名簿/508275

お名前:
  • (ダリオは隠れ潜む塒、機関街の木造アパートの一室で、ゆっくりと葉巻を吹かしている)
    (片手にはロケット。オルゴールが仕込まれたそれは、もの悲しげな音楽をゆっくりと奏でている)
    (ダリオの最初の記憶にも、その音楽は流れていた物心ついたときには手にしていた、もとは一組のそれ)
    (今は片割れしか残っていないそれらは、両親の形見だった。彼らが亡くなってからは、ダリオと妹のアメリアを繋ぐ絆となっていた)
    (だがそれも過去の話だ。今はもうアメリアは死んでしまったのだから)
    (アメリアがエイベルを追って出奔した時、せめて自分がと)
    (彼の『凶星一条』で、彼自らが撃ち貫いて殺したのだ。それが組織の掟だったから)
    (一生涯守り通さねばならないと誓った、最愛の妹と、自分たちを拾い育ててくれた組織)
    (それらを天秤に掛けて、組織を選ばしめたのは)
    (組織の元で過ごし、数々の人を殺めてきたことによる呪縛だった)
    (組織の歪みが認識されても、組織の無謬を信じないわけにはいかなかった)
    (何故なら、組織を否定することは、自分の罪を認めることになるからだった)
    (百人を越える人々の死を、自らの身に負う強さはダリオにはなかった)
    (そして見知らぬ百人の死を身に負う強さがない者が、最愛の一人の死を背負えるわけがなかったのだ)
    (妹の死はあっけないものだった。苦しむ間もない即死だった。涙で滲んだ照準など、彼の魔術の前には関係が無かった)
    (彼はその時、自分を呪い、組織を呪い、エイベルを呪った)
    (やり場のない憎しみに心を焼かれながら、その心は空虚だった)
    (その空白を作ったのは他でもない自分であり、それが決定的になったのは)
    (両親の形見であり兄妹の絆であり、新たに妹の形見となったロケットが、彼自身が放った銃弾によって砕けてしまっていたのを見た時だった)
    (最早彼には何も無かった。砕け散ったロケットは、自分の心をそのまま表しているかのようだった)
    (今にもそうなってしまいそうな彼の心を繋ぎ止めたのは、この事態の原因を作ったエイベルへの復讐だった)
    (それに心を振り向けていないと、本当に壊れて消えてしまいそうだった)

    • (自分は何故、妹を選べなかったのか)
      (妹の幸福を願うのならば、自分も後を追って出奔するべきではなかったのか)
      (自分はあの時、決定的に誤ったのではないのか)
      (それを否定するために、自分は誤っていないと確信するために)
      (ダリオは復讐の機を待った。何年も何年も、さらに百人の屍を積み重ねながら)
      (そしてついにその機会が来た。この空の上で憎き仇を討ち、アメリアの墓前に供えるのだ)
      (そんなことをしても妹は喜ばないと、アレンやエノーラにいくら諭されても、彼は放たれた凶弾のように止まらなかった)
      (だが彼が銃弾と違ったのは、獲物を苦しませるために待つことができるというところだった)
      (ただ一人の血を分けた妹は、同じ『籠』で育った仮初めの家族とは絆の重さが違った)
      (自分は最後に向かうことにして、まずはアレンを向かわせた)
      (彼は組織の無謬を疑わない一人だった。だが、それでも友情は裏切れず殺されてしまった)
      (その姿は酷く眩しかった。妹への愛を選べなかった自分が再び日に曝されたようになって、ダリオは目を背けた)
      (続いて向かったエノーラは、エイベルといくつか会話を交わした後、逃げ出してしまった)
      (後に死体で発見された時、彼は違和感を覚えた。エイベルにエノーラを殺す理由は無い)
      (だが止める間もなく、ロニーが動いた。彼もまた死んでしまった。自分には覚えのない狙撃によって)
      (エイベルを装いエノーラを殺し、自分を装いロニーを殺した者がいる)
      (それは、誰か。思い当たるのは一人しかいなかった)
      (だが何故、それをするのか。ダリオには動機が読めず、確信も結論も得られなかった)
      (故に、行動を起こすことができなかった)
      (第三者が徒にエイベルを苦しめ――これは自分も企図したものだったが――自分をエイベルに狙わせようとしている)
      (この状況下で、果たして復讐が成せるのか。邪魔を入らせずにエイベルを殺せるか?)

      • (迷っている暇は無かった。何故なら、既に状況は動いてしまったから)
        (ロケットを懐に仕舞い、拳銃を二丁抜き撃ちに連射した。神速とも呼べる手技、弾き落とされたのは幾条もの鋼線)
        (隙間風よりも静かに部屋に入り込んだのは、黒い衣装に身を包んだエイベルだった)
        (衣擦れの音をさせない、忍び込み殺す暗殺者の衣。光沢のない革の手袋に、無数の鋼線が握られている)
        (目は虚。一切の心が感じられず、視認できているのが不思議なほどに存在感が無い)
        (それがエイベルの才能だった)
        (目撃されても認識されず、人々の深層心理に『黒い子供』としてのみ焼き付く彼は)
        (齢二桁に届かぬ頃から何十件もの暗殺をこなし、恐怖の偶像だけを残して、やがて殺しの舞台から姿を消した)
        (だが、今のエイベルは『消え方が足りない』。故に、まだ『見えている』)
        (丁寧に痕跡が処理された殺し現場に僅かに残る血の残り香よりも淡い殺意の芳香を嗅ぎ分けて、ダリオは生き長らえていた)

        「よう、エイベル。俺も今すぐお前を殺してやりたいが、まずは話を聞けよ」

        (今更何を話すことがあるというのか。前菜とスープにエノーラとロニーを殺して、メインディッシュに自分?そうはさせるものか。絶対に殺してやる)
        (エイベルの強すぎる殺意が希釈された感情の底から滲み出して、それがダリオに攻撃を知らせる)
        (消し切れていない怒りが攻撃に単調さを生み、尚ダリオを傷付けうる可能性を損なった)
        (無数の鋼線が翻り、無数のダガーが宙を舞っても、その一つたりともがダリオに触れることが出来ずに弾かれてゆく)
        (必中必殺と謳われるダリオの『凶星一条』は、魔力によって弾丸を生成し、生成した弾丸に様々な死の呪いを付与するものだった)
        (多種多様でいずれも決して競合しない複合のエンチャントは、対象に命中した瞬間にそれに死を与える)
        (エンチャント無しでも通常の弾丸と同程度の火力はあり、弾丸生成の速度は二丁拳銃のフルオート射撃に追随する)
        (再装填不要の絶え間ない二つの火線ががエイベルの放つ鋼線や短剣を次々と弾き砕いていく)
        (その射撃は正確無比だった。攻撃の出所を予知したような反応速度は、未来予知に近いレベルに引き上げられた戦闘経験の蓄積に基づく未来予測によるものだ)
        (極めて論理的に攻撃の出所とタイミングを計算し、一発の無駄弾も無く攻撃を防ぎきる。完璧といってよかった)
        (だが、エイベルも負けてはいない。その正確無比な射撃を、防御にしか発揮させていない)
        (会話のために攻撃していないのではなく、そもそも攻撃する余裕が無いのだ)
        (いくら銃撃で弾いても、攻撃は尽きることなく湧いてくる)
        (その全てが予知に近い予測をもってしなければ防御が不可能なほど、攻撃の予兆が薄く防ぎにくいものだった)
        (エイベルの『一夜鍛冶』の生成速度と、エイベル自身の攻撃速度は、ダリオの二丁拳銃を封殺する域に達していた)
        (あるいは、彼の殺意がそうさせたのかもしれない。ダリオへの怒りと憎しみと殺意が、彼を殺すだけのものにさせている)


      • 「俺はエノーラを殺ってない。ロニーも殺ってない」

        (そんなものが信じられるものか。妄言を吐いて挑発しているだけだ)
        (エイベルの攻撃は止まらない。その全てを弾きながら、ダリオは言葉を続ける)
        (お互いに消耗戦の様相を呈しつつあったが、その声に疲労の色は無く、飄々とこう続けた)

        「殺ったのは『先生』―――『大鷲』だ。
        俺たちを育てたくせ印象の全くないあの男だよ。何を考えてるのかは知らないが、それ以外あり得ない」

        (ダリオがそれを口にした瞬間、窓辺で笑い声が響いた)
        (エイベルが攻撃を止めた。ダリオも銃撃を止めた)
        (ダガーと銃口を同時に向けられながら、それまで一切の気配をさせなかった男が、尚笑う)
        (年の頃は40過ぎといったところ、紺碧のスーツを纏い、黒い短髪を整えながら、柔和に微笑むその笑みは、よく見れば刃のように細く鋭い)

        「ご明察。ダリオくんは昔から優秀でした。エイベルくんはもう少しがんばりましょう。
        まあ、貴方のよいところはおつむの出来ではないので、気に病むことはありませんよ」

        (その声は、高くも無く低くもない。人混みの中では絶対に聞こえない、ぼやけて消えてしまうような、全く特徴の無い声だった)
        (エイベルとは全く異なる消え方だった。認識できているのにまったく記憶に残らない)
        (『先生』は、孤児院たる『籠』でエイベル達を教育し、殺しの技と殺すための心を仕込んだたその人だ)
        (組織内部での位置付けは『大鷲』。『園』の内部で『大鷲』といえば彼を指した。最も有望な『梟』達の教育を担う、組織の最高幹部の一人)
        (親代わりともいえる存在なのに、今まで脳裡からほとんど全く消えていた。過去を回想しても思い返すことが無かった)
        (エイベルは必死に状況を整理していた。何故『大鷲』がここにいて、何故――)

        「何故、エノーラやロニーを殺したんだ」

        (そうだ。『大鷲』はそれを肯定した。ご明察、自分がやった、と)
        (ダリオも言っていた。その意図がわからないと)
        (問いかけに能面のような笑みを崩さず、『大鷲』は返答する。ただ自然に佇んでいるだけなのに、一切の隙がない)

        「私はエイベル君が欲しかったんです。取り戻したかった、というべきかな。
        あなたは私の最高の作品となるはずでした。……だのに、あんな男に台無しにされてしまった」

        (語り口は静かで、しかし興奮を淡く滲ませながら、奇妙に芝居がかっていた)
        (あんな男とは、エイベルの養父のことだろう。しかしよくも、ごく自然に人をもの扱いするものだ)

        「あなたは人間的になりすぎた。そんな感情は不要です。だから消してしまうことにしました。ちょうどよい駒もあったことですしね。
        あの子達の命が消える度、君はあの頃にどんどん近づいてきた。もう少し。もう少しで『黒い子供』が取り戻せる」

        (エイベルの希釈された感情の底で、また新たな怒りが湧いた)
        (そんなことのために。そんなことのために、自ら育てた者達を――自分の家族を――死に追いやったのかと)
        (エノーラを引き裂いて殺し、ロニーを撃ち殺して。組織と友情の間に消えたアレンの死はどうなる)

        「そこでこうして『仕上げ』に出向いたというわけです。ダリオくん。貴方もなかなかの作品でしたが、エイベルくんの前では所詮は駄作だ。
        今回の仕掛けではいい道化役でしたが、もう用済みですから消えてもらいます。私の見立てでは、それで完成する。そうすれば『園』に最強の手駒が舞込んでくる。
        貴方など比べものにならないほどの強力な駒が。他の組織など及ぶべくもない、その時こそ『園』は幸福を手に入れる!!
        ……何、抜けてしまった組織の理念などまた植え込めばいいのです。やり方は昔よりも効率的になっているのですから」

        (ダリオに向いていた怒りと殺意は、今やその全てがこの男に向いていた)
        (間を空けて立つダリオの思いはエイベルには分からない。しかし、二つの銃口は同じように『大鷲』の方を狙っている)
        (ダリオは考えていた。組織の上役であるこの男を撃ち殺す理屈をだ)
        (家族を殺された怨みではない。この男が利用しなければ、自分が利用していただけの話だ)

        「確かに俺は組織の駒だ。だがアンタの私物じゃあない
        手伝えよエイベル。こいつを殺してから、あらためて決着を着ける」

        (目の前の男は、貴重な組織の財産を私欲のために使い潰そうとしている。ダリオはそう理屈付けた)
        (実際には、より上層の者が、エイベルとダリオ達の利用価値を天秤に掛け、エイベルの方が価値があると判断されれば不問とされるのだろうが)
        (ダリオはここで殺されるわけにはいかなかった。復讐をやり遂げていないからだ)
        (そのための邪魔は排す。それが親代わりの人間であっても。妹を撃ち殺したダリオは、既にそのような情には縛られない)
        (憎い仇を万難を排して殺すために、今だけはそれ自身と手を組もう)

