名簿/490255

  • 【 18 】
    • 歴史の流れは大いなる河の流れと同じくして、行くは絶えぬが戻る事はけして罷りならぬものである。
      そして歴史は広大なる海が如き編纂されし詩となって語り継がれ、一つの明瞭な回答としてのみそこに存在しうる。
      後世に残るは都合良き形に収められたそれであり、それが真実であるかどうかを、人は問わない。
      ――全ての詩とは、須らくそのようにあるべき物であるが故、である。

      • 黄金歴、227年9月。
        軍議を破軍王、施政を聖剣公に分権した新しき形の国としてローディア連合王国は名をローディア統一王国とする。
        お飾りの王ではあったが、軍権を持つ破軍王の後ろ盾あってか、正しき時期にてなされた「二度目」の勝利宣言は、今度こそは正しくその効果を発揮することになる。
        騎士王ウィルロット・フレデリック・アーヴルヘイム東方公領主亡き後、その生前にて最後に命として下された、
        帝国の残党狩りの絶対命もまた、この時を以ってその効力を失う事になり
        一部の狂信の者と戦争にて利を得ていた者以外は、ここに於いて一応の終戦を見ることとなる。

        互いに深き爪痕を残した両国は、此処より先、如何なる密約にてその利の差を是正したかは歴史に語られるべきところにはないが、
        次第に両国の戦争への気運は収まり始め、ここに於いて漸く破軍王とアランドロスが画策していた戦の終結と相成ることになる。

      • ローディアという国がこの戦争に於いて失った物は、余りにも大きかった。
        多くの騎士、民、そして平穏を奪われ、元々東ローディアとして存在していたゾド以東の土地の割譲を余儀なくされた。
        やがてそれは初代騎士王が引いたとされる真っ直ぐな国境線よりもかなり歪な形で、東西の戦争の爪痕生々しく国の境として機能を始める事になる。
        戦争が文字通り終結を迎えた後でもその国境線沿いの戦は絶える事無く小競り合いとして表出し、その度に血が流れる深い傷跡を双方刻む事となった。

      • だが、問題はそれだけに留まらなかった。
        東ローディアの難民は西方王の名の下に西方領の東部に難民自治区として保護されていたが、
        東ローディアのゾド以西を取り戻したその後にも、戦争難民達は戦場に程近い自国への帰還を嫌がり始める。
        西方王フリストフォンの失踪と共に、中央より派遣された宮廷の息の掛かる施政者にはこれを治める程の力はなく、
        またフリストフォン自身が存命の中でこの問題を段階的に解決していく為の策を用意していたのだが、その思考まで辿れというのは酷な話であり、
        この問題はかなりの深刻化を以って、ローディア西方領に「難民居住区」という形で明確な問題として残り続けている。
        聖剣公の名の下に、段階的に帰国の施策が取られている物の、未だ国境付近で絶えぬ小競り合いの火花が、
        我が身に降りかかるを是とする程に土地に対して愛着を持つ民は、五年という戦争の歳月の中で一人たりともいなくなっていた。

      • 王を失って混乱を来たしたのは西方だけではない。
        何せ四方を実質的に治めていた四方王の内、西、南、東の三方の王を同時に失ったのである。
        西方領については戦争終結と同時に巷間で囁かれていた西方王の不審死を上塗りする形で、中央より事前に用意されていた後釜が据えられた為に、まだ混乱は少なかったと言える。
        東方領も、戦争終結の後中央に軍権を携えた上で宰相という形に収まった破軍王の名の下に一定の統率が取られ、大きな混乱を齎さなかった。

        問題の火種は、南方にあった。
        終に、西爛戦争が終結した後も、南方王アルラームはその姿を見せず、何の音沙汰のないまま姿を消したままであった。
        太陽王への信仰を中心にして支えられていた南方領は、大きな支柱を失って後暫く複数貴族による合議制にて領としての体裁を保っていたが、
        帝国との戦後の混乱が収まりつつあった頃に、その歪は一気に表出することとなる。
      • 背景に、国内の戦後の混乱を治める意図と同時に、ローディア東方領の封建騎士達に方向性を与えることに依って統率を行なっていた北方王の施政があった。
        反乱の火種となり得ることを早々と見越していた北方王はこの南方問題について元々騎士王の息が掛かっていた東方領軍を派遣する。
        騎士王を失った大きな力が暴走せぬようにと方向性を持たせたことが、この時ばかりは仇となった。
        元々折り合いの悪い封建主義と個人主義によって東南の対立が表面化し、遂には内紛にまで発展する。
        その一方で互いの不満によって同調した者達が義勇軍を巻き込んで暴徒化し、中央の施政者を仮想敵と見立てた反乱を起こすという異例の事態が巻き起こる。

        互いに対立をしていながら、その一部に於いて癒着をするという、介入により収集が着けづらい事態へと発展したこれを、
        北方王は軍政にて治めるを是とし、自分の手駒である北方軍を以って平定を目論んだ。

      • この南方の反乱については、ゾド以西の奪還された東ローディアの割譲問題に端を発した神国の手引きがあったという見方もあるが、
        これもまた戦後の混乱の中で生じた根も葉もない噂として風説の中に紛れる事となる。
        しかし現実にはこの戦後最大の内紛はローディアの東南側を上下に真っ二つに引き裂く形で一年という長きに渡って続くこととなった。
      • この内紛を終結させたのもまた、北方王その人であった。
        平定とは名ばかりの即物的なやり方で南方と東方の反乱者を処断していき、
        その勢いを殺ぐ形で強引に国内を纏めるに至る。これについては北方王をしてすら苦渋の選択の中にあったと言っていいだろう。
        国内同士が争い、多くの血が流れるを是としなかった彼の決断は、結果的には多くの国民を救うことになったが、
        そのやり方と失われた生命は市井にて痛烈に批判された。
        元より西爛戦争時に失態を重ねていたことが元老院の反感を買っていた北方王ではあったが、
        乱暴な国内の平定のやり方は論うには十分すぎるほど分かりやすい形で民に数としての犠牲を強いる施政であったがために、
        この平定は後に「破軍王の虐殺」として歴史に名を刻むこととなる。

      • 一度吹き出た不満は収まるところを知らない。
        後の歴史書に破軍王としてではなく、『破国王』として名を残すバートレッド北方王の悪政は続く。

        これより先、破軍王はその施政の方向を大きく変える手に出る。
        四方王の互いの権利割譲を偏重制のそれに変えて実権を握ると、傀儡と化していた王への箴言で絶対的な利権を得ていたことを背景に、
        様々な形で国民と臣下に痛みを伴う改革を行い続ける。
        帯剣の自由が奪われ、諸外国との間に大きな税を敷き、人が変わったかの如き施政を強いるようになる。
        施政が行き詰まりを見せると、王室に不審な死が相次いだ。傀儡と化していた王の側近をはじめとする沢山の者が原因の分からぬ死を遂げ、
        遂にはその冠が悪政を敷いた張本人であるバートレッドの頭に収まる運びとなった。

        事態を重く見た元老院はバートレッドを『暴君』とし、クーデターを起こす。
        歴史上、二ヶ月という短き間に革命を起こされた最悪の暴君として名を刻み、
        今日でも歴史書の中には指折り数えて尚その一指に数えられる、『劣悪な施政者』として、彼の名は悪名高く人々の記憶の中にある。

      • 戦後最大の改革として起こされたそのローディア革命に於いて首に縄を掛けられたバートレッドは、
        最も苦痛が長く続く方法として、市中に於いて火炙りという形で処断されることとなる。
        人々の目の前に姿を表した破軍王の頬は痩せこけ、かつて雄々しくあったその姿もただの悪党であるように見えたと、多くの書に刻まれている。
        その姿はしばしば歴史書の中で悪魔の如き形相を以って描かれる事となり、悪政を敷いたに相応しき末路として名を刻むこととなる。

        火刑に掛けられる前、最期の言葉も共に多くの書の中に刻まれている。

      • 成すを成したが故の結末に在り。
        焉んぞ、後悔や無念の有る也。

      • 悪政を敷き、国を苦しめた王の末路の言葉として、多くの者の失笑を買ったこの言葉は、
        無念の血涙と共に叫ばれた彼の本心であったことを、知る者は少なきことであろう。

      • 『破国王』亡き後、元四方王のその全ての歴史が潰えたとして、東方領、そして西方領にて統治を行なっていた領主の合意を以って、
        国の施政は分権を是とする近代的な物へと変化をしていく事になる。
        元より元老院と貴族院による分権の下の施政にあったところに、明確な基準を齎し、明文化した法律に依って纏められた国は一応の平穏を取り戻す。
        だが、ここに於いても原理主義的な思想と、南方より齎される文化闘争の狭間において軋轢が生じ、
        この後に冠を戴く王もまた、在位僅か二年という短きでその玉座を追われ、国内は再び混乱の中に突き落とされることとなる。

      • 人は、正しきを求めず、ただ自身が信ずるを信ずるのみである。
        一時、その歴史が謳われようが、いずれその詩も誰もが忘れ、再び日常の中へと戻っていく。

        歌われる叙事詩に意味がないのと同じように。
        そこにある無念も。
        栄光も。
        繁栄も。
        盛衰も。
        聞くものの耳が向けられぬとあっては、雑踏に紛れて行くものである。

      • 誰とて永遠には生きられぬ。
        口で伝えうる伝承に普遍的な正しさなどないように、歌われる詩にもまた。
        一時の興味を引く以外に、大きな意味などない。
        盛者必衰。
        潰えぬ栄光のあるものか。

        盛者必衰。
        ――黄金の伝承など、あるものか。


      •       ――終劇
  • 【 17 】
    • 北方王施政室。
      巨体が、赤子の腕程もありそうな指を以って、眉間の皺を伸ばす。
      ため息こそ吐かなかったが、胸の内に渦巻く懊悩は言外にて如実に外に漏れいでていた。
      全ては、後の祭りに過ぎぬことではあったが、それでもその横たわった事実は肺腑より重い呼気を外へと追い出す。
      溜息となって表出する後悔や苦悩に、自分らしからぬ思考が入り交じっている事に気づき、破軍王は顔を手でぴしゃりと叩く。

      • 結果として、ゾドの奪還は帝国の本隊の介入によって雪崩式に瓦解し、多数の犠牲を出した上で敗走を余儀なくされた。
        部隊の散開を以って犠牲を最小としたことは、功名でありながら仇ともなり、一点突破という形で本隊の西侵を止めるに能わず、
        烈火の如き士気を伴っての勢いを押しとどめるだけの層を形成できずに、本隊は王都へと接敵してきた。
        中央水源と統一玉座を有するローランシアという心臓をむき出しにしたままの戦が続き、
        反撃の一手は一転、ローディア連合王国そのものの基盤を揺るがしかねない悪手となって跳ね返ってくることとなった。
      • だが、天は更に数奇なる運命を好んだ。
        このギリギリの戦況に於いて、かの国の皇帝たる皇の崩御が告げられると、形成は一気に更なる逆転を齎す。
        中央集権型の施政を築いていた帝国の有力皇族はその向かう先をローディアの玉座ではなく、帝国の玉座とした。
        彼らをしても、優秀でありすぎたが為に指先として勝利を手にすることより、その指先を動かしうる脳と成る功名は甘い蜜となったのだろう。
        矛先をバラけさせた軍は進む勢いと戻る勢いで二つに切り裂かれ、それを理由として王都へ舞い戻ってきた統一連合の軍勢により王都内でまさかの挟撃を食らうことになる。
        これまで、攻戦一方であった帝国の兵は背後より攻撃されることに慣れておらず、またどの様に士気の高まった優秀な兵であっても、それを動かす将がなければ優れた傀儡も同じであった。
        あえなく戦場に取り残された大半の兵はその場で首を落とされ、同じように戦線もまた首を落とされた獣のように後ろに下がるしかなく、
        あわや落国かと思われていた事態より、再び天秤は連合王国側へと傾くことになる。

      • ゾド要塞までの戦線の奪還は、先の要塞攻略戦時より鑑みれば、正でも負でもない零にまで戻っただけに過ぎない。
        だが、独力にて敵兵を退けたその盛り上がりし気運と、初めて戦線を奪還しえたその功を以って、北方王はそこに西爛戦争の勝利宣言を掲げる。
        その余りにも尚早な宣言について、国外は愚か国内からも、勇み足であるという評価が後に下される事になり、
        歴史の上ではこの勝利宣言は記述されることなく、後のゾド奪還に於いて再び行われた宣言を以って、西爛戦争の終結とする見方が多い。

        この早々しき宣言の意図は別にあった。
        ここに於いて勝利宣言を出す事で、帝国崩御の報と合わせた痛み分けの方法を、北方王はこの時より模索していたのである。
        頭がすげ替わるという事は、言い換えれば国内の方針に一つの軛が打たれることと同じであることを、かつて王を龍化という形で失っている北方王は知っていた。
        前皇の西侵の方針と同じ志を持つ者が次の皇と成ることも或いは考えられたが、
        崩御の知らせと共に戦場を見ずに国内の利権へといち早く意識を向けた貴族達が、果たして痛み分けにあるこの状態より再び西を目指すだろうか、という点に賭けたのである。
        事実この報は、互いの損傷状態も生々しき状態に於いては多くの者の失笑を買う宣言ではあったが、この歴史に残らぬ宣言の裏に敷かれた意図を、帝国側で正確に読み取った者も数多存在した。
        これより先の歴史に於いて帝国は一転防戦国と成るのであるが、見方を変えればそれは連合王国側の憤懣を散らす為に切り捨てるべき犠牲を、帝国が支払ったとも取れる。
        かつて東西の密約に於いて腹の中を探り合っていた両国ではあったが、皮肉にも代替わりをしたその後にも、同じような肚の探りあいを以って、
        双方この西爛戦争の落とし所を見極めようとしていたのかもしれない。

      • 少なくとも、バートレッド北方王の意図はそこにあった。
        彼は南方王が漏らしたように、国内の情勢にしか興味のない視野狭窄な王ではあったものの、国内の事情に関しては事程斯様に正確にその状況を捉えることの出来る慧眼も持ち得ていた。
        故にその慧眼にてこのまま戦が続けば双方の国がどの様な形で終戦を迎えるかということには、他の王よりも敏感であった。

        既にローディアという国は、疲弊の中にあった。
        死に体でない分まだ救いはあったが、その疲弊状態にて変わらぬ行動を続ければ、必ず落国という結末を迎えることを、北方王は見越していた。
        元よりゾド奪還で以ってその勝利宣言を発し、ローディア国王アランドロスの崩御と国内の疲弊、潰えし東ローディアの分割割譲に依って講和条約を結び、
        この戦を痛み分けとするところが、彼と彼の王である故ローディア国王が是とした、この西爛戦争に共に指し示した策略であった。

        時間は経過の分だけ大きな犠牲をもぎ取っていった。
        だが、ここに於いて勇み足とされる勝利宣言を敷いた事で、この後訪れるであろう互いの落とし所の模索に布石を放つ事が出来た。
        やがて、その勝利宣言は時代の潮流に追いつき、それを以って講和とする緩やかな戦後の処理が行われる。
        人事は尽くした。
        王として、採らねばならぬ策を敷いたとは言え、余りに不器用ではあった。
        バートレッドは一人、自身も国と同じように疲弊を重ねていたのだと気づき、力なく嗤った。

      • 「……詰まらぬなぁ。……貴公の言う通りだ、騎士王。
         この戦には誇りも栄光もない。ただ、互いの国の疲弊を招いただけの、莫迦莫迦しき茶番に過ぎぬ。
         ローディアは、余りに多くの物を失った。……我や貴公をして、これより先、贖いきれるであろうか」
        -- バートレッド北方王

      • 巷間の噂にもあるように、この王都の防衛の最中、西方王であるフリストフォン・ラヴェル・フォランの消息が知れぬ物となっている。
        元より施政に於いてそれ程重要な役職になかった退屈王ではあった上、
        その崩御の前より王が準備していたかのような交代人事が速やかに執り行われ、今では代わりと成る王が西方王として施政に励んでいる。
        戦場に近くないという理由で西方地方についてはそれほどバートレッドの頭を悩ますことはなかった。

        問題は、南方にある。
        此方は巷間の噂にすら成らぬよう先に楔を打っておいたが、南方王アルラームその人の姿も、王都決戦を期に消息が知れぬ物となっている。
        こちらは交代人事どころの話ではない、唯一にして絶対であるところの太陽王が失踪したとあらば、国内情勢の混乱は必至であり、
        今のローディアにはその混乱に目を向ける余力は残っていない。
        故にこの事実は暫く巷間の口にすら乗らぬ程に巧妙に隠される事となるだろう。
        素顔も知らぬ南方の王ではあるが、その内再び現れることを北方王は祈るしかない。

      • 状況は、全て順風であるとは言いがたいが、情勢は既に戦時のそれではない。
        かつて、北方を開拓した王の血族にあって、何の憂いがあろうか。
        失ったのならば、積み重ねていけばいい。
        恐らくそれは、国民の強さとなり、この失敗すら踏み台にして我らは高みへと登るだろう。
        彼は誰より国民を信頼しており、愛しているが故に、そう望まずには居られなかった。

      • 「波乱万丈、何する物ぞ……我らローディアの血族を、余り舐めるでない、運命とやらよ。
         折れし骨が治りし時にまた強く太く成るように、この国もまた、斯くあろうぞ。
         なあ……ロレンツ。古き朋よ」
        -- バートレッド北方王

      • 己が王と同じように、その生命を国に捧げた古い友の名前を口にして、巨漢は顎髭を撫ぜながら小さく嗤った。

        その時、施政室にノックの音が響く。
        時勢が時勢である故、緊急の用事の際は謁見を許可しておいたことを利用してか、扉は誰何を待たずに開く。
        開いた扉の先、一人の男がいた。

      • 「……騎士王」
        -- バートレッド北方王
      • 「……何を、している、破軍王。
         そこで、何をしておるのだ」
        -- ウィルロット東方王

      • その声には、誰が聞いた所で糾弾の色が乗っており、また長期に於いて軟禁状態にあった為か、痩せた声が痛々しかった。
        戦の終結を以って北方王より軟禁の解除命が出ていたが、今日それが行われ、直ぐ様この施政室へと来たらしい。
        騎士鎧すら着けず、ただ開闢剣だけを腰に携えた状態で、憤懣やるかたない表情を以って騎士王は部屋へと入る。

        長躯ではあるが、それより更に縦横に巨きな破軍王の胸ぐらを掴み上げ、騎士王は叫ぶ。

      • 貴様……ッッ!!
         約束を、違えたなッ……!!!
        -- ウィルロット東方王
      • 「……そう、取られても反駁などできようもない」 -- バートレッド北方王
      • 「何だ。
         何が起こった。
         何故、この国はこうなっている。
         応えよ破軍王ッッ!! 貴公もまた王を名乗るのであらば、弁解の一つも出来ようがッッ!!
         貴公をして、王をして、余があらずとも必ずや勝利を齎すと、そう確約したからこそ余は剣を収めたのだ。
         それを……貴様ッッ……あろうことか、全て蔑ろにしての結果が、これかァッッ!!
        -- ウィルロット東方王

      • 返す言葉もなかった。
        その騎士王の怒りは正当な物であり、その裏切りも彼からしてみれば何一つ事実と相違ない。
        策を敷き、それを誤ったのは彼を陥れた自分であり、また王であることは、揺るぎない事実であった。
        故に、その言葉の刃を以って斬りつけられることに抵抗すら出来ずに、破軍王はみしりと歯を噛んだ。

      • 「余は、貴公を、王の言を信頼して、或いは崇拝さえして剣を柄に収めた。
         ローディア連合王国の明日を真に思うのであらば、そうすべきであるという貴公の言を、信じたからこそ行動であったのだぞッッ!!
         それを……貴様は最悪の形で裏切ったッッ!! 勝利も、栄光も、何もかも奪われ、ただ徒な疲弊だけを齎しただけではないかッッ!!
         許さぬ。
         断じて許されることではないぞ、破軍王バートレッドッッ!! 貴様施政者として恥ずかしくはないのかッッ!!
         違えた約束より深く民を傷つけしその采配、余を暴君と蔑みし身の行いとは到底思えぬッッ!!
        -- ウィルロット東方王
      • 「……済まぬ。
         全ては、我の身が至らぬを原因としての結果だ」
        -- バートレッド北方王
      • 「謝るべきその矛先すら分からぬようになったのか、バートレッドッッ!!
         応えよ……答えよ、貴公はこの八つ裂きとなった余が国の先に、どんな栄光を見たのだ。
         貴公と王はその先にどのような絵図を描こうとしていたのだッッ……!!
         他人の騎士道を違え、押さえつけてまで貴公らが理想としたのは何だったのだッッ……。
         余は。
         貴公ならば、余と同じか或いはそれ以上に余が国を愛す貴公であれば。
         余の目にすら映らぬ遥かなる理想郷を作れるやもしれぬと、甘言に惑わされた、ただの愚か者にあるのか……ッッ!?」
        -- ウィルロット東方王

      • もはや。
        糾弾は慟哭と化していた。
        自らが信じ、そして裏切られた事。愛した国の現状。そして何よりそれを齎したのが同胞である北方王であることに。
        未だ、一度も戦場で傷を受けたことのない騎士王という完璧は。
        静かに、深く、傷を受けていた。

      • 「……重ねて、言う。……済まぬ。
         全ては、貴公を次代の王として据えるために、我と王が図りしことである。
         ……貴公という王の下、再びローディアという有り様を――」
        -- バートレッド北方王
      • 「生なくしての誇りに意味などないと吼えた口で、何をほざくッ!!
         この国の民は今、苦しみ、喘ぎ、死の淵に貧している。
         それは、貴公の罪であり、剣を収めた余の罪であるのだ、バートレッド。
         かつて余はギルドールに言った。
         剣を振れる者が剣を収めることは、それ自体が罪であると。
         余は。
         王の命とはいえ、そのように単純なことすら忘却し、自ら罪の中に隠れるように生を得て、そしてその結果がこの国の有り様だ。
         自覚せよ、破軍王……ッッ!! それを是とする者に施政者を名乗る資格など、ないッッ!!
         もはや、貴様に言うべき言葉など、全てが無益であると理解した、やはり余はあの時、その生命を差し出してでも王へと進言すべきであったのだッッ!!
         今、遅れた身であっても、正しき道を歩む為に、再びその剣を抜かずにいられるかッッ……!!」
        -- ウィルロット東方王

      • その言葉は、深く。
        深く、更に北方王の身体に傷をつける。
        痛みに悶えながらも、苦渋の表情を以って、破軍王はその事実を告げた。

      • 「済まぬ……ッ。それすら、叶えてやることは、出来ぬ。
         王は、先の大戦にて……御身を龍とされ、犠牲となってかの国を退けた。
         今は、その後に即位した傀儡の王が、玉座に座るのみである……」
        -- バートレッド北方王

      • 絶句があった。
        信じ得ぬ事実を突きつけられ、それが深々と刺さりきった時。
        人は、完全に停止することを知った。

        余りの驚愕と怒りに、騎士王の視界が白濁し、生まれて初めての眩暈を覚え、
        僅かに、重心を崩した。

      • 「何を……言って、いるのだ……北の」
        -- ウィルロット東方王
      • 「それすら……我らの策の内であったのだ。
         全ては、貴公を王として据え、この国を永らえさせる為の苦肉の策であった……ッッ。
         我をしても苦渋の中で決断するしか、なかったのだ……ッッ!!
         誰よりも、この国を想われていたかの王の犠牲は、今日国が存在するために必要な犠牲であったのだッ……!!」
        -- バートレッド北方王
      • 「それを。
         それを、貴公が言うのか。
         雄々しく吼え、人を従え、王と名乗る、貴公という男が……ッッ。
         余の騎士道を前にして、死なさぬ事こそ己の騎士道と吼えた貴様がァッ!!
        -- ウィルロット東方王

      • 見えぬ刃が、再び破軍王の身体を抉る。
        心臓どころか、内臓の殆どを抉り取られる程深々と突き刺さった刃は、正当性のある剣だった。
        己の騎士道を掲げ、それを打ち合わせていた相手に、その是非を問われる事は。
        如何に、その決断が苦渋のそれであったとはいえ、それを飲み込まざるを得なかった己の弱さを浮き彫りにして。
        破軍王は、奥歯が欠ける程に噛み締めた顔を、静かに俯かせた。

      • 「どれ程の、どれ程の絶望を上塗りされればいいのだ……余は。
         貴公を信じ、同胞と呼び、道は違えど譲れぬ信念を持っていると認めるたった一人の相手を……。
         何故、貴様はそうも簡単に捨て去るのだ……。
         施政者として。
         一人の騎士として。
         一人の王として。
         同胞として。
         剣の朋として……。
         貴公を認めていた余の眼こそが、汚れていたのであろうか。
         ……もはや。何も言うな、バートレッド。
         余は、貴公を施政者とも、王とも……朋とも認めぬ。
         ここに在りしはその骸であったと思い……忘れよう」
        -- ウィルロット東方王

      • 騎士王は、涙の流し方が、分からなかった。
        今まで一度たりとも、彼は泣いたことがなかったから。
        心から絶望しつつも、それでも前に進める強さを生まれながらにして持ちあわせてしまった苦悩が、そこにあった。
        朋を失い、忠誠を失い、国を失って尚……騎士王という男は、強くあったのは、悲劇としか言いようがあるまい。

      • 「……四方王の立場は、互いに等しくある。
         貴公の是を持てば、西方王がどのような策を以って惑わしてこようが、正しきを成す事が出来る。
         そう、期待していた。ずっと、それに甘んじてきた。
         だが、今日この日に於いては、無駄足で会ったことを認めよう。
         ……ここに、相談すべき施政者など、いなかった」
        -- ウィルロット東方王

      • 軟禁場所より出て直ぐ様駆けつけたのであろう、西方王の失踪を知らぬ騎士王はそう告げ、侮蔑の視線だけをバートレッドによこし、場を辞そうとする。
        だが、その言葉に、バートレッドは僅かに引っ掛かりを覚え、呼び止める。

      • 「待て……騎士王。
         ここに於いて、何の施政を為そうとしているのだ」
        -- バートレッド北方王
      • 「それすらも介さぬか……。最早……。
         貴公が作ったこの敗戦国を、余は覆す。
         正しき施政で導き、再び開闢の剣にてローディアの正しきを示す、それ以外に何の行うべき施政があろうかッッ!!」
        -- ウィルロット東方王
      • 「騎士王……貴公、よもや……。
         まだ、この上、西爛の戦を続ける気であるのかッッ!!」
        -- バートレッド北方王

      • 失われたはずの激情が取り戻り、破軍王は両手を広げて抗弁する。
        焦燥によって歪んだ表情で、部屋中に響く声で叫んだ。

      • 「己が齎したということを棚上げして、敢えて問おうッッ……!!
         この国の現状が、戦の中に再び飛び込める状態にあるように見えようか、騎士王ッッ……!!
         漸く、漸く再び平穏の中に安らげる日々が来ようというのにッッ……!!」
        -- バートレッド北方王
      • 「貴公はこの上、まだ自らの顔と騎士道に泥を塗りたくるか……!! 誇りを失い、地に膝を付く民にとって、必要な物は確たる勝利である……ッッ!!
         余をすれば、成せる、この国の兵の状態は、既に先ほどここに来る前に聞き及んでいる……。
         彼奴らも憔悴状態にあらば、後はそれを殲滅せしめるだけで再びこの国は誇り高きローディアとして輝きを取り戻すことが出来るッ!!
         再び、余は開闢の剣を以って、国を拓く……施政者でもあらぬ貴公に、何を語れようかッッ!!」
        -- ウィルロット東方王
      • 「よせッ!! 騎士王ッッ!!
         貴公をすればそれは成せるやもしれぬが、国を再び戦の中に納むれば、この国の疲弊は増すばかりになるッッ!!
         誇りを胸に貴公だけを残して、国が死を迎えてしまうのだッッ……!!」
        -- バートレッド北方王
      • 「最早語る舌を持たぬと言ったはずだッッ!!
         このまま敗戦国として、誇りなき生のまま生き長らえる事に、何の意味があるッッ!!
         奪われた物は、取り戻さねばならない、王の犠牲の上に安穏と暮らしゆく帝国の民を是とすることが、何故貴様には出来るのだッッ!!」
        -- ウィルロット東方王
      • 「最早この国は戦に意味など求め得る地力など、残っていないのだッッ……!!
         気づけ、騎士王……ッッ!!
         この戦や戦場に、栄光や意味など何処にもなかったのだッッ!!
        -- バートレッド北方王
      • 栄光はいつだろうが、余と余の愛するこの国と共にあるッッ!!
         これから先も、共にあり続けるッッ!! そこで朽ち逝け、誇りも持たぬ愚物がッッ!!
        -- ウィルロット東方王

      • 誇り。

        それは、破軍王にとって、誰も死なさぬ事であった。
        己の強きによって他者を守り、自らの愛した人や国を守り、
        友と歩む道のりこそが誇りそのものであり……それが、彼の騎士道だった。

      • 王は言った。
        次代は、騎士王のような施政者が必要であると。

        そして、重ねて言った。
        愚直な正しさを支えるのは、お前の如き柔軟で、それでいて曲がらぬ強き男であると。

      • 最後に言った。

        この国と、ウィルロットを頼むと。

        バートレッド・ガルガンチュアに対して、敬愛するアランドロス四世閣下は……仰られたのだ。



      • その剣は、正確な殺意を以って。
        誰も死なさぬことが騎士道であり。
        国を愛し、正しきを愛した男である、バートレッド北方王、その手によって。

        ――静かに。音もなく……ウィルロット・フレデリック・アーヴルヘイム東方公領主の心臓を、刺し貫いていた。


      • ウィルロットは、生まれて初めて負ったその傷に、強靭な生命力で手を伸ばす。
        同時に、喀血し、その攻撃が自らの命を奪うに値する致命傷を齎していることを知り。
        剣を以ってそれを行った北方王の姿を見て、呟く。

      • 「…………何故だ。北方王」
        -- ウィルロット東方王

      • その何故に答えることは、容易だった。
        今、その施政を行えば。
        この国は本当に死に絶えてしまうが故に、やむを得なかった。

        バートレッドは、血を流していた。
        噛み締めた奥歯は砕け、嚥下され、口の端から流血となって流れ出ていた。
        それより鮮烈な赤が、静かにその両目より流れいでている。

        ――余りの無念と。
        ――後悔と、罪悪により。

        バートレッドはその両の眼より、血の涙を流していた。

      • 北方王は、心臓を貫く自らの刃を捻り、十字に傷を作る。
        手のひらに滴ってくる熱き血に心すら砕かれそうな痛みを伴いながら。
        以って、問いに応えて曰く。

      • 「……我が、騎士道が、故」
        -- バートレッド北方王

      • 余りにも矛盾したその答えに、北方王は心を抉られる痛みを覚える。
        より沢山を死なさぬ為に、目の前の死を肯定する、自らの騎士道より遥かに遠いその行いに。
        そして、朋を自らの手で葬らねばならなくなった、自らの至らなさに、二重で。

