『知のアジ・ダーカ』は、眉曇らせて煙管吹かし、再びケシの香りに没頭しはじめるのであった。
西へ †
バシューガから西方に馬を走らせて一週間ほどの距離。西方諸国の東端に位置するヒルベルトホルストのガーランド地方。
険しい山脈に囲まれて冷たい山風が吹き降ろす彼の地では、初夏の兆しは一向に見えず、街道を往く人々は外套の襟を固く結んで、寒さを凌いでいた。
その街道筋の旅籠のひとつにある馬屋では、嘶く黒毛馬の傍らで、足湯に浸かる二人の男女が、遠くにはためく軍旗を見ながら会話を交わしていた。
「強行軍で三日、か。そう遠くは無い、な」
「速さと引き換えに身体のあちこちが痛むのを目に瞑れば、ね」
自身の腰や尻を摩りながら、『知の蛇の姉』は苦い顔で言葉を絞りだす。
地味な西方式の貫頭衣を纏った彼女が珍しく弱音を吐く姿に、『炎のアジ・ダーカ』は意外そうに眉を跳ねさせた。
「無理は、するな。俺一人で事足りる用向き、だ」
「自分の目と耳で直接確かめたかったことだし〜。ご心配めさらず〜」
おどけた調子で唇尖らせて、『知の蛇の姉』は、吹きつける風に揺れる旗の家紋へと再び視線を戻した。
彼女の隣に座る男も、その視線を追う。
「オルシーニ家。自領に戻らず、未だこの地に留まっているということは、再びバシューガに侵攻してくる可能性は高い、か」
「給料分の仕事を果たすまでは帰れないのかしら? 難儀なことねえ、地方豪族さん」
「……それはこちらも同じこと。前回で手の内は見せてしまった。次は無策で来るような手合いで、あるまい」
「西方諸国でも魔術は未だ発展途上。対魔兵装は稀少品……それでも各国家の支援があれば、調達するのもそう難しくは無いはず」
「さて、あちらが我々をどう評価しているのか。それにもよるだろう。魔術を操る兵と見るか、それとも山岳で無節操に火を放つ蛮人と見るか、だが」
『炎のアジ・ダーカ』は涼しく笑って、掌中に出現させた炎を揺らめかせた。
「いずれにしても今度は馬と重装を備えて来るでしょうし……で、調子はどうなの?」
浮かぬ顔で溜息一つ。彼の手元で西風に頼り無く揺らめく火を見遣って『知の蛇の姉』は訊ねる。
「やはり力は落ちる。バシューガから離れれば離れるほど、我等の力は減衰する」
「地に根ざした力……土地神の影響力が及ぶ範囲……。でも、肝心なのは火の力よりも……」
「不老不死は彼女の領分、だ。おいそれと試せる類のものでは、無い。彼女は独自に検証を重ねていると聞くが……」
「大人しくお留守番しているかしら? あの娘たち」
二人揃って東の山脈、その先を越えた遥か彼方に、憂慮に満ちた目と心を向ける。
彼らの心配は、杞憂で終わらなかった。
亀裂 †
ひっそりとした夜の静けさが、幕家の内から響き渡る甲高い怒声で打ち破られた。
『不滅のアジ・ダーカ』は、その苛立ちを隠そうともせず、沸き立つ怒りに任せて女に平手打ちを浴びせた。
「またあの爺さんを焼き殺そうとしたんだって!? 何考えてんの!? アンタの祖父なんでしょ!」
「私の祖父だからです!」
頬を張られた女は昂然と『不滅のアジ・ダーカ』を睨み返して、彼女に負けぬ剣幕で言葉を返した。
落ち窪んだ眼窩にギラギラとした光を宿す女の祖父。
それは『契約』の日から未だに死の淵をさ迷い、それでも死ぬことの出来ぬ、三日熱に罹った老人であった。
その老人の世話をしていた孫娘。
彼女がその身に契約の力を宿した時、最初に炎の力を向けたのは、病床に伏せる己の祖父にであった。
一度目は三週間前、二度目は十日前、そして三度目の今回。
常人であれば死は免れぬ焼殺の炎。そのいずれも老人の命を奪うに至らなかった。
『もう殺すしかない』