      • (仕掛けたのは同時だった。棒立ちの『大鷲』に向けて、エイベルが鋼線を放つ。空中に無数の線が走り、『大鷲』に向けて八方から迫る)
        (その隙間を縫うようにして、ダリオが銃火の雨を降らせる。それらの全てが、追尾する弾道と無数の死の呪いを孕む必殺の弾丸)
        (エイベルが逃げ場を殺し、ダリオが必中必殺の『凶星一条』で仕留める、即席とは思えぬほどの緊密な連携)
        (だが、『大鷲』は微動だにしない)

        「忘れたのですか?貴方たちの固有魔術を刻んだのは私だ
        詠唱も予備動作も不要とはいえ、魔術は魔術。術式が読めていれば解呪も出来る」

        (ダリオの放った必殺のはずの魔弾はその全てが目標に当たる寸前に消失している)
        (『凶星一条』を受けた相手が、春の微風を浴びたように涼しげにしているのは、ダリオにとって初めての体験だった)
        (だが、エイベルの鋼線は消えることなく残っていた。『大鷲』の手から伸びた――生成された――銀線に、空中に縫い止められながらも)

        「エイベルくんは術式を弄りましたね?なかなか優秀です。花丸をあげましょう。
        ですが忘れてしまっているようです。鋼線の技も元は私が教えたものだ。『一夜鍛冶』を使っての戦闘も。『一夜鍛冶』はもともと私のものなのですから」

        (エイベルの鋼線が弾かれる。次いで伸び来る無数の銀線は、獲物を狙う蛇よりも素早く狡猾な動きで迫り)

        「がッ……」

        (エイベルはそれを捌き切れない。虚実の付け方が深すぎる)
        (正しく老獪な手管だった。感情を希釈したエイベルの判断力は機会じみて冷静だ。しかし、いとも容易くその裏を突かれる)
        (本当に掌で踊っているようだと錯覚するほどに翻弄されて、エイベルは全身を手ひどく打ち据えられた)
        (殺す気ならば死んでいた。『大鷲』の目的は殺人者としてのエイベルを取り戻すこと、ならば致命傷は与えられずに)
        (どう銀線を操ったものか、意識が飛びそうなほどに続く激痛を味わわされる。さらに、その全身に銀線を巻き付け縛り付けられた)
        (指先一本に至るまで丁寧に束縛され、劇痛との二重の拘束によって、エイベルは動くことが出来なかった)

        「そこで見ておきなさい。貴方に復讐を誓ったダリオくんが何も出来ずに無残に死ぬ様を」

        (『大鷲』がこちらを処理している間に、ダリオは準備を整えていた。二丁の拳銃に装填されているのは、万一のために用意されていた実弾だ)
        (だが、ダリオにとってさえ、純粋に戦闘技術だけで立ち向かうのには荷が勝つ相手だった)
        (相手はエイベルと同じ固有魔術を持ち、エイベルを越える卓越した戦闘技術を持っている)
        (先の消耗戦では何発撃ったか知れない。それ以上の相手に、左右合わせて30発きりの装弾数で太刀打できるか)
        (『大鷲』の銀線が宙を舞う。その三次元的な無数の間隙を、ダリオは潜り、跳び、転がって躱す)
        (鉛弾では真っ二つに切り裂かれるだけだ。攻撃を止める役には立たない)
        (攻撃を避けながら、ダリオは機を窺う。無駄弾は一発たりとも撃つことが出来ない)

        「逃げ回ってばかりではいけませんね」

        (銀線が有刺鉄線のように姿を変えた。それは連なる撒菱で、部分消失によって分解されると辺りに撒き散らされた)
        (ダリオの足を殺す一手。だが、攻撃が止まったその隙をダリオは逃がさない)
        (鋼色の撒菱が落ち行く中で、二つの銃口から無数の鉛玉がばら撒かれる。マズルフラッシュも眩しいフルオートの全弾発射)
        (されど、その一発一発の弾道は計算され尽くされていた。神業ともいえる手技、もとよりこの部屋の中での戦闘を想定していたのだろうか)
        (部屋の壁、天井、床、その全てに絶妙な角度で放たれた銃弾が次々と跳弾し、全周囲から『大鷲』目掛け集束する)

        「0点です」

        (放たれた銃弾を、金属生成によって生み出された装甲がことごとく弾く)
        (全方位からの攻撃に『一夜鍛冶』で可能な対処は限られる。ダリオの読み通りだった)
        (複雑な物体を生成した直後の一刹那。そこを狙う。このタイミングなら新たに形状を弄る隙は無く、ディスペルを発動する余裕もない)
        (『凶星一条・齎死紅』。膨大な魔力を集束させ、あらゆる障害を貫いて呪死を齎す紅の弾丸が放たれる)
        (通常の弾丸よりも遙かに高い速度は、今までどのような標的をも過たず穿ってきた)
        (最早手の無いはずの『大鷲』は、当然の如く対処の一手を放つ。その右手から投じられたのは、表面に幾何学的な輝線を浮かばせる漆黒の短剣)
        (その鋒が紅の弾丸と衝突し、霧散させ、尚止まらない)
        (危険を感じたダリオが迎撃すべく放った無数の魔力弾も、一発たりとてその軌道を変えさせることすら出来なかった)
        (そして、吸い込まれるようにその心臓へ突き刺さる)
        (実にあっけなく。ダリオは床へ崩れ落ちた)

        「『鍛冶神(ゴヴァノン)の魔槌』。彼の神の持つ槌は、三振りすれば自在に武器を生み出し、その武器は投じられれば必ず命中し致命傷を与える。
        神代の魔術です。『一夜鍛冶』も、『凶星一条』も、これを元にして構築されている。模倣品がオリジナルに勝ることなどありえない。
        ―――さて?」

      • (『大鷲』が拘束していたエイベルに視線を向けると、彼はゆっくりと立ち上がっていた)
        (足下には彼を縛っていた銀線が無残に切り裂かれ落ちている)
        (エイベルの右手には黒い鋼線。幻想の金属で紡がれた糸は、拘束を易々と引き裂いていた)
        (痛みから回復すれば、脱出は簡単なことだった。その間にダリオは殺されてしまったのだが)
        (一度は酷く憎んだ相手だ。しかし、かつては兄として慕っていた。その頃の日々を思うと、ひどく哀しかった)
        (どうしてこんなことになってしまったのか。発端は自分の我が侭だった)
        (養父の背中を追ってしまったから。過去に暮らした誰が持ち込んだものか、『籠』の敷地の片隅に落ちていたコミックで、知ってしまったから)
        (それは極めて真っ当な、少年漫画らしい、勧善懲悪の物語だった)
        (その中で主人公は、偉大な父の背を乗り越えて、新しい未来へ進んでいった。ただそれだけの物語の断片に、エイベルは酷く憧れた)
        (親なんていなかったから。顔も知らない。エイベルは親と家族が欲しかった。それは多分本能で、どうしようもなく抗いがたい感情だった)
        (やがて与えられた任務で、後に養父となる彼に刃を向けたとき、感情は消していたはずなのに、心の奥底から激しい情動が浮かび上がった)
        (それは憧憬だった。欠如していた父性へのそれが、男の持っていた人を引き付けるカリスマと混じり合って。その背中を追い掛けたいと、ただそう思わせた)
        (死の象徴たる『黒い子供』は、その時ただの子供だった。拳の一打を受けて、宙を舞い、地に伏した)
        (その一撃で殺せたはずなのにそうしなかったその男は、エイベルの瞳を覗いて、そこに何を見て取ったものか、息子になれと言った)
        (エイベルはこれまで感じたことが無いほどに嬉しくて、一も二もなく頷いた。共に暮らしていた『家族』のことなど、その時は頭から吹き飛んでいた)
        (現在に至るまでの悲劇の発端となったその行いを、果たして罪と呼ぶのだろうか)
        (エイベルには分からない。分からないが、消えていった命は背負わなければならないと思った)
        (それはかつて自分が手に掛けた人々のものも含まれた。自分のせいで失われてしまった全ての命に対する、それは責任だった)
        (何故そうするのか。犠牲になった彼らの上に自分が生きているからだ)
        (酷く自分勝手な理屈だ。一人のうのうと生きているなら、何故死んでしまわないのか)
        (彼らが犠牲となる大元の原因を為した者達も、まだこの世界に生きているからだ)
        (人の生を啜って蠢く巨大な怪物、人殺しの組織『幸福の園』、その一端が、今目の前にひとり)
        (殺さなければならない、と思った。そう信じた瞬間、心は全く凪いでいた)
        (細波の一つもない。心の水面は殺意に平らで、喩えようもなく静かだった)
        (存在感が消え失せる。人の気配は最早無く、物質的なそれすらない)
        (視覚は捉えているはずなのに、認識することが出来ない。空気に溶けて消えたかのように『消失』する)

        「―――素晴らしい!この私にも『見えない』!!素晴らしい!!傑作だ!!素晴らしい!!」

        (『大鷲』があげる歓声や喝采も、意味を為さない。殺意を増しも減らしもしない)
        (殺さなければならないという事実は揺るがない。それと同じくエイベルの心も揺らがない)
        (音も殺気もなく、漆黒の鋼線が宙を奔る。当たるならばまず何処だろうと構わない。外傷を積み重ねた先、やがて殺せさえすればいい)
        (剣での戦いでは不可能な戦術、それほどの攻撃の速度と密度)
        (だが、『大鷲』はその全てを、肌に鋼線が触れた瞬間、漆黒の金属をその内側に生成することで防いでゆく)
        (技の冴えが僅かに足りない。先ほど全身へ受けた鞭打ちめいた打撃が効いていた)
        (不可視必殺の斬撃が、不可視ではありながら必殺では無くなっていた)
        (『大鷲』を殺すには僅かに隙が足りなかった)
        (そして。数々の攻撃が浮かび上がらせるその空白、残影を追って、『大鷲』はエイベルの姿を捉えかけている)
        (先ほど撒かれた撒菱が、エイベルの機動を制限していた。それがその時々の居場所を限定する材料となっていた)
        (最早不可視に優位性は無く、隙を作るために動いた瞬間、捉えられ勝負が決する。エイベルにはその確信があった)
        (戦闘が膠着する中、もう一人、エイベルを捉えかけている者がいる―――ダリオだ)
        (『鍛冶神(ゴヴァノン)の魔槌』は、如何なる者にも助からない傷を与えるが、それがもたらす死は必ずしも即時のものではなかった)
        (失血に霞む視界に、『大鷲』の姿と、エイベルの影を捉えながら、手首に仕込んだデリンジャーを感覚する)
        (―――どちらだ。どちらを撃つ)
        (撃てるのは一発きり。それ以上の余力はダリオには残されていない)
        (復讐を遂げるのだ。尽きゆく命だ。後のことなど考える必要はない)
        (その意思に従い、エイベルへと銃口を向けたとき、ダリオの脳裡に過ぎるものがった)
        (それは臨死の幻想だったのかもしれない。だが、その時確かに、ダリオの目には見えていた)
        (妹のアメリアの透き通った瞳と、その微笑みが)
        (兄の過ちを赦し、大切な人の幸福を願うその笑みが)
        (ダリオに狙いを変えさせた。最後の瞬間だけは、ダリオは誤らなかった)
        (デリンジャーの引金を引いた。矮小な弾丸が飛んでゆく。『大鷲』の背へ向けて)

        「やれやれ、出来を見誤りましたか」

        (生成された装甲に阻まれ、傷付けることは叶わない。だが、彼の注意が僅かにこちらへ向いた。それだけで十分だった)
        (妹の愛した弟分が、俺たちの敵を仕留めるには)
        (血の華が咲いた。『大鷲』の身を漆黒の鋼線が引き裂き、その右手と左足を粉砕した)
        (身を捩り、辛うじて致命傷を避けた『大鷲』が不気味に笑う)
        (無事な左手に黒い短剣。表面に幾何学的な輝線が走る)
        (その瞳に走るのは狂気か。手に入れたいと語った生徒に放つのは必殺の鋼)

        「最期に出来を確認したい。本当の傑作ならばしのげるはずだ」

        (対するエイベルの手に生成されたのは、漆黒の長剣。単分子の厚みの刃先を持つ、幻想金属の刃)
        (その表面に走るのは幾何学の輝線。多色の光が混じり合って白い)
        (剣を振るう。漆黒の長剣が正調の動きに従って運動し、付与された呪いごと放たれた黒鉄を両断する)