        騎士王は、血の気の引いた白い顔で。
        僅かに、失笑を零した。

        それは、或いは。
        彼が生まれて初めて、最期にして漸くみせた、彼の人間性だったのかもしれない。

      • 「……それは。
         ……詮なきこと、にあるな」
        -- ウィルロット東方王

      • ただ、その言葉だけを残して、その身体から命が失われた。
        凭れ掛かるようにして力を失う亡骸を抱きながら、バートレッドは血涙を手のひらで拭う。
        叫ぶことも。慟哭することも。最早許されない。

        信じるべき騎士道すら失い、ただ戦争という悲劇の中で踊り続けた身を嘆くことすら許されず。
        ただ、そのぬくもりが完全に消えるまで。
        痛みを伴う自らの胸に、それを罪悪と刻みこむかのように、静かに祈りを捧げていた。
  • 【 16 】
    • 「――興じた。
       一つ、問いにして答えを投げよう。
       ……果たして、この西爛の戦、彼我の実力差以上に、
       ここまでこの国が追い詰められているその理由が分かるか、同志フリストフォン」
      -- ヴァイド

      • 城の外より、戦の音が聞こえてくる。既に、帝国の戦線は王都の中心、ローランシアの王宮にまで届いていた。
        外では、最後の精鋭と帝国軍子飼いの十万の軍勢が王の馘首をと剣を交わしているが、
        その王宮の玉座の前に椅子を並べる二人の男は典雅に指先で酒盃を弄んでいる。
        片方、赤髪の壮年の男、ヴァイドにして南方王アルラームは、黒髪の青年、西方王フリストフォンにして本爛へ向けて問いを投げる。

      • 「慮外にあるな。……考えたこともなかった。
         或いは、その答えをお前が知り得ているという事実こそ、私を興じさせる物であるが? ヴァイドよ」
        -- フリストフォン西方王
      • 「どちらでも良い、という有り様によってか。お前という存在は今ここという事態にあってもお前であり続けるというのは、中々にそれこそ興じ事にあるがな。
         だが、お前をしてそれを慮外と言わしめるそれこそが、この国がここまでの後れを取る理由の一つにあるのだ」
        -- ヴァイド

      • ほう、と興味深げにフリストフォンは酒盃を回し、続きを促す。
        ヴァイドは上機嫌に酒精を口にし、舌の滑りを良くした上で語りを続ける。

      • 「かの騎士王は一人をして大隊に匹敵する天賦の武勇を誇り、破軍王は一個にして北の蛮族を抑えしめた戦への慣れを有している。
         退屈王の智謀を精確に行使しうる指し手があれば、その智謀を自由にしておくなどという愚策は取らぬだろうし、
         顔も知らぬが太陽王のその信仰を正しく人を導く方に誘導せしめれば、或いは戦なしで勝つ事も可能だったやもしれぬ。
         はは、机上で有るが故に好き自由言えるというのは中々に面白い試みだな」
        -- ヴァイド
      • 「酔うは酒精だけにしておくべきではあるが、咎める者もなきこの場においては口を挟んで不興を買うも無粋であろうな。
         過大ではあろうが、それが正しき評であると嘯く愉悦を酒精と共に私も喉で味わおう」
        -- フリストフォン西方王
      • 「お前もここに於いて漸く興という物に理解が出て来たようにあるな。重畳重畳。
         彼らは万夫不当の超人にして、正しく王と呼ばれるに相応しい者……お前の言に従えば、この国にとって『大きな利』であったと言えよう。
         だが、ここに於いて王都にまで攻め入られる愚を結果としたのには、明確な理由があるのだ」
        -- ヴァイド

      • ヴァイドは空になったグラスに、血のように赤い酒精を注ぐ。
        盃を満たした赤い液体を指さし、続ける。

      • 「外より見れば、明白なことであるのだがな。
         彼らはその回答を自己の中に求めすぎた
         酒盃を満たす酒にこそ価値の全てが存在すると思い違えたからこそ、外よりそれを眺むる目を失った。
         が、故の後れであると思うが、如何に」
        -- ヴァイド
      • 「回答を……内側に、か」 -- フリストフォン西方王
      • 「どちらの国の思想を正しきとするかは置いておくとすれば、その点に於いてはまだ帝国の方が存在として優れていた。
         何せ、この西爛の戦争に於いて、他者への羨ましきを掲げて剣を振っているのであるからな。
         水銀に毒されて居らぬ地を「求めて」西侵を始めた彼らの方が、まだ他者を見る目があると言える。
         簒奪や略奪という手段に出る粗野な感情さえなければ、それだけは手放しで褒めてやってもいいくらいだ」
        -- ヴァイド
      • 「他者を羨ましきと見る感情を、是とするか、ヴァイド。
         この国に於いてはその感情は嫉妬と名付けられ、大罪の一つにもなろうものだが、太陽王ともあろう身がとんだ破戒であるな」
        -- フリストフォン西方王
      • 「それこそがお前達の誤りであるのだよ、フォン。
         お前は確か、施政を始めたのは此方の国に来てからであったな。であるならば、帝国の水銀よりも深く、その思考はお前を毒しているぞ。
         嫉妬、大いに結構じゃないか。これを破戒と呼ぶことこそ馬鹿馬鹿しい。
         羨ましきを知らぬ人間が、何の充足を成せる。
         そして、充足を知らぬ者が他者の何を羨める。

         結局はこの国の人間は、己の中にこそ回答や栄光があると皆勘違いしているからこそ、戦場にその栄光を持ち込もうとするのだ。
         あの場の何処に栄光や誇りがあると叫んでいた男を一人知っているが、俺も問いたいものだ。何処かに栄光や誇りが存在しうる戦場があるのかと」
        -- ヴァイド

      • フリストフォンは、静かにその理論を頭の中で咀嚼する。
        その様子を眺めながら、ヴァイドは再び酒精で喉を潤し、付け加える。

      • 「簡単な論理なんだよ、フォン。それは、前提さえ違えなければ至極簡単な理論であるのだ。
         他者を見、それを羨ましきと思えぬ者が、何の成長を求むる事が出来る。
         自らの中にある物で自らの丈に見合った出来合いの物を作ることなど、誰にでも出来るのだ。
         問題はそれより上の段階へと上がるには、どの様にすればいいかという話であるのだ。
         以前お前は弟の宗爛の軍隊行動を見て『手習い』と評したが、大いに結構なことじゃないか。
         この世に遍く存在する技術や知識という物は、他者を模倣し、真似ることをその最初の段階としている。
         それは、他者が自分が持ち得ない何らかの技術を持ち得ていることが「羨ましき」事であることに端を発する物であると思うのだが、如何だ」
        -- ヴァイド
      • 「何の反駁も浮かばぬな。酒精で微睡んだ頭であるということを差し引いてもだ」 -- フリストフォン西方王
      • 「それはそうだろう。
         何せ、お前もヴァイドとしての俺に出会った時、この撞着の中に存在していたのだからな。
         だからこそ俺は、お前の他者への興味を煽らせてもらったのだよ」
        -- ヴァイド

      • 話の矛先が唐突に自分に向いた僅かな驚きの隙間を縫うように、ヴァイドの手が伸び、その盃に酒精を注ぐ。
        赤き液体で満たされたそれよりなお赤い笑みを以って南方王は静かに言葉を投げる。

      • 「特にお前のそれは、見る限り深刻であったぞ、フォン。
         自らの中に全てがあるのだから、無理もなかろうが、それにしても足元すら見えて居らぬ歩みを眺めるのは、悪いが愉悦とさせてもらった」
        -- ヴァイド
      • 「趣味の悪い友人を持ったものだ……。
         よもや、私こそが滑稽に見られていたとは、な」
        -- フリストフォン西方王
      • 「実際にそれが害を成したのは騎士王ではあったがな。
         奴は自分の騎士道の中にこそ栄光があるとして、部下にもその幻想を抱かせた。
         騎士道という物は、言い換えれば己を主体とした道にあるのだ。
         他者を助けるその行為そのものを是とするのではなく、他者を助けうる自分を是とする、自分しか存在しない道であるように、俺は思える。
         如何に強き力を以って、剣を巧みに操れようが、盲目では何を斬れるというのだ。
         敵の姿すら知らず、戦に出ては自らの抱いた幻想との齟齬に打ちひしがれる姿は、実に美味だったよ」
        -- ヴァイド
      • 「成る程、その理論で行けば、破軍王が是とした、死なさぬ事、という理念もまた、国内のことしか想定しておらぬ狭き視野であると言えるだろうな。
         彼らは自らの中にこそ栄光があると思っていたからこそ、敵を当然退くべき物として一瞥をくれることもなかった。
         帝国の羨ましきを根本に据えた、他者を見るその姿勢で以って食い破られるも道理であると、そういうわけか」
        -- フリストフォン西方王
      • 「敵を知り、己を知れば百戦危うからずという兵法もある。己のみ正確に捉えていようが、比べ計る物がなければその正確さは無用の長物なんだよ。
         そしてお前という才能もまた、ベクトルがなければただの「優れた者」としてこの国に消費しつくされて消えていっただろうな」
        -- ヴァイド

      • 辛辣な言葉に、フリストフォンは嗤う。
        かつてそのような言葉を述べた者は誰一人として居なかったため、その感覚は新鮮であった故だ。
        誰かに蔑まれるという感覚は、彼にとって実に楽しい物であった。

      • 「皮肉な歩みだ。
         誰もが己を是としてきた歩みの中で、唯一人私を蔑んだ者が生涯で最初の友人とは。
         これに嗤わずして何に興じよう」
        -- フリストフォン西方王
      • 「何、改革には痛みが伴うものであるというのは、我ら施政者にとっては身近で分かりやすきことであろう。
         国でこそさにあるのに、人の身で痛みなくして自己改革などできまい。
         それに、長らく仮面の下で退屈を弄んでいた者として、同じ他者への興味を以って愉悦とできる友人を持てたことは、俺にとっても有益だったさ」
        -- ヴァイド
      • 「優れた苦味は、酒精をより芳しくする。
         内側で熟成していたからこそ、外へと豊潤な香りを届け得たのだとしたら、私はそれにも感謝しよう」
        -- フリストフォン西方王
      • 「ああ、するがいい。
         巷によれば太陽王は万人を照らす優れし施政者であるようだからな」
        -- ヴァイド
      • 「恐れ入る。
         我が地にて椅子で尻を磨く様が堂に入りつつある施政者に爪の垢でも授けてもらいたい程だ」
        -- フリストフォン西方王

      • 笑声が、二つ重なる。
        外より聞こえてくる喧騒すら、愉悦の肴としながら、二人の王は酒盃を交わした。

        やがて、フリストフォンが静かに呟く。

      • 「……或いは。
         お前の言うことが全て真実だとするなら。
         私は、今からでもこの退屈という『蠱毒』の中より浮かぶ事が出来るだろうか」
        -- フリストフォン西方王
      • 「ハッ、汐らしきことを。
         お前をして出来ぬことなどこの世にあろうか? まして、今のフォンなら尚更だ」
        -- ヴァイド
      • 「フリストフォンと、そしてその前の本爛という有り様は、長らくそのような形で他者へとベクトルを発したことがなかった。
         故に、私をしてこの客人を待つ瞬間一時一時が足を震えさせているよ。
         或いは、酒精にて気を紛らわせていることも、強ち冗句ではないかもしれん」
        -- フリストフォン西方王
      • 「重ねて問うが、お前は俺を笑死させる企みでもあるのか。腹が捩れそうだ。
         褥を前にした女知らずですらそのような緊張した面持ちでいることはなかろうに、天下の退屈王が何に怯えるのだ」
        -- ヴァイド
      • 「お前をして証明した私の方向性である……シュウを前にして、私は私の有り様を正しく示せるのかは、今を以って分からずにいる。
         私は私の世界に私しかいないという「孤独」という名の退屈と、「蠱毒」という名の毒をその身に備えている。
         それを、シュウが打ち破ってくれるのではないかという期待で、少しだけ胸が踊っているよ。
         或いはこれを……愉悦というのかもしれない」
        -- フリストフォン西方王

      • 少しだけ笑みを零すフリストフォンを見て、ヴァイドは暗く嗤う。
        暗く、昏く、ただ嗤った。

      • 「何も保証は出来ん。
         お前の客人がお前の庭でどの様な踊りを示すのか、その場にいないであろう俺に察せるところは、ないよ。
         お前の退屈が、埋められることだけを、友人として祈ろう」
        -- ヴァイド
      • 「そうか。……素直に礼を返そう。
         或いは、シュウをすれば、私の世界を、もっと外側へと広げ得るかもしれぬからな。
         ……愉しみだよ。私が、私以外になれるのかもしれないのだからな」
        -- フリストフォン西方王

      • ヴァイドは、思う。
        果たしてそれが成されたとして。
        それは、誰が敷き、誰が広げた風呂敷の上での舞踏であるのかと。

        永劫に、この男には分かるまい。
        分かりすぎるからこそ、分からぬ者の心は、分からないのだ。

        一つの論理矛盾である、全知全能が作った自らが持ち上げられぬ石が如き、パラドックスの顕現であるかのような男の有り様に。
        ヴァイドは、静かに嗤った。

      • どの様な結末が訪れるにしろ、再びこの男にまみえるときは、
        自分好みの愉悦を携えているであろうという思いを胸に、友人の愚を静かに笑って応えた。

      • 「お前という男は、実に興味深い男であったよ、フォン。
         或いは、まだ時間が許すというのならば、一つでも多く、お前のことを土産に新たな道を行きたくある。
         尋ねよう、お前という、本爛という男は、何故この地で退屈王などと呼ばれていたのだ。
         出来れば、美味き肴として、語ってくれはすまいか」
        -- ヴァイド
      • 「友人の頼みとあらば、無碍に断ることも出来まい。
         ……少し、長き話になるが、要約して、明瞭に伝えよう。

         帝国には……かつて、本欄という男がいた――」
        -- フリストフォン西方王
  • 【 15 】
    • ――ギルドールの亡骸から剣を抜くと、僅かに血が漏れ、要塞の屋上に赤い筋がたゆたゆと流れていく。
      感情の失した顔でその剣を拭い、ギルドールの亡骸に、マルクは視線を落とす。
      苦悶と無念の表情を浮かべたまま、何かを掴むように右手だけをこちらへと伸ばし、後悔と共に死へと沈んでいったその末路に。

      マルクは、静かに膝を折った。

      • 「ぉ……ぅぇ……ッッ」
        -- マルク

      • 喉奥より、胃液混じりの吐瀉物を地面に零し、咽る。
        自らが齎した人間の死の重圧と、その手に残る殺人の感触が心の均衡を崩し、地面へと吐瀉を繰り返す。
        口腔を汚し、涙を零しながら後悔と共に胃の内容物を全て吐き出した後、よろよろと青年は立ち上がった。

      • 理由は、と聞かれれば、復讐としか答えられない。
        殺人の理由としては在り来りで、在り来りであるからこそ大掛かりな準備を気取られない。
        彼はそうして、かつて暗謀と呼ばれた機関に在籍した人間を、既に四人同様の手口にて殺害していた。

        今回、白銀騎士団としての話が舞い込んだ時、彼は自ら志願してギルドール・アートソンの片腕として動き続けて来た。
        マルクにとってそれは千載一遇の機会であり、二度と手の届かない場所へと姿を晦ました銀髪の死神を屠るチャンスであり、
        その時ばかりは居るとも思っていない神にすら、彼は感謝した。

      • そして、今に至る。
        復讐は成った。
        だが、咳を零しながらギルドールの死体を見つめるマルクの目は、嗚咽だけではない涙に滲んでいた。
        心よりの後悔も、そこにはあった。
        ――本懐を達して尚、彼の心は満たされる事は、けしてなかった。
      • マルクにとって、復讐とは人生の目的ではなく、人生そのものであった。
        それは、物心ついた時に奪われた彼の平穏によって、彼の人生は大きく捻じ曲げられてしまったが故の自家撞着だった。

        復讐が何も産まない事は知っていた。
        復讐によって、奪われた幸福が戻ってこない事も知っていた。
        それどころか、復讐を可能とするために敷いた仮初の平穏すら、その都度手放す必要があった。
        ギルドールという男を知り、彼に惹かれ、彼と共に歩んできたマルク・レンシスという男の仮面もまた、偽りではあったが自らの本質と切り離せずにいた。
        目的と手段が起こす矛盾によって、自らすら傷つき、誰一人として幸福になれない結末を作り続ける、
        壊れた狂人の姿が、そこにあった。

      • 「何故……貴方なんです……。
         何故、貴方は、そうなんです……。
         そんなこと、許されることじゃ、ないでしょう……団長」
        -- マルク

      • 自らの狂った理論によって胸の内を灼熱で焼かれながら、少年のような顔をした青年は、静かに涙を流した。
        亡骸は、もう既に温度を失っており、言葉の一つも返すことのない完全な骸となっている。
        場違いに爽やかな風が、マルクの頬を濡らす涙に触れ、そこだけを僅かに冷たく撫でていった。

      • まだ、終わることは許されなかった。
        ギルドール・アートソンを殺した事で、全てが終わる訳ではない。
        マルク・レンシスという復讐の形は、ローディアの暗謀に在籍していた全ての人間を殺し尽くしたところで、初めて終わりを迎える。
        こんなところで。
        こんな些細な悲しみと絶望如きで足を止めていては、いけない。
        今まで、何度も繰り返してきたことだろう。
        マルクは自分に言い聞かせながら、震える足を無理やり立ち上がらせる。

      • 戦争の最中、懐に傷を受けたまま相手の敵陣へと躍りかかり、そして勝利を前にして果てた英雄。
        恐らく、彼はそういう形で語り継がれるだろう。
        人々は皮肉にも、彼を国の英雄として、長く語り継ぐことになるのだ。
        この要塞での勝利は、そういった類の物であることを、マルクも理解していたし、
        それが、自らの中に存在する罪悪感に対する何よりの弁証である矛盾には、無理やり気づかないようにしていた。
        自らの憎んだ相手が、自らの装飾によって英雄として語り継がれる矛盾だけは……彼が僅かだけ残している人間性の証であることを、彼は今は心の奥に仕舞っている。

      • ――ギルドールの死体を、屋上に隠した後、マルクは後方より音がするのに気づき、剣に手を掛ける。
        振り返るとそこには、白銀騎士団員の一人が、肩で息をしながら屋上へと上がってきたところだった。
        始末を見られただろうか。
        場合によっては、死体が一つ増えることになる、そこまでの覚悟を決めた上で、その団員へと近づく。

      • 「……どうか、しましたか」
        -- マルク
      • 「は、は……た、大変であります、団長殿がどちらに居られるか、ご存知でしょうか、副団長!」 -- 騎士団員
      • 「それが。
         僕も探しているのですが、何処にも居られずに……。急ぎの用であるなら、僕の方からも伝えますが、緊急の用件なら僕も知っておきたいですし」
        -- マルク
      • 「そ、それが……て、敵兵が……!!」 -- 騎士団員

      • まだ、敵の伏兵が残っていたか。
        マルクは少しだけ表情を鋭い物とする。
        ここに於いて、団長というカリスマを失った事は騎士団として痛手ではあったが、そういう事態も見越して「自分が実働を握る」といった騎士団の体制を作っておいたのだ。
        全てが復讐の為にできている自らの身体と思考に嫌気が指しながらも、マルクは言葉を返す。

      • 「直ぐに殲滅指揮に入る。団長の不在は気にかかるが、待機でじわじわと数を減らされるのは面白くないでしょう。
         貴方はすぐに階下へと戻り、各団員に群体指揮を――」
        -- マルク
      • 「ち、違うんです、た、副団長ッ!!
         や、奴らの数が、ほ、ほら……あ、あれを……!!!」 -- 騎士団員

      • もはや、半狂乱と言っても差し支えない程取り乱しながら、団員の一人が屋上より地平を指さす。
        そこには、先程から何も変わらない、ただ黒一色の地平線が広がっているだけだった。
        その指の意図するところが分からず、マルクは嘆息と共に問い返そうと振り返ると、逃げるように団員は階下へと転げ落ちて行く音だけを残して姿を消していた。

      • 落ち着け。
        この程度の戦時障害、何度も目にしてきているだろう。人の死を目の前にして狂わない方がおかしいのだ。
        礼節すらも放り投げた団員の姿を追うのをやめ、再びマルクは地平へと振り返る。

      • やはり、そこには何もない。
        ただ、地平が広がっているのみだ。
        大地のその先まで、遥か東方の地へと続く円形がその輪郭の一部を映しているだけだ。
        敵兵の姿など、何処にも存在しない。

      • だが。
        その光景に。
        一つだけ、違和感があった。

        その地平線は、余りにも黒く。そして、太いように見えた

      • マルクの背筋を、冷たい物が流れ落ちる。
        懐より戦時用望遠筒を取り出すと片手で組立て、食い入るように、それを覗きこんだ。
        その筒が向かう先は、地平線そのもの。

        僅かな沈黙の後。

        マルクは。
        その望遠筒を落とし、地面へと膝を突いた。

      • その地平線は、僅かに蠢いていた。
        蠢く、幾万の兵であった。
        地平を形作るその黒き線自体が、帝国の兵そのものであると知った時。

        マルクは。自らの死を悟った。

      • 白銀騎士団。
        西爛戦争初期に設立された臨時騎士団であり、かつての白銀の騎士団長・ギルドール・アートソンが率いた軍である。
        バルトリア会戦に於いて連合国軍として籍を置き、幾度となく帝国の攻撃を退け続けてきた功績があり、
        最終的にバートレッド北方王直属部隊としてゾド攻略戦へと駆り出される。

        破竹の勢いで同要塞を攻略後、帝国が投入してきた最後の本隊によって、
        ――一人の例外なく、惨殺されるという結末を迎える。

        彼らは最後まで国の為に戦った英雄の一人として語り継がれることになるが、
        やがて、その戦争が人々の記憶から消え去る時、彼らの名前を覚えている者は、誰一人として居なくなるのである。

        盛者必衰。
        潰えぬ栄光のあるものか。
  • 【 14 】
    • そこには、戦争があった。

      鉄の破片を呼吸し、流血で身体を禊ぐ。
      倒れる味方を顧みず、息のある敵の喉笛に剣を落とす。
      蹂躙が鎧を着て一迅の風の波濤となり、その場を持ちこたえようとする者達の足元を掬う。
      怒号と悲鳴と苦悶の声が入り混じった地獄がそこにあった。

      ギルドールにとって、まるで自分のいるべき場所に帰ってきたかのようなその皮肉な空気は、
      彼を一時だけ、白銀の騎士であり、銀髪の死神であった時代へと回帰させた。

      傀儡新王の名目の下、結成された北方王騎士団が作り上げた包囲網の先駆けを担う白銀騎士は、
      西ローディアに住む者全てが快哉の手を叩かんばかりの快進撃を続けた。
      • 剣を振るう。
        相手の首が飛ぶ。
        そんなに恨めしそうな顔で見ないでくれ。
        互いに譲れぬ物があってのこの相対であろう。
        一瞥だけくれてやり、ギルドールは次の獲物へと向かう。
        狂気に支配されずに、狂気に身を浸すこの感覚は、久しく忘れていた自分の中の黒い感情を呼び起こす。
        かろうじて理性で支えてはいる物の、いずれその理性すら足かせとなり、邪魔と感じた時、再び自分の中の悪鬼が目を覚ます恐怖が、心臓の裏を這い回る。

        迷いは隙を生み、隙は僅かな停滞を生み出す。
        踏み込んだギルドールの心臓を鷲掴みにするような寒気が背筋を這い登り、自らの半生がその一瞬に凝縮される形で巡る。
        阿鼻叫喚の戦場の中に於いて、自分の致命となりうる攻撃が、何処からくるかだけが分かった。
        雑多な全てを背景として、ゾドの要塞の上、水銀の弓を引き絞る者の姿が見えた。

        その一瞬、自分達が既に目的である要塞の直ぐ傍までたどり着いていた驚愕と。
        そこまで迫れば後は籠城する者を燻り出す策を敷けば事足りる安堵と。
        放たれた水銀矢の軌跡が、寸分のズレもなく自分の心臓にその矛先を向けていることへの覚悟が同時に沸き。

        ギルドールは、何処か場違いな安らぎを感じた。
      • 衝撃は、横から来た。
        覚悟していた方向よりの衝撃でなかったため、バランスを崩し、一歩で持ち直す。
        しなだれ掛かって来た重い何かの正体は直ぐに分かり、分かったからこそ、その脱力した「身体」を抱きとめる。

        マルク。
        その肩に、水銀矢が突き刺さっている。
        この戦場に於いて。
        他人を気にしている余裕など、何処にもありはしないのに、だ。

        動きの止まった兵は的でしかない。
        次々に首級を取ろうと踊りかかってくる蛮族に、ギルドールは太刀で答えを返す。
        衛生兵を呼ぶが、この戦場の混乱の中、その声に応える者はいない。
        水銀毒は如実に効果を表し、マルクの顔に冷や汗が浮かび始める。
      • 第二射が訪れる。
        一人分の体重を抱えながら辛うじてそれを避け、次いで訪れる敵兵の殺到にギルドールは渋面で対応する。
        剣と骨剣がこすれ合う不協和音が生じ、片腕で相手の首を刎ねた所で骨が喉笛の骨に絡み、姿勢を崩される。
        味方の屍を盾としながら突っ込んできた敵兵がギルドールの胸に肩を食い込ませ、勢いで地面に投げ出される。
        自らの終わりを感じながらも立ち上がると、襲いかかってきたはずの敵兵が首より上を消失させて、血しぶきと共に地面に倒れていった。
        ギルドールが胸元を見れば、抱き留めていたはずのマルクが冷や汗を零しながらも、自らの白銀剣で敵兵の首を跳ね飛ばしたその動作の余韻が見て取れた。
        顔色は蒼白にまでなっている。ギルドールは急務としてその身体を横たえるため、周囲を警戒しながらマルクの身体を抱きかかえ、木陰へと移動する。
        流血よりもその毒性が体を蝕むことの方が深刻と考え、水銀矢を急ぎ抜き、傷口より心臓に近い部分を強く縛った。

      • 「……無茶を、するッ」
        -- ギルドール
      • 「しますよ……。
         百回だって、千回だって、するでしょう。
         貴方は……僕らの騎士団の団長にあられるのですから。
         こんなところで死なれては……僕も困るんですよ」
        -- マルク
      • 「軽口が叩けるのであれば、多少私の罪悪感も薄るるな。
         休んでいろ。団長命令だ」
        -- ギルドール
      • 「このような戦の中。
         その命令を僕が聞けると思いますか……?」
        -- マルク

      • 蒼白な顔をしたままのマルクが、弱々しい呼吸のまま立ち上がろうとして、えづく。
        ギルドールはその様を見ながら、静かに呼吸を整える。
        こんな時。騎士王ならば、と考えてしまう自分の弱さが嫌になる。

        と、その瞬間、ギルドールの中に閃きにも似た光明が芽生えるのを感じた。
        振り返り、敵が自分目掛けて矢を放ってきた小窓を木の陰から見る。
        敵は、上手を取っている。数でこそ負けてはいないし、士気もこちらの方が高いが、たったそれだけの優位性が、攻城を困難な物にしている。
        逆説、上下の優位さえ崩せれば、戦況は一気に傾くことになる。

      • こんな時。
        騎士王であればどうしたか。そこにこそ答えがある気がした。
        いつだって自分の基準の中で正しく、そして強くあったその発想を、果たして自分が成せるのであれば。
        戦況を一気に傾けられるのではないか。
        それは、悪魔の誘惑のように自らの心臓の周囲を優しく撫で回し、その鼓動を早くする。

        駄目だ。
        違えた騎士道を歩んだからこそ、自らの力の行使に溺れたのであろう。
        己の騎士道を歩むことをこそ騎士王の誇りとするならば、今ここでそのような自らの中より生じた甘言に惑わされてしまえば、元も子もない。

      • 「団長。
         参りましょう。我らの兵を守らずして、この戦に勝利はない……!」
        -- マルク

      • その言葉に。現実を突きつけられる。
        そうだ。
        ここは、戦場だ。
        何を、迷っている。
        違うだろう。
        守るべきは自らの騎士道ではなく……勝利を信じて剣を振る、全ての者達を、だ。

        ギルドールは、マルクが取ろうとした銀嶺の剣を、右手に取り、マルクの顔を見た。
        マルクは、その顔を怪訝そうに眺め、尋ねようとした言葉に、ギルドールの言葉が被った。

      • 「長らく、忘れていた。……誰がために剣を取るのか。
         騎士王に出会う前から、私は……その騎士道に魅了される前より……ずっと剣を取っていたではないか」
        -- ギルドール
      • 「団長……?」 -- マルク
      • 「……なれるだろうか。
         私は、最初に剣を取った時に、なりたかった姿に、両の手を汚した今からでも……なれるだろうか」
        -- ギルドール

      • それは、戦場でされるには余りにも呑気で、余りにも場違いで荒唐無稽な問いであった。
        が、マルクは少しだけ困ったように返答に迷った後、迷わずに、告げる。

      • 「必ずや、なれましょう。
         死神と呼ばれ、騎士と謳われた貴方に。……なれぬものなど、ありましょうか」
        -- マルク
      • 「ありがとう、マルク。……君は、私が誇るべき最高の団員だよ。
         その言葉が……私を英雄にも、騎士王にもしてくれるのだとしたら。
         私は、もう、迷わず剣を振れる――」
        -- ギルドール

      • 言葉は、置き去りになる。

        マルクの白銀の剣を片手に、ギルドールは一迅の白銀線と化す。
        戦場を駆け、敵兵と交錯するだにその首は真上へと弾け、死神が鎌を振るうかの如く死を与え続ける。
        その姿は戦場を駆る白銀の騎士であり、敵兵にとっては銀髪の死神であり。

        かつて、彼が成りたかった、彼の英雄たる、騎士王の如き姿であった。

      • 姿勢を低くし、ゾドの要塞へと肉薄する。
        いつだって、騎士王という常識は、他人の非常識を常識へと解体し、圧倒的正しきを以って是とされてきた。
        荒唐無稽に見える案は詳らかにされる内に理路整然と並べられ、有無を言わさぬ行使に寄って可能を証明する。
        絶対的な正しさ。絶対的な強さとは、いつだって事をシンプルに書き換える。

        故に。
        その手段を以って臨めば。
        この状況に於いて、自分の行く道は、単純に一つの道程のみとなる。

      • ギルドールは、跳ぶ。

         一歩目は、根拠のない自信が右足を蹴り上がらせる。

          二歩目は、今まで歩んできた彼の道のりが、更なる跳躍を可能とした。

           三歩目にはもう既に魔法は解けていた為、彼は後ろに並び立つ彼の騎士団の命全てへの想いを撥条に飛び上がった。

      • 「……凄い」
        -- マルク

      • その光景を「見上げて」、マルクは思わず呟いていた。
        まるで、それは不可能を可能に書き換えたかの如き、現実離れした光景であったから。

        白銀の騎士は、宙を舞った。
        否、その様に見えただけで、実際は、砦の外壁を蹴上がったというだけのことだった。
        垂直に立ったゾドの要塞の外壁を、両の足を交互に叩きつけながら上へと駆け上がる銀なる姿は。
        まるで空へ向かって羽ばたく、天馬のようにも見えた。