そうした類の台詞を彼女はしきりに口走り、己が祖父の境遇の元凶ともいえる女に掴みかかった。
これには流石に強気で鳴らしている『不滅のアジ・ダーカ』も怯み、言葉に詰まって視線を落とした。
いったい全体どういうつもりなの。私へのあてつけのつもりでやってるの。ふざけんじゃないわよ。
などと、当初『不滅のアジ・ダーカ』が感じていた苛立ちをぶつけられるような状況では無かった。
永遠の命を願った女は、何かが違うと頭の中では思っていても、やはり自己の責任を感じないではいられず、血が出るほど唇を強く噛んで俯いていた。
「お願い。止めて」
静かに、それでいて毅然とした口調で二人の間に割って入ったのは、『知のアジ・ダーカ』であった。
親友の声を聞いて『不滅のアジ・ダーカ』は喜色を浮かべて顔を上げたが、すぐにその顔色は曇った。
無表情で涙を流す友の姿が、そこにあった。
「本当に。本当に貴女は、自身の祖父の死を望む?」
流れ出る涙を拭うこともないまま、粛として訊ねてくる『知のアジ・ダーカ』に、件の女はただゆっくりと頷いてみせた。
「……そう」
女の無言の回答に『知のアジ・ダーカ』はゆっくりと瞬く。
再び開いたその瞳には、決意の光が灯っていた。
もう、涙は止まっていた。
「ねえ……どうするつもりなのソフィア?」
『不滅のアジ・ダーカ』が新しく付けた呼び名──ソフィア──に、『知のアジ・ダーカ』は、ほんの少しだけ柔らかい微笑みを浮かべる。
二人しか居ない幕家の内では、獣油と香の匂いが交じり合う中、煌々と燃える炎の輝きが彼女達を明るく照らしていた。
「彼の者と直接契約した私たちの願い。叶うは一つだけなのかしら」
「……どういうこと? じゃあ、まだ願いは叶うの?」
「貴女には聞こえない? 私にはずっと聞こえていた。更なる願いを、と」
「誰の声……って名無しの土地神に決まってるわよね。私には聞こえないけど……」
それって知の力の影響かしら? と腕組みして考えはじめた『不滅のアジ・ダーカ』は、すぐさま、したり顔を浮かべて腰に手を当てた。
「ははぁーん。それで次のお願いは『不死者を殺す力』ってワケ?」
「そう。それも神性の一つならば、叶う願い」
「へぇー。それでアンタがお願いするワケ?」
『知のアジ・ダーカ』が頷く前に、『不滅のアジ・ダーカ』は、彼女の鼻っ面に指を突きつけて制止した。
「ダーメっ! その願いは私のものよ! 今決めた、はい決めた、大っ決っ定!」
「でも」
『不滅のアジ・ダーカ』は、反駁しようとした彼女の言葉を視線だけで封じ、大きく胸を反らして不敵に笑う。
「フン! 死を奪ったのが私なら、死を与えるのも私でなきゃならないのよ! いい? 分かった? 分かりなさいよ! 分かった!?」
有無を言わさぬ口調と勢いに気圧されて、『知のアジ・ダーカ』は頷くことしか出来なかった。
と同時に、また彼女に甘えてしまった、と表情から色を消したまま、『知のアジ・ダーカ』の心は暗く沈殿していくのであった。
「私にしか出来ないこと。結局は私にしか出来ないことなのよ」
『不滅のアジ・ダーカ』は静かに静かに端然と、曇りの無い眼で対象を見据えて、炎を揺らめかせる。
「半端な思いじゃ叶わない。強く願わねば叶うことも無い」
猛る炎は蒼く、幽玄の輝きが彼女の双眸を冷たく輝かせた。
「あの子には、この願いは叶えられない」
かざした手から迸る蒼炎が、瞬時に対象を燃やし尽くし、何一つ残すことは無く、蒼い煌きも瞬く間に消えていった。
「なら私がやるしかないじゃない」
死病に喘ぐ不死の老人に、安息の死を与えた『不滅のアジ・ダーカ』は、うっすらと口の端に艶やかな笑みを形作った。
「喜んで、やるけどね」
補足 †