        「―――見事。あなたはやはり最高だ」

        (最早消える必要は無い。姿を晒し、感情を曝す)
        (『大鷲』の喉元に剣を突き付けて、言葉を放つ)

        「人を物と扱うお前に、俺の―――俺たちの価値は、分からない」

        (歪笑する『大鷲』の首を刎ねる。それで終わりだった)
        (悲劇の幕は引かれた。終わってみればあっけなく、自分独りしか残っていない)
        (大きな空虚感を押し込める。死んでいった家族達のために、まだ自分は足を止めてはならない)
        (だが、少しだけ―――残された学園生活を楽しむくらいの休息は、許されてもいいだろう)
        (踵を返した時、オルゴールの音色が鳴った)
        (ダリオの懐からこぼれ落ちたロケットが蓋を開いている)
        (写真の中のアメリアが、優しく微笑んでいた。どこか懐かしく優しい音色は、家族皆への鎮魂歌のようだった)

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  • (ダリオは隠れ潜む塒、機関街の木造アパートの一室で、ゆっくりと葉巻を吹かしている)
    (片手にはロケット。オルゴールが仕込まれたそれは、もの悲しげな音楽をゆっくりと奏でている)
    (ダリオの最初の記憶にも、その音楽は流れていた物心ついたときには手にしていた、もとは一組のそれ)
    (今は片割れしか残っていないそれらは、両親の形見だった。彼らが亡くなってからは、ダリオと妹のアメリアを繋ぐ絆となっていた)
    (だがそれも過去の話だ。今はもうアメリアは死んでしまったのだから)
    (アメリアがエイベルを追って出奔した時、せめて自分がと)
    (彼の『凶星一条』で、彼自らが撃ち貫いて殺したのだ。それが組織の掟だったから)
    (一生涯守り通さねばならないと誓った、最愛の妹と、自分たちを拾い育ててくれた組織)
    (それらを天秤に掛けて、組織を選ばしめたのは)
    (組織の元で過ごし、数々の人を殺めてきたことによる呪縛だった)
    (組織の歪みが認識されても、組織の無謬を信じないわけにはいかなかった)
    (何故なら、組織を否定することは、自分の罪を認めることになるからだった)
    (百人を越える人々の死を、自らの身に負う強さはダリオにはなかった)
    (そして見知らぬ百人の死を身に負う強さがない者が、最愛の一人の死を背負えるわけがなかったのだ)
    (妹の死はあっけないものだった。苦しむ間もない即死だった。涙で滲んだ照準など、彼の魔術の前には関係が無かった)
    (彼はその時、自分を呪い、組織を呪い、エイベルを呪った)
    (やり場のない憎しみに心を焼かれながら、その心は空虚だった)
    (その空白を作ったのは他でもない自分であり、それが決定的になったのは)
    (両親の形見であり兄妹の絆であり、新たに妹の形見となったロケットが、彼自身が放った銃弾によって砕けてしまっていたのを見た時だった)
    (最早彼には何も無かった。砕け散ったロケットは、自分の心をそのまま表しているかのようだった)
    (今にもそうなってしまいそうな彼の心を繋ぎ止めたのは、この事態の原因を作ったエイベルへの復讐だった)
    (それに心を振り向けていないと、本当に壊れて消えてしまいそうだった)

    • (自分は何故、妹を選べなかったのか)
      (妹の幸福を願うのならば、自分も後を追って出奔するべきではなかったのか)
      (自分はあの時、決定的に誤ったのではないのか)
      (それを否定するために、自分は誤っていないと確信するために)
      (ダリオは復讐の機を待った。何年も何年も、さらに百人の屍を積み重ねながら)
      (そしてついにその機会が来た。この空の上で憎き仇を討ち、アメリアの墓前に供えるのだ)
      (そんなことをしても妹は喜ばないと、アレンやエノーラにいくら諭されても、彼は放たれた凶弾のように止まらなかった)
      (だが彼が銃弾と違ったのは、獲物を苦しませるために待つことができるというところだった)
      (ただ一人の血を分けた妹は、同じ『籠』で育った仮初めの家族とは絆の重さが違った)
      (自分は最後に向かうことにして、まずはアレンを向かわせた)
      (彼は組織の無謬を疑わない一人だった。だが、それでも友情は裏切れず殺されてしまった)
      (その姿は酷く眩しかった。妹への愛を選べなかった自分が再び日に曝されたようになって、ダリオは目を背けた)
      (続いて向かったエノーラは、エイベルといくつか会話を交わした後、逃げ出してしまった)
      (後に死体で発見された時、彼は違和感を覚えた。エイベルにエノーラを殺す理由は無い)
      (だが止める間もなく、ロニーが動いた。彼もまた死んでしまった。自分には覚えのない狙撃によって)
      (エイベルを装いエノーラを殺し、自分を装いロニーを殺した者がいる)
      (それは、誰か。思い当たるのは一人しかいなかった)
      (だが何故、それをするのか。ダリオには動機が読めず、確信も結論も得られなかった)
      (故に、行動を起こすことができなかった)
      (第三者が徒にエイベルを苦しめ――これは自分も企図したものだったが――自分をエイベルに狙わせようとしている)
      (この状況下で、果たして復讐が成せるのか。邪魔を入らせずにエイベルを殺せるか?)

      • (迷っている暇は無かった。何故なら、既に状況は動いてしまったから)
        (ロケットを懐に仕舞い、拳銃を二丁抜き撃ちに連射した。神速とも呼べる手技、弾き落とされたのは幾条もの鋼線)
        (隙間風よりも静かに部屋に入り込んだのは、黒い衣装に身を包んだエイベルだった)
        (衣擦れの音をさせない、忍び込み殺す暗殺者の衣。光沢のない革の手袋に、無数の鋼線が握られている)
        (目は虚。一切の心が感じられず、視認できているのが不思議なほどに存在感が無い)
        (それがエイベルの才能だった)
        (目撃されても認識されず、人々の深層心理に『黒い子供』としてのみ焼き付く彼は)
        (齢二桁に届かぬ頃から何十件もの暗殺をこなし、恐怖の偶像だけを残して、やがて殺しの舞台から姿を消した)
        (だが、今のエイベルは『消え方が足りない』。故に、まだ『見えている』)
        (丁寧に痕跡が処理された殺し現場に僅かに残る血の残り香よりも淡い殺意の芳香を嗅ぎ分けて、ダリオは生き長らえていた)

        「よう、エイベル。俺も今すぐお前を殺してやりたいが、まずは話を聞けよ」

        (今更何を話すことがあるというのか。前菜とスープにエノーラとロニーを殺して、メインディッシュに自分?そうはさせるものか。絶対に殺してやる)
        (エイベルの強すぎる殺意が希釈された感情の底から滲み出して、それがダリオに攻撃を知らせる)
        (消し切れていない怒りが攻撃に単調さを生み、尚ダリオを傷付けうる可能性を損なった)
        (無数の鋼線が翻り、無数のダガーが宙を舞っても、その一つたりともがダリオに触れることが出来ずに弾かれてゆく)
        (必中必殺と謳われるダリオの『凶星一条』は、魔力によって弾丸を生成し、生成した弾丸に様々な死の呪いを付与するものだった)
        (多種多様でいずれも決して競合しない複合のエンチャントは、対象に命中した瞬間にそれに死を与える)
        (エンチャント無しでも通常の弾丸と同程度の火力はあり、弾丸生成の速度は二丁拳銃のフルオート射撃に追随する)
        (再装填不要の絶え間ない二つの火線ががエイベルの放つ鋼線や短剣を次々と弾き砕いていく)
        (その射撃は正確無比だった。攻撃の出所を予知したような反応速度は、未来予知に近いレベルに引き上げられた戦闘経験の蓄積に基づく未来予測によるものだ)
        (極めて論理的に攻撃の出所とタイミングを計算し、一発の無駄弾も無く攻撃を防ぎきる。完璧といってよかった)
        (だが、エイベルも負けてはいない。その正確無比な射撃を、防御にしか発揮させていない)
        (会話のために攻撃していないのではなく、そもそも攻撃する余裕が無いのだ)
        (いくら銃撃で弾いても、攻撃は尽きることなく湧いてくる)
        (その全てが予知に近い予測をもってしなければ防御が不可能なほど、攻撃の予兆が薄く防ぎにくいものだった)
        (エイベルの『一夜鍛冶』の生成速度と、エイベル自身の攻撃速度は、ダリオの二丁拳銃を封殺する域に達していた)
        (あるいは、彼の殺意がそうさせたのかもしれない。ダリオへの怒りと憎しみと殺意が、彼を殺すだけのものにさせている)


      • 「俺はエノーラを殺ってない。ロニーも殺ってない」

        (そんなものが信じられるものか。妄言を吐いて挑発しているだけだ)
        (エイベルの攻撃は止まらない。その全てを弾きながら、ダリオは言葉を続ける)
        (お互いに消耗戦の様相を呈しつつあったが、その声に疲労の色は無く、飄々とこう続けた)

        「殺ったのは『先生』―――『大鷲』だ。
        俺たちを育てたくせ印象の全くないあの男だよ。何を考えてるのかは知らないが、それ以外あり得ない」

        (ダリオがそれを口にした瞬間、窓辺で笑い声が響いた)
        (エイベルが攻撃を止めた。ダリオも銃撃を止めた)
        (ダガーと銃口を同時に向けられながら、それまで一切の気配をさせなかった男が、尚笑う)
        (年の頃は40過ぎといったところ、紺碧のスーツを纏い、黒い短髪を整えながら、柔和に微笑むその笑みは、よく見れば刃のように細く鋭い)

        「ご明察。ダリオくんは昔から優秀でした。エイベルくんはもう少しがんばりましょう。
        まあ、貴方のよいところはおつむの出来ではないので、気に病むことはありませんよ」

        (その声は、高くも無く低くもない。人混みの中では絶対に聞こえない、ぼやけて消えてしまうような、全く特徴の無い声だった)
        (エイベルとは全く異なる消え方だった。認識できているのにまったく記憶に残らない)
        (『先生』は、孤児院たる『籠』でエイベル達を教育し、殺しの技と殺すための心を仕込んだたその人だ)
        (組織内部での位置付けは『大鷲』。『園』の内部で『大鷲』といえば彼を指した。最も有望な『梟』達の教育を担う、組織の最高幹部の一人)
        (親代わりともいえる存在なのに、今まで脳裡からほとんど全く消えていた。過去を回想しても思い返すことが無かった)
        (エイベルは必死に状況を整理していた。何故『大鷲』がここにいて、何故――)

        「何故、エノーラやロニーを殺したんだ」

        (そうだ。『大鷲』はそれを肯定した。ご明察、自分がやった、と)
        (ダリオも言っていた。その意図がわからないと)
        (問いかけに能面のような笑みを崩さず、『大鷲』は返答する。ただ自然に佇んでいるだけなのに、一切の隙がない)

        「私はエイベル君が欲しかったんです。取り戻したかった、というべきかな。
        あなたは私の最高の作品となるはずでした。……だのに、あんな男に台無しにされてしまった」

        (語り口は静かで、しかし興奮を淡く滲ませながら、奇妙に芝居がかっていた)
        (あんな男とは、エイベルの養父のことだろう。しかしよくも、ごく自然に人をもの扱いするものだ)

        「あなたは人間的になりすぎた。そんな感情は不要です。だから消してしまうことにしました。ちょうどよい駒もあったことですしね。
        あの子達の命が消える度、君はあの頃にどんどん近づいてきた。もう少し。もう少しで『黒い子供』が取り戻せる」

        (エイベルの希釈された感情の底で、また新たな怒りが湧いた)
        (そんなことのために。そんなことのために、自ら育てた者達を――自分の家族を――死に追いやったのかと)
        (エノーラを引き裂いて殺し、ロニーを撃ち殺して。組織と友情の間に消えたアレンの死はどうなる)

        「そこでこうして『仕上げ』に出向いたというわけです。ダリオくん。貴方もなかなかの作品でしたが、エイベルくんの前では所詮は駄作だ。
        今回の仕掛けではいい道化役でしたが、もう用済みですから消えてもらいます。私の見立てでは、それで完成する。そうすれば『園』に最強の手駒が舞込んでくる。
        貴方など比べものにならないほどの強力な駒が。他の組織など及ぶべくもない、その時こそ『園』は幸福を手に入れる!!
        ……何、抜けてしまった組織の理念などまた植え込めばいいのです。やり方は昔よりも効率的になっているのですから」