        その瞬間、その一時だけは、敵も味方も、まるで奇跡のようなその光景を目の当たりにして、口を開いていた。
        戦場の中で、一瞬の空白が訪れ、そしてその均衡の沈黙は直ぐに破られる。

      • 射撃用の小窓より身を躍らせたギルドールは、そのまま狙撃手の首を跳ね、その亡骸を勢い良く窓から投げ捨てる。
        窓より高らかに声を上げると、その勝鬨は団員の騎士を最高にまで高めた。
        上下の高低の優位性は崩れ、それどころか上下より挟撃の形になった砦内部の混乱が収まる頃には、雌雄は決していたと言える。

        大凡、覆し難い不落の要塞での攻防は、こうして決するところとなった。


      • ――――勝鬨が、どこか遠くから聞こえてくる。

        城塞内の全ての敵を屠った後、ふらつく頭を押さえながら、ギルドールは階下より聞こえる団員の勝利の喜びをどこか遠く聞いていた。
        終わったと分かった途端、剣すら持てない程の疲労が一気に襲って来て、螺旋階段の途中で腰を下ろす。
        ガシャリと石造りの階段に尻が擦れるが、痛みすら感じない程の眠気に似た疲労が彼を壁に凭れ掛からせる。

        終わったのだろうか。
        終わったのだろう。
        階下で部下達が騒いでいるのが聞こえる。
        そうか。勝てたか。良かった。
        随分と私も大きく出た物だ。そして、大それたことをした物だと、乾いた笑いが出た。
        震えに似た笑いが湧いてきて、それすら疲れた身体を痛め、ギルドールは少しだけ顔を歪めた。

      • 騎士王。
        貴方の騎士道、お借りしました。
        貴公が知れば鼻で笑うような大きな代償を引換とした、無様な姿であったでしょうが、
        それでも、貴公が為そうとした国の安寧は、他ならぬ貴公の騎士道によって守られる事になりましょう。

        ゆっくりと立ち上がり、螺旋階段の上を目指す。
        戦争の興奮で火照った身体を、風に当てたかった。
        まるで永遠に続いているかの如き螺旋の果てに、砦の最上階へとたどり着くと、爽やかな風と太陽、そして遥かなる地平がギルドールを迎えてくれた。

      • 静かに息を吸い、吐く。

        何度も道を違え、違えるたびにその道に傷つき、自らの未熟さで沢山の物を犠牲にしてきた。
        国同士の軋轢の狭間で個人という概念は数字に変換され、摩耗し、やがてそれは悪鬼へと姿を変えた。
        だが、どうだ。
        また、自分は変わる事が出来た。
        いつか描いていた栄光は、自らの手で切り開き、掴む事が出来たではないか。
        この間違って来た道も、今ここに辿り着く為に必要なことであるならば。
        自分は。
        その全ての過ちも、愛そう。
        それが、不完全で、不出来な私が是とする。

        私の騎士道であるのだから。

        白銀の騎士は。銀髪の死神は。
        ……その遥かなる地平を見ながら、静かに涙を零した。
        栄光はいつも。この胸の中にあったのだと。

      • 帰ろう。
        そして、また、積み重ねていける。

        そう、胸の内で反駁しながら振り返った所で、ギルドールは、何かにぶつかり。


      • ――腹に、灼熱感を、覚えた。

      • 地面が迫って来て、顔を横殴りに叩きつける。
        違う、これは、倒れたのか。ギルドールは何処か冷静に状況を飲み込んでいた。
        懐を見ると、そこには白銀の剣が深々と突き刺さっている。
        腎臓を正確に貫いている。明らかなる殺意を以って行われた攻撃である。
        無防備に背中を晒していたのだから、当たり前ではあるのだが、それにしても綺麗に刺したものだ。
        迷いが少しでもあれば、このような確実な刺突は行えまい。
        指先が震える。体温が空気に奪われていく。
        顔を上げる。
        ああ。そうか。

        私はもう、既にダメだったのか。
        そこには、かつてギルドールの顔に傷をつけた、戦地の子供の姿があった。
        違う。そこには誰かがいた。
        今まで彼が殺してきた人間全てがいた。
        誰でも良かった。
        誰であろうが、それがギルドールが殺されるに十分な人間であった。

      • あぶくのように漏れる血泡を吐きながら。
        白銀の騎士は。
        銀髪の死神は。

        小さく嗤う。
        何処で間違ってしまったのだろうか。
        私はただ、自らの正しきを全うしたかっただけであるのに。
        何処か間違ってしまったのだろうか。
        私はただ、自らの正しきだけは、信じていたのに。

        顔を上げる。
        そこには、無慈悲に見下ろす少年の如き顔がある。

        そうか。
        すまない。
        私は。

        自らの、騎士道を。

        ――伸ばした手は、空を切る。
        掴んでいたはずの栄光も。
        胸に抱いていた誇りも。

        全てあざ笑うかのように、最初から何もなかったかのように。

        彼の死によって、全ては失われていった。
        彼を刺した、マルク・レンシスの……その目の前で。
  • 【 13 】
    • 黄金歴226年、5月。

      腰から下げた剣。
      その重さを振ることを騎士道の誉れと思っていた時期が、ギルドールという騎士の人生の中にも存在していた。
      ただ、その力を正しさの為だけに振るっていると自負し、錯覚し、故に迷わず、曲がらず、前に進んでいた時期があった。
      功績は重ねられ、首から下げる勲章が多重章として一つに纏められる頃、彼には一つの異名が備わっていた。
      戦場に、数多に存在する銀の輝きの中でも、一際眩く輝きて見えるその彼の髪をして、人はその英雄を『白銀の騎士』と謳った。
      • そして、英雄は簡単に地に落ちる。
        何らかの策謀が絡んでいたことは間違いなかろうが、時代の潮流は激流の如き荒々しさで機微や事情を飲み込み、過去へと押し流していった。
        だから、ギルドールは自らの騎士道を汚し、貶めた暗謀への転属が、どの様な力が働いて行われた施政であるのかを、今を以って知らないでいる。
        大勢の人を殺し、大勢の血を啜り、狂気に身を浸した。
        戦場成らざる場所で生命を刈り取るその悪魔の黒騎士を、人は心からの蔑称として『銀髪の死神』と蔑んだ。
      • 人命も、善行も、和差算で語られるべきものではない。
        一度浮かび、堕ち、また浮かぶ糾える縄の如き人生に点を付けるとしたら、採点基準に誰もが困るだろう。
        それに、本質的には自己の内面や行動はいつだって変わっていない。
        一度、その外側に存在していたからこそ、自分の片方になった目ははっきりとその本質を捉えていた。
        騎士道とは、譲れぬ理由であり、自分を納得させる弁証であり、外側の絢爛さに反して、内側は至って空虚な物であると。
        だからこそ人はその虚勢や誇りによって自己を、そして時には自己すら犠牲にして誇りや虚勢を守ろうとする。
        騎士道とは守るべき物であり、護られる物でもあったのだ。

      • 人をしてすら二面性のある生物であるのに、その人が創りだした路にそのような二面性がないという方が幻想であろう。
        ギルドールは自身の剣を手に取る。かつて騎士王より叙勲の際に賜った銀嶺の剣を。

        思えば、自分が最初に見初めた騎士道は、甚だ強き騎士王に守られる、弱き騎士道であったのだ。
        だからこそ、弱い自分がそれに完全に沿う事はできず、時にその弱さによって自己が傷つく結果となった。
        死神として他者を殺める日々の中、守られぬ誓いと己の汚濁が傷口を膿ませ、騎士道は自己を内側から食い破る蠱毒と化した。
        弱い自分が弱い騎士道と共に歩こうとしたがゆえに、互いを傷つけあってしまった。
        だからギルドールは思う。
        騎士王に従い、騎士王の後を追い、騎士王と同じ物を見るべきではなかったのだと。
      • 弱き者は、弱き者なりの……強き騎士道と共に歩むべきであったのだ。
        自己を守り、その脆弱さに理由をくれるような、華々しき騎士道と共に。
        自らを律し、その戒めを以って正と成す騎士王の「従える騎士道」ではなく、その輝きに依って個人を「守る騎士道」と共にあるべきであった。
        自分は、そこを違えた。
        絶対的な正しさを、騎士王の騎士道に求めてしまった。
        自分にとって騎士王は、並び立つ存在ではなく、付き従いその栄光の手助けをする、そういう存在であるべきであったのだ。

        ギルドールは剣を抜く。
        目の前には、自身の騎士道に付き従うと決めてくれた白銀騎士団の面々の顔がある。
        副騎士団長、マルク・レンシスがその童子のような顔を此方に向け、口を静かに結んでいる。

        そこには、三百人を超える、かつてのギルドール・アートソンがいた。
        目の前の強き騎士道に憧憬の目を向け、我もその栄光と共にあろうとする、そんな顔が並んでいた。
        かつて、自分が騎士王に向けていた目も、そのような目であったのだろうと思うと、どうにもここに来て緊張に腕が軋む。

        剣を、高く掲げる。
        雄々しくあらねばならない。
        猛々しくあらねばならない。
        かつての自分がそこに並んでいるのだとしたら。
        自分は、自分の騎士道によって、彼らを魅せる義務があるのだから。

      • ――――時は現在より大きく遡る。

        ウィルロットの下、その騎士道を守ると宣言し、その場を辞してすぐに、ギルドールはバートレッドの下へと向かった。
        これから先、誓った騎士道を以って剣を振るうのはウィルロットの下ではなく、バートレッド北方王の下であるため、
        その真意を確かめずには居られなかったが故だ。
        自分の蒙昧な頭で以っても、納得いたしかねる騎士王の処遇に関して、その場に同席していた破軍王は一言あるのではないかと期待してという気持ちが表面にある。
        その奥に、少なからずその間違った采配を看過した男への糾弾がなかったとは言えない。
        納得しかねる現状に噴き出しかねない義憤を最初に向けた先が、バートレッドその人であったというだけの偶然もそこにはあったと言える。

      • 「しからば、その憤懣遣る方無い表情を携えて返す刀訪れたと。
         先の各王謁見の際には見せなんだ積極性よな、ギルドール騎士団長」
        -- バートレッド北方王
      • 「答えていただきたく存じます。バートレッド北方王。
         何故、貴公程の男が、ウィルロット東方王の軟禁を是とされたのか。
         既に下される命より先にこれからの歩みについては、我が王より伝え聞いておりますので、お応えいただけることを期待しております」
        -- ギルドール
      • 「我が王、と来たか。
         ははぁ、でなくば我が下で剣を振るう事はできぬと、中々に豪胆な取引材料を天秤の皿に載せてきおったな、ギルドール。
         良かろう。その皿に載る貴公が豪胆、真に応うるに値する覚悟と見た。我をして応えよう、白銀騎士」
        -- バートレッド北方王

      • 節くれだった指を執務室の、彼の体に比べれば小さな机の上で結び、北の破軍王は口の端を僅かに歪めた。
        ギルドールは、その僅かな動作で、彼が纏う空気を変えてきた事に、戦場で培った勘に似た物で感じ取っていた。
        北の王の仮面を外し、一人の男としての回答を、その反対の皿に、静かに載せる。

      • 「それこそが。
         ――王の命であるからだ」
        -- バートレッド北方王

      • その返答は、ギルドールが期待していた方の物ではなく、覚悟していた方の物であった。
        背筋を、黒い殺意に似たような物が這い上ってくるのを感じ、ギルドールは息を大きく吸い、吐く。
        その動作を、まるで皿の上の料理を端から眺めるように冷静に見詰め、相手の深い呼吸に合わせて息を吐く。

      • 「すまぬな。
         今のは、試した。詫びよう。
         嘘ではあらぬが、真実を正しく伝えようとする意図の言葉ではなかった。
         ……一言で簡素に述べるとすればそうだが、王の目的は別のところにあるのだ。

         ギルドール。
         貴公の忠義に誓えるか。
         この場で聞いたこと、墓まで誰にも漏らさずに持って行く事を」
        -- バートレッド北方王

      • ギルドールはその言葉に、威圧や懇願や後悔といった複雑な感情が練りこまれている事を感じた。
        自らが、相手が応える事を期待しての問いであったのだ、自らの忠義に誓えるかという問いに、否を返すわけがない。
        或いは、先程ウィルロットと忠節を交わした熱がその胸になければ、臆病で冷静な自分が躊躇いを見せたかもしれない。
        だが、その時高揚状態にあったギルドールは、自らの剣の柄を鳴らし、是非もなしという答えを返した。

      • 「この戦。
         貴公は、何処にその騎士道を寄せる。
         既に双方疲弊状態にあり、水銀の毒や竜害といった第三者の介入によって膠着とも伯仲とも言えぬ状況に陥りつつある。
         元よりこれは侵略戦争であるのだ。我が国の勝利を以って、貴公の騎士道にそぐう何かが残ろうと考えておるか」
        -- バートレッド北方王
      • 「それこそ、是非もなきことにあります、北方王。
         侵略戦争に騎士道を寄せるとすれば、無辜の民の平和以外に何を望みましょう」
        -- ギルドール
      • 「再度問おう。
         では、この勝利を以って、貴公は我がローディア連合王国の民幾万が、約束された平和の上に再び床を敷けると思っておるのか」
        -- バートレッド北方王

      • ギルドールにとって、それは糾弾のように聞こえた。
        何に対してか。強いていえば、己の無知に対する。
        言葉を返せないギルドールに、重ねて王は問いを投げる。

      • 「先に釘は刺しておくとしよう。我をしても敗北の上に民が安眠を勝ち得るとは思っては居らぬ。
         この戦での勝利は、民草が安穏の内に暮らしていくための最低条件であることは、揺るぎない事実だ。
         だが、勝ち方という物が、その後の民草の生き方に密接に関わってくることをまで、貴公は見越しておられるか、ギルドール元中将」
        -- バートレッド北方王

  • 答えは、出てこない。
    そのような事に思索を巡らせたことはなかった。いつでも目の前だけを見て、自分の信じる物のために剣を振ることしかして来なかった。
    バートレッドは小さく嘆息する。

  • 「これもまた、答え難きを承知で問う嫌らしき問いであったな。重ねて詫びよう。
     だが、我ら王は常にそれを考えて先の手を打たねばならぬ。
     この戦、厳しくはあるが我がローディアの精鋭の力の全てを注ぎてなお、勝てぬ戦であるとは我は思うて居らぬ。
     帝国が槍は大国の扉に穴を穿つに十分であり、その穴より漏れい出た毒で少々身体はやられておるが、
     国というものが民を血脈とした一つの生命であるとするならば……いずれその自浄作用にてその傷も塞がろう。
     そして、それを乗り越えた身体は毒へと免疫を作り、より強固なものとして一層の繁栄を齎すであろうな。
     だが、その血脈を動かす臓器や、血を巡らす先の臓物すら毒されてしまえば……国という物は容易に死に絶える物なのだ、ギルドール」
    -- バートレッド北方王

  • バートレッドは小さく俯き、瞑目して過去に思いを馳せる。
    直ぐに目を開き、赤き瞳でギルドールを真っ直ぐに見詰め、告げる。

  • 「王は。
     かの騎士王、ウィルロットという男を、次代の王と定められたのだ。
     この戦が終わり、人々が安穏と暮らしていく中で、強く、貴くあるあの男の姿は、ただそこに有るだけで人々の希望になり得るだろうとな。
     加えて、見た通りの実直な男だ。自らの敷いた法にすら逆らわぬ男であるが故に、その強き決定は弱った心を導くには十分すぎるであろうとな」
    -- バートレッド北方王
  • 「王が……騎士王を……っ。
     ですが……王は、未だ」
    -- ギルドール
  • 「左様。
     ……老齢ではあられるが、存命にある。
     しからば、これがどの様な決断であるかを問うような無粋はしまいな、ギルドール」
    -- バートレッド北方王

  • 言外に。
    それは現王の生命の決断そのものを示していた。
    この国は今、自己犠牲と絶対封建の下にギリギリの場所で踏みとどまっている。
    故に、国のその気運に、王もまた殉じようとしており、
    ――この忠義の塊であるはずの、北方王も、それを飲み込んでいるのだ。
    見れば、絡めた両の指の詰めが手のひらを傷つけ、机の上に血滴が落ちている。
    忠義の塊たるバートレッドにとって、その王の事実を告げることすら辛いのだと、ギルドールは遅まきながら悟る。

  • 「次の戦にて。我が王は龍と成る。
     その身を悪鬼の具現と変えて、全てを薙ぎ払う姿へと堕ちるのだ。
     それが、王が下した決断であり。
     王が行う最後の施政となる」
    -- バートレッド北方王
  • 「………」 -- ギルドール
  • 「貴公が両眼には、我が王は暴君、我はそれに阿る弱将とでも映ったのであろうか。
     であるならば、我をしてその侮辱に対して冷徹に言葉で刃を返そう。
     貴公は、貴公が背丈の物以上の物が見えては居らぬ。分かりやすき悪と、飲み込みやすき解釈に阿るを是としているだけだ。
     貴公は騎士であろう。……本来騎士とは、施政に口を出さぬ物だ。弁えよ。
     と、一応の四方王の義務は果たして置くが、貴公のような騎士にはこの額面通りの言葉が効くであろう。ギルドール。
     貴公の良さは、自らを正当に評価せしめるところにあると、我は思うておったのだが、何をかっかしておるのだ、戯け者が。
     廊下の先にまで聞こえ用声で王への叛意を叫ぶなど、我の耳が美女の声以外通さぬよう都合よく出来ておらねば、首をくくられてもおかしくあるまいぞ、将よ」
    -- バートレッド北方王

  • はっはぁ、と北方王は快活な笑声を放つ。
    両手を滴る血を髭で拭い、深く椅子に座り、空気を崩した。
    ギルドールは、冗句にされてしまったその言葉にこそ、彼の伝えたき真意があった物として、それを深く胸の内に仕舞った。

  • 「今、その王の決断を知れば、柱の王のことや帝国のやり口で頭に血が上ったあの戯け王の脳の血管ははち切れる。
     元よりあれは自らの思うところを成す以上の器用な真似が出来る男ではないのだ。
     よく切れる剣は非常に役に立つが、それで字を書けと言うのは無理無謀な話であろう。
     故に、この話、貴公が真にウィルロットという男に忠誠を誓うのであれば、その胸に仕舞いて我が下で彼の騎士道を成すがいい。
     ……一年後、戦線の奪還に向けて、我が軍の大勢を注力する計画も既に立っておる。そこに、並び立つのだ、ギルドール」
    -- バートレッド北方王
  • 「……出過ぎた、真似でありました、北方王」 -- ギルドール
  • 「許す。
     許そうぞ、ギルドール。
     我は我が盟友のどの様な行為も、最後には許してきた。貴公もまた、ローディアという小舟に乗り合わせた盟友の一人とあらば、許さざることがあろうか。
     ……はっはぁ、何をしょぼくれておるか、ギルドール、貴様よくそれであの騎士王と並び立っていたものよな」
    -- バートレッド北方王

  • 雄々しく、男はその新しい部下の失態を笑い飛ばす。
    騎士王が鋭き剣のような男であるなら、破軍王は広き剣のような男であるのだと、白銀の騎士は思った。

  • 「だが。意外と貴公の如き無害な男こそ、あの存在するだけで鬱陶しい輝きを放つ騎士王には似合うておるのかもしれんな。
     それは、我が国の民でもそうだ。我は許すが、あ奴は正す。
     真の王の器などというものに言及するつもりはないが、或いはこの国を正しく導く事ができるのは、
     あの男のような愚直な正義の剣にあるのかもしれぬと、我をしても思わされたわ」
    -- バートレッド北方王
  • 「……それが、騎士王の軟禁を是とした。
     王の命に納得した理由ですか、北方王」
    -- ギルドール
  • 「いんやあ?」 -- バートレッド北方王

  • まるで、熊が笑うとしたらそのように笑うのであろうなと思わせるような、シニカルな笑みを北方王は浮かべた。
    顎髭を撫ぜ、牙を剥いて笑いながら、ギルドールに言葉を返す。

  • 「そのような軟弱な思考、施政に交えるは我が下で生きる幾万の民に失礼であろう。
     我を王と慕い信じる者達の前では、我は破軍王たる王の中の王にあるのだぞ。そのような女児のような軟弱さで施政の指を動かせるわけがなかろう。
     騎士王に王は務まると思うておることと、それが我には務まらぬと思っていることは同義ではなかろう。
     次のローディアを治むることは、我にも出来よう。だが、そうなればここで采配を取るはあの騎士道の具現になる」
    -- バートレッド北方王

  • 小さく嘆息して、王は続ける。

  • 「で、あれば、あの小器用な真似も小賢しい真似も出来ぬ騎士王という男は、痛み、或いは死ぬかもしれん。
     強き男ではあるが、無敵無双とて矢が刺されば痛いし、刺さりどころによっては死ぬのだ。
     それでも奴が帝国を前にして遅れを取るとは思わんが、奴が敵の首級を片手に、前向きに倒れられても困るのだ。
     言ったであろう。我や王は、その先を見据えておる。
     本来ならば、騎士王という男も同じ物が見える瞳を持ちあわせておるはずなのだが、奴は今その両の眼を自らの騎士道と怒りによって曇らせておる。
     故に、奴にはこのような西爛戦争が如き些事に囚われていては我も、この国も困るのだ」
    -- バートレッド北方王

  • 王は、再び椅子から起き、机に両手を着けて告げる。

  • 「騎士王の華は戦場ではなく、施政でこそ輝く。
     小賢しき我をしても、見てみたくはあるのだ。あの様な騎士道の塊たる男が行い、導くこの国の先を。
     面白いではないか。心踊ろうぞ、ギルドール。
     かつて国が二つに分かれた時より何処かに置き忘れた真の騎士道が国を導くとは、喜劇にしては洒落が利いている。
     我をして巧くやることは出来ようが、それよりも面白きを、我は是非見てみたくある。
     それが、あれを戦場に出さぬ、我の中の理由の半分だ」
    -- バートレッド北方王

  • 北方王が語る理想の国。
    その国の有り様は、以前よりギルドールがその胸の内に抱いていた、桃源郷であった。
    北方王の語りも加わり、その様が目の前に広がるが如き幻を見た後、ギルドールは尋ねる。

  • 「残りの半分は……何でありましょう、北方王」
    -- ギルドール
  • 「知れたこと。
     ウィルロットという男もまた。
     我が守るべき盟友である。それ故だ。

     我が騎士道は、死なさぬことにある。
     誰一人として、例外はない。我が愛したローディアの幾億の民全てに、無碍に命を散らす自由は存在せぬ。
     故に。あのような稀有な才能、このような詰まらなき戦にて散らすは惜しいと思ったまでよ」
    -- バートレッド北方王

  • それは逆説。
    王の命を賭さねば勝てぬ状況に追い込まれた無念で、自らを傷つけるが如き言葉だった。
    どの様な思考と言葉の下、バートレッドが王のその命を飲み込んだのかは知ることが出来ない。

    だが、熱湯を飲むが如き優しき行為ではなかったことだけは、ギルドールをしても、知れた。
    だからこそ、今。
    騎士王の忠義を振るうに値する男が、目の前に立っていることを……漸く意識することが出来た。

  • 「そしてそれは、貴公をしても他人事ではないのであるぞ、ギルドール。
     我が下でどの様な剣を振ろうが、我はそれを許そう。
     だが、貴公がその生命を無碍に散らすとするのであれば、我はそれだけは許さぬ。
     良く、働きて、そして戻って来い。
     ここは……貴公が帰ってくるに値する。
     ――我が愛したローディアである」
    -- バートレッド北方王


  • ――――時は今に戻る。

    ギルドールの胸に抱かれし騎士道は、騎士王のそれとも、破軍王のそれとも、違う。
    彼が信じる、彼の信じる相手が描いた理想を、少しずつ助力するだけの、柔らかき騎士道だった。
    だが、その騎士道は強く、何物たりともそれを犯せぬ鎧となって、ギルドールの心を覆っていた。

    自ら率いる騎士たちの前で、剣を高く上げ。
    白銀騎士団長・ギルドール・アートソン元中将は厳かに言葉を放つ。

  • 「貴公らの長は、白銀の騎士と呼ばれていた頃から……他人を鼓舞することが、苦手だった。
     正しき行動こそが道を示す全てであると、ずっと信じてきた。その無言の努力に、結果が付随しただけの幸運であったに過ぎない。
     だからこそ私はその足元を掬われ、一度その名誉を自ら地に叩きつけた。
     その時の返り血で、まだ私の両手は汚れている。まだ、その全てを禊げたとは思っていない。
     貴公らの中にも、私が銀髪の死神と呼ばれていた時代を知っている者もいるかもしれない。
     憎んで、居る者もいるかもしれない。
     それは正当な怒りであり、憤りであり、それを否定しうる程、私は高潔な人間である訳ではない」
    -- ギルドール

  • 言い訳から始まるとは。
    ……本当に、自分という人間は、度し難い存在だと、ギルドールは心の中で自嘲した。
    その自嘲を踏み台にして、自らを鼓舞する。

  • 「だが。
     もはや、それを理由に留まって居られるほど、戦況は芳しいものではない。
     戦線は本国の中心ローディアにまでその包囲網を縮めて来た。一刻の猶予もない状況にある。
     これまで、私は再三、私の遣り方や存在に異がある者は、迷わずその剣を向ける先を、別の主君にして構わないと繰り返してきた。
     三年もの長い間、不甲斐なき団長にあったが、貴公らはそれを支え、良く働いてくれたと礼を言いたい気分だ。
     だが……ここから先は、何も言わず、私に付いてきて欲しい。
     思惑、理由、思想、各々思うところはあるだろうが……白銀騎士団として、私の剣を向ける先に、同じように剣を向けて欲しい。
     この三年という月日こそが、その互いの信頼の証であると、勘違いをした私を祀り、神輿に乗せて欲しい。
     必ず。
     私は、己の栄光も汚泥も咀嚼した上で、その全てを利用して貴公らに勝利を齎すことを、この剣に誓おう」
    -- ギルドール

  • 私の前に立つ男達。
    白銀の紋章を胸に抱く、幾本もの猛き剣。
    本当に、良く……良く働いてくれたと、そう思う。
    ギルドールは視線を最前列、マルク・レンシスへと向けると、彼は僅かに口元だけ笑んでみせ、
    最初に剣を抜いた。

    そして、その剣をギルドールが剣を向ける先へと掲げると、背後にいる騎士団員全てが剣を抜き、同じように掲げてみせた。

    幾万もの、剣の輝きが、まるで白銀がそこにあるように、陽の光を受けて輝いている。

  • 「……ありがとう。
     そして。行こう。

     栄光は常に、我らと共にあったッ……!!
     此度の戦にて蹂躙されし降り我らは折れしただの鋼となったかッ!!
    -- ギルドール
  • 否ッ!!』 -- 白銀騎士団
  • ――輝きし黄金は我らの手にあらずッ!! 万輝たる栄光は守りし民の手の中にッ!! -- ギルドール
  • 故に我ら白銀騎士団ッ!!
     幾千の剣の煌めきに在りッッ!!
    』 -- 白銀騎士団

  • 「向かおうッ!!
     ――我らの栄光を、取り戻す為にッ!!!」
    -- ギルドール


  • 黄金歴226年、5月。

    統一連合軍12万対大爛帝国軍8万。
    戦線を推し進めようとする帝国に対する、命運を賭けた掟破りの城塞奇襲戦が、始まる。

    後に語られる――『ゾド要塞包囲戦』の始まりであった。
  • 【 12 】
    • 時を遡ること、10年余り。
      まだ、フリストフォン・ラヴェル・フォランがその名でも、退屈王の名でもなく、本爛とそう呼ばれていた頃――。
      ローディア連合王国と大爛帝国の間に、一つの密約が存在した。
      それが茶番であることをローディア連合王国の長も、大欄帝国の長も十二分に理解をしていた。
      故に秘密裏に調印されたその仮初めの和平は、握手という近い距離を以って相手の懐を探りあうような緊張感の中に結ばれる事になる。

      この密約に名前や法的拘束はない。
      そもそもが表面上に出ない形での不可侵の約定など、互いの国柄を鑑みても切れぬ鋏よりも益しがたい代物に過ぎなかった。
      • そこにはまず、緊張があった。
        常人をすれば息すらままならぬ程張り詰めた空気が横たわっていたと言える。
        思えば、余人を寄せなかった事をすら、この二人の王にとっては配慮であったと言っても過言ではない。
        二人の王が交わした言葉は少なく、時間にして小半時もなかっただろう。
        その会話には無駄はなく、贅肉を完璧に削ぎ落とした実利のみを求める言葉のみが飛び交った。
        会議というには余りにも軽く調印され、互いの表向きの利を明確にし、双方の合意で終わる、理想の施政がそこにあった。

        だが、その無駄のない会話の端々で、表層にけして浮かび上がらない裏の意図を持った言葉によって、静かに二人は傷を付け合っていた。
        致命には至らないが、切った傷口からは血が漏れる。それは情報という国の中の命脈を流れる血潮だった。

        彼我は、皮肉にもこの和平が結ばれたより前より、互いに既に敵が誰であるかを見定めていたのだ。
        故に、次に見えた時には、正確にその牙が相手の致命の位置まで食い込むように、その距離を正確に計るためにのみ、その交渉は結ばれることになる。
      • 仮初の不戦の約定には人身御供が捧げられた。
        突飛なように見えて、双方の「表面的な価値観」に於いて実利の有る選択であったと言える。
        捧げられた人身御供の名を本爛と言い、後にフリストフォンという名に於いてローディア連合王国の西方の施政を任される若き才子であった。
        本爛という子供は、幼き頃より帝王学を学び、その学んだ帝王学を存分に振るえる程の稀な才覚を修めていた。
        実しやかに囁かれる、次期皇帝の言葉も、彼を実際に両の眼にて見た後に異を唱えようと思う者はいまいと、誰もが思う程の鬼子であった。

        帝国に取ってはその虎の子を手放し、相手に委ねる事によって、不戦の証明にしようとした。
        ましてそれが寵児たる本爛その子とあっては、多数の爛を産み落としている帝国の「ままならなさ」も説得力として手伝い、無碍に踏みにじる真似はすまいと。
        人の盾という考えに基づいて考えれば、これ以上にない程の適材であったと言える。
      • ローディアに取って、その帝国の寵児を受け入れる事は、その事自体が不戦の約定となった。
        彼我の実力を測りかねている中で、身中に獅子を飼うようなその行為こそが、相手への信頼となると考えた。
        加えて、表面上の意の上で、次期皇帝と囁かれるそれを内側に招き入れる事により、ローディアの価値観を得た男が皇帝となることは喜ばしいと嘯いても見せた。
        その言葉のどれにも、アランドロス四世という男の狡猾さは伺う事が出来ない程、彼の思惑は深い所で丁寧に折りたたまれたままだった。