回想の設定年代は黄金歴開始より千年以上は前。
人物 †
炎の アジ・ダーカ | 知の アジ・ダーカ | 不滅の アジ・ダーカ |
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余話 †
「イモータル」
「ダメ、全っ然かわいくない」
「アーイディオン」
「……イマイチ」
「ウンフェアゲングリヒ」
「ゴツイ。女性が名乗る名じゃないわ」
「我侭」
「アンタはいいわよね! 『知』だからソフィアで即決でしょ! 私がそう名乗りたいくらいよ!」
「名乗れば?」
「……ダメ。一応、性質にちなんだ名前じゃなきゃ」
「ペルペテュエル」
「う〜ん……」
「ペルペル」
「バカにしてんの!?」
「可愛いのに、ペルペル……」
「か、可愛い? そ、そう? ……えへへ」
「そういう意味で、言ったのでは、無いと、思う、が?」
「うっさい黙れ口開けるな視界に入ってくるな」
「……むぅ」
「貴方は、名前を?」
「俺は、いい」
「ちょっとなんでよ? 炎だの不滅だの知だの、そのうえアジ・ダーカなんてのも付いてきて、
優雅さに欠けるし、味気無いし、呼びづらいったらありゃしないわよ。相応しい呼び名が必要でしょーが」
「我々は、名と引き換えに、この力を得た。不用意に、呼び名増やせば、この力に何らかの影響あるやも、しれぬ」
「そんなことくらいで『神様』の力がどーにかなるワケないでしょバーカ。むっつりバーカ!」
「……やれやれ、だ」
「さ、ソフィア。続けましょ。この私に相応しい名前をつけて頂戴。あなたが」
結局その日、彼女の名前は決まらなかった。
そしてその後も。
決まったのはただ一つ、彼女が私にくれた名前……ソフィアだけ。
彼女の図書館 †
66冊の書物。それが二人に会うまで、私の唯一の友であった。
東西の神話、壮大な叙事詩、超古代の帝国の史記、俗世詩歌集、胡散臭いグリモワール、注釈つきの翻訳辞典。
バシューガの氏族長が代々受け継いできた蔵書。
当時の辺境地域においては、66冊ですら蔵書の数としては破格であり、カラリューフの司祭が時折貸し出しを求めるくらいであった。
物心ついた時から人と接することが苦手だった私は、幼い頃からこれらの書物にのめり込んでいった。
そうなったのは多分、四歳年上の姉──なんでもかんでも器用にこなし、万事で差が付きすぎたため、私は比較されることすらなかった──
……そんな彼女の存在が影響しているのだと思う。
私はとにかく書に没頭した。ベグですら4分の1も読破していない、書物群。
姉が一度も手につけたところを見たことの無い、蔵書たち。
多分私は、人に負けない何かが欲しかったのだと思う。
彼が現れたのは『永遠なるパクス・ロマーナ』を読み終えた時、確か私が14歳の頃だったと思う。
白檀の香が満ちた天幕で、乱雑に散らばった書物の上に寝そべって書を読み耽っていた私に、静かに声を掛けてきたのが彼だった。
蔵書を読みたい、といった趣旨の言葉だったと思う。
それに私は「どうぞ」と一言だけ返して、書の世界に戻る。多分そんな感じだったはずだ。
数少ない文字が読める同好の士。だというのに、その時の私は彼に何ら関心を示さなかった。
いや、関心を持たないようにしていた、というのが正解かもしれない。
無言の読書会は、その日の夕暮れまで続いた。
それからしょっちゅう、彼は私の図書館に姿を現わすようになった。
2、3日に一度、あるいは5日連続、ときには10日ほどの間を置いて。
それが半年ほど続いた。
その間も二人のあいだで交わされる言葉は、「蔵書を読みたい」「どうぞ」の二語だけ。
それ以外の、彼との音の遣り取りは互いに捲るページの音だけだった。