        (ダリオに向いていた怒りと殺意は、今やその全てがこの男に向いていた)
        (間を空けて立つダリオの思いはエイベルには分からない。しかし、二つの銃口は同じように『大鷲』の方を狙っている)
        (ダリオは考えていた。組織の上役であるこの男を撃ち殺す理屈をだ)
        (家族を殺された怨みではない。この男が利用しなければ、自分が利用していただけの話だ)

        「確かに俺は組織の駒だ。だがアンタの私物じゃあない
        手伝えよエイベル。こいつを殺してから、あらためて決着を着ける」

        (目の前の男は、貴重な組織の財産を私欲のために使い潰そうとしている。ダリオはそう理屈付けた)
        (実際には、より上層の者が、エイベルとダリオ達の利用価値を天秤に掛け、エイベルの方が価値があると判断されれば不問とされるのだろうが)
        (ダリオはここで殺されるわけにはいかなかった。復讐をやり遂げていないからだ)
        (そのための邪魔は排す。それが親代わりの人間であっても。妹を撃ち殺したダリオは、既にそのような情には縛られない)
        (憎い仇を万難を排して殺すために、今だけはそれ自身と手を組もう)

      • (仕掛けたのは同時だった。棒立ちの『大鷲』に向けて、エイベルが鋼線を放つ。空中に無数の線が走り、『大鷲』に向けて八方から迫る)
        (その隙間を縫うようにして、ダリオが銃火の雨を降らせる。それらの全てが、追尾する弾道と無数の死の呪いを孕む必殺の弾丸)
        (エイベルが逃げ場を殺し、ダリオが必中必殺の『凶星一条』で仕留める、即席とは思えぬほどの緊密な連携)
        (だが、『大鷲』は微動だにしない)

        「忘れたのですか?貴方たちの固有魔術を刻んだのは私だ
        詠唱も予備動作も不要とはいえ、魔術は魔術。術式が読めていれば解呪も出来る」

        (ダリオの放った必殺のはずの魔弾はその全てが目標に当たる寸前に消失している)
        (『凶星一条』を受けた相手が、春の微風を浴びたように涼しげにしているのは、ダリオにとって初めての体験だった)
        (だが、エイベルの鋼線は消えることなく残っていた。『大鷲』の手から伸びた――生成された――銀線に、空中に縫い止められながらも)

        「エイベルくんは術式を弄りましたね?なかなか優秀です。花丸をあげましょう。
        ですが忘れてしまっているようです。鋼線の技も元は私が教えたものだ。『一夜鍛冶』を使っての戦闘も。『一夜鍛冶』はもともと私のものなのですから」

        (エイベルの鋼線が弾かれる。次いで伸び来る無数の銀線は、獲物を狙う蛇よりも素早く狡猾な動きで迫り)

        「がッ……」

        (エイベルはそれを捌き切れない。虚実の付け方が深すぎる)
        (正しく老獪な手管だった。感情を希釈したエイベルの判断力は機会じみて冷静だ。しかし、いとも容易くその裏を突かれる)
        (本当に掌で踊っているようだと錯覚するほどに翻弄されて、エイベルは全身を手ひどく打ち据えられた)
        (殺す気ならば死んでいた。『大鷲』の目的は殺人者としてのエイベルを取り戻すこと、ならば致命傷は与えられずに)
        (どう銀線を操ったものか、意識が飛びそうなほどに続く激痛を味わわされる。さらに、その全身に銀線を巻き付け縛り付けられた)
        (指先一本に至るまで丁寧に束縛され、劇痛との二重の拘束によって、エイベルは動くことが出来なかった)

        「そこで見ておきなさい。貴方に復讐を誓ったダリオくんが何も出来ずに無残に死ぬ様を」

        (『大鷲』がこちらを処理している間に、ダリオは準備を整えていた。二丁の拳銃に装填されているのは、万一のために用意されていた実弾だ)
        (だが、ダリオにとってさえ、純粋に戦闘技術だけで立ち向かうのには荷が勝つ相手だった)
        (相手はエイベルと同じ固有魔術を持ち、エイベルを越える卓越した戦闘技術を持っている)
        (先の消耗戦では何発撃ったか知れない。それ以上の相手に、左右合わせて30発きりの装弾数で太刀打できるか)
        (『大鷲』の銀線が宙を舞う。その三次元的な無数の間隙を、ダリオは潜り、跳び、転がって躱す)
        (鉛弾では真っ二つに切り裂かれるだけだ。攻撃を止める役には立たない)
        (攻撃を避けながら、ダリオは機を窺う。無駄弾は一発たりとも撃つことが出来ない)

        「逃げ回ってばかりではいけませんね」

        (銀線が有刺鉄線のように姿を変えた。それは連なる撒菱で、部分消失によって分解されると辺りに撒き散らされた)
        (ダリオの足を殺す一手。だが、攻撃が止まったその隙をダリオは逃がさない)
        (鋼色の撒菱が落ち行く中で、二つの銃口から無数の鉛玉がばら撒かれる。マズルフラッシュも眩しいフルオートの全弾発射)
        (されど、その一発一発の弾道は計算され尽くされていた。神業ともいえる手技、もとよりこの部屋の中での戦闘を想定していたのだろうか)
        (部屋の壁、天井、床、その全てに絶妙な角度で放たれた銃弾が次々と跳弾し、全周囲から『大鷲』目掛け集束する)

        「0点です」

        (放たれた銃弾を、金属生成によって生み出された装甲がことごとく弾く)
        (全方位からの攻撃に『一夜鍛冶』で可能な対処は限られる。ダリオの読み通りだった)
        (複雑な物体を生成した直後の一刹那。そこを狙う。このタイミングなら新たに形状を弄る隙は無く、ディスペルを発動する余裕もない)
        (『凶星一条・齎死紅』。膨大な魔力を集束させ、あらゆる障害を貫いて呪死を齎す紅の弾丸が放たれる)
        (通常の弾丸よりも遙かに高い速度は、今までどのような標的をも過たず穿ってきた)
        (最早手の無いはずの『大鷲』は、当然の如く対処の一手を放つ。その右手から投じられたのは、表面に幾何学的な輝線を浮かばせる漆黒の短剣)
        (その鋒が紅の弾丸と衝突し、霧散させ、尚止まらない)
        (危険を感じたダリオが迎撃すべく放った無数の魔力弾も、一発たりとてその軌道を変えさせることすら出来なかった)
        (そして、吸い込まれるようにその心臓へ突き刺さる)
        (実にあっけなく。ダリオは床へ崩れ落ちた)

        「『鍛冶神(ゴヴァノン)の魔槌』。彼の神の持つ槌は、三振りすれば自在に武器を生み出し、その武器は投じられれば必ず命中し致命傷を与える。
        神代の魔術です。『一夜鍛冶』も、『凶星一条』も、これを元にして構築されている。模倣品がオリジナルに勝ることなどありえない。
        ―――さて?」

      • (『大鷲』が拘束していたエイベルに視線を向けると、彼はゆっくりと立ち上がっていた)
        (足下には彼を縛っていた銀線が無残に切り裂かれ落ちている)
        (エイベルの右手には黒い鋼線。幻想の金属で紡がれた糸は、拘束を易々と引き裂いていた)
        (痛みから回復すれば、脱出は簡単なことだった。その間にダリオは殺されてしまったのだが)
        (一度は酷く憎んだ相手だ。しかし、かつては兄として慕っていた。その頃の日々を思うと、ひどく哀しかった)
        (どうしてこんなことになってしまったのか。発端は自分の我が侭だった)
        (養父の背中を追ってしまったから。過去に暮らした誰が持ち込んだものか、『籠』の敷地の片隅に落ちていたコミックで、知ってしまったから)
        (それは極めて真っ当な、少年漫画らしい、勧善懲悪の物語だった)
        (その中で主人公は、偉大な父の背を乗り越えて、新しい未来へ進んでいった。ただそれだけの物語の断片に、エイベルは酷く憧れた)
        (親なんていなかったから。顔も知らない。エイベルは親と家族が欲しかった。それは多分本能で、どうしようもなく抗いがたい感情だった)
        (やがて与えられた任務で、後に養父となる彼に刃を向けたとき、感情は消していたはずなのに、心の奥底から激しい情動が浮かび上がった)
        (それは憧憬だった。欠如していた父性へのそれが、男の持っていた人を引き付けるカリスマと混じり合って。その背中を追い掛けたいと、ただそう思わせた)
        (死の象徴たる『黒い子供』は、その時ただの子供だった。拳の一打を受けて、宙を舞い、地に伏した)
        (その一撃で殺せたはずなのにそうしなかったその男は、エイベルの瞳を覗いて、そこに何を見て取ったものか、息子になれと言った)
        (エイベルはこれまで感じたことが無いほどに嬉しくて、一も二もなく頷いた。共に暮らしていた『家族』のことなど、その時は頭から吹き飛んでいた)
        (現在に至るまでの悲劇の発端となったその行いを、果たして罪と呼ぶのだろうか)
        (エイベルには分からない。分からないが、消えていった命は背負わなければならないと思った)
        (それはかつて自分が手に掛けた人々のものも含まれた。自分のせいで失われてしまった全ての命に対する、それは責任だった)
        (何故そうするのか。犠牲になった彼らの上に自分が生きているからだ)
        (酷く自分勝手な理屈だ。一人のうのうと生きているなら、何故死んでしまわないのか)
        (彼らが犠牲となる大元の原因を為した者達も、まだこの世界に生きているからだ)
        (人の生を啜って蠢く巨大な怪物、人殺しの組織『幸福の園』、その一端が、今目の前にひとり)
        (殺さなければならない、と思った。そう信じた瞬間、心は全く凪いでいた)
        (細波の一つもない。心の水面は殺意に平らで、喩えようもなく静かだった)
        (存在感が消え失せる。人の気配は最早無く、物質的なそれすらない)
        (視覚は捉えているはずなのに、認識することが出来ない。空気に溶けて消えたかのように『消失』する)

        「―――素晴らしい!この私にも『見えない』!!素晴らしい!!傑作だ!!素晴らしい!!」

        (『大鷲』があげる歓声や喝采も、意味を為さない。殺意を増しも減らしもしない)
        (殺さなければならないという事実は揺るがない。それと同じくエイベルの心も揺らがない)
        (音も殺気もなく、漆黒の鋼線が宙を奔る。当たるならばまず何処だろうと構わない。外傷を積み重ねた先、やがて殺せさえすればいい)
        (剣での戦いでは不可能な戦術、それほどの攻撃の速度と密度)
        (だが、『大鷲』はその全てを、肌に鋼線が触れた瞬間、漆黒の金属をその内側に生成することで防いでゆく)
        (技の冴えが僅かに足りない。先ほど全身へ受けた鞭打ちめいた打撃が効いていた)
        (不可視必殺の斬撃が、不可視ではありながら必殺では無くなっていた)
        (『大鷲』を殺すには僅かに隙が足りなかった)
        (そして。数々の攻撃が浮かび上がらせるその空白、残影を追って、『大鷲』はエイベルの姿を捉えかけている)
        (先ほど撒かれた撒菱が、エイベルの機動を制限していた。それがその時々の居場所を限定する材料となっていた)
        (最早不可視に優位性は無く、隙を作るために動いた瞬間、捉えられ勝負が決する。エイベルにはその確信があった)
        (戦闘が膠着する中、もう一人、エイベルを捉えかけている者がいる―――ダリオだ)
        (『鍛冶神(ゴヴァノン)の魔槌』は、如何なる者にも助からない傷を与えるが、それがもたらす死は必ずしも即時のものではなかった)
        (失血に霞む視界に、『大鷲』の姿と、エイベルの影を捉えながら、手首に仕込んだデリンジャーを感覚する)
        (―――どちらだ。どちらを撃つ)
        (撃てるのは一発きり。それ以上の余力はダリオには残されていない)
        (復讐を遂げるのだ。尽きゆく命だ。後のことなど考える必要はない)
        (その意思に従い、エイベルへと銃口を向けたとき、ダリオの脳裡に過ぎるものがった)
        (それは臨死の幻想だったのかもしれない。だが、その時確かに、ダリオの目には見えていた)
        (妹のアメリアの透き通った瞳と、その微笑みが)
        (兄の過ちを赦し、大切な人の幸福を願うその笑みが)
        (ダリオに狙いを変えさせた。最後の瞬間だけは、ダリオは誤らなかった)
        (デリンジャーの引金を引いた。矮小な弾丸が飛んでゆく。『大鷲』の背へ向けて)