        その会合の前、たった一度だけ、ローディア国王は件の本爛という少年と面会をしていた。
        よもや、気づくまい。
        そのたった一度、一目見たその時に既に、彼の王は本爛という男の本質を見抜いていたのだ。

        故に、帝国がこの白眉の少年を何故手放そうとしているかも、完全に理解をしていた。
        だからこそその後の西爛戦争を、この時の王は見越すことが出来ていたのかもしれない。
        本爛という男の本質が、王が見抜いたそれと全く同一であるとするならば――それを自らより遠ざけておくことは、それ自体が和平約定が何の意味も成さないことの証左であったからだ。
      • だがこの時、帝国の皇もまた、自身の思惑が彼の王によって見透かされている事を知っていた。
        盤上で指す手ではなく、その机の下の刺し合いに於いて、彼我の実力の差は眉間の間程の距離も無い程に互角であった。

        その思惑を見透かされていて尚、その仮初の和平約定を是としたのは、彼をして帝国の勝利をこの時点で確信していたからに過ぎない。
        相手が身構えようが、策を弄しようが、正着の手さえ打てば最終的には自己が勝利を収めるという帝王の自負がそこにあった。
        それは尋常ならざる不敵であり、
        故に彼は帝国の皇であった。

        また、そこには更に見抜かれざる裏の手すら存在していた。
        例えローディアの王が本爛という男の本質を見抜いていたとしても、本爛という男を身中に置くことの毒が、予想以上の効果を齎すのではないかという思惑があった。
        過大評価でも過小評価でもなく、ただ、その男はそういう存在であるのだと、彼を産ませた男は本質的に本爛という男を理解していた。
        あれはただの人の形をしているだけの何かに過ぎないことを知っていたからこそ、それを覚悟で飲み込もうとする王に笑顔で味を尋ねるだけの余裕があった。

        互いの思惑は幾筋にも錯綜し、故に観測された事象からではこの程度のことしか読み取れないが、そこには二つの国という怪異が喰い合う、
        この戦争に於ける最初の地獄が存在していたと、そう言って過言ではないだろう。

      • 「故に。
         見る者はその角度によって、この劇を茶番と見る事が出来るということは……腹立たしい事なのでしょうな。
         個々の物語が紡がれていると演者は思ってはおりますが、この劇にはそれより遥か以前に書かれた台本に沿って進行されているに過ぎない。
         私も、或いはその台本を最初に執筆したであろう者すらその軛から逃れられず、等しく客を愉しませる舞踏に成り果てている」
        -- フリストフォン西方王

      • 本爛。またはフリストフォン西方王は、静かに告げる。
        それ自体が何かの劇中であるかのように仰々しく、踊る人形のように。
        客は一人。
        長い赤絨毯の先、雄々しき玉座に腰を掛ける一人の老人。
        遠目に見て尚、老いて尚その人の身に余る威を背負った男が、ただ退屈な劇を見るような視線で、フリストフォンを見下している。

      • 「さぞ退屈な劇であったでしょうな。
         世界で一番興味の沸かぬ本とは、自分で著した本であると、私も思うからです。
         それが例えどこまで思惑通りに行ったとしても、あくまでそれは想像の範囲をけして抜け出すことが出来ない。
         思考しうるものしか著することが出来ないという単純にして絶対の論理が根底に存在している限り、自分で書いた台本が自分を驚かせてくれることは、けしてない」
        -- フリストフォン西方王

      • 一歩、また一歩と、フリストフォンはその長い謁見の間を踏み進める。
        ローディアに来てこれより幾年、偽りではあったが忠誠の仮面を被っていた男にとって、その歩みや表情はアランドロスをして彼の見たことのない表情ではあった。
        何故か、などと問うような愚は犯さない。
        王にも、理解は出来ている。もはや、フリストフォン、本爛という男は、自分を前にして仮面を被っている必要がない、それが故だ。

      • 「或いは、貴方をしてその思惑の上で私という毒を呑むことを是としたのかも知れぬと思うと、薄く笑いも出ましょう。
         もはや『私が殺すまでもない』形骸と化した貴方には、刃を以って終点を打つ程の価値すらない。
         末期は必ず私の刃で、と……そう思いながら笑顔を浮かべていた孝行な義息子ではありましたが、不敬ですが、勝手に御死に下さい。
         この国の、薄氷が如き栄光の礎となって」
        -- フリストフォン西方王
      • 憎んでいたわけではない。フリストフォンという男の胸の内に、そのような感情は存在しない。
        ただ、自分を手駒として一時期でもやり取りをした人間に終わりを告げるのは自分を於いて他に存在はしないと、そう思ってもいた。
        だが、刃は振り下ろされる前に、その毒で王の生命を奪いつつある。

        不揃いな勢力による敗戦色濃厚な空気。
        柱の王を是とせざるを得ない状況による自己犠牲の風潮。
        度重なる積み上げられてきた失態の責の所在。

        刃は振り下ろされるまでもなく、その周囲の全ての足場を崩壊させていた。
        残るは玉座のみ。
        玉座の主を殺すか、それ以外の全てを殺すか。
        それ自体は、フリストフォンにとっては、どちらでも良かったのだ。

        だからこそ東方王の敗走を見越して尚箴言をせず
        加えて柱の騎士の技術完成に積極的に関わり、それを美談として謳った
        結果として、最後に残った選択肢は、どちらに進もうが足場が存在しない、詰みの一手となった。

        王もそれを理解していた。
        そしてフリストフォンも王が理解していることを、理解していた。
        その確信の決め手となったのは、東方王の軟禁勅命が下ったという事が、フリストフォンの耳に入ってきた時であった。
        この戦況に於いてその行動を取る理由はたった一つしかない。彼の利による計算で王がその一手を指す思惑や行動は、それ以外考えられなかったから。

      • 「この感情を。
         ヴァイド曰く、愉悦であると……そう呼ぶそうですよ。
         貴方に残された道は、その身を犠牲にした采配、それ以外残されていない。
         柱の王で是とした人身を犠牲にしてきた貴方の采配が、貴方をここに連れてきたのだ。
         縄を用意したのが私であっても、それで首を締めたのはご自身であることを、正しく理解されておりますでしょうか、王。
         昨今の空は晴れ晴れと広かろうと思います。
         故に、それを地上から眺める身としては――さぞそれは雄大に映るでしょうな、と……今から楽しみですよ、王」
        -- フリストフォン西方王

      • 最後の采配は、既に決まっていた。
        人の身を以って人の怨霊の化身となってまだ足らぬのであれば。
        人の身を以って、人ならざる姿に代わってしまえば足りる。
        もはや勝算がそこにしかないことを、その場に居る二人の男は互いに理解していた。

      • 「或いは……それすらも、台本の上のそれであると嘯かれるおつもりでしょうか。
         幾年前、私を約定として結ばれた和平の際に互いに合作にて執筆されたこの筋書きには、ここまでを正しく書き記しておいででしたか?
         だとすれば、私こそ滑稽な道化に過ぎませんが……またそれも私にとっては『どちらでもいい』のですよ。
         どちらだって、私は愉しめる。ただ、それだけの事なのです」
        -- フリストフォン西方王
      • 「……喜悦か。
         面白きことを言う」 -- アランドロス四世

      • 置物のように動かなかった老人が、そこにきて初めて若き王に言葉を返した。
        広い空間の中、静かに呟いただけの言葉がこれほど耳に、胸に届くものかと、フリストフォンは少しだけ感心した。

      • 「まるで、新しき玩具を与えられた稚児であるな。
         ……見るに耐えん」 -- アランドロス四世
      • 「稚児の策謀によって、今その席に座りし王よりの言葉、ありがたく頂戴いたしましょう。
         義父上」
        -- フリストフォン西方王
      • 「――足りぬ」 -- アランドロス四世

      • アランドロス四世は静かに玉座を立つ。背丈はそれ程高くないにも関わらず、その姿には一種の威圧感がある。
        短く切った言葉が、静かにフリストフォンを蝕む。まるで蠱毒のようにじくりと、深く。

      • 「お前は。足りぬのだ、本爛」 -- アランドロス四世
      • 「……意を、汲みかねますな。
         抽象的な言葉を弄す小細工でその座を勝ち取ったわけではありますまいに」
        -- フリストフォン西方王
      • 「何もかもだ。
         そしてお前は、生涯、その足らぬ何かを埋める事はできぬ。
         充足を知らぬまま朽ち行くだろうな」 -- アランドロス四世
      • 「それは。
         王を以って仰られた進言にございましょうか」
        -- フリストフォン西方王

      • そのフリストフォンの問いを聞き。

        ――国王は。
        あろうことか、そこで小さく口の端を持ち上げて嗤った。
        誰の目から見ても、嘲りであると分かるような、侮辱的な笑みを。

      • 「礼だ。
         愉しませてもらった。
         王の身にあって、実に愉しくあった日々への、些細な礼に過ぎぬ」 -- アランドロス四世
      • 「興じられましたか。それは、結構」 -- フリストフォン西方王

      • 「本爛という、醜悪。
         身辺に置いて愉しむには足り過ぎるという皮肉が。
         ――最期まで私を愉しませるとはな」 -- アランドロス四世

      • その言葉は、フリストフォンを芯から冷えさせた。
        一瞬で表情から温度が消え、灼熱の瞳から光が失われる。
        その時感じた物の正体を、当時のフリストフォンは何か理解することが出来なかった。
        或いは隣にヴァイドという彼の理解者がいれば、懇切丁寧にそれが怒りであると教え得たかもしれない。

      • 王は玉座を降り。
        そして引きずり下ろした男とすれ違う。
        片や笑わず、片や嗤いの中にありながら。

      • 「貴方が真の王であったことは。
         私がフロフレック公にしたように……再び謳いましょう。
         飾り、誉めそやし、この地の肥やしとなるように」
        -- フリストフォン西方王
      • 「苦労。
         遅きか早きかの違いに過ぎぬのであれば、
         その徒労に疲れた顔が再び黄泉路の私を愉しませるであろう」 -- アランドロス四世
      • 「やはり貴方は。
         ……私が殺したかった」
        -- フリストフォン西方王

      • その言葉に、最早すれ違ったまま迷わず歩を進める王は、高らかに嗤い声を上げた。
        心の底から愉しきを表すような、死の選択が間近に迫っていて尚それ以上の喜悦を抱えているような。
        そんな快活な笑声であった。
      • 王も、フリストフォンも、皮肉にも同じように。
        互いを一度も振り返りはしなかった。
  • 【 11 】
    • かくて、黄金歴224年。
      ローディア連合王国の勝利への執念と敗北への怨念の結晶とも言える柱の王は大地に立つ事になる。
      肉と魂を供物に捧げ、悪魔と契約するかの如き異形の闊歩は、帝国兵の精神にすら異常を来たす程の蹂躙を戦場に齎した。
      皮肉にも、この技術と犠牲の相互提供によって神国アルメナとローディア連合王国の繋がりは強固な物となり、
      水面下に張り巡らされていた様々な密約が、一度水に沈めるという手間を省いた形で机の上にカードとして行き交う事になった。
      それは同時に、この戦争に対しての思惑がローディア連合王国内でも『利権』と『封建』という大きく二つに分かれていることの証左でもあったのだが、
      今はまだその双方が仲を違えるほどの利害関係になかったことから、その問題だけはまだ水底で血を流し続けるだけの傷でしかなかった。

      • 前者にとっても、後者にとっても都合がいいという単純な理由によって、「柱の王」という犠牲は美談と飾られた。
        弁の立つ者はこぞってこれを「忠誠による自己犠牲」であると謳い、人々の悲涙と憤怒を的確に煽り立てた。
        巧妙に流される歌声は誇り高き騎士たちの名を風説の中に忍び込ませ、我も斯く有りという熱き勇の炎を奮い立たせると同時に、
        その犠牲によって戦況が大きく一変した、という極めて冷たき計の熱をも人々の心に灯すことになる。
        侵略戦争に於いて、「奪われる側の疲弊」という物は如何に彼我の戦力差があろうとも必ず生じる「不公平」であり、必然である。
        それが、力すら目に見えて拮抗していれば、士気の下落は何らかの火を灯すことによってでしか、暖を取ることが出来ない程に温度を失っていくものだ。

        皮肉にも、その技術が彼らの騎士道から掛け離れた悪魔の所業のそれであったとしても、
        疲弊状態にあっては、泥水で潤った喉すら前に進む力に変えるしかないという切迫によって、
        柱の王は後々にまで語られるであろう献身の姿として叙事詩の中に刻まれることになる。

      • 年が明けて黄金歴225年。
        戦場に身を置く者、そしてその戦況を眺める者達は、柱の王という存在を大きな精神の支柱とすることで心を束ね、東を見据えることになった。
        が、その一方でローディア国内の情勢は大きく荒廃する。
        施政の矛先が東に向いたことで、自国内の水銀中毒や竜害といった様々な問題に大して、ローディアの民は己の力で立ち向かわねばならなくなった。
        水銀中毒に対する理解の少なさにより、疫病であるという風説が流れ、幾つもの集落が消毒という名目で犠牲になるといった被害まで出てくる。

        この問題に対して、国王・アランドロス四世は自らの責任を以って『第二次バルトリア憲章』という形で答えを返す。
        全11章に及ぶ条文を掻い摘むと、傷口に対して処置を行う形ではなく、病巣である帝国を打ち滅ぼす事によって国内問題を解決しようとしたのだ。
        自国内の問題対処に当たっていた各諸侯もこの憲章を元にすることによって、自らの指示や責任の下ではなく「国王が制定した国政」という名目の上に、国内問題を棚上げすることになる。
        ある種、これはローディアという国にとっても一つの賭けであったことは事実だろう。
        事実、その後開かれる第二次バルトリア会戦に於いて、国王は自ら剣を採るといった最終手段にまでその身を晒す覚悟を、この時点で胸の内に抱いていたのであろう。
        が、故にその国政が裏目に出た場合でも、その責務を次代に引き継がぬよう、憲章という形で明文化しておきたかったという思惑も、そこには見え隠れしている。

      • 「……なん、だと」
        -- ギルドール

      • ――ローディアには、会戦してから二度目の冬が訪れていた。

        戦場より帰ってきた凍えた手を温める間もなく、その報告はギルドールの芯を静かに冷えさせた。
        と、同時に、胸の内に言いようのない熱がこみ上げてきて、報告を上げてきた男に温厚なギルドールをして矛先の違う怒声を放ちそうになるのを堪える必要すらあった。

        その報告は。
        この非常時に於いて。
        ――ウィルロット・フレデリック・アーヴルヘイム東方公領主の軟禁命令が下されたという報であった。

      • 返す刀東方王施政室へと足を運ぶと、従者がそのギルドールの形相を見て尋ねるまでもなく口を開き、事情を説明し始めた。
        余程、自分は憤懣遣る方無い表情をしているのであろうなと、話を聞きながら自省する。

        要約すると、以下の通りである。
        当初、それは軍権を移譲した上で自領内待機命令という形で下された勅命であったという。
        よりにもよって、それは勅命という形で国王アランドロス四世より下された命であった。
        この戦況に於いて、自国内待機という行為は最早この時点で軟禁であるとしか言いようがない。
        丁寧に軍権まで毟られていれば、この国情に関わるなという明確な言葉と何ら変わりはないだろう。

        当然の流れで、勅命を不服としたウィルロットは抵抗を試みるため、ローランシアに陳情に赴くことになる。
        そこで、一悶着あったらしい。国王に対しての絶対の忠誠を誓っていた東方王であったが、この時ばかりはその箴言に熱が篭りすぎていたと言う。
        溢れだした熱は玉座に火を灯しかけ、騎士王をしてアランドロスの近衛兵に力で捻じ伏せられるような事態まで起こったのだという。
        聞くだに、そして聞く内にギルドールの背筋に冷たい物が流れるような感触があった。
        余りに荒唐無稽過ぎて、脳が少しばかり理解を拒む程には。

      • 理解は直観に委ねる。
        かつて、近衛隊に籍を置いていた頃、ギルドールが騎士王より賜った言葉であった。
        直観しうる慧眼と直感しうる頭脳あっての話であったのだろうが、その言葉はギルドールの人生に少なからず影響を与えた。
        風説や噂に惑わされず、ただ己の眼と思考のみを信じればこそ、かの騎士王の様に惑わずに己が道を進む事が能うのだろうと、そう思わせてくれた。

        だからこそ。
        彼は、全ての事情を飲み込んだ後。
        真っ直ぐに、ウィルロットが軟禁されている部屋へと、足を運ぶことになる。

        白い、小さな部屋だった。
        鉄格子でもあれば、その足が錠にて繋いでありでもすれば。
        義憤に駆られて剣を抜き、一太刀にその戒めからを解き放とうと思えたかもしれない。

        だがその部屋は、外から眺められる事以外は普段の彼の施政室と何も変わらず。
        かの騎士王を閉じ込めておける程の何かは、存在していなかった。
        部屋を見守る看守が如き王直属の騎士団より派遣された騎士は二人ほど侍っている物の、それが騎士王の何を拘束できようか。
        ――思えば、先の従者の言の中でも、騎士王は王の近衛兵によって「取り押さえられた」という。
        馬鹿な話だ。
        そんなことができる者は、この国にはいないというのに。

        故に、そこに於いてギルドールは気づく。
        目の前で寝台に腰を掛け、項垂れる金色の髪の我が王は。

        ――自らの意思で、そこにいるのだと。

      • 「……王」
        -- ギルドール

      • 小さく呟くように呼ぶと、その言葉にようやく意識を取り戻したかのように、ウィルロットは顔を上げる。
        寝ていないのだろう、騎士王をして若干の疲れがそこに見えた。
        何かを言い掛けるように口を開いたが、小さく息を零し、ウィルロットは再び視線を少しだけ下に落とした。

      • 「何故……このようなっ……!」
        -- ギルドール
      • 「……良い。
         怒りを治めよ、ギルドール」
        -- ウィルロット東方王
      • 「ですが……御身に於いて処遇を認められておるとはいえ、余りにもな所業ではないですか。
         騎士王……」
        -- ギルドール
      • 「不要と」 -- ウィルロット東方王

      • そこで、小さく騎士王は言葉を切る。
        両手の指を編み、膝の上に乗せて呟く。

      • 「この戦に於いて不要であると。
         ……それが、我が王の言である」
        -- ウィルロット東方王

      • 言葉を失う。
        同時に、掛けるべき言葉が、何処を探してもギルドールには見つからなかった。
        先の陳情の場にて、騎士王が貫かれたのはその体ではなく、心であったのだと、ようやく裏付けが取れた。
        その、一太刀で切り捨てるような言葉は、我が身を省みぬ程の騎士王ウィルロットの忠誠ごと、行動すら千々斬れさせていた。

      • 「納得は、して居らぬ。だが、此れが王の命であることも、事実。
         故に……詮なきことと膝を抱えている余を、笑いたくば笑うがいい」
        -- ウィルロット東方王
      • 「……誰が。
         誰が、笑えましょう」
        -- ギルドール

      • ギルドールの言葉に、ウィルロットは反対に薄い笑みを浮かべた。
        虚空を碧眼にて見据えながら、静かに言葉を返す。

      • 「やはり……貴公という鏡を以って言葉をやり取りすることで、漸く自分がこの事態に少なからず驚愕を覚えている事を知りえた。
         余は。……よもや仕えるべき王によって我が忠義を捻じ伏せられるとは、夢にも思って居らなかったのであろうな。
         幾年月を騎士として重ねて来た我が身より……よもや忠が奪われるとは。
         名目上、先のバルトリアでの采配と方針の相違によって軍権を剥奪される形となった。
         あの様な外法を、余は認める訳にはいかず、また認めぬ事は王の決定に背くことでもあった。この結果は当然の帰結であろうな」
        -- ウィルロット東方王
      • 「その箴言を叛意とすることこそ、義に反する道でありましょう……!」 -- ギルドール
      • 「余とて、今此処に有る事を以って、かの柱の王の技術を是としているわけではない。
         それに、口を慎むがいい、ギルドール。
         その言葉こそ、叛意と見做しかねぬぞ、そこらに立つ近衛の者達は」
        -- ウィルロット東方王

      • ギルドールが右を向くと、扉の左右に侍っていた王の近衛騎士達が静かに視線を逸らした。
        今でこそ騎士王の部屋の番人であるが、普段は王の下でその身を守る宮殿お抱えの騎士達である。
        叛意有りと見做せば、その報告は如実に上へと伝わり、外様よりウィルロットにて再徴兵されたギルドールの立場など、吹けば飛ぶ紙の如き軽さで机の上から羽掃き落とされて終いだろう。
        だが、部屋の中のウィルロットに向かい、ギルドールは言葉を続ける。

      • 「その様な騎士王らしからぬ物言い、老兵の耳には余りに遠すぎましょう。
         御身の振る舞いにあってもそうです。義を挫かれ、忠を捻じ伏せられたが故にこの狭き部屋で正しきを成さぬことは、
         誰でもない、貴公を以って私に仰られた「成さぬ正義による悪」ではないですか」
        -- ギルドール
      • 「成さぬのではなく、成さぬを成しておるのだ。ギルドール……。
         王は仰られた。この国を真に思うのであらば、騎士王は以って剣を引くことこそ真の忠であると。
         その目に嘘偽りはなかった。私が戦場になくしてでも、かの王はこの国の民に勝利を齎すと約束してくださった」
        -- ウィルロット東方王
      • 「では、貴公の下で再び剣と成ることを誓った我が身はどうなりましょうか……!
         共にその身を剣としてこの国の開闢と成ることを約束されたではありませぬか!」
        -- ギルドール
      • 「貴公は此れより、我が下を離れ、統一軍という形でバートレッド北方王の指揮下に入るであろう。
         指揮系統も彼奴の手腕を以ってすれば連携の一つも取れよう。
         忌々しき事にあの野獣は、この事態を知った後、我が剣の代わりにこの国の先を勝利に導くことを自らの騎士道に於いて誓って行った。
         ……死なさぬ事、というあの男の騎士道に従いて、この国を救ってみせるとな」
        -- ウィルロット東方王

      • その全てを飲み込んだ訳ではないが、そこまでの誓いを無碍に出来る程知らぬ仲ではない。
        言外にそう伝える騎士王の顔にギルドールは、僅かだけ普段は持ち得ない人間性のようなものが垣間見えた気がした。

        だからこそ。
        そこにおいて、それだけは許す訳には行かなかった。

      • 「違いましょう。
         ……騎士王、貴公をして、先の箴言でこのような形の処遇を受け入れた御身であるのであらば、
         今からする箴言が真の忠義によって発せられた物であることを、どうか考慮に入れた上でお聞きください。
         我が王。
         貴公の有り様に於いて、その振る舞いは間違って居られる。
         折れず、曲がらず、ただ嵩くあった貴公の有り様と、今の御身の有り様は、余りにも掛け離れておられます。
         ……こんなもの。騎士王らしくないではありませんか」
        -- ギルドール
      • 「……聞こう」 -- ウィルロット東方王
      • 「自ら正しきを以って剣を振る事こそ、剣を持つ者が負う責であるとするならば、
         例えそれが主君の命であっても、行動にしろ言動にしろそれに是と返す事の……何処に忠義がありましょう……っ。
         弱き民の代わりとなって強き剣を振る者が、自らの意思を貫かずに阿るのであれば、弱き者は誰に縋ればいいのですっ……!」
        -- ギルドール

      • それは、それこそが縋るようなギルドールの言葉であった。
        この戦乱に於いて、騎士王は自分に栄光も汚泥も等しく与えた。
        自らの剣の正しきを以って敵を駆逐する命を与え、退却を命じた罰を咎め、国内の平定に尽力させた。
        正しき思想と正しき道の上で剣を振れる事は、暗部にいたギルドールに取っては痛む傷口を治す為の療治にすら思えていた。

        故に、許せなかった。
        その騎士王が信じた道を、騎士王自身が歪めようとしているその行為に。
        その道に沿う事を決めた身でありながら、傲慢に抱える矛盾を棚上げし、それでもその愚行で以って王が正しさを取り戻すことを期待しながら、王へと叫ぶ。

      • 「騎士王、貴公が正しき道でなければ、私は再びこの地で剣を取ることはなかった。
         暗謀の血で汚れた体を、自らの身体から出てくる血潮にて禊ぐ機会をお与えになったのは、騎士王、貴公ではないですか……!
         その貴公が、このような場所でただ座している事が、私には許しがたい裏切りだ……っ!
         貴公の下でのみ、私は銀髪の死神でなく、白銀の騎士として剣を振れるのです……。
         どうか。
         簡単に、その膝に土をつけて下さるな……騎士王」
        -- ギルドール
      • 「中々に。
         厳しく痛い事を言ってくれる。ギルドール。
         ……少しは、昔の勘が戻ってきたと見える」
        -- ウィルロット東方王

      • 騎士王は小さく笑い、だが座したまま言葉を返した。

      • 「全て……貴公が、私に下さった価値観であり、言葉ですよ。
         そして、その意思を引き継いだ貴公の騎士たる『白銀の騎士』の言葉でもあります。
         ……騎士王。戦は、まだ終わっておりません。
         貴公がそこにあるとお決めになったのであれば、臣下たる私は何も言いますまい。
         ただ、貴公が信じた騎士道が備わっているこの身は……その意に反して同じ志を胸に進みましょう」
        -- ギルドール

      • その言葉に。
        ウィルロットという個人は、小さく笑みを浮かべてしまう。騎士王という名の形骸化した騎士道の塊が最後に持っていた人間らしさが、静かに口元を歪めた。

        バートレッド。
        これが、余が歩んできた道に依って紡がれた……余の同胞にある。
        余に従うのではなく、余の信じた物に従う、志を同じくする……同志である、と。
      • そこに、何の孤独を感じよう。
        そこに、何の無謀を感じよう。
        余がいなくなった後も、その志を持つ者達が続く限り、その正しさは生き続ける。
        開闢した道の上で笑う者達の心に、少しずつ居ることが出来るこの誉は、騎士としての本懐にあろう、と。

      • 「では、命じよう。
         ――余が騎士、白銀のギルドールよ」
        -- ウィルロット東方王

      • ウィルロットは静かに立ち上がり、だがその足を何処にも踏み出さずに、両手を広げる。
        その動作に、扉の前の近衛兵達が剣の柄に手を掛け、僅かに緊張が走った。

        その横で。
        ギルドールは、静かに膝を着いた。

      • 「不甲斐なき余が身に代わりて、余の騎士道を成せ。
         貴公、白銀の騎士の下に、余が騎士道を遣わす。
         余の正しさを――その身で証明してみせよ」
        -- ウィルロット東方王

      • それは傲慢で。
        不遜で。
        不敵で。
        雄々しい。

        ギルドールが信じ、忠義を尽くした彼の王。
        騎士王の有り様を体現したかのような言葉であった。
        その言葉の重みと、それを言わせる無念すら胸中に全て飲み込み。
        ここに於いて産声を上げた白銀の騎士としてのギルドール・アートソンは。
        かつてあった栄光と挫折の上に風雨を受けながら再び苦難を踏み越えた身で。
        他ならぬ、自らの忠義によって、応える。

      • 「――御意に」
        -- ギルドール
  • 【 10 】
    • 「同。司祭にて騎士を取ります」 -- フリストフォン西方王

      • 黒の王を前にする西方王が、盤上の黒駒を長さの割に細い指で取り、代わりに中指と親指で器用にその場にいた騎馬を模した駒を盤上より取り上げる。
        9x9という狭い盤面であったが、そこには幾つもの思惑の錯綜があり、それが爪痕として互いの陣営に傷をつけていた。
        齧り立ての者など、その盤面が何方の有利にあるか、初見では分からぬ程に複雑な絵柄が、その戦場には描かれていた。

        白の王を前にする老候ロレンツ・フロフレックは皺を撫でるように顎に手をやり、片方の眉を上げた。

      • 「……見事にございますな、西方王」
        -- ロレンツ候
      • 「世辞はせめて、退路なし、打つ手なしと思われてからにしていただきたいものです、老候。
         褒められた上に負けたとあらば、私の立つ瀬がない」
        -- フリストフォン西方王
      • 「失敬……。
         盤の上では対等の立場にございましたな。……G・8、兵を前に」
        -- ロレンツ候

      • その一手は、僅かではあるが、退屈王を愉しませた。
        牙城に攻め入られ、陣形を崩された上であえてそれに対処せず、苦し紛れの攻めを始めたようにも見えるそれは、
        その実、白の王たる老候の思惑を計ることが出来ない不確定さが、舌先で甘く広がるのを感じた。

        盤上の遊戯。
        戦棋と呼ばれる遥か東方の遊戯を、自国に擬えて駒を変えた、チェリスと呼ばれるそれを前に、両者は互いの意図に一喜一憂を重ねる。
        西方王が自身の黒き司祭の駒に触れ、その輪郭を指でなぞる。

      • 「F・4。司祭を前に」
        -- フリストフォン西方王
      • 「塔兵を南へ。F・8」 -- ロレンツ候
      • 「では、此方も迎え撃ちましょう。塔兵を北へ」 -- フリストフォン西方王
      • 「これも、思惑通りということであれば、尚更面白きことにありますが……。
         如何でありましょう、西方王。G・3にて。騎士を送ります」
        -- ロレンツ候

      • 盤面の趨勢は、やや白の王を操るロレンツに傾いたと言える。
        騎士を捨てることにより、兵が先へ進む道を何人も塞ぐ事が出来ない。対処をしようにも、次の一手にて騎士を跋扈させれば、兵の進撃を待たずして勝負は決する。
        その、らしき一手にフリストフォンは小さく嗤い、正着の手を重ねた。

      • 「いえ。よもや、この盤面を見越して居られたとは……良き勉強になりました。
         同・女皇にて再度騎士を取ります」
        -- フリストフォン西方王
      • 「いただきましょう。これより戦場へ向かう老兵への手向けとして。
         G・9にて。兵を賢龍とします」
        -- ロレンツ候

      • ロレンツが自身の白駒に触れると、内部の絡繰り機構が作動し、内側より龍を模した駒がい出る。
        それは盤上の勝敗の決定を意味するところに近く、互いにその理解があるのか、二人の間に弛緩した空気が流れた。
        盤上の攻め入られた牙城に苦笑をしながら首を振り、フリストフォンは静かに負けを認めた。

      • 「互いに悩み多き立場ゆえ、遊戯にも勘が鈍りましょう。
         この老公をして手繰る此度の戦場も、この様に上手く行けばよいのですが」
        -- ロレンツ候
      • 「謙遜めされるな。それは貴公とて同じことであるならば、盤上は常に対等のそれでありましょう。
         正しき手により、勝利を得られるは道理。……私をして、成せぬ手を、貴公の手によって成せることもありましょう」
        -- フリストフォン西方王

      • その言葉に、ロレンツは僅かに表情を緊張させる。
        そして、遅まきながら気づく。この時期に、西方王たるフリストフォンが此方の軍議の合間を縫って、一局を申し出てきたその理由を。
        バートレッドに阻まれた雪辱を、ということで呼び出された対局であったが、やはり意図は別のところに。
        ……そして、余りにも明白な場所にあったと、老兵の僅かに霞んだ瞳でも、明瞭に見ることが出来た。