私は人との間にたゆたう沈黙が、あまり好きではない。
沈黙の先にいる人物の内心を意識し、よろしくもない妄執に囚われ、どうにも煩わしい。
しかし、喋るのも得意ではない。何を喋ったらいいか、分からない。
のべつ幕無しにベラベラと言葉を投げかけてくる姉とは違い、彼は一言も話しかけてはこない。
沈黙の息苦しさと自らの御喋り。私はそれを天秤に掛けて、沈黙を選んだ。
どうせ書に没頭している間は、沈黙を意識しなくて済むのだ。
文字有って、言葉は無し。
暗黙の内に決まっていたような、そんなルールを破ったのは彼からだった。
「……読める、か?」
そう言って彼が差し出してきたのはセネカの著作集だった。これは今でもハッキリと覚えている。
その内の一句、注釈抜けのあった一文が、どうしても彼には分からないようだった。
「人の命を奪うことは誰にでも出来るが、死を奪うことは出来ぬ」
簡潔に答えた私に、彼は一言礼を言って、口の端に微かな笑みを浮かべ、また書に目を戻す。
それを機に、彼は分からぬ箇所、或いは解釈に迷った箇所を、そう多くは無い頻度で私に訊ねるようになった。
簡素に説明する私。時には新たに注釈を書き加える私。
聞き入る彼。頷く彼。感謝と微笑を私に向ける彼。
私が師で、彼が生徒。
そうした関係に、正直、私はいい気になっていたと思う。
もはや彼との間で交わされる沈黙は、苦痛ではなかった。
それは淡々と穏やかで、ほのかに甘さを忍ばせる、好ましい時間となっていた。
心地よい静けさ。
それも程無く、賑々しい喧騒によって打ち破られる。
あれは確か、彼と共同で読み進めていた蔵書が、50冊目に差し掛かった辺りだと記憶している。
天幕の中で堆く積まれる本の山と漂う香の煙。
そんなうらぶれた場に、彼女はひどく不釣合いな華やかさを供えた存在だった。
「西域についての書物が見たい」
唐突に現れた彼女が、嵐のような勢いで並べ立てた文言を要約した結果である。
よく覚えてはいないが、その結論に至るまで、彼女は文書にすれば百行余りは喋り続けていただろうか?
こちらの返答を待つ、彼女の強い視線。
ロクに息継ぎもしなかったためか、ほんのりと赤みが差した頬。
そんな彼女の様子は、良く覚えている。
「何を?」
「何を? ……って?」
私の言葉足らずな返答に、彼女は顔いっぱいに疑問符を浮かべて小首を傾げていた。
「西域の何を知りたいか? ということでは、ない、か?」
彼が私の言葉を補足する。それに私が「うん」と頷くと、やにわに彼女は怒りだした。
アンタに聞いているんじゃない私は彼女に聞いているんだ、と、またも要約すればこういったところか。
私は彼女の口からポンポン飛び出す罵りの言葉に、目を丸くして驚いていた。
黙っていれば楚々ともいえる可憐な容色の彼女から、こうも苛烈で口汚い口上が次々と繰出されていくのに、一種の感銘すら覚えた。
その矢面に立って、彼女の言葉尽きるまで、ただじっと黙っていた彼にも感心させられたものだが。
「とにかく全部! 全部が知りたいの! まずは文化からがいいわ」
「……然らば」
私は妥当な書を思い返しながら本の山を漁る。西方博覧記が妥当か、と彼女に渡す。
「……読めない」
「そう」
「……読み方、教えて」
私は言葉に詰まった。
彼女に渡した本はリングワ・ラティーナによる記述。
西方文書の基本である、これが読めないということは、彼女に基礎を一から教え込まねばならないことになる。
それにかかる膨大な時間と労苦を想像しただけで眩暈がするほどであった。
「……ダメ?」
先程までキケロも裸足で逃げ出しかねない峻烈な口舌ふるっていた人物とは思えぬほど、弱々しく儚げな言葉と視線。