        「やれやれ、出来を見誤りましたか」

        (生成された装甲に阻まれ、傷付けることは叶わない。だが、彼の注意が僅かにこちらへ向いた。それだけで十分だった)
        (妹の愛した弟分が、俺たちの敵を仕留めるには)
        (血の華が咲いた。『大鷲』の身を漆黒の鋼線が引き裂き、その右手と左足を粉砕した)
        (身を捩り、辛うじて致命傷を避けた『大鷲』が不気味に笑う)
        (無事な左手に黒い短剣。表面に幾何学的な輝線が走る)
        (その瞳に走るのは狂気か。手に入れたいと語った生徒に放つのは必殺の鋼)

        「最期に出来を確認したい。本当の傑作ならばしのげるはずだ」

        (対するエイベルの手に生成されたのは、漆黒の長剣。単分子の厚みの刃先を持つ、幻想金属の刃)
        (その表面に走るのは幾何学の輝線。多色の光が混じり合って白い)
        (剣を振るう。漆黒の長剣が正調の動きに従って運動し、付与された呪いごと放たれた黒鉄を両断する)

        「―――見事。あなたはやはり最高だ」

        (最早消える必要は無い。姿を晒し、感情を曝す)
        (『大鷲』の喉元に剣を突き付けて、言葉を放つ)

        「人を物と扱うお前に、俺の―――俺たちの価値は、分からない」

        (歪笑する『大鷲』の首を刎ねる。それで終わりだった)
        (悲劇の幕は引かれた。終わってみればあっけなく、自分独りしか残っていない)
        (大きな空虚感を押し込める。死んでいった家族達のために、まだ自分は足を止めてはならない)
        (だが、少しだけ―――残された学園生活を楽しむくらいの休息は、許されてもいいだろう)
        (踵を返した時、オルゴールの音色が鳴った)
        (ダリオの懐からこぼれ落ちたロケットが蓋を開いている)
        (写真の中のアメリアが、優しく微笑んでいた。どこか懐かしく優しい音色は、家族皆への鎮魂歌のようだった)
  • (春の陽気が初夏の気配を孕んで、その日は随分温かかった)
    (街路の隙間を縫うように、エリアルバイクを走らせれば、身に当たる風も心地よい)
    (空を飛んだ方が目的地には早く着く。空にはカーブも信号も無いからだ)
    (だが、ここしばらくは飛行を控えていた。刺客の残りがダリオだけとなった以上、彼の狙撃にいつ狙われるか分からないためだ)
    (ダリオの固有魔術は『凶星一条』。エイベルの出身地ではまだ珍しい銃器を用いるそれは、必中必殺の魔弾を放つ)
    (警戒を怠ってはならない。何も出来ずに死にたくないのなら)

    • (エリアルバイクが規定高度未満の地表付近を走行する場合、地上の車両と同じ交通ルールに従うことになる)
      (上空に無数の機械式、あるいは魔術機関式の機体を仰ぎ見ながら、一般居住区の外れを走り抜ける)
      (この辺りは路地が三次元的に複雑で、見通しの利く場所が少ない。スポットが限られ狙撃には不向きだった)
      (居場所さえ掴めればこちらから乗り込むのだが。ダリオの足取りは一向に掴めなかった)
      (最早この都市に自分を狙っている者はいなくなってしまったのではないか。それほどに穏やかな日が続いていた)
      (尖り切った警戒心を懐柔し鈍磨させるような、生温く間延びした空気が続く。命を奪うには絶好の日和であるといえた)


      • (精霊通り付近の交差点。前方の信号が黄から赤に変わる。前方のバンが減速するのに合わせ、自分も停車しようというとき気付く―――)
        (ミラーに映る後方のトラックがスピードを弛めない。むしろ加速してすらいる。運転手の焦りに満ちた表情が目に入る)
        (悪趣味なサンドイッチの予感。具は自分の挽肉かと、慌てて高度を上げ逃れた。大出力の精霊機関を積んだ軽量級の機体だからこその機動性、垂直上昇)
        (眼下に追突事故を見下ろして、命を拾ったことに胸をなで下ろしつつ、さて運転手は無事かと注意を向けた瞬間のこと。何か暗くはないか?)
        (違和感に頭上を見上げた瞬間。上空から振り落ちるジャイロプレーンが目に入る。何かを考える暇もない。アクセルグリップを全開で捻り込み加速する)
        (漆黒の機体が唸りを上げて、前方へと突っ込んだ。向かい来る電線や高架を躱し、擦り抜け、交差点へと抜けた時、横合いに巨大な影が見えた)
        (それはこのような街中に到来するはずがないものだった。中型の飛空艇。中型といえど街路を埋めるほどの大きさがあり、威容と呼んで差し支えなかった)
        (その巨体が、計算し尽くされたようなタイミングで、両脇の建物に翼を擦らせながら、全開の速度で横合いから猛進する)
        (さながら壁が迫ってくるかのよう。通常の機体ならば最早逃れる術などなかった)
        (信号無視の小学生が轢かれる瞬間とはこのようなものかと、どこか遊離した意識で考えた)
        (同時、殆ど無意識に指が踊る)
        (左グリップの付け根の赤い輝点。カバーを跳ね上げ、ボタンを押し込む。燃焼室内に無水アルコールが噴射され、酒精に酔った機関の精霊が暴れ出す)
        (エンジンが唸りを上げて、爆発的な加速を生んだ。風圧から逃れるように身を低くし、歯を食いしばる)
        (精霊機関版NOS。瞬間加速のシステムが、エイベルの命を救っていた。信号機より僅かに高く、テールランプを飛空艇に僅かに擦られながら、交差点を駆け抜けた)
        (加速の持続は30秒。再使用には1分。時間を稼ぐべく、建物の影に逃げ込んだ)
        (明らかに攻撃を受けている。それもなりふり構わない苛烈なものだ)
        (そして―――信じたくなかったことだが―――このような攻撃が可能な人物には、エイベルは心当たりが一つしかなかった)

        ロニー……どうして!?

        (ロニーの固有魔術は『狂乱車輪』。機械動力に干渉し強制的に遠隔操作を行う。大抵の機体は想定してもいない。その結果がこれまでの惨事だ)
        (科学に劣るエイベルの故郷では、そのような乗り物は少なかったが、近年は確実に移入が進みつつあった)
        (そのような流れを考慮して、当時最も若かったロニーに先行して与えられた、『機械を狂わせる』魔術)
        (機械文明華やかなりしここエリュシオンでは、機械式の乗用機械などいくらでも走っている)
        (周囲の被害を気にしないのなら、地の利は確実に向こうにあった)
        (胸をなで下ろすべきは、直接にエイベルの乗機を操作してこなかったところからして、機関内部の精霊が免疫にでもなっているのだろうか、精霊機関搭載の機体には干渉できないであろうこと)
        (だがそもそも、ロニーはエノーラと共にエリュシオンから去ったはずではなかったか)


      • 《久しぶり。エイベル》

        (思考を読んだかのように声。発生源はビキニカウル下に搭載されたオーディオ。スピーカーを操って声を届けているのだと知れた)
        (通信機能は積んでいない。向こうが一方的に話しかけるだけになる)
        (ノイズ混じりに届く声は、声変わりしきっていない少年のものだ。それが深い怒りを孕んで震えている)
        (エイベルは酷く厭な予感がして、聞きたくないと思ったが、その声を止める術はなかった)

        《エノーラの仇を討つよ。被害を広げたくないなら、今すぐ出てきて死んでよ》

        (心臓が、衝撃に深く拍動した。彼女が最後に見せた微笑みが頭を過ぎる)
        (誰だ。彼女を殺したのは。思い当たるのは一人しかいなかった)
        (彼女が止めてほしいと願った、『あの人』)

        「ダリオ…!」

        (逃げようとしたエノーラを殺して、ロニーまでもを戦いに駆り立てるそのやり口の卑劣さに)
        (怒りのあまり割れそうなほどに奥歯を噛み締めるのも僅か)
        (次の瞬間には感情が全く凪いでいた)
        (覚悟を決める。平静を取り戻す。より深く、より薄く、より静かに、より機械的に、より自動的に)
        (人としての気配がしなくなる。目の前にいても見えないのではないかと思うほどに、感情とともに存在までも消えてしまったかのようだ)

        《出てこないと、その建物ごとやるよ》

        (現在位置は、入り組んだ路地の、さらに建物の陰。目視できる場所は限られる。狙撃を警戒していたがために、三次元的な地理を完全に把握していた)
        (また、『狂乱車輪』による遠隔操作の射程は有限だ。そう離れた位置からは操作出来ない)
        (先ほどと同じ飛空艇が壁を粉砕しながら飛び込んで来たのをコマ送りで認識しながら、その飛行ルートと、『狂乱車輪』の射程とを照らし合わせる)
        (さらにこの場を確認することの出来る場所となれば、一箇所しかなかった)
        (ビルの破片が飛び散る中、極限の冷静さでアクセルを回し込んだ)
        (無数に飛び散る瓦礫の破片を、さながら空中に針穴を連ねて糸を通すように、空白を縫って躱してゆく)
        (精密巧緻で感情の籠もらない動作はあたかも高度な人工知能による自動操縦のようであり、操縦者と乗機が一つの機械となったようだった)
        (機械的に情報を紡ぎ合わせた結論の場所を目掛け、一本の黒い矢のように駆けていく)
        (だが、ロニーは黙してそれを見ているわけではなかった。片っ端から個人用の飛行機械を操り、突っ込ませてくる)
        (人が乗っているかいないかなどお構いなしだ。無数のパイロットの悲鳴が耳を打つ)
        (エイベルはただ機械的にそれらを避ける。避けきれないものは左手で鋼線を操りプロペラやバーニアを一部損壊させて軌道を変えた)
        (不運なパイロットを助けるなど思考に無い。一部の無駄もなくただ迅速にロニーを止めるだけに動いている)
        (飛行機械そのものによる弾幕が晴れた時、ついにロニーの姿を捉えた)
        (おそらくは完全機械式だろうエリアルバイクに跨っている。場所を変えればそれだけ『弾』も補充できる)
        (そうはさせるまいと機体目掛けて鋼線を放った。常ならば必殺の間合、速度、しかし)
        (通常の操作では不可能な急発進で躱された。機械操作の魔術で操縦者の意思をダイレクトに伝えて機動し、並ならぬ速度で疾走する)
        (即座にNOSを起動して追い縋る。爆発的な加速で、再び射程に捉えるまで時間は長くかからない)


      • 《来たね、エイベル》

        (追い詰められているのに、ごく落ち着いた声音だ。それが狙い通りだったとでもいうように)
        (獲物を罠に誘い込んだ気になっている者に特有の、どこか『してやったり』という声だった)
        (見えないところに待機させていたのだろう。軍用の戦闘飛行艇が眼下の路地に待ち構えていた)
        (八門の重機関砲を頭上に――つまりこちらに――向けて)

        《お前に八つ裂きにされたエノーラみたいに、バラバラにしてやる》

        (砲門が火を吹くその寸前に、エリアルバイクをバレルロールした)
        (逆さまに、両足で機体を抱え込みながら、両掌を眼下に向ける)
        (それより放たれたのは幾条もの光を返さぬ漆黒の糸)

        「『一夜鍛冶・幻想金属』」

        (エイベルが魔術回路の補修によって取り戻したもの)
        (学友の前だろうと、かつての家族の前だろうと、一度たりとて用いたことのない切り札)
        (生成されたのはこの世に存在するどの金属元素にも当て嵌まらない物質)
        (あらゆる金属よりも強靱かつ堅牢、如何なる熱もこれを融かせず、如何なる冷気もこれを砕けず、如何なる雷もこれを貫けない)
        (それは空想の中にしか存在しない。それは幻想の中にしかありえない)
        (膨大な量の魔力により練り上げられたこの世に存在しないはずの金属は、極限まで研ぎ澄まされた鋼糸と化して)
        (戦闘艇の装甲を、重機関砲の砲身を、何の抵抗もなく微塵に裂いた)
        (そして、エリアルバイクを再び反転させ、その慣性を鋼糸に乗せて翻す)
        (戦闘艇の操作に集中し反応が鈍っていたロニーの機体が細切れに分割されて地に落ちる)
        (だが、ロニー本人は傷つけていなかった。黒い金属糸で拘束し、力加減ひとつで殺せる状態ではあったが)
        (事態が飲み込めずにいるロニーに、冷たい声を吐きかける)