      • 「識って、おられましたか、西方王」
        -- ロレンツ候
      • 「寡聞な身であるが、西方を治めたる立場である故、飛語の一つも耳にも入って来る立場にありますから。
         貴公もまた、その器ありという事実にも、フロフレックという裏打ちがあれば驚かずにも済みました。
         が、まだ、是非を返しておらぬのでしょう。……心中、察して余りあるところがあります故、遊戯にて気の一つも紛れようかと」
        -- フリストフォン西方王
      • 「――柱の王と。
         そう、称されるようですよ」
        -- ロレンツ候

      • 決定的に、深くまで踏み込んだのは老候であった。
        その顔には僅かながら皮肉に似た感情や、諦観に似た感情が含まれていることを、フリストフォンは見て取っていた。

        先のバルトリア会戦が時、両国を蹂躙せしめた死者により形作られた異形。
        戦場が生み出し、怨嗟で形を成したそれを、我が国では誰が称したか「柱の騎士」と呼ぶようになっていた。
        数々の歪によって自然発生したそれを、この国は貪欲にも、戦力とする方法を模索し始める。

      • その強行の裏には諸外国より確たる技術提供があったことを、フリストフォンは知り得ていた。
        アルメナやスリュヘイムより提供された技術は、その青写真を明々白々な現実として戦力として構築することを、人外の倫理にて可能にする。
        ネクロマンスに関してこの二つの国がローディアという触媒を通じて一つになることをすら、歴史の上では稀であったが故の大業であったとも言える。
        ただ、そこには余りにも人としての論理を超越した代償を必要としていた。
        その代償を見てすら、恐らくこの二つの国が技術を提供し『柱の騎士を人の思惑で動かす』という計画に、その両の国の学術的興味が絡んで来ていたことが、見て取れる程にそれは醜悪な技術であった。
        それは、偏執とも言っていい程、人命を玩弄する神の超越者でなければ振れない賽であったろうから。

      • 「人身御供とは。
         此れを忠義や封建と称するか否かは、今を以ってしても計りかねますな」
        -- ロレンツ候

      • 代償は、人の生命であった。
        生命なき傀儡を動かすことに、また人の生命を重ねて使うという最悪の皮肉によって、その技術は短期間での熟成を可能にする。
        人の中にあり、人以上の精神力を持ち合わせた者であれば、その身を捧ぐことによって、一時的にあの怪異を我物とする事ができる。
        自身の生命を捧げて民を守るという自己犠牲の精神に、死者を弄ぶ二つの国が技術によって付け込んだ結果が、その完成であるとフリストフォンは見ていた。

      • 「その懊悩、誰が責められますか」
        -- フリストフォン西方王
      • 「隠さずとも、良いでしょう、西方王。貴公がここに於いてこの老骨を訪ね来る理由が、催促以外の何かであるはずはない。
         もはや自身にとっても、他者にとっても、正しきは明白であるにもかかわらず、二の足を踏み続ける我が身可愛さこそ恥じるべきです」
        -- ロレンツ候
      • 「私は……。
         あれの技術構築に、初期頃より立ち会っています。
         この国の政を扱う身とあっては、目を背けてはならない凄惨な現状がそこにあったが故です。
         あのような外法に身を落とさねば、民すらも守れぬ身に対する責め苦であると自覚しながら、私はあれを両の眼に焼き付けてきました」
        -- フリストフォン西方王
      • 「王とは、辛き立場にありますな……」 -- ロレンツ候
      • 「それは、貴公程ではありますまい。
         ロレンツ・フロフレック候」
        -- フリストフォン西方王

      • 家名を、名に連ねて、フリストフォンはロレンツの顔を見た。
        突きつけられた刃の冷たさに、ロレンツはその男の本質を見たような気がしたが、あえて目を伏せる。
        そこにあるのは、既に決定したことへの諦観であり、老候をして実感せしむ、自国の現状への。
        彼のフロフレックへの寂寥であった。

      • 「……詮なきことでしょう。あれの行いを愚行などと、呼べるはずもない」
        -- ロレンツ候
      • 「やはり……貴公は憂いておいででしたか。
         かの技術を軍用に転換することを進言したは、ハインス候……貴公のご子息であることを」
        -- フリストフォン西方王
      • 「詮なきことにあります。
         あれの奔放を許したは私の罪でもある。……であれば、その責務を問われるは道理にありましょう」
        -- ロレンツ候

      • ハインス・フロフレック。
        放蕩候と謳われし彼の子息にあって、その短絡な方法が提示されなくても、やがて誰かが口にして、その技術は完成していただろう。
        だが、ここに於いて最初にそれを進言したのが彼であるということも、動かされざる事実であるが故、フリストフォンは何も口にしなかった。

      • だがそれは。
        ――退屈王として、余りにも退屈な正着の手であり。
        それを揺らしせしむことが、愉悦であることを……先のバルトリアの争いの中で、彼は知っていた。

      • ――静かに、悪鬼が、口を開く。

      • 「正直に、申し上げましょう、ロレンツ侯。
         ……先ほど、貴公が仰られたことは、事実です。私は此処に、貴公の……柱の王への志願を催促に参りました」
        -- フリストフォン西方王
      • 「そうでありましょう。
         その覚悟も、既に中にあるが故、身に余る光栄として受け取ります」
        -- ロレンツ候
      • 「それは。虚実の覚悟であると、私には思えるのですが……如何か」 -- フリストフォン西方王

      • 退屈王は、静かに足を組み替え、盤上に右手を伸ばした。
        そこには、先ほどその身を賢龍へと変えた、名も無き兵の駒がある。
        それに指先を置いたまま、静かに嗤う。

      • 「私は職務柄、己の咎に於いてその生命を散らしてきた罪人の顔を、何度も目にしてきています。
         此度の人体実験に於いても、死を約束された囚人を使ってのそれでありましたが故、記憶にも新しい。
         彼らに共通することは、どれほど自身の死を覚悟していたとしても、その末期は生への執着で苦痛に顔を歪ませることにあります。
         誰もが、自身や、まして他者の咎を理由として投げ出せる程……人の命とは軽くないのですよ、老候」
        -- フリストフォン西方王
      • 「……王が……。
         何を仰られておるのか、この老の耳には分かり兼ねますな」
        -- ロレンツ候

      • 僅かだけ、諦観を表面に塗った老紳士の顔が、感情に歪むのを見た。
        フリストフォンは構わずに続ける。

      • 「立ち会ってきている、と言っているではないですか。
         故に、この作戦の一手に掛かる人命の重さについて、私は誰よりもそれを知っている立場にあります。
         重ねられてきた苦悶の声を、絶望の悲嘆を、その耳目に焼き付けているからこそ……手を誤る訳には行かぬのです。
         先ほどの盤面をしてすら、私の愚かしき一手により膠着は崩され、勝敗は決してしまった。
         盤上で犠牲になった全ての駒に、私という王は何を以って向かえば、彼らの無念に贖えるのかすら分からぬほど、愚劣な一手を指してしまった。
         ……現実の盤面の上では、それを行いたくないだけなのですよ、フロフレック候」
        -- フリストフォン西方王
      • 「意図を、計りかねますな。
         西方王、貴公は私の志願の催促を行いに来た身でありながら、私の御供を否と仰られるのでしょうか?」
        -- ロレンツ候
      • 「とんでもない。貴公のその英断、騎士として何処にも恥じぬ決断であると、私をして保証いたしましょう。
         ですが。……それでは不十分なのですよ。老候・フロフレック。
         放蕩候の進言を理由として、その咎として志願をするだけでは。
         ……貴公は、その生命を捧ぐ直前に於いて、自らの生命が惜しくなるでしょう。
         生命とは、尊い物なのですから」
        -- フリストフォン西方王

      • 老候の腹の中に、煮えたぎるような怒りが湧きつつある。
        それを知ってか知らずか、退屈王は両手を広げて挑発するように告げる。

      • 「己が赦されざる罪を行いて尚、死に際にはその執着で以って打ち落とされた首にて空気を貪る人の身で、
         まして他者の罪に対する咎としての覚悟が、生への執着へ勝てるなどという幻想は、私をして抱いてはおりませんからな。
         故に、今の貴公では不当と、そう申し上げに来たまでです」
        -- フリストフォン西方王
      • 「……では、何とされるおつもりでありましょう、西方王」 -- ロレンツ候
      • 「簡単なことですよ、ロレンツ候。
         私が、その老候の尊き生命を捧ぐに値する理由を作って差し上げましょう。
         ……貴公には、お孫様が居られますな」
        -- フリストフォン西方王

      • 一気に。
        老候の顔が歪み、気色ばむ。
        表面に吹き上がった憤怒の炎がその身を立ち上がらせ、口角泡を飛ばしながら叫ぶ。

      • 何を仰られるお積りか、西方王ッ!!
        -- ロレンツ候
      • 「アリシア・フロフレック。
         功績候ではないものの、若くして騎士侯の名を馳せる優秀なお孫様にあらせられますな」
        -- フリストフォン西方王
      • 「まさか……アリシアを、私の代わりに柱の王に仕立て上げる気であるのか、西方王ッ……!!
         余りにも、それは余りにもな采配であられるでしょう!!」
        -- ロレンツ候
      • 「それこそまさかですよ。
         再三「柱の王」に携わってきたと私は言っておるでしょう……?
         彼女が如何にフロフレックの末裔であろうが、あの若さで「柱の王」たる資格はなく、それこそかの怨念に取り込まれて終わりでありましょうな。
         私ならば、それよりも小賢しき使いようを以って、彼女を有用に利用しようと思います」
        -- フリストフォン西方王

      • 薄く笑い、
        方向性を持たぬ邪悪は、静かにその悪意を目の前の老候へと向ける。

      • 「貴公が、以ってその身を「柱の王」へと転じられる際に。
         万が一にでも、結果を齎すことができなければ、あれを。
         アリシア・フロフレックを、私は辱めましょう」
        -- フリストフォン西方王

      • もはや、老候に言葉もない。
        驚愕と憤怒で視界が白濁していくのを感じる。
        構わず、退屈王は愉しげに続ける。

      • 「幸いにして、私という男は今の時点で、彼女に一定の信頼を勝ち得てはいる。その王が命とあらば、候に産まれた者とあれば抗えますまい。
         左様に大舞台を用意せずとも、彼女が実戦を詰んでその剣を技としていようが、或いは大勢で掛かれば準備すら必要ないでしょうな。
         騎士などと呼び囃されている身に、自身の女を理解させるは、その心に堪えますでしょうな。
         抗いがたい暴によって辱められれば、二度と戦場に立つなどという勇も持たず、或いは膨れた腹で生涯を十全に全う出来るかもしれない。
         はは、老候にとっては、そちらのほうが都合が良いかもしれませんな」
        -- フリストフォン西方王

      • 大仰に嗤って見せ、フリストフォンは両手を広げて立ち上がる。

      • 「その想像が余りに非現実で、想いがたいというのであれば、私の手ずから彼女を辱めても良いかもしれませんね。
         幸いにして私をしてその様な振る舞いが出来ぬほど、彼女にただの女としての魅力がないわけでもない。
         子は多く孕める体躯ではないでしょうが、そのようなこと、彼女を一時玩弄する男が気に掛ける必要もないことだ。
         構わずに彼女の尊厳を打ち壊し、辱め、堕とし、やがては或いは鳴かせることもあるかもしれませんな。
         戦場の華であるよりは、手折って脇に飾るを是とする類の花であるほうが、彼女にとっても幸せであるかもしれぬでしょう。
         力なき者を蹂躙することを愉しめぬ男が居らぬように、いつもその危機と隣合わせであることを、痛みを持って教えることも……また此の世に於いて必要なことではないでしょうか、老候」
        -- フリストフォン西方王
      • 「………。
         ……………………そう、か」
        -- ロレンツ候

      • その剣の柄に、既に手は掛かっていた。
        蛮行であれども、そこに正義があれば成さぬを騎士道とは言えないという覚悟で以って、目の前の暗君の首を一太刀の下に斬り伏せようとした、その刹那。
        僅かばかりの違和感が、まるで水面に波紋を広げるように、老候の脳裏に浮かび、その手を止めていた。

        老候は、力を失ったかのように、先ほど座っていた椅子に腰を下ろす。
        その様子を、フリストフォンは両手を広げたまま、見下ろす。

      • 「……この、老兵に。
         この上、そのような理由を、下さるか……西方王」
        -- ロレンツ候
      • 「………」 -- フリストフォン西方王

      • フリストフォンは、静かにその両手を下ろす。
        偽りの喜悦は既に見ぬかれており、余りにも聡明な老人は、その怒りの発露を前にして、静かに腰を下ろしていた。
        ロレンツは、両の手で顔を覆い、怒りに震えた自分を諌めるように、静かに言葉を零した。

      • 「……余りにも。
         慈悲深きことにありませんか、王」
        -- ロレンツ候
      • 「……何のことであるか、分かりかねると嘯くことは、もはやそれこそが辱めであるのでしょうな。
         下らぬ芝居に付きあわせた詫びを告げましょう。
         ……而して、このような形でしか貴公の勇を讃えることの出来ぬ私の愚かさを、重ねて詫びよう。候、フロフレック」
        -- フリストフォン西方王
      • 「……守らせてくれるのでしょう。
         我が孫の、有り様を。この生命に替えることで」
        -- ロレンツ候

      • フリストフォンは、その言葉に僅かだけ渋面を作ってみせる。
        先ほどの高揚したセリフも何処へやら、訥々と言葉を返した。

      • 「……それだけに、留まりません。
         貴公をして決断せしめたその英断によって、この国の全ての民が貴公の抱いた怒りから守られる。
         この戦は、東方から侵略をしてくる蛮族より、その身を守る為の戦です。
         ……力なき者が蹂躙され、辱められることも、また……憂慮すべきことではありますから。
         故に。
         貴公は、罰せられぬ咎の為に身を投げ出したる罪人では、ないのです。
         貴公のその英断によって。
         ……この国の、幾万のアリシア・フロフレックが、護られるのですから」
        -- フリストフォン西方王
      • 「余りに……。
         それは、余りに勿体無き、お言葉でありましょう……」
        -- ロレンツ候

      • 枯れた老候の頬に、絞り出したかのような涙が、一線だけ伝う。
        誰もが言外に責め、誰もが彼の志願を求める中……目の前のこの男は、その英断によって守りたい者を守ることが出来ると、そう告げたのだ。
        そして、最後の言葉は、王として繋いだ。

      • 「重ねて、言おう。私は、この『柱の王』という物の構築に深くその身を携わらせて来た。
         故に、その被験たる貴公の名を辱めるような真似は……けしてさせぬ。
         貴公は咎人にあらず。
         貴公を止めうる力を持たぬ弱き王ができることなど……その程度にしかないことが、口惜しくあるがな」
        -- フリストフォン西方王
      • 「……有り難き、お言葉にございます、西方王」 -- ロレンツ候

      • 渋面に向けて、老候が頭を下げる。
        もはやその心の中に迷いはなく、かつて彼が猟犬候と呼ばれていた頃の輝かしき騎士道だけが、胸の中で燦然と輝いていた。

        退屈王は、思う。
        柱の王は、その崇高なる決意によって、確実な成功を収めるであろうと。

        それこそが。
        自身の本懐であるのだから。

        利を至上とし、その為の正着を打ち続けた、退屈な盤面が――ただそこにあった。

      • ロレンツ・フロフレックは、こうして柱の王と成る。
        彼が、最後にフリストフォンと交わした約束は。

        かつて、彼が本爛と呼ばれていたころに、彼の弟の宗爛と交わしたそれと。
        ――皮肉にも、一言一句同じ約束であったという。
  • 【 9 】
    • バルトリア会戦の結果は、公には双方の退却を以って痛み分けに終わったとされている。
      柱の騎士という第三勢力の出現は、双方の戦の有り様を尽く粉々に破壊し、戦争の体すら取らせぬ問答無用の力によって、互いを敗走せしめた。
      敗者は存在するが、勝者の存在しない戦いの存在は、互いの軍に大きな爪痕を残したまま、束の間の「疲弊状況」という名の冷戦を齎した。

      それを機に、ローディア連合王国国内は混沌とし始めることになる。
      西爛戦争の幕開けと共に国内に張り詰められていた緊張の糸は、そこにきて初めて弛緩をした。
      緩み撓んだ糸は垂れ下がり、剣を持たぬ人の手が届く位置にまで下がってきたことによって、
      ローディア国内の民は一斉にそれにぶら下がり始めた。
      戦争によって齎された特需によって、民同士の貧富の差は持つ者と持たぬ者の溝をより深いものとして明々白々に格差を齎し、
      それに対する不満も少なからず存在していたのであろう。
      互いの違いを理由として国内で同属により争われる意味のない混乱の波は国内で波紋のように広がり、各地で必要のない血の華が咲き始める。
      ついには人種問題にまで波及を及ぼし、此処に於いてようやく国は国内のその状況を治めるために、軍を投入することを決議した。
      この決定は国内の状況を鑑みれば実に遅い決定ではあったが、その背景には各地方候の足並みが揃わず、
      国王への反感や不信が根底に存在すると言われ、誰一人としてその最たる問題に触れることができないまま、場当たり的な対処は行われることになった。

      • 郊外の街で、剣の血を拭いながら、震える手を薬の投与で収める。
        ギルドールは浮かぶ油汗を袖口で拭い、同じ西ローディアの血の流れる反乱分子の鎮静がここまで神経を擦り減らす物であったのかと嘆息した。
        それは、自己の忌まわしき過去にも起因しているのだとすれば、その古き騎士には尚更気が重かった。

        街の様子は騒乱の最中にお世辞にも無事とは言えない。無辜の民がここから平時へと這い上がるには、並々ならぬ努力が必要とあれば、
        この惨状を生み出した原因の半分である我ら騎士団は、恨まれて然るべきではないかという理論が脳裏をよぎる。
        ギルドールの率いる中隊は、かつて彼が率いていたローディア連合王国の騎士団の名をそのまま継ぎ、
        「白銀騎士団」と名乗っているが、バルトリアでの敗戦以来、その誇り高き名を掲げる騎士団が行なっていることといえば、国内の混乱の鎮静のために、同属に傷を作ることのみである。

        かつての英雄が率いるという理由で以って、どうにか団員の士気こそ保たれているものの、
        先の誇りなき傀儡による敗戦の傷に塩を塗るかの如き今の仕事に、不満の声は高い。

      • 「……傷が、痛まれますか、団長」
        -- マルク

      • 声を掛けられ、ギルドールが面を上げると、そこには美丈夫の顔があった。
        少女と言っても、その体躯も相まって10人に1人は信じてしまいそうな、西ローディア特有の鼻筋の通った面貌。
        無骨な騎士団の中にあってこれだけの華は別の危機すら思い浮かべかねないほど傾城の色気を持つ少年の名を、マルク・レイシスという。

        白銀騎士団が結成されるに辺り、かつての名声のみで心を束ねる事はできても、実働の上でそれを一方向に向けるにはもう一つの力が必要であった。
        その為に、騎士王によってギルドールに与えられたのは別隊で既に名を馳せていた若き騎士であった。
        当時、中隊は愚か、小隊ですら率いたことのない若き青年に、一つの機会を与えようという騎士王なりの慈悲であったのかもしれないと、ギルドールは思う。
        彼の若さや階級で小隊を率いればおそらくその能力と働き以上に、必要以上の角が立つ。封建制度の一つの側面が、彼を不出生の天才にしかねない危機感は、常にマルクの若さと共にあった。

        事白銀騎士の下に於いてマルクという青年の実働は完璧なものであった。
        憂慮されていた経験の少なさは、行動の成否によって自信となって裏打ちされ、
        彼の若さへの反感は、壮年騎士「白銀のギルドール」の傘下に収まる事により、その風雨の大部分を飛言として霧散させていた。
        実際彼の先の戦争におけるギルドールの命による退却行動は、中隊長として認められるに値する働きであったと、ギルドールは後に反芻した程だ。

      • 「いや……。
         流石に、傷を負う程に錆びてはいないよ、マルク」
        -- ギルドール
      • 「そう、ですか。少し安心しました。
         小隊による哨戒もやがて終わりましょう。遂行完了後の凱旋です、これが終われば働き詰めの団員も、少しは休める時間もできるでしょうね」
        -- マルク
      • 「そうか。……君の働きには助けられているな。騎士団の長の名が泣いている声が聞こえる程に。
         ……団員の様子はどうだ。君から見て、不平不満はまだ水量として看過しうる程度に波を抑えているだろうか」
        -- ギルドール
      • 「生命あらばこそです。……団長の先の会戦での退却の命がなければ、その不満すら抱くことを彼らはし得なかったのですから。
         名が泣くなどと謙遜をされることこそ、我らの士気に関わります」
        -- マルク

      • その言葉に、古い騎士は僅かに鼻白む。
        すぐにそれが渋面の自分への配慮だと気づき、ギルドールは小さく苦笑を返した。

      • 「王都より遥か離れしとはいえ、滅多な事を口にするものではないな、マルク。
         先の撤退命令は、王の意に背いての、私の越権命令行為に当たる。
         それを、団員の君が肯定してしまえば、責任の所在が私だけのそれに当たらなくなるだろう?」
        -- ギルドール
      • 「……やや。これは失言でありました。以後気をつけましょう。
         ですが、この生命、永らえている理由の所在を詳らかにする自由があるとすれば、それは我らが誇る団長の臆病さにあると私をして思います故、
         きっと心を同じくしている団員が、一定の水量を超える不満を漏らさぬのも、その忠義あればこそではないかと」
        -- マルク
      • 「その様に囁かれているのであれば、団長たる権威を多少なりとも示威せねば面目が立たぬと考えるか、副団長?」 -- ギルドール
      • 「いえ、私をして、貴公が誇る白銀騎士団の副団長であるが故、口を慎む程度の聡明さは持ちあわせております。ギルドール騎士団長殿」 -- マルク

      • 今はもうその作法を誰もが忘れて久しい騎士団式の敬礼をしながら、若き騎士は飄々と言ってのける。
        渋面こそ素面としていたギルドールも、流石にこれには苦笑を我慢することは出来なかった。
        落ち込んでいた気は他者の気遣いにより少しずつ表面的にではあるが浮かびつつある。
        つくづく、上司と部下に恵まれる数奇な運命であるなと、老兵は肩を震わせた。

      • 「ですが……隊を預かる身としても、先のバルトリアでの撤退命令、真に感謝を致すところであります。
         他の隊より損傷少なくして、今を以って自国内の反感の鎮火に勤しめるのも、その命あってこそです」
        -- マルク
      • 「……重ねて言おう。不敬の言にある。胸の内に留めておくがいい、マルク副団長。
         左様に褒められる命であったとは思わぬ。無碍に生命の奪われる様に怯えた私が為に、私が命じた退却だ。外に嫉まれこそせよ、内に褒められる所業ではない」
        -- ギルドール
      • 「咎ありと言われても言わずにはおれませぬ。
         私をしても、貴公を見誤っていたと言わざるをえない。誤解をしておりました、ギルドール中将」
        -- マルク
      • 「それは、「銀髪の死神」として、ということだろうか……?」 -- ギルドール

      • その言葉にすら、ギルドールの胸の内に僅かな疼痛を呼び起こす。
        わかっていて、加えて自責であると理解して尚、まだその傷が軽く触れただけで痛み続けている自己の弱さを恥じた。

      • 「……いえ。「白銀の騎士」としてです」
        -- マルク
      • 「……そのような名、傷顔を得たと同時に、代わりに置いてきた物だ。
         今更、それを名乗ろうなどと烏滸がまし功名心を以って、戦に挑んでいるわけではない……」
        -- ギルドール
      • 「なればこそです。
         清濁共に知る者が操る清にこそ、真の価値があるものではございましょう。
         置いてきたとあらば、また拾いに行く事もできるはずでしょう。貴公が騎士道を再度踏み均せば、その道筋を以って貴公を再び誉めそやす言葉も聞こえてきましょう」
        -- マルク
      • 「……君は。
         何故それほどまでに、私を買うのだ。
         聞けば、君の我が軍への入隊も、王の命より先んじた志願のそれであったと聞く。
         後に王の命によって正式に入隊が行われる前より、前傾であった理由を、愚かしき私は功名のそれであると思っていたが……そうではないのか?」
        -- ギルドール
      • 「……それもありましょうが、と言うよりは、功名が無いと断言しうるほど、私をしても騎士の有り様の体現にあるとは言えないことも事実です。
         やはり、それでも……一度、貴公の下で剣を取ってみたいと思うていたのも、事実であります故」
        -- マルク

      • ギルドールは、少しだけ驚いた表情を見せた。
        「銀髪の死神」と呼ばれていた頃の自分を知りこそすれ、それ以前の「白銀の騎士」と呼ばれていた頃の自分を知る若き者がいるというのは、彼にとって驚嘆に値した。
         先の発言では、名のみ知り得るという理解に留まっていたが、どうやらそれだけでもないらしい。

      • 「貴公が、殺めた人の顔を忘れぬように、貴公が救いし人もまた、貴公の顔を忘れえぬこともまた事実なのです。
         善悪は糾える縄が如し、善行によって贖えぬ悪行があるように、悪行でもけして汚れ得ぬ善行があることを、お知りください。団長」
        -- マルク
      • 「……それは。
         真に、耳に痛き話であるな」
        -- ギルドール

      • 苦笑と共に、内心で思う。
        この若き将が人を率いる力を持ち合わせていると、能力の上では把握していたが、このような形で発揮される才というのもあるのだと。
        人心を掴むには、その強大な力を持って引き連れることの他に、このように柔らかく包むようなやり方もあるのだと。

      • 「戻りましょう、騎士侯。
         我らの帰りを待つ民がいるという幸福を、今は享受しようではありませんか。
         そのくらいの幸福は、許されて良きはずですから」
        -- マルク

      • マルクより差し出された手を、ギルドールは掴み、言う。

      • 「ああ、それは、げに。
         何物にも代えがたい、我らが幸福であるな……」
        -- ギルドール

      • それは、一度それを失った者が、強く感じ得る。
        剣を持つ者にとって至高の喜びであった。
  • 【 8 】
    • 「待たれよ、騎士王。
       ……貴公、その様な渋面にて何処に参るつもりであるか」
      -- バートレッド北方王

      • ローランシアの廊下をして、破軍王が騎士王を呼び止めたのは、騎士王の顔が余りにも憤懣やるかたないそれであり、
        肩で風を切るような、らしからぬ憤怒にて行動を起こそうとしているように見えたからである。

        既にバルトリア会戦の終戦より数日が経過していた。
        柱の騎士の出現により有耶無耶になった決着をそのままにし、中央は各軍の撤退を命令し、膠着状態の維持を通達した。
        騎士王もまた、それに依って中央へと帰還しており、各種通達を耳にした直後が今に当たる。

        破軍王は肩こそ掴みはしなかったが、返答なしにすれ違うことを看過することもないという意思を言外に載せ、そのバートレッドの声は廊下を僅かに震わせた。
        ウィルロット東方王は憤怒を隠そうともせずに、血走った目で大きく息を吐いた。

      • 「知れたこと。
         王は斯様な人外の法にて生み出される、柱の騎士なる物を是とされた。
         我が騎士道に反するそれであるが故、直接進言申し上げるまでのこと」
        -- ウィルロット東方王
      • 「……王の決定に異を唱えると言うておるのか、騎士王よ。
         それは、四方王の持つ権威以上の逸脱行為にあることを自覚しておるか」
        -- バートレッド北方王
      • 「貴公をしても、あの異形を是とされるかッ!!
         此れは逸脱行為にあらず、道を違える主君を以って進言を成すことこそが真の忠義であろうがッ!!」
        -- ウィルロット東方王

      • 騎士王の怒声は、並の心胆を持つ者であればその場を辞したくなる程の苛烈なる勢いを秘めており、
        それを受けて尚泰然と構えている破軍王の胆こそが褒められるべきではあろう。
        バートレッド北方王は頭を振り、嘆息とともに太い指で眉間を擦った。

      • 「我をしても是と返してはおらぬであろう、騎士王。
         其の進言が真の忠義であろうが、憤懣を肩に怒らせた状態で何とする。
         戦場が持つ気に当てられているようでは、アーヴルヘイム騎士侯の名が泣こうぞ」
        -- バートレッド北方王
      • 「貴公はその眼にて直接あれを見て居らぬからその様な悠長を口に出せるのだッ!!
         あのような物、認められて堪る物ではない……騎士道以前に、人道に反するッ!! 人の死体を、怨嗟を素材として動く肉人形にあるぞッ!?
         誇り高き死を玩弄するが如き所業を、剰え技術として認め、王は戦場にてそれを転じられると仰られているのだッ!!
         此れに進言せずして、死して行った誰の名誉を守れようかッ!!」
        -- ウィルロット東方王
      • 「さりとて貴公の憤怒だけで国の決議を覆せると思うておるのであれば、尚更頭を冷やせ騎士王。
         此度の貴公の采配や行動は感情に余りにも流されすぎておる。
         このままではその憂国の感情にて貴公の騎士道の半ばでより強い力に押しつぶされてしまおうが……!」
        -- バートレッド北方王
      • 「この騎士王、斯様な弱さなど持ちあわせて居らぬッ!!」 -- ウィルロット東方王
      • 「貴公は左様であろうがなぁッ!!」 -- バートレッド北方王

      • 語尾が荒くなり、破軍王は苦悩を表情に載せる。
        どの様に言えばこの愚直なる騎士道の塊たるウィルロットの怒りを冷まさせる程度の時間を稼げるか、思考を巡らせる。
        このままでは、彼が憂慮しているような事態にも陥りかねない。
        今回、柱の騎士の出現によって有耶無耶になった勝敗ではあるが、帝国側の地力の存在をむざむざと魅せつけられる結果であったとも言える。
        騎士王が掲げる理想の騎士団の姿を具現せしめれば、或いはその蛮族を退けられることもできようが、兵とて人であることは誰よりもバートレッドが良く知っていた。
        北方より迫るバルバラの民を何度となく駆逐してきた、英雄と称される男であるが故に、戦場にて士気や指揮がままならぬことを十分に理解していた。

      • 「清濁共に飲み込めとは言わぬ。貴公を以ってそれをしろと言うのは毒を飲めと言うておるのと同じであろう。
         だが、貴公の正しき采配によって、此度貴公はその側近としていた小隊を失うたものまた事実であろう。
         誰もが貴公と同じような理想を胸に、最善を成せるわけではないのだ。それを理解されよ、騎士王」
        -- バートレッド北方王
      • 「では名乗りも誇りも持たぬ、東方の蛮族の法に従えというのかッ!?
         彼奴らは我が名乗りに先じて攻撃を加えてきたが故である、その責や咎こそ貴公をしてすら余にあると申されるのかッ……!?
         誇りなき闘争など唯の殺戮や虐殺ではないかッ!!」
        -- ウィルロット東方王
      • 「誰もが貴公であったならば、その気高き信念を貫いて尚、無事を以って帰還することも能うたかもしれんッ!
         だが万民に貴公の理想を押し付けたが故の犠牲ではないか……ッ!!
         その屍の上に何も学ばぬ王の姿こそ、我が咎めたき姿であるわッ!!」
        -- バートレッド北方王
      • 「それは余が下で剣を取りし騎士達全てへの侮辱であるぞッ!! 北のッ!!」 -- ウィルロット東方王