こうした期待や懇願を受けるのが初めてだった私は、大いに戸惑い、断ることが出来なかった。
とにかく初めは私が朝から晩まで付きっ切りで指導した。
読み聞かせまでやる羽目になったため、私は人生の中で今までに無いくらい、人に向けて言葉を搾り出すことになった。
結果として、私は彼女に文字を教える過程で、人に対する喋り方を学習していったのだと思う。
「……終わった! やった! 読み終わったわよ、ほら!」
彼女は恐ろしいほど勘が良く、蔵書の中で最も簡単な書物を、2ヶ月ほどで読破するのに成功した。
一つ読み終われば二冊、三冊とトントン拍子に事は運んでいき、半年もすると、彼女は独力で一通り西方の書物を読めるレベルにまで達してしまった。
「ふっふ〜ん。どんなもんよ? 私ってばムーサに愛されてるんじゃないかしら?」
「うん」
彼女の自画自賛に、私は素直に頷いた。事実、彼女の飲み込みの速さは才能に恵まれなければ成せるものではない。
「ま、まあ、アンタの指導のおかげでもあるんだケド……」
もごもごと奥歯に物が挟まったような言い方の彼女は、一つ年上だというのに実に可愛く見えたものだった。
もう彼女に時間を割いて指導をする必要も無くなったのだが、それでも彼女との言葉の交換は毎日続いた。
本に関する質疑応答は勿論、そこから派生する話題……いわば、とりとめも無い雑談の方に占める割合が徐々に増えていった。
私は喋るのが得意でも無いし、好きでもない。
しかし彼女と喋るのは、嫌いではなかった。
彼女は言葉足らずな私の話に、会話を打ち切るでもなく、はっきりと疑問を口にして、最後まで話を続ける。
たったそれだけのことであるが、今までそれが出来たのは私の姉と彼だけだったのである。
彼女は会話の中で私の言葉を待つ間、期待に輝かせた瞳で私を見る。
不思議なことに、その彼女の眼差しが落胆で曇ったことは一度も無かった。
怒ったり、驚いたり、笑ったり、喜んだりすることはあっても、失望の色が見えたことは一度も無い。
私と話した人は、たいてい失望の色を浮かべるものだった。
彼女にはそれが無い。
私にはそれが嬉しくもあり、怖くもあった。
ワード †
- 地域
- バシューガ
図のシュラインの村に相当する地域に棲息していた氏族名。及び彼らの棲息地域を指す。
- マルジュ
バシューガの東に棲息する氏族、及び彼らの棲息地域を指す。
マルジュの東には、匈奴だかフン族だかモンゴルっぽい騎馬民族が存在する。
- ジュールフ
バシューガの南に棲息する氏族、及び彼らの棲息地域を指す。
ジュールフの南西には彼らと敵対関係にある部族が存在する。
敵対部族はレオスタン連邦の東端に位置している……んじゃないかな多分。
- カラリューフ
文中の説明通り、バシューガから西に存在する村。氏族名ではない。
- 黄金暦現在の各地域
- バシューガ以外は健在。
- バシューガのみシュラインと名を変えて存続。
- 今やバシューガという名はどの記録にも残っておらず、記憶に留めているのもごく少数である。
- シュラインは氏族名ではなく、カーマローカ地域が領邦化された時に辺境伯として赴任した領主の家名。
- お借りした地域
- 北、大国・北の雪国……こちら
- 西、西方、旧西方諸国連合……こちら
- 南、連邦、旧レオスタン連邦……こちら
- 南のボンクラ……フォルトゥナ様の暴言。レオスタン連邦ではなく、ジュールフの敵対部族のみを指したものと思われる。
- アジ・ダーカ
- アジは『蛇』、ダーカは『師匠・敵対的部族』を表す。
- 「蛇の導師」「毒虫の根源」「蛇人間」の意。この話では蛇人間の意として扱われている。
- みんなだいすき、アジ・ダハーカのことだよ。