        「エノーラの死体を見たか」

        (ロニーはエノーラの死に様を『八つ裂き』と言った)
        (ダリオが殺したのならば、銃による傷で死んでいなければならない)
        (ロニーとて殺しに携わるもの。死体を前にすれば死因ぐらいはあらためる)
        (銃で殺した後に解体しても分かってしまうし、ならば刃物を使い白兵戦で殺すかといえば、ダリオがそのようなリスクを犯すとも考えにくい)
        (エノーラとて、ある程度の戦闘技術は仕込まれている。ダリオが自分の専門ではない白兵戦を挑むとすれば、リスクが大きすぎる)
        (単にダリオが『エノーラはエイベルに殺された』と嘘を吐いただけという可能性もある)
        (それならばエノーラはダリオが殺したか、あるいは未だ生きている)
        (いずれにせよ、確かめなければならなかった)
        (殺せと叫くロニーに、再びそれを問いかけた。指先にごく僅かに力を込めて)


      • 「エノーラの死体を見たか」

        (ロニーはエノーラの死に様を『八つ裂き』と言った)
        (ダリオが殺したのならば、銃による傷で死んでいなければならない)
        (ロニーとて殺しに携わるもの。死体を前にすれば死因ぐらいはあらためる)
        (銃で殺した後に解体しても分かってしまうし、ならば刃物を使い白兵戦で殺すかといえば、ダリオがそのようなリスクを犯すとも考えにくい)
        (エノーラとて、ある程度の戦闘技術は仕込まれている。ダリオが自分の専門ではない白兵戦を挑むとすれば、リスクが大きすぎる)
        (単にダリオが『エノーラはエイベルに殺された』と嘘を吐いただけという可能性もある)
        (それならばエノーラはダリオが殺したか、あるいは未だ生きている)
        (いずれにせよ、確かめなければならなかった)
        (殺せと叫くロニーに、再びそれを問いかけた。指先にごく僅かに力を込めて)

        「……見たよ。そんなの確かめて楽しいのかよ!自分が無残に殺しておいて、それを僕に見たかどうかって確かめて!さっさと殺せよ!エノーラみたいに、早く!」

        「殺したのは俺じゃないッ!!」

        (一喝した。いつの間にか感情は戻っていた。元よりロニーを殺せなどしないからだ)
        (彼はエイベルにとって弟のような存在だった。人生で初めて出来た、『守ってやらなければならないもの』だった)
        (傷つけたくなどなかった。戦いたくなどなかった)
        (だから、指先にこれ以上力を込めることなど出来なかった。慟哭が空に響く)

        「エノーラはお前を連れて逃げるって言ったよ。家族が殺し合うのなんて嫌だからって。なのにお前がなんでここにいて、俺を殺そうとするんだよ
        俺だって嫌だよ。でもアレンは止まらなかった。殺さなければ殺されてた。だから殺した。殺してしまった。でも殺したかったわけじゃないんだよ
        逃げるエノーラをわざわざ追い掛けて殺すなんてするものか。なんでそんなことするんだよ。お前も、ロニーも止まれよ。止まらなきゃ殺すしかなくなっちまう。俺に殺させないでくれよ、頼むからッ!!

        (心の底から哀しみが湧いて止まらなかった。涙で視界が滲む。声が震える)
        (感情のままに言葉を吐き出したのなんて、いつ以来だろう。止めようがなかった。腹の底から湧いてくるように、口から出て止まらなかった)
        (エイベルの感情の爆発を受け止めて、ロニーは戸惑ったような表情をいくらか浮かべた後、そっと目を伏せた)
        (それが、恐らくは仕組まれたものとはいえ、本気で殺し合った後に正面から顔など見られない)
        (続く声音も、どこか怯えたような気まずさを孕んでいた。過ちを咎められるのに怯える子供の声だった)

        「……わかったよ。もう殺そうとなんかしない。だから降ろしてよ。宙吊りは辛いよ」

        (涙を堪えてバイクを操り、手近な屋上に降ろして開放する)
        (日射しの中で向き合うと、ロニーは膝を抱えるようにして座って、促されるわけでもなく語り始めた)

        「エノーラの死体は僕が見つけたんだ。傷口をみてもワイヤーのものだったし、他に外傷はなかった。
        咄嗟にエイベルの仕業だって思って、殺してやろうって、ずっと機会を窺ってた。
        ねえ、エイベル。教えてよ。エノーラはいったい誰が殺したの?」

        「分からない。ダリオでも無さそうだ。だが、『籠』の同期じゃ俺たちとダリオしか残っていない
        無関係の誰かにみすみす殺られるほど、エノーラも弱くない。……調べてみるしか、ないな」

        「僕も協力するよ。僕からダリオに話してもみる。いい顔はしないだろうけど、放っておけない問題だ。
        ……おかしいね、殺し合わなきゃいけないのに、協力するなんて。……でも、悪くない」

        (ロニーがそう笑いかけた。「ああ、守らなければいけない笑みだ」)
        (少しだけ過去に戻れたような、和やかな空気。麗らかな初夏の日射し)
        (尖り切った心を柔らかく包み溶かすような、温かい空気)
        (―――警戒が薄れるこのような時こそ、油断してはならない。この事実を、片時の懐旧が忘れさせた)
        (引き裂いたのは銃声だった。続いて血飛沫だった)
        (ロニーが側頭部から血液と脳漿を噴き出させ、真横に崩れ落ちる)
        (どこか人形みたいな動きでゆっくりと。日射しに白んだ視界にその光景はどこか現実感がなかった)
        (なるほど日中目を覚ましたままみる空想を白昼夢と呼ばしむるのはこういうわけかと、どこか遊離した思考を浮かべて)
        (次の瞬間、それは黒く染まっていた)

        (どのような手段を用いたとしても、エノーラを殺したのはダリオに間違いが無かった)
        (全て俺を苦しめたいがために、あらゆる家族の命を使い捨てた)
        (守るべき親友も、愛すべき彼女も、守るべき弟も、全て、このくだらない争いのために死んでしまった)
        (だから、決着を着ける。死んでいった家族のために)
        (この命を賭しても、例え刺し違えることになったとしても)

        「ダリオを、殺す」

        (その声は殺意で真黒く染まって、日射しの中に一点の染みをつくるようだった)
  • (四月。夜。エイベルが店に出たとき、既に彼女は待っていた)
    (薄暗い穴蔵のようなバーのカウンターで、無数の酒瓶で陣地を作って、その内側に突っ伏して。そしてその酒瓶の全てが空だった)
    (酔いどれた顔で、銀の髪を掻き上げる。目があうと、彼女は笑った。美しく、どきりとするような笑みだった)

    「……エイベルだ」

    (良く通る声で名を呼んで、彼女はエイベルに胸を押しつけながら抱きついた)
    (猛烈に酒臭かったが、それどころではない)
    (何しろ彼女は―――敵なのだ。命を奪い合うべき)
    (その相手に懐に入られた動揺と、豊かな胸の感触とが、エイベルを硬直させていた)
    (彼女はそれを意に介したふうもない。それどころか、エイベルを抱きしめたまま泣きじゃくる)

    「エイベル、エイベル。心配してたんだから。こんなに大きくなって、本当によかった。よかったよ……」

    (そしてぐずぐずと崩れ落ちようとする彼女を、慌てて抱き留めた)
    (店長が後ろから小声で声をかけてきた。曰く)
    (『このお客さん、開店からずっとこの調子なんだよ』)
    (『エイベルくん、知合いならこのお客さんどこかへやってよ。今日はもういいからさ』)
    (『うまくやりなよ』)
    (最後のセリフには爪先を踏み付けることで返事をしたが、場所を移したいのは確かだった)
    (店長の言葉に甘えて、彼女に肩を貸して外に出る)
    • (少し歩けば、公園があった。人気のない、ぽつんと一本、夜桜の咲く公園。ベンチに座らせて、彼女に自販機で買った水を与えた)
      (話ができる状態ではないようにも見える。それでも彼女なら、その気になればすぐ回復できるのだ)

      「エノーラ」

      (エノーラ。彼女の固有魔術は毒を操るものだった。本人を守るための機能も組み込まれている)
      (だから、アルコールやアルデヒドの分解なら造作も無かった)
      (言葉で目を覚まさせてやるだけでよかった)

      「アレンを殺したよ」

      (それだけ告げると、エノーラは顔を上げた。顔の赤みはとうに失せていた。素面の顔だった)

      「知ってるわ。……不器用な子。逃げちゃうことだって出来たのに」

      「あいつにはそんなこと出来なかったよ。馬鹿正直な奴だから」

      (殺し合う関係になったのに、不思議な空気だった。お互いが家族の死を悼んでいたし、家族の死に傷ついていた)
      (自販機で買ったただの水をどちらともなく、弔い酒のように口に運ぶ。哀しみを飲み下して、エノーラが口を開いた)

      「本当にそう、馬鹿ばっかりだわ。あなたも、ダリオもよ。家族で殺し合う必要なんか、どこにもないのに」

      (平静を装っているが、悲痛さがどこかに滲んだ声音)
      (エノーラの痛みは本物だ、と感じた。彼女はあの頃から誰よりも優しく、家族のことを想っていた)
      (一度聞いたことがある。肉親を亡くした時のことを覚えていると。一人一人のその顔も)
      (もう誰も失いたくないからと、初めての任務の前に、そっと抱きしめてくれた)
      (それなのにこんなことになってしまって、彼女の苦しみはどれほどのものだろう。エイベルはそれが恐ろしい)
      (次の言葉も続けたくはなかった。でも、言わなければならなかった)

      「でも、アメリアも死んでしまった。ダリオが自分で殺したって。なら、お互いもう後戻りは出来ない」

      (エノーラは目を伏せた。現実から過去へと少しだけ意識を移して、言葉を続ける)

      あの子はどちらにしろ長くなかった。だって、知ってるでしょう?あの子は『蜜蜂』だった。遅かれ早かれ死んでいたわ。
      最期にあなたに会いたかったのよ。そのために命を使って、そして死んだ。誰かを殺すために死ぬより、よほど幸せよ。愛のために死ねたんだもの。」

      (『蜜蜂』とは、使い捨ての子供だ。それとは知らされずに自爆の術式を刻まれて、暗殺対象者の周辺に紛れ込ませられる)
      (後は、外の人間か、もしくは彼ら自身が起爆するだけだ。子供の命を燃やして、無数の人間の命を奪う)
      (アメリアの死に方は、確かに『蜜蜂』のそれよりはましな死に方だったのかもしれない)
      (でも、納得なんかできない。誰にも。エイベルにも、目の前で悲痛に胸を焦がすエノーラにも)
      (死んだアレンだってきっとそうだった)


      • 「そうやって納得なんかできるものか。アメリアが死ぬ必要なんてなかったんだ。
        そもそも俺たちが誰かを殺す必要だってないんだ。それで誰が幸せになる。俺たちが人を殺して、『誰かを幸せにする』、『孤児を生まなくする』なんてあるわけがない。
        『園』が人を殺すのは、そんなためなんかじゃない。だって、実際に竜害を止めて、竜害孤児を生まなくしたのは、俺の養父と爺さんだ。
        竜害は『園』の刺客となるべき孤児を作ってくれる、『園』にとってはむしろあるべきものだ。それを止めさせないために、オヤジを殺そうとして俺を差し向けたじゃないか。
        ダリオだって気付いているはずだ。いや、アメリアを殺した時にだって、気付いていたはずだ」


        (だが、ダリオは、エイベルよりずっと年長で、任務に『籠』の外に出て任務についた機会も多く、その期間も長い)
        (だとすれば、その可能性もあり得べきことだった)

        「……そう。ダリオも分かっていたことよ。でもね、あの人はそれで納得なんかしなかった。できなかった。
        信じていたことをいきなり捨てるなんてことは出来ないのよ。組織の無謬を思考の基盤に叩き込まれて育って、いきなりそれをひっくり返すなんてことは。
        それにね。ダリオがやらなくっても、他の誰かがやっただけだわ。
        組織っていうのは、巨大な機械よ。それが動いていること自体が誤りだって誰かが気付いても、誰にもそれを止められやしない。
        私たちみたいな歯車は回るためだけに回るしかない。中にいる以上は連動させられてしまう。組織がそういうふうにできているからよ。
        結局ダリオは、愛を選べなかった。取り返しのつかないことをしてしまった。
        そして、止まることができなくなってしまった。アメリアの死をあなたのせいにして、自分の過ちから逃げている」

        (組織の規範を裏切れず、妹を自ら手に掛けた。引金を引いてしまった。納得なんてできないままに)
        (そして―――自分を許すことができなくて、許されたくて、エイベルの命を狙っている)
        (エノーラは哀しんでいた。この悲劇の全てをだ)
        (だから望んだ。幕引きを)