      • 騎士王は碧眼を怒りに歪ませ、火すら放ちそうな怒りを目の前の北方王にぶつける。
        場の空気は歪みで音を立てぬのが不思議であるほどに緊張に張り詰め、言葉を明瞭に通すだけの役割を淡々とこなしている。
        ウィルロット東方王は両手を広げ、北方の王を糾弾する。

      • 「彼らは騎士として散って行ったのだ。剣を持つという意味こそが、その覚悟を示している。それが余の信じる騎士道であるッ!!
         彼らは余の理想に沿う価値があると信じていたからこそ、余とその生死を共にし、その身を力なき民の盾としたのではないかッ!!
         それを貴公は、無駄死と言われるのかッ!!」
        -- ウィルロット東方王
      • 「全ての臣下にそれを尋ねたのであるか、騎士王!!
         貴公の抱きし騎士道を全うするために、その身すら供物として捧げると、彼らの全てがそれに答えたのであるかッ!!
         貴公の理想に殉ずる覚悟無き者にまで、その覚悟をさせるを暴虐と言うのであるぞッ!?」
        -- バートレッド北方王
      • 「重ねて言おう、北の王よッ!!
         余が下で騎士を名乗り、剣を取ることこそが、その覚悟であるのだとッ!!
         剣は他者を傷つけ、殺せしむ。それは人の枠に収まりし者が享受して能う権利や自由ではないッ!!
         それを許される者は、それ以上の暴より、其の力を持たぬ者を守ると決めた者のみであるッ!!
         が、故にその身を時に剣に、時に盾にしてその暴に対することこそ、我らが剣を持つことを許される、最低限の責務であり、道であろう!!
         それすら持たずに、ただ権利だけ享受しようとする者は、東方から来たる蛮族と変わらぬ、ただの愚物ではないかッ!!
         貴公の言は、余が精鋭たるローディア連合王国東方軍騎士全てへの侮辱であるぞッ!!
        -- ウィルロット東方王
      • 「騎士とて民であるッ!!
         其の生命を無碍に散らすことを騎士道に殉ずると言うのであれば、それこそが虚構の信念であろうッ!!
         それは忠義や信条ではなく、南方の王が敷いた狂信と同じ類の物であるぞ、騎士王ッ!!」
        -- バートレッド北方王
      • 「民と騎士とは違うッ!!
         余が下で剣を取る者の胸に誇りがないと貴公が言うのであれば、余をして何を信じて剣を振ればいいのだッ!!
         横に立ち並ぶ余の騎士と同じ物を胸に抱いていることこそが、余が彼らを信頼し、その忠義に報うに努力を重ねる最大の理由にあるぞッ!?
         余をして、彼らに死など求めてなど居らぬ!! が、誇りを捨ててまで、東方の蛮族と同程度まで身を堕ちさせてまで生きようとする者など、余が軍には居らぬッ!!
         誇りなき生に何の意味があろうかッ!!
        -- ウィルロット東方王
      • 生なき誇りにこそ何の意味もあらぬわッ!!
         貴公をして全うせしめる理想を抱いた凡夫が、何の誇りを胸に何を成せるッ!!
         貴公の掲げる理想は、確かに剣を持つ者にとって、誇りに満ちた気高き生と死を与えせしむであろう。
         が、それのみが騎士道であるのであれば、それは貴公が掲げた狂信の偶像に縋る狂信の者の屍が積み上がるだけであるぞッ!!
         最後に貴公のみ立つ大地に、何の花が咲くというのであるかッ!!」
        -- バートレッド北方王
      • 「さにあらずッ!!
         余らの理想の遥か後ろに、民草が守られているのであれば、屍の山すら踏み越えて、余はその先へ開闢の剣を振ろうぞッ!!
         余一人が最後に大地に立ったとしても、その余が掲げるは余が臣下達が描いた理想の騎士道の集大成であり、それによって得られる民草の平和こそ至上の園であろうッ!!
         幾千幾万、理想に殉じた騎士がいたとしても、最後にそこに辿り着ける者がいる限り、其の信念はけして死なぬのだッ!!」
        -- ウィルロット東方王
      • 「今を犠牲にして得られる理想郷になど何の価値があろうかッ!!
         幾線幾万の屍の上で貴公が掲げるその理想の為に、貴公は幾つの臣下の生命の火を散らすつもりであるかぁッ!!
         貴公の騎士道は沢山の者の目に輝かしく映り、その理想に目を眩ませるであろうな。
         だが、其処に辿り着ける一握の人間以外の全てを犠牲にして尚、其処を楽園と呼ぶことを暴虐と言わずして何と言えばいいのだッ!!
         理解せよ……。貴公は、民草と、臣下とは違うのだ。
         貴公をして、完璧な騎士道であるが故に、人にそれを求むるわ、人の器に火水を流し込むような物であるのだ……
         貴公の騎士道は、完璧であるが故に……人の身には余るのだ、騎士王」
        -- バートレッド北方王

      • 理解出来ぬ。
        騎士王は小さく呟く。
        己の身を、未だ人の器であると信じているが故の、主観と客観の違いが、言葉をすれ違わせた。
        その胸にあったのは、かつて覇道を競わせた破軍王を名乗る男の、歪んだ騎士道が垣間見えてしまった寂寥だけだった。

      • 「自己に求むる物を、他者にまで求むるな、騎士王。
         ……貴公の耳目は、利き過ぎる。許せぬ全てを切り捨ててしまえば、世界は余りにも窮屈であるだろう。
         我とて、全てに是を返して言を述べているわけではないのだ。……貴公にとって、それすらも許せぬというのであれば。
         貴公は何れその理想によって気高き死を遂げるであろう」
        -- バートレッド北方王
      • 「……是非もなし。
         ……騎士道に殉ずればこそ、余の騎士道の誉れである」
        -- ウィルロット東方王
      • 「その時我は、其の貴公の理想が為に、貴公という同胞を失うのだ。
         其の悲嘆すら貴公の語る騎士道に邪魔だと断ずるのであれば……もはや我に貴公に掛ける言葉などない。
         貴公がそれを語るのと同じように、貴公の騎士道を捻じ曲げてでも、我の騎士道を貫かせてもらおうぞ、騎士王」
        -- バートレッド北方王
      • 「貴公が。
         騎士として殉ずる誇りを捨て去った貴公が、騎士道の何を語る」
        -- ウィルロット東方王
      • 「語るさ。……それが、我の王としての有り様だ」 -- バートレッド北方王

      • バートレッド北方王はマントを翻し、巨躯の肩を僅かだけ落として、廊下の先へと去っていく。
        その姿は、ウィルロットにとって、何故か怒りを覚える程に精彩を欠いており、珍しく彼は意味のない言葉を投げかけた。

      • 「問おう、破軍王。
         ――貴公をして、騎士道とはッ!!」
        -- ウィルロット東方王

      • 問われたその背中が。
        一瞬で盛り上がり、はち切れんばかりの筋量で以って肥大し、皮着を僅かに軋ませる。
        牙を剥き、破軍王は怒号と慟哭と笑声のそれぞれの中間のような雄叫びに似た声で、答えて曰く。

      • 「答えよう、騎士王。

        ――死なさぬ事に有りッッ!!!
        -- バートレッド北方王

      • 其処に有るのは、破軍王という姿であり、王としての背であり。
        かつて剣を交えた者同士の、行き先を違えても信頼に足る、互いの騎士道へ進む雄々しき姿であった。

        騎士王は、鼻を鳴らす。共感は出来ぬが、理想の為に吠えられるのであれば、何れその道も交わろう。
        二つの信念はぶつかり、融和しないままであったが、それでも、彼らの間にある奇妙な関係は強固であり。

        が、故に、ローディア連合王国という、国の有り様を示しているかのようであった。
  • 【 7 】
    • その光景を。
      騎士王、ウィルロット・フレデリック・アーヴルヘイム東方公領主は理解することが出来なかった。

      伝聞で聞いていなかった訳ではない。
      だが、この世にその様な理屈や道理が存在することは、彼が歩んできた人生には存在し得るはずもなく。
      理解できぬ物を視界から除外する叙述の如き働きで以って、その「迫り来る矢の雨」は、思考で理解されぬまま、波濤となって彼の軍を襲った。

      • その先端が騎士王を捉えようとしたその瞬間まで、まだ騎士王は名乗りの為に掲げた剣を下ろそうとはしていなかった。
        先に反応したのは身体の方であり、重ねられてきた戦に於いて肉体が培ってきた経験であり、
        結果としてそれが思考や論理と乖離していたが故に、ウィルロットはその生命を救われる事になる。

        矢を打ち払う。
        ランダムに飛来する高速の鏃だけを正確に見抜き、「開闢剣」一本を巧みに使う事によって、その全てを打ち落とす。
        その間にも、始まった名乗りは続いている。一度始めた名乗りを止めることも、彼の常識の中には存在しなかった。
        凡そ、貫かぬ空気がない勢いで、全ての矢がその使命を果たした頃、開闢剣はようやく再び掲げられることになる。

        騎士王が、誰がために剣を振るい、何の誇りを胸に戦場に立つか、そして受け継いできた誇りの名を名乗り終えた時。
        彼の軍で、その戦場に立っていた者は、騎士王唯一人のみであった。
      • その矢の雨を受け、傷ひとつついていない完璧たる騎士は、その視線を背後に移す。
        ある者は地に伏し呻いていた。
        ある者は地そのものに縫い付けられていた。
        当たりどころが悪かった者は、耳目や脳を貫かれ、容易に絶命していた。

        それこそが、当然の光景であった。
        飛来する幾万、幾億の矢の雨の中、生存しうる人間など、存在しないのだ。
        ましてその鏃に毒が塗ってあり、傷の一つからでも致命となりうる状況に於いて、攻撃が行われた後にも立っている、それこそが異常であったのだ。
        だが、騎士王はその異常を正常としていたが故に生き残り。

        ――そして、吼えた。

      • それは、言葉ではなく、怒りだった。
        怒りそのものが音を成し、張り裂けんばかりの声量でそのまま外に放たれていた。
        誇りを、臣民を、部下を傷つけられた純然たる騎士の怒りが爆裂し。

        ――騎士王は一迅の金色の光と化した。

        ある者は悪鬼であったという。
        ある者は剣戟そのものであったという。
        一振りごとに首が、手足が、一纏めとなって弾け飛び、一薙ぎで小隊の動きが鈍る。
        兵が応戦した刃ごと剣で断ち切り、振り下ろした開闢剣が地面に突き刺されば、突き刺さった地面ごと人を両断した。

      • 恐怖が伝搬し、押していた帝国軍の一部は混乱の状態に陥った。
        彼らにとって幸運だったことは、その戦場において騎士王の軍勢が中央に陣取った上、その身を案じる側近によって後方へと退げられていたことだった。
        攻勢を崩さぬ帝国軍の働きに業を煮やし、終局に至る前にて自ら剣を以って報いようとして出てきたことが、彼らの被害を最小限に食い止めたと言える。
        あるいは、その騎士王の奮迅が会戦と共に行われて居た場合、勝敗は容易に決定していたことも十分にあり得ただろう。

        だが、数奇なる運命はその剣を奥に追いやり、それが表面化したところでもう一つの数奇を呼び寄せる事になった。

      • 「……!?」
        -- ウィルロット東方王

      • それは。
        狂乱状態に陥っていた騎士王をして、正気に戻させる程に異様な光景であり。
        ゆっくりと立ち上がる異形を、敵も味方も関係なく見上げるほどの奇怪なる姿であった。
        まるで、地より這い出た怨念が形を成すようにして食い合い、その怨嗟を発露しようとしているかの如く、動く。
        人の血肉で作られ、人ならざる魔によって繋がれた、禁術を用いた死霊術兵器。

        ――後にこれを、人は「柱の騎士」と呼ぶことになる。

      • 肉の塊が地面を薙いだ。
        地面に接する部分に鉄臭い赤い線を残しながら、弾け飛びそうな勢いの一撃によって、地面が蹂躙される。
        帝国軍の兵士の身体がまるで果実のように叩き潰され、弾き拗られ、冗談のように地面を跳ねて彼方へと四散した。

        混乱は完全に恐怖を苗床にして開花する。
        軍隊など統率が取れなくなれば烏合の衆であり、我先にと退路へと急げば、良い的にもなり得る。
        腐臭を放つ五指を広げた柱の騎士が大きく地面を叩くと、その下で幾つもの人の生命が地面に引き伸ばされ、赤い花を咲かせた。
        逃げながら涙し、嘔吐し、失禁する汚濁の光景は、それ以上に鮮烈な血の匂いを以って、彼らの記憶の中に残ることになる。

      • その混乱の中、ウィルロットは最初の一撃を高く跳ねることで回避し、柱の騎士の腕にしがみついていた。
        腐った肉と鉄の匂いに咽びながら、安定を求めて這い上がる。
        人の肌の感触を残すその柱の騎士の素材に、生理的嫌悪を催しながら、その腕へと両足で確りと立った。

        ふと。
        眼前の、何かが蠢く。
        それは、ただ単に素材となった死者の瞼が、重力で垂れ下がり、瞳が露出しただけに過ぎなかった。
        だが、そこに於いて騎士王は二つのことを理解するに至る。
        一つ。
        この巨人は、人の肉を……それも、死者の肉を繋いで作られていること。

      • 「……ライオット」
        -- ウィルロット東方王

      • かつて。
        東西の争いの中で、不運にも生命を落とした、彼の騎士の名を、その男は呼んだ。

        一つ。
        ――その素材の中に。
        彼の愛した領民のそれが。
        含まれていることだった。

      • 斬撃音があった。
        視覚より先に、まずその鮮烈な肉を引き裂く音が、周囲に木霊した。

        次いで、咆哮が地面を薙ぐ。
        理不尽に。
        汚された行為に。
        抗いがたい運命に対する、怨嗟の咆哮が、騎士王の口より放たれていた。

        ――開闢剣が光る。
        ダマスカス鋼にエーテル体を付与した、特殊金属が怒りに呼応して輝きを増す。

        尋常成らざる威力で振られた刃は、その先に生み出された真空によって、肉の柱と呼んでいい程の太さを誇るその巨人の腕を両断する。
        地面に落ちる自由すら許さないとばかりに繰り出された幾万もの剣の輝きが、そこに残る恨みの跡すら千々に斬り飛ばすように、微塵に弾けさせる。

        地面に降り、血霧と化した肉片を前身に浴びながら、騎士王は尚も吠えた。

      • その咆哮と、斬撃により、柱の騎士はその標的を騎士王と定めた。
        肉の拳が大きく引かれ、その身体を叩き潰そうと勢い良く振られる。

        開闢剣が、その怒涛の攻撃を受け止める。
        肉に食い込む剣に、素材となった臣民の骨が噛み、その場に留まろうとする騎士王の足裏が地面を削る。
        肩鎧が弾け飛ぶ。
        柱の騎士の攻撃に依ってではなく、己の筋量に耐え切れず、内側から外側へと千切り飛ばされる。
        みしり、と二回り増えたように見える背筋が、気合とともに前へと進み、その腕を膾のように切り刻んでいく。
        咆哮と共に水平に薙いだ剣撃が、肉の寄せ集めたる騎士の腕を上方へと分断し、遥か後方へと吹き飛ばした。

      • 勢いは止まらない。
        その先に有るのは肉で出来た階段であるように、騎士王はその柱の騎士の身体を駆け上がる。

        かつてその国と隣国の国境は、ジグザグを描いていた。
        領民達は互いの生活圏を維持するために争いを繰り返し、その国境線は年によって変わる程であったという。
        西側と東側の対立は、統一王朝時代の遺恨をそのままに繰り返され、そのまま争いを続けていれば、やがて国境線の争いは国全体へと広がることは明白だった。

        だが、転機が訪れた。その生活圏の紛争をあざ笑うかのように、ウラスエダールより飛来した小型の龍によって、その国境線付近の住民は根絶やしにされかけてしまう。
        人と人との争いの無意味さを説いたこの故事は、最後に英雄の登場を以って締めくくられる。
        初代・アーヴルヘイム卿と開闢剣。
        その小龍は振り下ろされたその剣の一撃によって屠られ、その余りの斬撃の勢いによって地面は縦に割られた。
        その延長線を、東西のローディアの国境とし、永劫、戦の無意味さを説くべしと、その故事は伝えている。
        ローディアの子供の間でそれは、もはやお伽話のように語られている。

        開闢剣は、200年の時を経て、再び振り下ろされた。

        柱の騎士は、頭から股までを両断され。
        その勢いを殺しきれなかったが故に……開闢剣は再び、地面を二つに割った。

      • 怨嗟が解放されたのか、魔力が消失したのか、両断された柱の騎士は、ゆっくりと肉くれへと戻っていった。
        地面に腐臭が撒き散らされ、腐った血の匂いが辺りに血霧となって広がる。

        その凄惨な光景の中央。
        騎士王が、開闢剣を片手に、ただ立っている。

        敵と、味方の死体の中。
        一つの怪我すら負っていない完璧が。
        その誇りだけを胸に、周囲の惨状の中、ただ孤独に立っていた。

        ――騎士王は、叫んだ。

      • 「――一体、この戦の……ッ!!
         何処に誇りがあるというのだッ……!!!
        -- ウィルロット東方王

      • 応える者は、いない。
        例え、その場に彼以外の生者がいたとしても。

        それに、応える者は、いない。
  • 【 6 】
    • かくて、第一次バルトリア会戦はその幕を開ける。

      数の有利を国の規模に置き換えて語るには、まず双方の情報の伝達に難があったことを念頭に置いて語らねばならない。
      立場を西ローディアを盟主とする急造の連合軍にしても、幾万という人民を抱える国という名の巨獣が帝国にしてみても、
      その体躯の大きさを以って末端までの情報の伝達を困難としていた。
      伝達ですら不可能とされる中、統一など望めよう訳もない。双方にしてその認識は少なからず存在していたと言える。
      故に、帝国は早期決着を見越して少数精鋭による電撃戦を敢行してくる。
      比較的戦場に近い位置の邑を次々と巻き込んでの行軍は、その数を三万という膨大な数字にまで膨れ上がらせており、
      大国の中央を射抜くバリスタの如き勢いを以って、バルトリア平原より西進を目指していた。
      • 対する西ローディアは、同じく精鋭五万を率いる大隊で以って、その西進を阻むことになる。
        その先陣を切るは東方王たる騎士王ウィルロットであり、大隊の半数以上は東方領において彼の息の掛かった軍勢であったことに、彼の意気込みが垣間見える。
        無理もなかろう。
        バルトリア平原に於いて西ローディアと東ローディアの国境を直線に直したとされるは、彼の祖先であり、
        またそれを維持し続けてきた事は、アーヴルヘイムの領主たる彼の誇りであったが故に、
        誇りを持たぬ東方の蛮族にその国境線を破られる事は、彼の有り様にとっては耐え難いことであったというのは想像に易い。
        東西の国境線こそを防衛線とする。
        恐らく、彼のみならず、彼の指揮下にいた騎士を名乗る全ての人員がそれを胸の内に燃やしていたものと思われる。

      • 話は、そこより僅かに南へとその中心を移す。
        ゾドを覆う山脈を北東に望むゼナンよりやや西の平野を、質素な装束に身を包んだ一団が、夜闇に紛れて行軍をしていた。
        中央、黒髪の王フリストフォン西方王は黒馬を操り、道なき道を進む。

      • 「このような場所を、西方王たる者が中隊程度の兵を従えた状態で歩いているというのに、
         未だそれを予見し、張り込む兵団の一つもないとは、帝国が聞いて呆れるものだな、フォン」
        -- ヴァイド

      • 後方より、灼色の髪を持つ壮夫が同じく黒馬により追いつき、僅かな笑声と共に王に皮肉を零した。
        退屈王も同じように笑い。

      • 「戦を前にした僅かばかりの間にも血を吸わねば、剣が錆びようか? ブラックゴートの刃は」
        -- フリストフォン西方王
      • 「ならば金子で研ぐまで。金にもならんなら静かな夜にも感謝しよう。
         静かな夜を呼び寄せしが退屈王たる所以であるのならば、西方の王は随分と平坦な道を歩んできているようだな」
        -- ヴァイド
      • 「今宵は特別に静かであるだけだ、ヴァイド。
         平時であるなら、敵よりもそろそろ味方の咎めが入る。我が国の東方王は私を以ってしても御しがたい荒馬であるからな」
        -- フリストフォン西方王

      • その言葉にヴァイドは手を口に添えて笑いを零す。

      • 「荒馬の尻で勝手事をしているということか。全く度し難い愚かしき行為だな、これは。
         そも、先のローランシアの会議にて、東方王の決定に斯様な行軍は含まれているはずがなかろうに。
         良いのか。気性の荒い馬の背後で奔放をすれば、鋭き蹄にて蹴られるのではないか? 西方王」
        -- ヴァイド
      • 「構わぬ。如何に良き馬にあっても、前方より大樹が倒れてきていては、背後にて遊ぼうが後ろ足は動かぬであろう」 -- フリストフォン西方王

      • ヴァイドはその言葉に、ほう、と感嘆の溜息を漏らした。
        少しだけ声と速度を落とし、微笑と共に尋ねる。

      • 「では、フォン、お前はバルトリア平原にて、かの騎士王が退けられると思っているのか?
         急造のそれとはいえ、騎士王子飼いの五万の軍勢が、帝国の軍により打ち破られると」
        -- ヴァイド
      • 「ああ。
         まず、間違いはないだろうな。……交錯が初めてであるなら、それを何回、何百回試行しようが、初めはローディアに土がつく」
        -- フリストフォン西方王
      • 「その予測は、帝国のやりようを知っているが故の判断か、フォン」 -- ヴァイド
      • 「否。
         例え私が本爛でなくとも、ただのフリストフォンであったとしても、帝国のやりようをゾルドヴァで見てさえいれば観測に易いことなのだ、ヴァイド。
         お前は知らんだろうが、世の中には利ではけして計れぬ、理解の及ばない愚行というものが存在するものなのだ」
        -- フリストフォン西方王

      • ただその言葉を聞いただけで、ヴァイドには粗方の予想がついた。
        成る程それは、愚かしき行為である、と内心で笑み、心の底よりの侮蔑を騎士王に捧げた。
        彼らの掲げる騎士道が、誰にでも通じる物であると、普遍的な価値であるという認識がそこにあるのであれば、恐らくそれは彼らに土を着けるに十分な理由と成り得る。
        下らない物を意識の中に捉えたように嘆息し、肩を竦める。

      • 「実直が故に予想しやすき男であるが故、私は嫌いではないのだがな。どうにもあちらの不興を買う事が多い。
         ……宗のことといい、ままならぬことばかりであるな」
        -- フリストフォン西方王

      • それはそうだろう。
        内心で、ヴァイドは……アルラーム南方王は反駁した。東方王のように明確な基準を以って行動するものが、本質的になにも持たぬ者を相手にして、興を思えるはずもあるまい。
        仮面越しに会議を聞いていた時には理解に及ばぬ腹の中を抱えた下種であると思っていた男は、ただ純粋にその全てに興味を持たぬが故に奔放な行為に身を預ける眞白のような男であったと、最近自分は知った。
        或いは。この先に広がる戦場に於いて、此の男に方向性を持たせる事が出来たならば、また違う楽しみができるかも知れぬな、と内心で苦笑を重ねる。

      • 「しかし愛国心の無い男だな、或いは此処にて同胞たる騎士王を失うかも知れぬというのに、進言の一つもせぬのか? ハハハ」
        -- ヴァイド
      • 「では、こう答えようではないか、ヴァイド。
         我が国の誇る騎士王が、斯様な困難程度で退けられるとは、この西方王には微塵も思えぬのだ。
         そして微力ではあるが、その栄光に花を添える役割こそを選んだと」
        -- フリストフォン西方王
      • 「ほう、それは重畳であるな、西方王。
         自らが罰されることすら承知の上で、南方より奇襲を行う危険を伴った奇策を以ってそれに報いるなど、殊勝な男もいたものだ」
        -- ヴァイド
      • 「如何に私の進言など通らぬ強き刃であるところの騎士王であっても、
         その勝利に欠かせぬ働きをした南方よりの我ら西方軍の献身に、唾吐くことはしまいと、私は信じているよ。
         それが、彼らが万一、有り得ぬ可能性として「彼らが敗陣の危機」に陥っていたという不運があれば、尚更咎められなどしようものか」
        -- フリストフォン西方王
      • 「そして賢しき西方王は、黒山羊の功績を以ってその東ローディアからの無法者達を正式に懐に刃として仕舞えるようになるか。
         かの演説の時といい、随分と買ってもらっているようで嬉しい話ではないか、退屈王」
        -- ヴァイド

      • 黒山羊の笑声が響く。暗き笑い夜の深き静けさの中に間もなく消えていった。
        片眉を上げ、ヴァイドは再び雇い主へと問いを放る。

      • 「しかし……その騎士道による初動の混乱を前提に置いたとしても、数の不利を勘定に入れた上で、なお騎士王が敗れる予想をしているということは、
         東方より来る帝国軍を帝の傀儡と見ているわけではないようだな。どの様な不利があったとしても一筋縄ではいかぬ相手だろう?」
        -- ヴァイド
      • 「まさかと思って問うが、懐郷感情のように見えたか?」 -- フリストフォン西方王
      • 「それこそ莫迦を言え。利で以って他者を計るお前をして、その観測がなされたことに感嘆しただけだ。
         素直に驚こうとしているところに、フォンに懐郷感情があるなどという世迷いの驚嘆を上書きしてくれるな」
        -- ヴァイド
      • 「或いは、そうであるのならば先のゾルドヴァで功績をあげた黒山羊の馘など、この裏切りの行軍の手土産に丁度良かろうな」 -- フリストフォン西方王
      • 「嗤えぬ冗談だ。まだ西方王の馘に長寿の効果がある故に、東方の商人に傭兵団の長が売り渡す故の行軍という方が聞き手は信じるだろうな。
         ……懐郷とはけして言わぬが、であるならばその帝国のやりようを収めた彼の男も、フォンにとっての脅威になり得ると思うのだが、ゾルドヴァでは随分と奴を甘く見たものだな」
        -- ヴァイド

      • その言葉を聞き、西方王はふむ、と指で唇の下を撫でた。
        成る程、他者から見ればその様に見えても不自然ではあるまい、そう観測する。
        ヴァイドもヴァイドで、宗爛という男を、感情を顕にするその姿を見て唯の凡夫であるとしか見ておらず、
        が故にフリストフォンが血縁とはいえ唯一見せる執着のような感情の根源が理解できず、その為に撒いた話の種であった。

      • 「……あれは、帝国の将などではない。恥ずかしき話だがな」
        -- フリストフォン西方王
      • 「懐郷感情はないが、同属を思う気持ちはあると?」 -- ヴァイド
      • 「お前は私を人の型をした傀儡とでも思っている節があるな。私とて人から産まれた身であるが故に、その程度の執着を持っていることも不自然ではあるまい。
         戦場は、我らの生きる場所だ。そこで遊ぼうとする童子の生命が、無碍に散らされることもないだろうという、慈悲の心が故だ」
        -- フリストフォン西方王
      • 「何人の腸を暴いてみても、感情というものは何処にも見当たらなんでな。暴いたことのないフォンの肚の内にそれがあるとは思わなかっただけのことだ。
         童子というには、いささか担ぎ上げられていたようであるが。六稜と名乗る軍を引き連れているようであるしな」
        -- ヴァイド
      • 「子が親の所作を見て、手習いをするような物だ。
         あれの中に私が本爛と名乗っていた頃の甘さや弱さが残っているのであれば、宗爛という男が戦場に来るのは早いではなく、あり得ぬ、だと私は思う。
         もし、帝国の思想の傀儡になっていたとすれば、更に尚更だ。自らの命を天秤に載せる手は、自己の物であることが、盤を囲む者の最低条件であるからな」
        -- フリストフォン西方王

      • その割には、良く案じているではないか。
        ヴァイドはその言葉を飲み込む。先の遊びの合間に、その様な新しき愉悦を挟み込む無粋を避ける程度には、弁えているからであった。

      • 「だが、そうだな。
         仮にではあるが、宗爛という男の有り様が、帝国の有り様すらも利用し、なお自身を失わぬ強さを得ていたとすれば。
         兄としても、盤を囲む相手としても、これ以上の戦場で得られる利はないとは思っているがな」
        -- フリストフォン西方王
      • 「して、その確率は如何」 -- ヴァイド
      • 「天より牛蛙でも降りし折には、考慮に入れて良いかもしれんな」 -- フリストフォン西方王

      • 下らない冗談を舌先に載せ、ゆっくりと登っていた山道が拓けるのを感じた。

        そこは、戦場を、遥かに見下ろす事ができる高台。
        南方より、中隊にて北進することで、帝国軍を或いは退け得るかもしれぬという、可能性に賭けるに値する風景を映していた。
        黒馬の嘶きにより、地平より太陽がゆるりとその姿を表す。
        まるで誂えたかのような太陽の輝きは、フリストフォンをして地平を挟み、直ぐ側にあるような錯覚さえ覚えさせた。

      • 「さあ。我らの盤上だ、ヴァイド」
        -- フリストフォン西方王
      • 「そのようだな。
         存分に殺し、存分に辱め、存分に蹂躙しようではないか。
         此処が、我らの遊び場であるが故にな」
        -- ヴァイド
  • 【 5 】
    • 肩鎧が重い。
      騎士階級における帯剣法の歩きに慣れず、新米の如き音を鳴らしてしまう。
      軍靴の硬い踵が足首に送る衝撃を、上手く膝で殺しきれずに、此処に来るまでで既に痛みを発する。
      全てが零になるほどの時が経過していたと、ギルドール自身も思っていなかったのだが、月日の経過は如実に身体に表れ始めていた。
      その自信も、何も完全に裏打ちの無いものでもなかった。
      ローディア連合王国北端の小屋に、長い間詰めていた頃も自己鍛錬は欠かしていなかったし、
      予備が掛かれば北王領の合同訓練に足を運んだりもしていたのだ。
      だが、実戦から離れて幾星霜。残酷なまでに無為の日々は彼の老骨を責め立てていた。
      • が、自己にも他者にも等しく厳しい東方王が、その様な彼の懊悩など気に掛けることなどない。
        王都ローランシアにて会議の為滞在する用向きで、四方王に与えられた私室にて
        書面で受理された彼の仕官願いを受け取り、渋面のまま彼の決定を呟いた。

      • 「貴公には、戦場に指揮官として立ってもらう」
        -- ウィルロット東方王

      • 労いの言葉でも、歓迎の言葉でもない。
        ただ、最初から決定していた彼の予定を告げるだけの冷淡な言葉が、静かに呟かれた。
        急に仕官してきたやつがれに部隊を任せる外から見れば愚策と一笑に切り捨てられる策であっても、
        騎士王の口から出ればそれは暴なる言葉ではなく、絶対的に正しい確信を以って放たれる祝詞のように聞こえてくる。
        そうすることで、誰もが救われ、誰もが正しい道へと歩めるような、自信に満ち溢れた託宣のように聞こえる。
        少なくとも、ギルドールはその響きで、彼がローディアの騎士として再びこの王の前に立ったという実感を得ていた。

      • 「戦場に、でしょうか」
        -- ギルドール
      • 「余に復唱をさせるか」 -- ウィルロット東方王
      • 「戦場で再び人を殺せと。
         私に、そう命じられますか」
        -- ギルドール
      • 「では問おう。
         何故再び剣を帯びて此処に来た」
        -- ウィルロット東方王

      • 返せる言葉などあるはずもない。
        剣を帯びて王の前に立ち、その上で人を殺させるなと言える程、阿呆ではなかった。
        王に命じられたから、その絶対の決定を理由として此処にいると言う子供じみた言い訳など通用するわけがない。
        此処まで来て、そして王の前に立ったのは、他ならぬ自分の意思なのだから。
        ギルドールは、僅かに痛む右目を歪め、小さく呻いた。

      • 「――先の大戦で。
         貴公は何を見た」
        -- ウィルロット東方王

      • 不意に。
        王の言葉が、核心に踏み込んでくる。
        その言葉だけで喉奥が蠕動し、食道を蹂躙しながら胃酸が駆け上がる音を聞いた。
        幾つもの活動写真のような風景が脳裏に次々と蘇り、その実際の感触を以って訴えかけてくる。
        罪の意識に、心の奥底に眠る恐怖に、再び訪れるかもしれない悪夢に。

        膝を折らなかったのは、折ってしまえば二度と立ち上がれぬことを、ギルドール自身が良く知っていたからであった。
        笑う膝頭に手のひらを置き、支え、何とか持ちこたえる。

      • 「人を殺したか」
        -- ウィルロット東方王

      • その言葉に、慈悲はない。
        事実を確認するかの如き冷淡な問いかけが、震える身体に突き刺さる。
        口元を拭い、姿勢を正し、真っ直ぐに騎士王の碧眼を見て、ギルドールは言葉を返す。

      • 「はい」
        -- ギルドール
      • 「数は」 -- ウィルロット東方王
      • 「覚えて、いません」 -- ギルドール
      • 「理由はあったか」 -- ウィルロット東方王
      • 「命令が、ありました」 -- ギルドール
      • 「相手は東ローディアの兵士か」 -- ウィルロット東方王
      • 「……はい」 -- ギルドール
      • 「民間人もか」 -- ウィルロット東方王
      • 「はい」 -- ギルドール
      • 「無抵抗の者もか」 -- ウィルロット東方王
      • 「はい」 -- ギルドール
      • 「老若男女構わずか」 -- ウィルロット東方王
      • 「はい。
         構わず、殺しました。
         向かってくる兵士も、逃げる騎士も。
         抵抗してきた民間人も、隠れていた住民も。
         戦う意思なき老人もいました。年端もいかぬ子供もいた。
         目の赤い者がいました。帝国の人間かもしれません。
         人種は問いませんでした。目に付く相手を全て殺すことが命令でしたから。
         火を放ちました。首を落としました。耳を削ぎました。鼻を繰り抜きました。全て、この手で、この手で」
        -- ギルドール

      • 恐慌状態に陥るギルドールに、ウィルロットは玉座に深く、座り直した。
        目を瞑り、誰にでもなく呟き続けるその戦場の死神に、言葉を投げる。

      • 「概ね。
         此方が中央の役人に吐かせた暗部の有り様と、相違ないようであるな。
         東西の戦は形骸化していたことは確かだ。表向きには捕虜の交換と戦による特需を狙った大義なき戦いであった。
         だが、だからこそその舌触りのいい建前の裏で、本来の意味によって行使される都合良き暗い思惑が動いていたというわけか。
         ……度し難い」
        -- ウィルロット東方王

      • 東西ローディア戦争。
        そも、十三度も区切りを経て続く戦争の名こそが、不自然たる象徴であった。
        互いの利の為に行う茶番であり、それは双方共に理解していたことであった。
        諸侯レベルでも承知しているように、その戦争がそういった互いの利の為に行われる道化芝居であることは広く知られていたし、
        その舌触りのいい事実によって、本来の東西の対立を棚上げしておける得が、彼らの間に確かに存在していた。

      • だが、それは言い換えるならば、その表向きの形の裏に、その大きな事実でしか隠せない昏い部分を潜ませることが出来るということだ。
        茶番とはいえ、戦争である。
        下手を打てば死ぬし、運の悪い者や知恵の足らぬ若輩は帰らぬ人となることもある。
        だとしたら、その超常たる不自然を利用せずにいることもまた、愚策の一つであると考えぬ小賢しい者がいたとしても、なんら不思議ではない。

        ウィルロットが突き止めていたのは、国同士の交換殺人であった。
        癒着をしている上層部同士が、自国に於ける有害な存在を排除するには、その機会は絶好のそれであった。
        反乱を企てる者。
        実力の伴わぬ老害。
        稼ぎすぎた市民。
        国にとって不利益となる国民は、獅子身中の虫といわず、そこかしこに存在していた。
        自国内で処理をすれば、角が立つ。国への不信も高まる。
        であれば、他国によって名誉の戦死を遂げさせれば良い。その死は華々しく飾ろうではないか。
        その簡単な理念にて作られた組織が、この国の暗部であり、その処理を実際に行うのが、暗部に所属する黒騎士と呼ばれる者達であった。

      • 「我々は、面を着け、人を殺して回りました。最初はそこに、国の、貴方の掲げた正義があると信じて疑わなかった。
         二度、三度繰り返すたびに、そこには行われる殺戮以外の何一つ存在していないことに気づいた。気づいてしまった。
         本領より拝借した隊騎士は次々と病み、呪いの言葉とともに自刃する者すらいた。私はそれを、止める事ができなかった。私をしてすら、その光景に憧憬を抱いてさえいました。
         終わらない悪夢は茶番と化した戦争が起こるたびに現実から私達を引きずりだし、流血と暴虐の徒へと変えさせた」
        -- ギルドール
      • 「命令に依る物だ。
         加えて、それをかつて指揮下に貴公を置いておきながら看破し得なかった余の咎でもある」
        -- ウィルロット東方王

      • 違うッ!! 殺したのは私だッ!!
        -- ギルドール

      • 怒声とも。
        慟哭とも取れぬ、悲痛な叫びが東方王執務室に響き渡った。
        糾弾から逃れる為に、傷口を晒す賢しき行動であると自覚しながら。
        ギルドールはそう叫ばずには居られなかった。

      • 「誰も、誰一人止めてくれなかった。
         故に、弱き私は、我らは、狂気に身を浸すしかなかったッ!!
         行われる殺戮を咀嚼するには、自己の中の何かを破壊するしか、なかったのだッ!!
         ……やがて一線を超えた我々は、その蛮行を『楽しみ始めた』のだ、騎士王ッ!!
         貴公の求める騎士道は、この腐りきった腸の何処にも存在しないのだ……ッ!!
         私は、喜んで、その命を受け、人を、殺した……ッ! 楽しんですら、いたッ!!

         でなければこのような傷は付くまいッ!! 我らは皆黒騎士として面にて顔を隠していたのだからなッ!!
         私は……あえて面を外すことで顔を晒し、他者に愉悦を曝しながら私は死をまき散らしたのだッ!!
         『銀髪の死神』と呼ばれることすら、私は、あの戦場では何よりの名誉だとすら思っていた……ッ!!」
        -- ギルドール

      • 慢心。油断。喜悦。全ての後ろ暗い負の感情が、その時の男の中にはあった。
        自ら壊れることを選択した黒い狂戦士は、いつしか顔を晒すまでになり、銀髪の死神と恐れられた。

        そして油断は、隙を生んだ。
        その顔面を斬りつけたのは、他ならぬ守るべき西ローディアの子供であった。
        子供の体重を以って、その傷をつけるには、相応の殺意がなければ不可能であった。
        それだけ、男はその少年に恨まれていたのだ。

        子供は殺した。
        自らの殺意に身を委ねれば、何のこともなかった。
        何十、何百と繰り返してきたことであった。

        だが、少年の亡骸を前に、半分になった視界で捉えた時。
        自分の中で、壊れていなかった部分が、理性を取り戻した時。

        銀髪の死神は、この世ならざる張り裂けんばかりの声で、ただ哭いた。

      • 「騎士王。
         戦場に、正義などありはしませんでした。
         それは、人の心に宿るものだと気づいた時には、私は既にそれを手放していた。
         空になった手で剣を振って、その力の行使に溺れていただけであったのです。
         何故再び剣を帯びて此処に来たかと問われるなら、今なら。
         死神として再び剣を持った悪鬼を、正しさの権化である貴公に斬り伏せ、その正しさを示していただけるからと……そう思ったが故です」
        -- ギルドール
      • 「余に。貴公を斬れと。
         そう申すのだな。ギルドール」
        -- ウィルロット東方王
      • 「それが、老兵が最期の願いだとすれば。
         騎士王たる卿の慈悲を仰げるのであれば……何卒」
        -- ギルドール

      • 「成らぬ」
        -- ウィルロット東方王

      • 最期まで。
        貴方は正しさの権化であった、と複数の感情に突き動かされながら、ギルドールは自らの剣を抜こうとして――
        騎士王の音速の抜剣により、その柄を切り飛ばされる。

        その騎士王の淡く光る剣は、誰が呼び始めたか「開闢剣」と呼ばれている。
        一度抜けば、国すらも切り拓く英雄剣として、臣民の羨望を浴びていた。
        その刃を仕舞い、凛とした声で、騎士王は告げる。

      • 「成らぬのだ。
         ギルドール」
        -- ウィルロット東方王
      • 「……慈悲すら。
         与えられぬと、仰られるのか」
        -- ギルドール
      • 「左様。
         貴公に与える慈悲など、ない。
         貴公を狂気に駆り立てたのも、全て我ら王の責務である。背負おう」
        -- ウィルロット東方王
      • 「違うッ……!! 殺したのは、私だッ!!」 -- ギルドール

      • ――見誤られるな騎士候!!
        -- ウィルロット東方王

      • 聞き違えるはずもない。
        それは、怒声であった。ウィルロットが発する、本気の怒気が周囲の空気を揺らし、その怒りは僅かな静謐すら齎した。

      • 「貴公が、その罪を背負うというのであれば、止めはせん。
         何度も言わせるな、余は慈悲など持ちあわせて居らぬと。
         が故に貴公がその様な軽率な行動で罪から逃避することも、余はけして許しはせん。
         貴公こそがその罪を背負うというのであれば、その罪を背負いながら苦しむべきではないのか」
        -- ウィルロット東方王
      • 「………」 -- ギルドール

      • ギルドールは、今度こそ絶句をした。
        目の前の騎士という概念の具現は、詰まるところ、こう告げているのだ。

        ――この上、さらに苦しむ道を選べと。

      • 「……貴公の悲哀、怒り、嘆き、その全てを察する事はできぬが、余とて同様の物を感じてはいるのだ。
         だが、それを以って過去を悔い、前を向くことを辞めることは、剣を持つ者には許されて居らぬ。
         人を殺戮することを是とすることも、それを正義として慰めてやることも、余には出来ぬ。
         それは貴公の中にも、余の中にも永劫に残り、罪悪として己を苦しむ縛鎖となって永久に身を焼き続けるであろう。

         だが、その苦しみが為に剣を置く自由も、我ら騎士に許されていると思うなら、それは思い違いであろう、ギルドールッ!!
         我らの剣は人を斬りうる剣だッ!! 時に人を傷つけ、望まぬ何かを壊すときもあるだろうッ!!
         余とて自らの騎士道を傷つけてでも、自らを罪悪と定める臣下を救わねば成らぬ時もあるッ!!」
        -- ウィルロット東方王
      • 「騎士王……」 -- ギルドール
      • 「顔を上げろ。前を向け。守るべき臣民を、頭を垂れていて誰が守れるか。
         人を傷つける事が罪悪であれ、人を傷つけ得ぬ刃では誰一人として救いを求める者を救うことは出来ぬのだッ!!
         そして貴公は、一度その刃をその手に握った、誰認めるでもなく、ただそれだけで騎士であるのだッ!!
         ならばその身を鈍らと朽ちさせ、臣下を守れぬそれこそ貴公がこれから起こそうとしている罪科ではないかッ!!

         貴公が殺した数だけの罪科は、既に貴公や、それを止め得なかった余の肩に乗っている。それは抗いがたい事実だ。
         だが、それを理由にして臣民を守れ得ぬ罪を重ねることこそ、騎士の有り様に対する最大の侮辱であり、罪科だッ……!!
         ギルドール。我らは騎士であるが故、その剣を振り続けることこそ。
         唯一の、有り様であるのだ。騎士王たる余も、貴公も等しくな」
        -- ウィルロット東方王

      • 彼の直下にて騎士団を率いていた時ですら。
        一度たりとも、彼が慈悲を与えたもうたことがなかったことを。
        ギルドールは思い出していた。

        慈悲や優しさではなく。
        ただ、厳しさと正しさで人を導く、騎士の有り様が。
        騎士王という存在であることを……今にして、遅まきながら。

      • 「卿は。
         まだ、この死神に、人を殺せと。命じられるのですか」
        -- ギルドール

      • それは、乾いた笑声と共に尋ねられた、返答の決定した問いであった。
        騎士王は珍しく破顔し、開闢剣をギルドールに向けて言う。

      • 「我が騎士道に必要とあらば、騎士王の名を以って命じよう。
         が、死神にではなく、志と誇りを共にする……かつての騎士の同胞に、ではあるがな」
        -- ウィルロット東方王
      • 「王……。
         私は……」
        -- ギルドール
      • 「我が騎士道を成すには。
         ――貴公が必要である。
         故に、余に仕え、良く働け、ギルドール候」
        -- ウィルロット東方王

      • 老兵。ギルドール・アートソンは、膝を着く。
        ――この国に於いて、その言葉を前にして、誰が断れよう。

      • 「――御意に」
        -- ギルドール
  • 【 4 】
    • 王都ローランシア、中央騎士団総括本部。会議を前にしてフリストフォン西方王がここを訪れたことに意味があるとするならば、それは一つの遊戯の為であった。

      総括本部の入り口はホールのような場所で、上部方向に吹き抜けになっている。2Fのテラス状の休憩所がそのホールをぐるりと囲むように設置されており、階下にその入口を見ることができた。
      入隊試験が行われる時など、この廻廊より見下ろすたくさんの視線に気づくか気づかないかで、まず緊張感を測られる。
      いついかなる時であろうとも、信念や騎士としての振る舞いを求められるローディア連合王国騎士に名を刻むには、
      建前だけではいずれ自ら去ることになるという配慮からの試験とされている。
      • そのテラスより見下ろす黒き瞳が二つ。
        木製の手すりに肘を置き、その手を顎に添えて、静かにその光景を見下ろしていた。
        階下には、アリシアと、ギルドールがぎこちなく何かを話している。此処から、その二人が何を話しているかは、窺い知れない。
        だが、やがてアリシアがギルドールを連れ立つようにして執務室へと足を運び始め、退屈王は静かに笑みを零した。

      • 「窃視とは、里が知れるではないか、退屈王。
         四方を治める王に相応しき良き趣味とは我には思えぬな、ははぁ」
        -- バートレッド北方王

      • テラスに、低い笑声が響き渡る。
        その笑声にてギルドール達が此方に視線を寄越すことはなかったが、それすらもフリストフォンには何方でも良かった。
        突然の来訪にも然程驚かず、微笑と共にバートレッドに向き直り、退屈王は肩を竦めた。

      • 「いやはや。何を仰られておられるか、私のような若輩には分かり兼ねますな、バートレッド卿。
         自身の名誉の為に言っておきますが、階下にて我が臣下を見掛けたが故、視線をそちらに遊ばせていただけに過ぎません」
        -- フリストフォン西方王
      • 「ふむ。……ギルドール・アートソン、暗部の死神か。
         成る程なぁ、ゾルドヴァへの東進を騎士王が知っていたのだ。『逆』もあり得るというのは考えて無駄にならぬ可能性ではあったな。
         すなわち貴公がアレの存在を知らぬ、というのは騎士王がいささか貴公を過小評価した結果、騎士王の身の錆であるなぁ」
        -- バートレッド北方王

      • フリストフォンは肩を竦める。
        そこまで見ぬかれ、現状を把握されて居て尚、はぐらかし続けられるほどの胆や演技力はない。

        ウィルロットが自分の東進を知っていたのは、恐らく此方の動向に懐疑を抱いてのことである。
        某かの草を忍ばせ、動向が伺われていたのであろうな、と思考した。
        黒山羊のを同行させたことは、恐らく現地で適当な戦力を見繕ったように見えていることではあろう。
        アレは、身を犠牲にした一種の自身が好む『賭け』であったが故に、合理的な思考を突き詰めれば突き詰める程に解答へは遠ざかる、そのような行動であった。
        加えて、その場で処断が成されないということは、宗爛、またはヴァイドとの会話の細部までを聞かれた訳ではない、ということを何より証明していた。
        故に、ギリギリの橋の上で、まだ自身の首にすら縄が掛かっていない状態で、あれだけの戦果が得られたことは、フリストフォンにとっては僥倖と言っても良かった。

      • そしてバートレッドが言った言葉も、見方によっては正しい回答ではある。
        ウィルロットがこの国情が憂慮される戦況に於いて、戦力を掻き集めるとすれば何処に手を向けるか。
        誰をどう配置するかを、フリストフォンも考慮すべき事柄であると思っていた。

        ただ、彼の場合はそれを情報から読取ることを是とした。
        直接草を送り込む程の手回しは今に於いてすれば東方や北方を刺激する結果にも繋がりかねない上、求める結果を齎してくれる者についても悲しいことに心当たりはなかった。
        が、故に彼はその思考の上で、集められるだけの情報を配置することで、ウィルロットの行動を事後に予測しただけにすぎない。

        結果として齎された不平等な情報の交換行動ではあったが、両者の違いとして、
        相手がどの様な行動に出ようが、後出しで叩き潰せるだけの王としての地力を持つことと、
        相手がどの様な行動に出ようが、後付けでそれすらシナリオに組み込むことが出来る智謀の差があったといえる。

      • そして北方王がその何方の方法を行使したのか、フリストフォンには判断することが出来なかった。
        或いは、その言に対するフリストフォンの反応を見て、事実を見定めるタイプの人間なのかもしれないと思うところもあったが、
        退屈王にとって、自らの企みが露見することは、それほどの痛手ではない。
        盤上に於いて奇策の一つも打たない状態で卓の下を洗う行動を起こされたとしても、探られて痛い懐がないだけ弄られる気持ち悪さだけを我慢すればそれでいい。
        何より、こんなところで北方の王を相手に小細工を弄する遊戯で愉悦を感じる趣味は彼にはなかった。

      • 「……中々に、見事な慧眼をお持ちのようで、バートレッド北方王。
         或いは、貴公の雄々しき耳の形貌は、市井での有象無象の動向を聞き取る為のそれであるのですか、と尋ねるところでしょうか」
        -- フリストフォン西方王
      • 「心にも無い世辞を弄するのであれば、寧ろ耳目の「多さ」について褒めて貰いたい物よの。
         貴公は頭や口が回るようではあるが、所詮それは器として一つの物に過ぎぬ。
         大国之我也とする我の耳は、領民幾億のそれと同義ぞ。見縊るでない」
        -- バートレッド北方王
      • 「寡聞にして盲目、怠惰と退屈が服を着て王冠を被る姿と揶揄される身としては、羨ましき話ですよ。
         褒めの惹句が振るわぬのは、その大国を御身とされるバートレッド卿に於いて、我が稚拙な遊戯を鑑賞なされる光栄で舌が回らぬ身を恥じているが故とお思いください。
         それに、遊戯というのも憚られる観測遊戯であるが故、何方に転んだところで懐の痛まぬ、見るが楽しき遊戯ではあります故」
        -- フリストフォン西方王
      • 「貴公は表面をなぞるだけであるならば愉快な男よの。その腸にまで食指が動くような類の匂いを、口蓋から放って居るわけではないのが気に入らぬがな。
         ほう、何方でもいいと。彼の獣子は貴公の手駒というわけではないのか?」
        -- バートレッド北方王

      • 顎髭をザリザリと撫でながら、バートレッドは身を乗り出させる。
        みしりと音を立てるテラスを覆う柵が自己の存在意義を崩壊させる前に、身を引き、笑う。
        どうやらその形骸の余りの毒の無さに、彼の獣子は退屈王が手駒にあらず、と判断したようであった。なんとも無礼な判断法ではあったが、退屈王は微笑と共に肩を竦めた。

      • 「そうあれば良い。思うだけであれば何の意図もなく懐も痛みますまい。
         この世は私が指し手の盤上にあらず、であるならば、対局を眺めてそれに一喜一憂する程度の遊戯であれば、指し手を怒らせることもなく、無辜ではありませんか」
        -- フリストフォン西方王
      • 「成る程。彼の獣子は貴公が撒いた餌の一つであるということで有るか。
         『死神』のを炊きつける一つの材料になれば良い、と貴公は思い、指向性をもたせずに野に放つ獣のような働きをする駒であるわけだな。
         回りくどい事を。貴公のような指し手とは盤を囲んでも真楽しくはなかろうな」
        -- バートレッド北方王
      • 「北方の破軍王をしてその評価は、恐悦至極と返す他ありませんがね。
         生憎と、そして幸運な事にこの後に指す盤上の対面には既に人が座っております故。
         ロレンツ・フロフレック候。
         彼女は、アリシア・フロフレック。老候の血族のその先にあられます」
        -- フリストフォン西方王

      • その名が出た途端、バートレッドは大きく破顔した。
        膝を叩き、内より溢れる喜悦を隠そうともせずに、快哉を叫ぶ。

      • 「ははぁ! よもや猟犬候の子息とは! 否、あの娘子より面影を計れというのは無理であろう?
         懐かしき名に膝など打ってしまった、北方が第三十七共同防衛戦線の光景が鼻先に広がりもするわ。
         人の一生という物は中々に機運な巡りを齎す物であるなぁ!」
        -- バートレッド北方王
      • 「フロフレック候領は確か北方領と記憶しておりましたが、ご友人でしたか」 -- フリストフォン西方王
      • 「何、昔多少なりとも鉄の匂いを嗅ぎ合った仲であるに過ぎぬ。
         過去に討ち取った敵首の数など、もはや彼奴にとれば疼痛こそあれ、誇り記憶する事でもなかろうて。
         ははぁ。良き日である。中々に秀麗な外見をしておったではないか。我が孫の勇夫の一人や二人見繕って荒縄で括りて送りつけてやろうか」
        -- バートレッド北方王
      • 「突き返されるが終いでしょう。彼女は既にフロフレックの騎士候として叙勲を受けております故」 -- フリストフォン西方王
      • 「であるようだな。勿体無き器量だ。あの腰回りと体躯で子の数は期待出来まいが、市井の男が放っておくこともなかろうに。
         しかし、若き騎士侯であるな。武勲章ではないのか、退屈王」
        -- バートレッド北方王
      • 「……のようですね。中央にて勲を受けた際にローレンシアに滞在する予定があった為、顔を見た程度ですが。
         本人もその事を憂いてはおりましたよ。身に余る光栄だとも」
        -- フリストフォン西方王
      • 「戦時中の勲など、何の証にもなるまいに、不憫な次代に産まれた者よな。互いに。
         何より、貴公という王が居る時代に産まれた事が、我には何より憂慮される」
        -- バートレッド北方王

      • 百獣の王が他の獣を見る時の如き剣呑な視線が、飄々と階下を見下ろす退屈王に突き刺さる。
        害意なく、威圧する目的でなく、破軍王がただ笑うだけで空気が圧力を発する。
        その圧力のみで他者が失神することも度々見受けられるという破軍王のプレッシャーを受け、退屈王は微笑を絶やさない。

      • 「中央に用事……? 何方でも良い? 退屈王の口から出るにしては白々しき言葉にあるな。
         貴公が、フロフレックの淑女を以って何一つ思うところがないと嘯くことが既に一笑すら値せぬ冗句であると、我は思うが。
         何を思い、何の企みに老候の血族を使おうとしているかは知らぬが、あれを若輩が思うように使えると思わぬ方が良いぞ。
         此れは貴公と並び王と称される者よりの、進言である」
        -- バートレッド北方王
      • 「……何を仰られているのか、今度こそ察し兼ねる自分をお許し下さい、破軍王」 -- フリストフォン西方王
      • 「ならそれでも良い。貴公の言を借りるとするならば、貴公が如き若輩に食われるような獣であったなら、
         最初より彼奴が餌であったと思う程度には我とて慈悲深いわけではない。
         貴公と我では囲む盤面の種類が余りにも違いすぎる。我は本質的には貴公に何ら興味を持てぬ。
         だが、或いはその盤面に触れ合う部分があるとするならば、貴公はこの破軍王を前にして牙を隠さぬことを、全力で後悔するであろう」
        -- バートレッド北方王
      • 「……久しく見ぬ間に、随分とお優しくなられたようですな、バートレッド卿。
         初見が時に頭をひん掴み、卓に顔を打ち付けられ、鼻骨を折られた時は死を覚悟した物ですが」
        -- フリストフォン西方王
      • 「それこそ互い様であろう。
         鼻骨が折れていて尚、笑顔を絶やさぬ者を人と認め、会話を交わす度量がついたことは我とて認めるがな」
        -- バートレッド北方王

      • 互いに、笑みならぬ笑みを交わす。
        その均衡を先に崩したのはバートレッドの方であった。

      • 「しかし。
         ロレンツ候とはまた懐かしき名が出てきた物であるな。
         どれ、この後対局するのであるならば、先に此の破軍王を案内する気を利かせて見ぬか、退屈王。
         彼奴のことだ、我をして驚愕に身を震わせ失禁する様な面白き場面すら期待できようぞ」
        -- バートレッド北方王
      • 「……来られるのでしょうか。バートレッド卿」 -- フリストフォン西方王
      • 「何故そのような嫌そうな顔を隠そうともせんのだ。取り計らわせてやろうと言うておるに、この器の小さき王め」 -- バートレッド北方王

      • バートレッドは別段気を悪くしたわけでもないように、大声で笑いながらフリストフォンの背中を叩く。
        その一撃一撃が今までに受けたどの攻撃よりも重鈍な破壊力を秘めており、体捌きにて勢いを殺さなければ退屈王とて無事ではいられぬような打擲音がテラスに響く。
        加えてこの上機嫌、恐らくその同伴は既にバートレッドの中では決定事項であるのだろう。フリストフォンは珍しく素直に気が重くなるのを感じた。

      • 「案内だけで良ければ。そして対局の開始に差し障りがないことを約束していただけるのであれば」
        -- フリストフォン西方王
      • 「左様か、助かる。うむ、この破軍王をして確りと約束しよう、退屈王。
         何、侮ってくれるな、この破軍王、愛する領民や信頼する同胞とした約束を破り、文句を言われる程度量の小さき男ではないわ」
        -- バートレッド北方王

      • 結論だけを書き記すことが許されるなら。
        ロレンツ候とフリストフォン西方王の対局は、行われなかった。

      • その理由については、謎としておこう。
        誰であろうが、自己の生命は惜しいからである。
  • 【 3 】
    • その組織の歴史もローディアの歩んできた歴史と共にまた古く、暗部または暗某と、誰が呼び始めたのか、そう歴史の裏で囁かれていた。
      仕事の内容と言えば、ありきたりにも汚れ仕事である。
      ありきたりであるからこそ、必要とされる部分に対して、まるで傷あてを当てるかのごとく必要とされ、それが故に脈々と継がれてきた悪習とも善習とも言えぬ、一つの歴史の影であり続けた。

      表向き、ローディアという物は栄華を極めた封建国家の有り様であった。
      剣の誇りと血の猛りを正しき物として掲げた。
      200年という歴史は、過去の開闢を栄光のそれとして尊び、誰施すまでもなく、美談や英雄譚として語り継がれ始めた。
      統一王朝という名前はもはや理想郷の名であり、やがて取り戻す楽園の名であり、かつて栄華を極めた雄々しき伝承の名であった。
      その幻に似た栄光に身を寄せる者達を総称し、なんと呼ぶかと言われれば、「王室」と呼ぶと言っていいだろう。
      かつてその典雅な繁栄の礎を築き上げたという自尊心は、傅かれる心地よさと共に欲の花を咲かせ、が故に捧げられた舞台より降りられない愚か者を指す言葉でもあった。
      • そのような誇り高き国の末裔と自負している王室貴族にとって、必要悪とは他国のそれよりも隠匿しておかねばならない禁忌の代物であった。
        正面より名乗り、高々と吠えて他者の名誉を傷つけず蹂躙せしめる表向きの騎士団の形貌が、彼らの理想の騎士道であったが故だ。
        過去の栄光はさにあれ、こと現代に於いたとしても、騎士王たるウィルロット東方王という純然たる騎士の塊が存在することが、何よりその栄光を捨て切れない理由の一つであった。

        猛く。
        強く。
        気高い。

        その姿は見る者を魅了せずには居られず、彼を通して過去の栄光を透かす者がいたとしても、誰が責められよう。

        とかくそのような有り様に対して、暗部や暗某と呼ばれた者達は、必要ではあっても求められてはいなかったと言える。
        自家撞着のように思えるかもしれないが、王室貴族は彼ら汚れ仕事を行う騎士達を信頼していながら同時に憎んでもいた。
        与えられる金子こそ、その働きの汚濁の程度に相応しい物ではあったが、彼らに個人として何かの恩賞を与えることはけしてなかった。
        そもそもが、この国の風土と合わぬ存在であるが故に、彼らは容易に使い捨てられた。
        時に病み、時に壊れ、時に謎の死を遂げて。
        それでも必要であるが故、彼らは国のあちこちから補充を掛けられ、名前を持たぬ数頭として名簿に名を記載され、良く働いたという。

        有体に言ってしまえば。
        ギルドール・アートソン軍騎士もまた、その名簿に名前を記していた一人であった。

      • 「…………」
        -- ギルドール

      • 事、ここに至っても、未だギルドールの表情は重く、暗かった。
        王都ローランシア。中央騎士団総括本部。この国に所属するありとあらゆる騎士達が、まず門を叩く場所でもあった。
        かつて、自分がここに立った時、誇りと夢があったという錯覚が、彼の胸をシクシクと痛ませている。

        事、ここに至っても、だ。
        事は既に状況として引き返せ得ぬところまで来ているにもかかわらず、ギルドールの内心は未だ暗澹とした物が横たわっている。
        ウィルロットは、まだ瞳に輝きが残っていた頃の自分であれば、落涙せしめるであろうような言葉を以って、再び自分を必要としてくれた。
        だが、今の自分はそれに万全に答えられる身であるとは到底思えない。
        栄光と落日は必ず隣り合わせに存在しており、どちらかに身を窶すとしても、それはどちらかだけに寄り添うことはできず、必ずその間に身を置くことになる。
        理解は出来ていても、一度堕ちてしまったこの身を以って、騎士王に報いることが出来るかと言われれば、是とも、否とも言えなかった。