        「お願い、エイベル。あの人を止めて」

        (彼女にはそれが出来ないから。)
        (直接戦闘の能力は、彼女には無いといってよかった。エイベルやダリオを仕留められるほどでなければ、無いのと同じだった)
        (色香で男を惑わし、情交の最中に固有魔術による毒で殺す)
        (彼女の戦い方は、そういったものでしかなかったから)

        「私にはダリオを止めることはできない。あなたを殺すこともできない」

        (目に涙を溜めて言葉を続ける。白い肌を透明な雫が伝った)

        「だから逃げるわ。ロニーを連れて。こんなことはもうたくさん。
        追手が来たって、なんとかしてみせる。ロニーの魔術なら、それができるから」

        (風が吹き、夜桜が散る。花片と、銀の髪とを巻き上げる)
        (エノーラは、『だから』と続けた)

        「だから、あなたは生きて。
        あなたは、私たちみんなが欲しいと願って、そして得られなかったものを持ってる。―――本当の家族を、陽の当たる暮らしを。

        (街灯も届かない月明かりの下、つくりもののような貌で、エノーラは優しく儚く、それでいて悪戯な笑みを浮かべる)

        あなた、我慢してるでしょう。恋とか、愛とか。

        (エイベルは目を見開いた。いきなり何を言い出すのだと)
        (そして思い出す。エノーラにはそういうところがあった。唐突な物言いで周りを振り回すようなところが)
        (けれど彼女はいつだって無邪気で、悪びれず、憎めないのだ)

        「図星だ、って顔ね。本当に人間らしくなった。昔のあなたは本当に機械みたいで、怖いくらいだったけど。今の方がいいわ。
        ……見ていればわかる。私は男心の専門家よ?あなた、一番大切な人ができたらダリオが奪いにくると思って、恋心を希釈させてるでしょう。
        本当に愛がほしいのに、彼女がほしいほしいっていいながら、実際は気のない素振りばっかりしてる。恋心っていうのは、消すのが大変なのよ。すごく強い感情だから」

        (本当に図星だった。返す言葉もなかった)
        (エイベルをよく知る、ハニートラップの達人だからこその洞察だった。すっかり的を射たそれは、エイベルを硬直させていた)

        「いい。周りが幸せなら自分が幸せ、っていうのは欺瞞よ。自分の幸せを求めないことなんて誰にも出来ないんだから。
        そうやって我慢して、心に無理ばかりかけていては、いつか限界がくるわ。だから、さっさとけりを付けて、あなたが壊れてしまわないうちに、大切な人を見つけなさい。
        寂しさは毒よ。やがてあなたを殺してしまうわ」

        (実感の籠もった声。男を誑かして殺すうち、男女の愛も、恋も、エノーラは信じられなくなっていた)
        (理性では信じていなくても、本能は温もりを求めていた。寂しさという埋まらない隙間を心に抱えてしまっていた)
        (自分はそれをもう埋められないからと、エイベルに託したのだ)
        (それは呪いだった。それを得ることの出来る相手への羨望が生んだ呪い)
        (「私の分まで幸せになって」という、一方的な願望の押しつけだった)

        「ありがとう」

        (しかし、エイベルは頷いた)
        (彼女の想いに家族として報いてあげたかったから)
        (そのためにも、自分のためにも。この悲劇に幕を引いて、幸福を掴むのだ。本当の幸福を)
        (肯定に、エノーラはくすりと笑う)
        (それは仮初めの平和の内にいたあの頃に戻ったような、素敵な笑みだった)

        さようなら、エイベル。どうか、元気で。

        (銀の髪の彼女が足を翻し去っていく)
        (桜の舞い散る夜道を、光の当たらないどこかへと)
  • (貧民街。エイベルはあれから幾度となく足を運んでいる)
    (過去が彼に追いすがったあの日から、何度でも、確かめるように。あるいは、誘うように)
    (仕掛けてくるならここしかないと確信があった。ここの住人は厄介事には関わらない。せいぜいが野次馬となるか、より危険そうなら逃げるだけだ)
    (学園の公共施設では、ほぼ間違いなく邪魔が入る。それこそ、エイベル以上の実力者などいくらでもいるのだ)
    (彼らが狙っているのは自分なのだ。冷静に考えれば、一対一で闘れる状況を選ぶはずだった)
    (自分が育った『籠』の中では、暗殺向きなのは自分とダリオ、それにエノーラだけだ)
    (エノーラの手口は、顔を知っている自分にはいきなりは通用しない。今は考慮しなくていい)
    (ダリオは恐らく、しばらくは襲って来ない。俺を苦しめようとするはずだからだ)
    (そして、俺の周りの人々を、理不尽に傷つけるようなこともしない。確実に俺と決着を着けるのに、邪魔が入らないようにするためだ)
    (恐らくダリオのやり方はこうだ。俺を他の家族と殺し合わせ、存分に苦悩させた後で、正面から出てきて俺を殺す。エイベルはそう予測していた)
    (最愛の妹を失ったダリオならそのくらいのことはやってのける。あの目はそういう目だった)
    (奴の実力と固有魔術であれば、正面からでも充分容易に俺を殺せる。それは、他の者でもそうだろう)
    (だからこうして、仕掛けられるのを待っていた。爪は研がれた。友人のお陰で、あの頃の技を取り戻した。後は覚悟を決めて殺るだけだと)
    • (歩を進めるうち、賭試合、ストリート・ファイトの喧噪に行き会った。ふと、空気の違いを感じ取る。来たか)
      (瞬間、予感が確信に変わる。砲声にも似た轟音が腑を揺らす)
      (アミュレットの残骸を飛び散らせながら、傍らを人間が通り過ぎた。街路脇に積み重なった塵の山に突き刺さる)
      (アナウンスが叫ぶ。『チャンプ、破れる!!』)
      (チャンプとは、このファイトにおいて最多勝利数及び最高勝率を誇る王者のこと。『嵐を呼ぶペイズリー』の二つ名を持つ植物使いのことだ)
      (しかし彼は今、初参戦の挑戦者の一撃を受け、ゴミ山に沈んでいる。アナウンスがそう告げた)
      (挑戦者は放ったままの拳をこちらに向けている。彼の燃えるような赤毛が精悍な顔に透ける在りし日の面影を浮き彫りにしている)
      (突き出された拳から、かつて差し出されたその手を思い起こす。あの日の記憶、あの頃の記憶)


      • 「僕はアレン。君は?」
        (握手のつもりなのだろう。差し出された手を無感情に見ながら、幼いエイベルは立ち尽くしていた)
        (無視しているのではない。どうしていいかわからない。赤毛の少年は人なつっこい笑みを浮かべて、首を傾げる自分の手を取った)
        「よろしくね。家族が増えてうれしいよ。同じくらいの男の子がいなくて、ちょっと寂しかったんだ」
        (彼の瞳は、おそろしいほどに澄んでいた。心の奥底まで曇りなく透けて見えているような透明度。純然たる善意がそこにはあった)
        (彼の伸ばした手が、エイベルにとっての最初の救いの手になった)
        (アレンはいつでも真っ直ぐで、直截で裏表が無かった)
        (悪いことは悪いといったし、良いことは良いといった。正しいと思うことは正しいといい、誤りと思うことは誤りだといった)
        (そして、それ故に、冷え切った幼いエイベルの心に火を熾し、動かすことが出来たのだった)
        (それはエイベルが最初に覚えた友情だった。そしてアレンもまたエイベルを親友と捉えていた)

        (純粋で、真っ直ぐで、単純で、騙されやすい、赤毛の少年)
        (それは彼が純粋であったからで、故に、『園』の歪んだ教えにも、疑問を抱かなかった)
        (エイベルが『園』を出る前、最もその教えに染まっていたのは、他ならぬアレンだった)


      • (その彼が今、エイベルに拳を向けている)
        (彼は彼の正義に従って、エイベルを正そうとしている)
        (アレンがその首からアミュレットを引き千切り、捨てた。平等な条件で闘うということか。ゆっくりと呼吸し、気を高める)
        (その気迫で、人混みが割れた。視線が合う。紅色の瞳は太陽のように力強く、その輝きで焼き尽くすかのようだった)
        (エイベルは背中が冷たく濡れるのを感じていた。本当に勝てるのだろうか、自分は、と)
        (だが、アレンはその怯懦を許してはくれない。容赦のない、真っ直ぐな戦意がエイベルを叩く)
        「エイベル。君は正しくない」
        (距離は10m以上あった。それを一歩で詰めて至近、爆発的な呼吸から、迫撃砲のような拳が放たれた。破壊的な震脚が石畳を粉砕する)
        (紙一重、外側に躱す。回転を加えた裏拳が間髪入れず放たれエイベルの脇腹に突き刺さる)
        (10m以上吹き飛んで、建物の壁にしたたかに背中を打ちつけた。呼吸が詰まる)
        (半ば自分から跳んだとはいえ、相当な衝撃だった。拉げた金属板が地面に落ちる)
        エイベル。君は与えられた任務を失敗したのに、自刃もせずのうのうと生きている」
        (一歩、また一歩と歩みよるアレンの周りでは、怒りが熱となって、陽炎のように揺らいでいる)
        「君のせいでアメリアが死んだ。君は選択を間違えた」
        (比喩ではない。実際に熱量が上がっているのだ。これがアレンの固有魔術、『烈日烈火』。魔力の限り無限に加熱する)
        「君の間違いは僕が正す。友として、君を殺すことで」
        (アレンを中心に、熱量が高まっていく。路面の水分が蒸発して白い靄を立てている)
        (霞み歪む視界の中。間合の外で立ち止まる。半歩でも踏み込めば必殺の位置、見えない線でもあるかのように)
        「思い残すことはあるか」
        (起き上がろうとするエイベルを、純粋な熱量が正面から打ちつける)
        (エイベルは怯まない。ゆらりと立ち上がり、笑った)
        「間違ってんのは、お前だ」
        「何が言いたい?」
        「お前はどうして、『園』のことを信じてる?
        言われるがまま殺して、『それが世界の幸福のためになる』『お前達のような孤児を生まないためになる』……本当にそうか?
        疑問に思ったことはないのか」
        (アレンが瞑目し、眉根を寄せる。エイベルの目にはそれが、忍耐、あるいは苦悶するようにも見えた。意識して何かに沈み込もうとするような顔にも)
        「お前は、この期に及んで……」
        (結局、問いかけは火に油を注ぐだけだったようだ。上限の無い熱量が、さらに過熱し、瞳を灼く)
        「僕らを捨てただけじゃなく、侮辱までするのか!!お前は!!」
        (怒りのまま、さながら炎の化身と化したアレンが、境界線を踏み越える)
      • (そうか、と気付く)
        (アレンは、このようなことになっても、親友だった)
        (不器用で真っ直ぐな彼は、組織を裏切れない。そして親友をもまた、裏切ることができない)
        (組織と親友との間で板挟みになった結果として、組織に殉じる形で友情に報いたのだ)
        (自分を殺させることで、迷いを断ち切れるように。家族との戦いで生き残れるように)
        (アレンはそのために最初の刺客として現れたのだ。自分の前に、命を賭して)
        (このことを理解して―――エイベルは慟哭した)
        (それは周囲で燃え盛る炎よりも激しく、エリュシオンの空に響き渡った。世界のどこよりも高いこの空に)
  • (男子寮。自分の部屋で、天井を見上げる)
    (自分の前に何人の学生が、何を思って眺めたのだろう。種々の悩みがこびり付いたかのように複雑に黒ずんでいる)
    (溜息をつく。自分のこれもまた一つ重なって、この天井にくすみを足すのだろう)
    (焦り。燻り。迷い。あのトーナメントの王者と闘っても、それは消えることが無かった)
    (ただ、自分の弱さが浮き彫りになっただけだ。頭上、掌を翳し、握る。強く)
    (またひとつ、溜息。感情のコントロールが効かなくなっている)
    (幼少期。物心ついた時には自然と出来た。己の感情を殺し、何も感じなくなる。己を暗殺者として成り立たせていた、そのやり方を、自分はいつからか忘れてしまった)
    (何故出来たのかはわからない。覚えていないほど昔に、何かがあったのかもしれない。そうしなければならないようなことが)
    (覚えているのは、そう、この才があったからこそ、自分は拾われたのだ)
    (人殺しを商う犯罪組織、『幸福の園』に)
    (思い出さなくてはならない。あの頃のことを)
    (この燻りを晴らすためになるかはわからない。しかし、向き合わなければならない時が来ているのだ)
    (最初の刺客がこの身に刃を突き立てる前に、心を固めなければならない)
    (家族に刃を向けるのだ。そして)
    殺す。
    (口に出してなお、実感が湧かない。自分は本当に殺せるのだろうか。彼らを―――)
    • (『幸福の園』が運営する、『籠』と通称される殺人者育成用の孤児院。そのひとつにエイベルがやって来たのは、彼が5つの時だった
      (見たことのない景色。年を経て汚れた石造りの、硬質で灰色な建物。床材の木が歩く度に軋んだ)
      (背が高く穏和そうな『先生』に伴われ、案内された教室で、皆の前に立たされた)
      (家族なんてもういないのに、これからは彼らが家族だ、なんていわれても、受け入れる気にはなれなかった)
      (極めて陰気な、感情の起伏に乏しい目をして、エイベルは教室を見回した)
      (そこにいたのは五人)
      (鼻の頭に絆創膏を貼ったいかにも快活そうな赤い髪の少年が、興味津々にこちらを見ている)
      (油断のない視線を向けるブロンドの少年は背が高くいかにも大人びていて、すぐに年長だとわかった)
      (その後ろに、同じ髪色の女の子が照れたように隠れ、こちらを伺っている)
      (また、銀色の髪の少女が穏やかに笑っている。その胸に抱かれているのは、エイベルよりも小さな、青い髪の男の子)
      (エイベルと先生を含めて七人の、とても小さな暮らし)
      (それがやがてエイベルの心の氷を溶かしていった)
      (いつしかこの共同体を家族だと思うようになった。少なくとも当時は、それを温かく感じていた)
      (この温かさそれ自体が、殺し屋達を組織の元へ囲い込む『籠』だった)
      (組織の上部が手駒を都合の良いように操るための、宗教じみた歪んだ教育も、子供は疑問に思わない)
      (表面上だけは優しい、今思えば目の奥に禽獣の光を持った先生が教えたのは、そのようなものだった)
      (殺すための技と、殺すための心)
      (特別な君たちには特別な技が与えられるのだと、刻まれた固有魔術)
      (歪みに満ちた箱庭で、エイベル達は穏やかに育った)
      • (彼らのことを思い出す)