      • そう、事は既に此処に至っている。
        騎士王からの打診があり、ギルドールという男が此処に立っていることが、何よりの明確な応えなのである。
        返答は口で示すまでもなく、イエスでなければならない。
        だから、此処に至って尚逡巡を繰り返し、一歩を踏み出すことの出来ないことも無意味さは、恐らくその場に正しさの権化であるところの騎士王が居れば、
        その絶対的な正しさで以って恫喝せしめるほどの愚行であった。

      • ふと、人の歩く音が聞こえ、顔を上げる。
        愚かしきことに、此処でようやくギルドールという男は自分が俯いていたことに気づくのだから、間の抜けた話であった。
        その間の抜けた男が両の目で捉えたのは、既視感と初見の間にあるような、奇妙な感覚を与える者であった。

        まず目に映るは鮮やかな橙。人の後を着いて行くかの如きふわりとした塊が風に靡き、それが目に留まった。
        その色の与える既視感が、僅かに驚きを上回り、思わず口を突いて言葉が出た。

      • 「――フロ、フレック女史」
        -- ギルドール

      • 名を、正確には字を呼ばれた騎士は立ち止まり、振り返る。
        実を言えばこの時、ギルドールは彼女の名前である「アリシア」という名をも思い出していたのであったが、
        かつて自分がその名を呼んでいた頃に比べ、彼女の印象が一握すら被らない程に変化していたことが、その言葉を飲み込ませた。

        歳を取るはずである。
        ギルドールは、内心で苦笑をする。
        かつて世話になった恩義ある相手の孫娘である彼女が、どこに出しても恥ずかしくない淑女へと育ったのだ。
        自分が腐るには十分な年月であったのだろう。そう思い至って始めて、自分から越えを掛けたことを、男は少しだけ恥じた。

        だが、近づいてきたアリシアの言葉は、ギルドールを少しだけ安堵させる物であった。

      • 「……はい、その通りでありますが」
        -- アリシア

      • それは、誰何の意味を含有している言葉の濁し方であった。
        無理もない。自分の姿は変わってしまっていたし、加えて彼女の背丈が屈まずとも合うようになるほどの年月が、認識を隔てていても無理からぬ話だ。
        ギルドールは誰何された寂しさよりも、覚えられて居なかった安堵の方が大きいことを感じ、心の中で苦笑を浮かべた。
        どこまで臆病になっていたのかと、呆れる他にすることがない。
      • そもそもが自らをしてこの面貌だ。変わってしまったとあれば他人のことなど言えるはずもない。
        加えて、スカーフェイスというものはすべからく恐れられて然る者であるのに、気楽に声を掛けてしまったものだ。
        ひとりごちてから、弁解を、そして弁証を付け足す。

      • 「……済みません。思わず、声を掛けてしまいました。
         ギルドール・アートソンと申します。昔、ロレンツ候に世話になった者、と言えば多少の弁証になるでしょうか」
        -- ギルドール
      • 「爺様の。
         そ、それは、こちらこそ、ご無礼を」
        -- アリシア

      • 居住まいが正される音がした。
        まだ腰に帯剣する貴族式の歩みで歩く日も浅いのであろう。随分と腰を曲げるのに手間取り、腰元で剣がガチャガチャと音を立てた。
        相手が頭を下げたことをいいことに、首元の騎章に目を向ける。
        成る程。時が経っているわけだ。
        ギルドールはそこに、家督を継いだ証の襟章が加えられていることに気づき、小さく嘆息した。
        つまり彼女は叙勲を受け、既にフロフレックの侯爵となっているのだ。
        となれば、確認しておかねばならぬことがあるだろう。

      • 「候は。……いえ、今は貴公が候でありましたね。
         老候は、変わりなくおられるのでしょうか、フロフレック候」
        -- ギルドール
      • 「候、などと……あ、私アリシア・フロフレックであります故、どうかアリシアでお願いできないでありましょうか。
         爺様と旧知の方とあらば、尚更……ああ、孫の私が言うことでもありませんが、矍鑠としてるでありますよ。
         此度の叙勲はその、代替わりではありますが、そういったことを理由としてのことではないであります。ご安心を」
        -- アリシア

      • 思ったより、若さの割に頭の回転が早い相手だったと、ギルドールは浅慮を悔やんだ。
        言外に、その若さで叙勲を許されるほどの実力はないであろうと見たことを、告げてしまったも同然だ。
        加えて、それを察する事ができるほど、周囲から普段よりそういった評価を得ているのだとしたら、傷口に塩を擦り込んだのと同義である。
        その相手に笑顔を返すことが出来るアリシアの気丈さは、容易にギルドールの内面を傷つけた。

      • 同時に、気づき、突きつけられた事実もある。
        この国の状況は、それほどまでに逼迫している。

        叙勲という物は、功績に対して与えられる物としての意味合い以上に、戦時中においてこの国では軍隊権の委任範囲に影響を及ぼす。
        中隊以上の隊を率いる者は、子爵位以上の者でなければならず、大隊ともあれば侯爵、あるいは公爵といった階位が求められる。
        封建社会の恐ろしき一面であるが、そういった形骸を残しているからこそのローディア連合王国という者は、思ったよりも多いのであろう。

        つまりは。
        今、目の前にしているこの若きフロフレックの爵者もまた。
        ――この戦争の只中にいるということである。

      • 「その。
         不躾で申し訳ありませぬが、ギルドール殿は……どのような理由で私を呼び止められたのでしょうか?」
        -- アリシア
      • 「……済みません。こちらこそ不躾に。
         不躾を重ねるようで申し訳ありませんが、もし、お時間が許すようでしたら、少しだけ案内をお願いしてもよろしいでしょうか。
         少しだけ、話しを聞かせていただければ、とも思っています」
        -- ギルドール
      • 「……むう。
         私の頭では良く理解出来ぬことではありますが、構わないでありますよ。会議前の今は自由にしていて良いと言われていますので。
         僭越ながら同行させてもらうでありますよ。どちらにご案内すればよろしいでしょうか」
        -- アリシア
      • 「僭越などと、とんでもない……助かります、アリシア候。
         私のことは、ギルドールと、そうお呼びください。長ければギル、と略されても構いません。
         貴方のお祖父様にも、そう呼ばれておりました故」
        -- ギルドール

      • その言葉こそとんでもないと首を振って、ギル殿、というところにどうにか呼び名を収めたらしく、アリシアは屈託なく笑ってみせた。
        ローランシアには西方王、そして祖父候ロレンツ・フロフレック、そして現当主ハインス・フロフレックの随伴として来ていたらしいのであるが、暇を許されたらしい。
        執務室への道案内を頼まれたアリシアが、先を歩いている途中、ふと振り返る。

      • 「そういえば。
         どの様な用件があって、ギル殿は執務室へ……?
         純粋な興味でありますので、お答えいただかなくても構わないでありますが」
        -- アリシア

      • ギルドールが立ち止まる。

        ――それは。
        小さな笑みすら伴わなかったが。
        その若き騎士を前にして、老兵こそが言わねばならない言葉であった。

      • 「忘れ物を。
        ――取り戻しに来ただけですよ」
        -- ギルドール
  • 【 2 】
    • 東西の大戦が形骸化するより遥か以前より、議会というものはこの国では形骸と化している。
      円卓に望みの札を取り寄せるのも、賭け金を管理するのも、役を決めることですら、それぞれの分野に於いて強みを持つ物が掌握している。
      外交に関しては統一王朝次代からの伝統で王室が、内政に関しては宮廷の貴族――つまり諸侯がその手綱を握る。
      各諸侯からの上申された嘆願は、王室に召し上げられ、国王の承認という形で法の形を取る。
      だが、こと経済に関しては川の流れが如く、強く流れるところは澄み、流れの滞るところでは濁っている。濁水で暮らす王室血縁者に先を見通す力は少ない。
      故に、内政に関しては中央の国宝を補佐する宰相による『中央議会』が。そしてその直属の各地方候たる四方王にある程度の裁量決定が委ねられている。

      古来より、騎士達が囲む卓の型は円とされている。
      多分に漏れず、この国の中央に招集された際の議会という者は円状の卓に雁首を揃えて行われる。

      だが、今日王たちが集められた卓は円を描かず、四方に頂点を持つ菱形の形をしていた。
      理由は簡単であり、その卓には四人より多い人数も、少ない人数も座らせる例外を一度も経験していないからである。
      四方、その頂点を結ぶ線の中点に、四人の男が顔を突き合わせていた。

      • 東を背にして、ウィルロット・フレデリック・アーヴルヘイム東方公領主。
        ローディア連合王国東方を治める王が一人にして、騎士王の名を馳せている。
        すれ違い、振り返らぬ者は居らぬと言われる程の美丈夫にありながら、騎士道の具現とまで揶揄・賞賛されるまでの愚直な性格を持つ。

        アーヴルヘイムの歴史は古く、ローディアが東西に別れる際、その東西の線を引いたのが
        初代アーヴルヘイムの騎士とされている程に、この国に古くから存在する騎士の家系である。
        幾世代に掛けて脈々と受け継がれている騎士道精神は、それに相応しい体躯を宿すに至り、
        数世を経た今でなお、英雄と呼ばれてその名が霞む程、戦の神に愛された騎士として、自らの覇を進み続けている。

        鉄面皮と謳われ、恐れられている表情で対面を睥睨し、指先で書を叩いた。

      • 「此方からは、以上だ。
        西の、異論は」
        -- ウィルロット東方王

      • 名指しということは、恐らく次の話題は此方の話であるのだろうな。
        小さく嘆息をして、足を組み直す、細身の長身。彫像の如き冷たい双眸をして、真っ直ぐに東の青き視線に笑みを投げた。

        西を背にして、フリストフォン・ラヴェル・フォラン西方公領主。
        ローディア連合王国西方を治める王が一人にして、退屈王という揶揄を受けている。
        他の四人の王が多少なりとも賞賛を元にした名で呼ばれながら、西方候にのみ完全なる蔑称が付けられているのには訳がある。
        先も記したよう、ローディア連合王国東方というものは、この200年、正確に言えば東西の争いが形骸化する100年前までは、
        常に敵対国との間に緊張を強いられる環境にあった。その為統率と忠義の思考の発達が急務とされ、アーヴルヘイムの名の元に、数々の法が東部のみに試行されるに至った歴史を持つ。
        結果的に古き西ローディアの騎士道がかなりの濃さを以って残る結果となり、封建社会を根強く意識した地域として今も栄えている。

        北にしても同様である。北伐という目的と北の蛮族に対しての防衛を目的に作った地域が、後に国境を保護する北方領として形を成した物だ。
        古くからの騎士道に覇道を織り交ぜた有り様は、
        彼の地に暮らす領民のみならず、王の有り様すら変える程苛烈な生き方を定めた。

        南方は、少々毛色が変わってくる。
        古くより、南方に接するアルメナはローディアにとって、周囲に存在するどの国よりも共に歩くことを決めていながら、
        ある程度の距離を保つことを是としていた。
        面白いことに、この認識はアルメナにとってすら同様の距離を保つことを互いの利と害の一致と見て、暗黙の了解としての不可侵をこの200年貫き通してきた。
        南の外的な基本の有り様は「事なかれ」であり、その維持さえ行えば例えその王が中央議会においてその貌を面で隠すような非を以って訪れようが、
        誰が誰何するわけでも、咎めることもない程度には、触れてはならぬ国の暗部そのものになっている。
        此処に於いてはむしろ、北方や東方のような実害ではなく、文化流入を防ぐ目的で立てられた防波堤であるとも言え、触れ難い禁忌という意味で他の三つの地方とは一線を画す地方となっている。

      • 対して、西方には敵がいなかった。
        スリュヘイムという毒は抱えていた物の、触れねば痛まぬという点ではアルメナへの有り様と大差ない。
        アルメナのように気を抜けば文化侵害をしてくるような地力もない国への牽制など不要であり、
        さらに西を領海に囲われていながらも、出ることが出来ないことを引き換えに海より侵して来る者の来訪を退ける魔海の存在によって、ある意味全ての国から断絶した地域となっていた。
        温和な気候と豊潤な大地は優れた実りを齎し、ある程度階級の高い門閥貴族の避暑地として、必要善としてこの国に居場所を作っていた。

        その王をして、フリストフォン・ラヴェル・フォラン西方候領主は、何をしたかといえば、何もしているようには見えなかったのである。
        故に、退屈王。故に、怠惰王とまで呼ばれ、揶揄されている。
        だがこれは、西方に平和を求めて移住してくる金満貴族にとっては一つの平和の象徴とされ、ある種呪文のように囁かれている言葉でもある。
        そしてもう少し知恵が周り、知識が巡る立場にいる者は、退屈王がこの領土に齎した富の正確な数値を知ることができ、
        それが何より彼をその退屈王の地位より引きずり下ろすことの無意味さの証左としていた。

        退屈王、フリストフォンはウィルロットへ小さく笑い、言葉を返す。

      • 「特には。
        ウィルロット東方王……貴公の正しさを、今を以って証明する愚を犯せと命じられますか?」
        -- フリストフォン西方王
      • 「不要。
         が、貴公の口から直接聞きたいことはある。
         先のゾルドヴァが交戦時、貴公は私兵を用いて東方へと赴いたと聞いている。この方卓に於いて、理由を述べるべきではないか」
        -- ウィルロット東方王

      • 内心で、フリストフォンは舌を巻く。その様な手札も持ち合わせている男とは、意外である、と。
        おくびにも出さずに、直ぐ様切り返す。

      • 「憂国が故、西方に留まり尻で椅子を磨くより、自らの能を活かせる場を探してのこと。
         現地駐留軍において、領民の被害を最小限に食い止めた功績を以って、不問としていただくことは出来ぬだろうか?」
        -- フリストフォン西方王
      • 「貴公が憂国を謳うか、喉を反吐で詰める勢いだ。
         貴公の個人的な遊戯の為に、国の名を、忠義を押し出すやりようを余は好かん」
        -- ウィルロット東方王
      • 「……おいおい。それじゃあ何か、騎士王ともあろう者が、個人の好嫌で他者に噛み付いていると。
         随分とこの方卓も程度の低い言葉のやり取りで成り立つようになったもんさな。
         なあ、騎士王。ちっと頭を冷やせ。憂国感情に振り回されつつあるのは貴公であろう?」
        -- バートレッド北方王

      • 割って入るは、北を背にして、バートレッド・ガルガンチュア北方公領主。
        ローディア連合北方を治める王が一人にして、破軍王を自ら名乗り称される剛夫である。

        2mを越す巨漢が赤子の腕程もある指で方卓を叩くと、それだけでミシリと崩壊の序曲を奏でる。
        この巨躯も神が気まぐれに与えた物ではなく、名門ガルガンチュア公爵家の長兄たる者に与えられた天禀の一つである。

        ローディア連合王国は北に行けば行くほど、気候が厳しくなる。
        風雨、降雪などという生易しい問題ではなく、竜害にその肌を晒すが故である。
        時に多くの生命を奪うその襲撃から、領民を守るためにその身を盾にすべく、ガルガンチュアという血族は巨躯へと育ったという逸話すらある。
        それだけ古くからこの家系は北方にて蛮族の、そして迷い込む竜の襲撃を少なからず退けてきた実利で以って、その立場を堅強な物にしてきていた。

        バートレッドは自らの褐色のヒゲを撫でながら、豪放に笑んで見せた。その笑声にすら、空気が揺れるのだから、堪らない。

      • 「その退屈王の報、騎士王のが把握しているというのであれば、当然上にも届いているのであろう。
         で、あればここで貴公が糾弾すべき事柄でもあるまいに。
         各王、忙しい中此処ローランシアに雁首揃えている時間はその様な鞘当てに使われることこそ、我は惜しいと、そう思うんだがな……」
        -- バートレッド北方王
      • 「……同意だ。同時に忸怩たる思いだ。よもや貴公に怒りを指摘されるとはな。
         左様に、現状を憂いていることにも、何の反駁もない。でなければ、ローレンシア会議を前にして、四方王に集まって貰おうなどという暴を、余も犯さぬよ」
        -- ウィルロット東方王
      • 「貴公の良いところは、非を認めるところにあっても潔いところであるな。真快い騎士道である」 -- バートレッド北方王
      • 「……助かりました。と礼を言うべきでしょうか、バートレッド候」 -- フリストフォン西方王
      • 「――不要」 -- バートレッド北方王

      • 頑として突き返されたフリストフォンの愛想笑いは、剣呑でありながら豪快そのものの切れ味を持つバートレッドの笑みで噛み砕かれる。
        まるで野獣が獲物をその視界の中に捉えたかのような、そのような類の笑みのように、フリストフォンには思えた。

      • 「……我をしても、貴公を是としたわけではないことをこそ、忘れぬべきであるな、退屈王。
         然るべき糾弾は然るべき場所に於いてされるべきであり、何より貴公の行動に何の邪もないと思える程、鼻が利かぬ訳でもない。
         この戦乱の最中に於いて、貴公がどのような奸計を巡らせ、何を成そうかとしているかなど、須臾の間に思考することも莫迦莫迦しきことではあるが。
         ――それが我が愛する領民の有り様や誇りを脅かすようであれば、この破軍王をして、貴公の御首、逆賊のそれとして我が城の飾りとしよう」
        -- バートレッド北方王
      • 「……肝に命じましょう」 -- フリストフォン西方王

      • 愛想笑いだけを崩さずに、フリストフォンが言葉を返す。
        元より、退屈王をしても、破軍王を智謀なき暴虐の将と見てはいなかった。
        ただの巨躯、ただの剛の者であれば、地方候であっても国の王など名乗ることは出来ない。
        彼を崇敬する領民の全てが愚鈍であるという説よりは、彼自身が知慧すら兼ね備えた万夫不当の超人である説の方が、実際に目の前にしてみると通りがいい。
        今をしても、ウィルロットの溜飲を下げるため、どちらかに加担していたという形を取らずに互いを諌める形で進言をしてくる者に、慧眼が備わっていないわけがない。

      • 「太陽王。貴公も騎士王が示した方策で異論はないか」
        -- バートレッド北方王

      • 巨漢が、声を対面に向けて投げる。
        そこに座る者は一人であったが、その側に一人の従者が侍っており、南方を背にする者は正確には二人であった。

        南を背にして、ラー・アルラーム・カイル南方公領主。
        ローディア連合王国南方を治める王が一人にして、太陽王という名を民より崇敬を込めて呼ばれている。

        従者を侍らす様子にも、顔を面で隠す様子にも、他の三人の王は何の言葉で触れることもない。
        それはこの方卓に於いていつも通りの光景であり、それが必要であることも彼らの全ては承知の上であったからだ。

      • この集まりの中で、誰を異とするかを問われるとすれば、誰もが南方を治める太陽王であると述べるだろう。
        それだけ、彼の、あるいは彼女の有り様は異様であり、異端であった。

        四方の王は、それぞれ自ら王として振る舞うことで民よりその名を授けられ、寵愛に崇敬を返される存在であることは疑いようもない。
        退屈王をして、その呼び名には揶揄も含まれようが、それすらも平和を創りだした者として崇敬が皮肉として篭っているに過ぎない。
        ただ、太陽王だけは、その名を受けた理由が、けして崇敬などという生易しい感情からのそれではなかった。

        騎士王は、『騎士道』を以って民に崇敬される。そこにあるのは民からの『忠義』である。
        破軍王は、『生き様』を以って民に崇敬される。そこにあるのは民からの『信頼』である。
        退屈王は、『利益』を以って民に崇敬される。そこにあるのは民との『利害の一致』である。

        だが、太陽王は、民に特別な『何か』を与える訳ではなかった。それは何も与えなかったわけではなく、望む全てを与える存在であったということである。
        そこにあるのは民からの『信仰』であった。『畏敬』であり、『崇拝』であった。
        ある意味、文化侵害を抑えるために被った、最大の被害がそこにあると言っても過言ではない。
        ローディア南方王は、その民をして絶対的な存在であった。
        アルメナとの善政を、民に繁栄を与えてくれる、偶像の存在。顔を持たず、預言によって託宣を与える現人神が如き存在。
        そこに有るのは畏敬であり、如実にアルメナの文化を吸収した、王の有り様だった。

      • 「………」
        -- アルラーム南方王
      • 「……是非もなし、と仰られております」 -- 従者

      • 謹厳な東方王をして、そして狡猾な北方王をして、この存在を認めている点は、二つの打算があった。
        一つ、南方王はその土地柄と同じように、事なかれの立場を、何時如何なる時に於いても貫いていること。
        それは、戦争が間近に迫った今を以ってしても貫かれている、一貫した方策であり、
        その病的なまでの外界、正確に記すのであれば南方領以外の国の政への興味の薄弱さは、この三人をしても無害と断じられているからに過ぎない。

        もう一つ、形骸化して貰っていたほうが、都合がいい場合もあるという、簡単な算数の問題に依って、である。
        4は2で割り切れるが、3は2で割り切れずに、どちらかに拠る。
        それは、この場で方策を決めるに当っては、議論を円滑にするために必要不可欠である、簡単な数式であった。

        が故にその返答を、その場に居合わせた誰もが予想するところであり、
        それこそがこの会議における最大の時間の無駄であることを誰もが知っていたが故、空気が僅かに弛緩した。

      • 「では、此度の会合、ここで終いとしよう。
         それに対しての異議はあろうか、騎士王」
        -- バートレッド北方王
      • 「ローランシアの会議まで気を緩めぬことだな、北の」 -- ウィルロット東方王
      • 「騎士王はもう少し肩の力抜いてみては如何かと、進言しよう。
         そう殺気立っておれば民草がその姿を見て、此度の戦の程度に怯えようが」
        -- バートレッド北方王
      • 「的外れな進言であると、進言を返そう。
         東方の民にその様な軟弱な者は居らぬ。ローディアの誇りを持ってこそ、外敵に義憤を抱けども、畏怖など抱くまい」
        -- ウィルロット東方王

      • それは。
        西ローディア東方の民が、皆貴公であれば、罷り通る理屈であろうがな、と内心でバートレッドは呟いた。
        いつかこの愚直さが、悪い方向に出ねばよいがと、俯瞰をした視線で眺めながらも。
        また、この時、自らも俯瞰で眺められるコマの一つであることを鑑み、その進言は静かに胸の内に仕舞っておいた。
  • 【 1 】
    • 一度目は嘆願だ。
      だが、二度目は命令である。

      言葉という物は不思議な物で、全く同じ発音、同じ響きで放たれるそれであっても、
      重ねられることで意味が変化を起こす物がある。
      退役兵、ギルドール・アートソンの前でウィルロット東方王が口にした言葉も、その類の物であった。

      ローディア連合王国が東方領。その北端、僻地と言っても過言ではない場所で隠遁生活をしている者にとっては、
      その東方の王が持参した言葉は余りにも重く、嘆息すらも許されない空気を伴って、周囲にわだかまっている。

      • 「……軍に戻れ、ギルドール。
         貴公の腕は、此処で腐らせておくことこそが、罪悪であると自覚しろ」
        -- ウィルロット東方王

      • ――三度である。
        こうなると命令は決定へとその意味を変える。
        こと、それがウィルロットという男から発せられた言葉であれば、それはローディア東方において法すらも上回る拘束力を備えていることを、
        他ならぬギルドール自身が痛い程理解していた。

        それが、打診という目的を以っての来訪ではないことは理解できていた。
        故にウィルロットがこの小屋を訪れてすぐ、茶と礼を排して本題に入ったところから、大体の目的の予想もついていた。
        世情を鑑み、自らの立場を省みたときに、その結論に至ることが出来ないほど、頭の内側を錆びつかせていたわけではない。
        だが、その言葉を直接受けるまで、何処かその言葉さえ言わなければ、何かから逃げ続けられるような気がしていたことも、確かだった。
        現にギルドールはその期待がために、三度繰り返されるその「軍部への復帰」の打診の言葉に、
        それが絶対の決定であると定まるまで、何一つ言葉を挟むことが出来ず、中空を眺めているだけだった。

      • 半分の視界で、ウラスエダールの山脈から吹き降ろす北風で朽ちた壁がカタカタと音を立てている。
        ローディア連合王国内では、比較的東ローディアに、そしてウラスエダールに近い場所に隠居の住を構えたのは、
        あるいはそれが贖罪の為であったとも言える。

        この愚直な王は、騎士という概念の具現は、知らないのだろう。
        この土地に於いて、自分が何をしていたのかを。戦場に於いて、どのような役割を担っていたのかを。
        ギルドールは自省する。無理からぬ事ではある。
        当時自分達の部隊は中央に召し上げられており、暗部と名を打たれて彼の指揮下から外されていた。
        活躍の一部は耳にしていただろうし、だからこそ今帝国が東ローディアに西進してくるという極度の緊張関係にある今になって、
        自分へと打診に、決定を告げに来たのだろう。でなければ、古参の老兵に呼びが掛かるわけはない。
        右目の失明という外面的にも十分な理由を携え、軍を去った身でいたが、騎士王の耳目にしてみれば、
        未だ折れておらぬ剣に見え、また山風に吹きさらしになったまま朽ちていくようにも見えるのだろう。
        過大評価でも、過小評価でもなく、自己の評価の下にしか、この騎士王という名の王は動くことが出来ぬことを、昔からギルドールは知っていた。

      • だが、その言葉は肺腑に重い。
        失った右目の光以上に、暗澹とした物が視界を濁り、眩ませる。
        『騎士王』は正しい。
        正しいが故に、今の屈曲した自分とは、永劫に相容れない存在であることを、ウィルロット東方王は介さない。
        彼にとって、自らの騎士道は最良であり最善であり、また周囲にとっても最良の結果を齎し、最善の評価をされる。
        その絶対的な正しさこそが彼を支える剣であり、彼の掲げる騎士道であるという自家撞着によって、『騎士王』は成り立っている。
        ギルドールは澱のように溜まる肺腑の中の黒い何かを吐き出すように、小さく言葉を零した。

      • 「少し。
         私にも考える時間を、頂けませんでしょうか。侯」
        -- ギルドール
      • 「成らぬ。
         ……が、成そう。
         努、忘れてくれるな、貴公が惑うこの一時にも、我が民は死ぬる事を」
        -- ウィルロット東方王

      • 嘆願は通る。が、それ以上の刃を以って深く、斬り込まれる。
        絶対的な正しさでしか他者と触れ合えぬという性質は、容易に他者を傷つける。だから人は彼を騎士王と呼び、崇敬を込めて距離を置くのだ。
        かつてその忠義の中にいた恍惚の日々を思い出し、ギルドールは内心では少し寂寥を感じていた。同時に、淡い後悔も。
        かつてウィルロットの傍らにて翼将を名乗り、兵を動かしていた若き日々は、ギルドールにとっては疼痛を起こす傷のような形で残っている。
        そしてその疼痛の主が、自分が腐り、朽ちつつある今を於いても、まるで白金の剣の如く不変であることは、
        少しだけ彼にとっては救いであった。
        ……同時に、身を焼く責め苦でもあったが。

      • 「ギルドール。
         一度剣を取った者には、それを振り続ける義務が生ずる。他者より優れたる勇と共に、他者を害しうる暴を備えるからだ。
         それを義に依って律することこそ、我らが尊ぶべき誇りであるのだ。
         四度は重ねて言わぬ。貴公が再び戦場に立つ理由がないというのならば、余が与えよう。
         己が身を目に見えぬ罪科や過去からの逃避でこのような地で腐らせることを是とするな。……古き朋として、看過しがたい」
        -- ウィルロット東方王
      • 「それは……。
         余りにこの身に勿体無きお言葉です、候。
         私は……候に朋と呼ばれるような、その様な男では、けして」
        -- ギルドール
      • 「それは、貴公が先の大戦にて、暗部に所属していたことに起因する負い目であるか」 -- ウィルロット東方王

      • ギルドールは、硬直仕掛けた表情筋が、痛みを生じながら蠢くのを感じた。
        目を見開き、口を白痴のように開き、驚愕の表情を作る。
        目の前が暗転しそうな程に頭の裏を思考に必要な血が駆け巡り、返す言葉に詰まる。
        ウィルロットはその様子を青海を思わせる深き碧眼にて真っ直ぐに射抜くように見詰め、告げる。

      • 「見縊ってくれるな、ギルドール。
         余を節穴と思っているのであれば、それも改めるべきだ。
         貴公程の騎士が軍を離れた理由が、失明などという瑣末な外的要因にあるとは、余とて思っておらなんだよ。
         故に直ぐに調べた。吐かせた、といったほうが正しいだろうな」
        -- ウィルロット東方王
      • 「で。ですが、候。
         で、あるのであれば、この身を許せぬはず……!
         あの様な場所に名を連ね、功績を上げる愚を犯した上で、
         ……今に至ってものうのうと生きながらえている私に、何故再び軍などと……!」
        -- ギルドール
      • 「贖罪を求めるのは、愚かしき余も同じであったというだけに過ぎぬ。
         ……知らずにいたとはいえ、貴公をその様な場に送るを是としたは余である。
         故に、貴公がその身を「退役」という形で罪過の中に浸し、己に課した懲罰とするのならば、
         余も……それに従うべきであると思ったが故だ」
        -- ウィルロット東方王

      • 今度こそ、ギルドールは絶句した。
        この男は愚直にも、己の騎士道に是と出来ぬ道を採ることで、共にその罪過を背負うことを決めていたのだ。
        己の犯した罪から逃げるようにしてした隠遁は……この王の騎士道にすら、傷をつけていたのだ。
        そしてその痛みを、恐らく目の前の騎士王は忠として今ここで腐りかけた老兵に向けて差し出している。
        朋、と……その罪過を知っていながら、呼ぶ誉れを以って。

      • 「……四度は言わぬが、こちらは二度言おう。
         貴公の腕は、此処で腐れせておくことこそが、罪悪であると自覚しろ。
         貴公はその罪に、長く身を浸していた。余は、これ以上の贖罪は、余にも、貴公にも無用と考える。
         ……禊ぐは、戦において民を救うことの他にあるまい。……我らは、騎士であるが故に」
        -- ウィルロット東方王

      • つまりは。
        軍への復帰は、かつてその身を暗部に落としていた自分を……再び、誇りある騎士として蘇らせる機会として。
        持参したものであると、ウィルロットは言っているのだ。
        ギルドールの、固く膝の上で握られた手の中で、じわりと血が滲んだ。

      • 「先に戦場で待つ。
         これしか、出来ぬ身故」
        -- ウィルロット東方王

      • 言わんとすることは伝わったと見るや、短くそう告げ、静かに席を立った。
        一度も振り返らずに小屋を出ていき、後には静寂だけが残る。
        何時だってそうであったように、ウィルロットという男は、その生き様で道筋を示す。
        かつて自分が忠義を尽くすことを誇りとしていたころの騎士王の姿と、なんら変わりのないその姿が、去った今でも瞼の裏に鮮明に焼き付いており。
        老兵は、静かに両手で顔を覆った。

Last-modified: 2012-11-06 Tue 23:38:39 JST (4187d)