        (拾われたばかりの頃、最初に手を伸ばしてくれたのは赤毛の少年)
        (いつでも真っ直ぐで、純粋で疑うことを知らず、だからこそ危うい)

        (はじめての任務のあと、温かく迎えてくれたのは銀の髪の少女)
        (どこか抜けていて、自分勝手で、でも確かな優しさを秘めていた)

        (守るべきもの。あどけない瞳で頼ってくれたのは、青い髪の男の子)
        (最も小さく、我が侭で、しかし放っておけない、まるで皆の弟のような)

        (いつかの失敗。与えられた教訓。叱ってくれたのは、真鍮の髪の青年)
        (男らしく、芯が通っていて、淡い憧れを感じさせた)

        (日常の中、いつも笑顔で接してくれたのは、真鍮の髪の少女)
        (相手の都合を考えずに振り回すのに、不思議と嫌な感じはしなかった)

        (この五人と、あとはもう一人)
        (厳しくも優しく、生徒達に殺しの技を教えてくれたのは、『先生』)
      • (―――彼らと彼らとの暮らしを思い出す度、気付かされていく)
        (自分は過去から逃げ続けてきたのだと)
        (忘れて、無かったことにしたかったのだと)
        (様々な正道の武技を学んで、固有魔術を使いこなした気になって、それで過去を塗り潰したつもりになっていたのだと)
        (アミュレットを必ず着けて闘っていたのも、『間違っても誰かを殺さない』ということだけに拘った、過去からの表面的な逃避に過ぎなかったのだと)

        (最後となった任務。養父の背中を追うと決めたあの日から)
        (暗闇の過去から逃げて、避けて、目を背けて、結局どん詰まりまで来てしまった)
        (過去という名の死神が、今にも己の肩を叩こうとしている)
        (今を、そして先を生きるためには、過去を殺すしかない)

        (天井に翳した手を開き、そして握る―――血が滲むほど、強く)

        (封じてきた技を、思い出すのだ)
        (自分の、本当の技を)
  • (貧民街。夜道を歩きながら思考する。持て余しているのだ。身の内の焦げ付きを)
    (原因はひとつに、体育祭のトーナメントでの準決勝敗退だった)
    (よくやった、という向きもある。全く予期しない攻撃を食らっての、半ば事故のような敗戦ではあった)
    (しかし―――自分は本当に強くなっているのか?)
    (その疑問が頭を支配する。俺は相手にとって強敵だったのか?まんまと術中に嵌って負けたのではないか?)
    (結論は出ない。考えるほどに分からなくなる)
    (そのせいか。近ごろ戦いに精彩を欠いていた。自分の体が自分のものでないような感覚がある)
    (隅々まで神経が通っていない。技のキレが色褪せた。一瞬の判断が僅かに遅い。泥の上を歩くような感覚。歩を進めるだに深みに嵌る)
    (賭試合の勝率も、近ごろ目に見えて落ちていた。設定されるオッズが下がる。それはすなわち、実力の代理変数だった)
    (俺は、このままでいいのか?)
    (ただ日々をぬるま湯のように過ごして―――)
    (あの人に。養父に。越えると誓った背中に、追い着くための歩が。鈍ってはいないだろうか)
    (考えるほどに分からなくなる。行き場のない中途半端な熱量が、頭の中を不快に廻る)
    (捌け口を求めて賭試合に身を投じ、半ばほど負け、半ばほど辛勝する。近ごろはその繰り返しだった)
    (今日もその帰りだった。後者の方ではあるが、胸を張っていい勝ちともいえなかった)
    (ぼんやりと星を見上げて歩いている。早春の夜風は肌寒く、しかし内なる熱を冷ましてはくれない)
    • (そしてふと、立ち止まる)
      (首筋に痺れるような殺意を受けて、それまで感じていた焦燥が、血の気と共に消えて失せた)
      (直感する。遠い昔に置き去りにして、努めて意識の外に置いていた過去、それがが追い縋ってきたのだと。よりによって、この時に)
      (素人の放つ殺意ではない。それは、いわば鋭く丹念に尖らせた黒塗りの針だ)
      (標的のみに突き刺さり、それ以外の人間には露ほどの気配も感じさせない)
      (殺気の主は、それが放てるほどに訓練された存在だ。殺す気ならば、既にそれは為されているはず。恐らくは、よく知った方法で)
      (殺意の出所を探ると、色褪せた石塀に凭れて、男が一人佇んでいる)
      (洒落た身なりの男だ。一見して仕立ての良いグレーのスーツに、上質な絹のアスコットタイ)
      (羽織った黒いトレンチコートは織りが緻密で光沢があり、男のしなやかな体躯とあわされば、見る者に黒豹の毛皮を思わせた)
      (合わせて仕立てたのだろう黒の中折れ帽を目深に被って、その容貌は見て取れない)
      (積み上げられた金貨が見えるような衣装、それを纏った伊達男が声を投げた)
      「弱くなったな、エイベル」
      (男は帽子で貌を隠したまま、革靴を鳴らして歩んでくる)
      (それがごく自然な調子であるのに、微塵の隙も見て取らせない)
      「そして、随分と人間らしくなった」
      (街灯の下。帽子を上げたその貌に、エイベルは見覚えがあった)
      (柔らかに錆び付いた真鍮色の髪、鋭いヘイゼルの瞳は在りし日の面影を湛えて光る)
      ダリオ……
      (伊達男は名を呼ばれ不敵に笑う。張りのあるその貌は若く、20代の半ばといったところか)
      「忘れられちまったかと思ったぜ。同じ釜の飯を食った可愛い弟分だもんな、そんなわけはねえ。
      暖かい家庭に迎え入れられて、今では悠々一人暮らしの学生さんとくれば、
      俺たちのことなんてすっかり忘れちまった風に見えちまう。だが、そうじゃねえんだな……」

      (ダリオは仕草や声音のひとつひとつに若手の俳優めいたわざとらしさを纏わせながら、今度はくつくつと笑った。
      「確認するぞ、エイベル。俺がここに来た理由はわかるか?」
      (聞かれれば答える。それは明白なことだ)
      俺を消しに来た。
      「そう。だが百点じゃない。確かに、あの親父殿の庇護下じゃ俺たちも手が出せなかった。
      が、ここなら奴の手も届かない。園の外に幸福なし。
      この機を狙ってお前を消す―――そうするかどうかは、これからのお前の返答次第だ」
      • (淡々と語るダリオの言葉に、暗澹たる気持ちに心が塗り潰されていくのを感じながら)
        (エイベルは苦虫を噛み潰した表情を浮かべて動かない。視線、続きを促して言葉を待つ)
        (伊達男は頷いて続ける。さもこちらが本命である、とでもいうように)
        「戻ってこい、エイベル。『大鷲』がそれを望んでいる。家庭も学校も捨てて、一羽の『梟』としてやり直せ。
        お前がこれを断れば、俺たちがお前を消すことになる」

        (『幸福の園』の掟のひとつ。組織から抜けようとする者がいた場合、同時期に同じ『籠』で育った仲間が始末を付ける)
        (『籠』とは組織の支部であり、各地に点在するそれらは殺人者を育成する孤児院にして教練施設だ)
        (同時期に同じ『籠』で育つとは、家族の絆で結ばれるに等しい。組織から抜けようとすれば自然、家族同然の者達と殺し合うことになる)
        (殺人者として育てられても、もとは皆が孤児である。家族を失い、擦り切れて消えて無くなってしまいそうなほどに孤独を噛み締めた者達だ)
        (であれば、擬制されたものとはいえ、再び得た家族の情は裏切れるものではなかった)
        (ダリオは手を差し伸ばす。振り払われるとは露ほども思っていない表情で)
        断る
        (何かを考えたわけではない。エイベルは反射的にそう答えていた)
        (ダリオの指先が、数秒の凍結を経て震える。笑声が路地に響く。帽子を抑え、ひたすらに笑った)
        (それは、心の底から楽しげな笑いだ。待ち望んでいたものが到来して、腹の底から湧き上がるような笑いの噴出。ひぃひぃと呼吸を荒げて、落ち着けば言葉を返す)
        「そうこなくっちゃな。だが、理由くらいは教えてくれよ。そんなに新しい家族が大事か?ここの生温い暮らしがいいのか?」
        (理由。かつての家族と殺し合うことになったとしても、エイベルには通したいエゴがある)
        俺は決めたんだ。俺の最後になった任務、あの時だ。あの一撃を貰った瞬間から。あいつを――あの壁を越えてみたいって思った。越えようと決めた。
        これは俺が、人生で初めて自分でやるって決めたことだ。命じられた殺しの続きでもないし、あらためて命じられるつもりもない。
        俺は俺の意志で生きていく。二度と園に戻るつもりは無い
        (ダリオの眼光は鋭い。心胆の底まで射貫くような視線が、エイベルの背に汗を滲ませた)
        「それだけか?」
        それだけだ。
        (これは見え透いた嘘かもしれなかった。ここの暮らしに執着があるといえば、周りが巻き込まれるかもしれない)
        (真っ当に、各々の目標に向けて日々を歩む気の良い者達を自分の事情で不幸にしたくないが故の、一部が欠け落ちた回答)
        (それに表向きは満足して、ダリオは頷く)
        「いいぜ、エイベル。今はそれでいい。今日の俺は意思確認のメッセンジャーだ。だからこれで引き上げる。
        だがこれから先、『籠』の誰もがお前を本気で殺しにかかる。今後のお前の生活は、俺たちの屍を踏み越えた先にしかない」

        (地面を踏み締め、身を翻し路地の闇へと歩き出す。ふと、途中で足を止めて)
        (これが真の本題とでもいいたげな、言葉で殺そうとでもするかのような、突き刺さる刃物のような声音)
        「最後に言っておく。妹は―――アメリアは死んだよ。組織の自制を聞かずお前を追って出奔し、命令違反と脱走の咎で殺害の命が下った。
        だから殺した。せめて、俺の手で」

        (ダリオは皮膚が破れるほど拳を握る。エイベルは、何かを口に出すことも出来ない)
        「殺したのはお前だ。お前が出て行ったからアメリアは死ななければならなかった」
        (肩越しに一つ、眼光が飛ぶ)
        「だからお前は、俺が殺す」
        (最後にそれだけ言い残すと、ダリオは再び路地の闇へと消えて失せた)
        (色を失い立ち尽くすエイベルを残して)
  • test -- 2014-02-06 (木) 20:40:06
    • test

Last-modified: 2014-03-06 Thu 21:00:48 JST (3703d)