新雪の降りしきる雪の朝に、少年は突然国外へと追いやられた。
固く閉ざされた門を見つめる少年の顔は、この事態に対処できず、途方に暮れた様が浮かび上がっている。
本来門の外にいるはずの門番は、今は門の向こう側、つまり国内へと引っ込んでいる。
おそらく人の姿を全く見せないことで、少年に余計な希望を抱かせないにようにする為であろう。
やがてゆっくりとだが現状を理解した少年は、門に向かって力の限り叫びたい衝動に駆られながらも、
門を挟んだすぐ先にいるであろう門番に向かって、この状況の説明を落ち着いた声で問うてみた。
なぜ自分が追い出されなければならないのか。
自分が何の罪を負ったのか。
心当たりが全くない少年は己の無実を訴えながらも、その声は古き家柄の誇りの為か、どのような時でも荒げることはなかった。
しかし声は徐々に力を無くしていく。訴えを却下されるどころか全く反応がないというのは、少年の僅かにあった気力を萎えさせるには充分であった。
やがて声が枯れ始め、寒さと雪で乾いていく恐ろしさを体感しながら、小さく小さく尻窄みになっていく。
もはや誰にも自分の声は聞いてもらえないのか。本当に自分は見捨てられてしまったのか。
足元からじわじわと這い寄る寒さと絶望が、少年の支えをこそぎ落としていった。
もしも門の向こうから両親の声が聞こえていれば、少年の絶望はここまで深まることはなかっただろう。
現状は変えられなくても気遣いの言葉一つあれば、少年は別の道を歩む未来も視野に入れていたかもしれない。
だが現実は誰ひとりとして少年に見向きもしなかった。それが返って少年の心に望郷の念を宿らせてしまったのだ。
帰りたい。また故郷の地を踏みたい。
ならばどうすればいいのだろう。
力を無くした少年はただその一心だけを胸に秘め、雪が積もる森の奥へと消えていった。
少年の故郷は森の奥にあると言っても、無闇に拡大することもなく最低限の居住で構成されたこじんまりとした国であった。
故に周囲の木々は千年の時間ほぼ手付かずのままがほとんどで、巨木と言っても過言ではない木もまばらにある。
アテもなく彷徨い夜が更けてきた頃、少年は古くなった巨木の虚に入り、寒風を凌いでいった。
冬の森の中、食べ物など有るはずも無い。今は食欲もほとんどなくせいぜい雪を齧って水分を補給したくらいだ。
だがいずれ空腹はやってくる。しかしどうすればいいのか分からない。罠を仕掛ければいいのだろうがその術を自分は知らない。
それだけでも絶望的なものだが、更なる絶望がこちらに近づいているのが分かった。
ァァァァァ……
遠くからどこまでもどこまでも引き伸ばしたような声が、森の中を縫うように流れてきている。
人のような声とも聞こえるが、人にしてはあまりにも長い。そもそもこんな夜中に人がここらを歩いているなど考えられない。
国の周囲は忌み者と呼ばれている、魑魅魍魎などが跋扈しているのだ。
それを封じ、退治するのが自分の一族の役割であったが、今の少年にはそれすらも出来ない事情があった。
封印の儀を行う為には、ある道具が必要だった。
少年の一族、いわゆる封忌師はその道具を用い呪言を唱えながら、その道具に忌み者を封じ込めるのだ。
特殊な道具である為に有事以外にこの道具を持ち出す事は基本厳禁とされている。
いきなり国を追われた少年がそんな道具を持つことなどどだい不可能であった。
もし襲われても為す術がない。
封忌師として基本を習い実践も経験した。しかしそれもこれも道具があればこその話だ。
道具が無ければ無力も同じ。代用などすぐに手に入る訳はない。
今の少年に出来ることは、息を潜めて嵐が遠ざかるのを待つ以外なかった。
アアアァァァァァァァ……
声はいつまでも森を流れている。
できるだけ虚の奥深くに身体を寄せ、息を可能な限り小さく吐き、自分を透明にさせるように気配を殺してじっとうずくまる。
来るな、来るなと念じるだけでも今にも身体が震えで止まらなくなりそうで、ただただ相手に気取られないよう必死であった。
声は遠ざかったように思えば近づき、近づいたかと思えば遠ざかる。油断の許されない状況に少年はともすれば気を失うのを懸命に堪える。
いま気を失えば、確実に抵抗も出来ず殺されてしまうだけだ。見つからないようにじっとしているか、それとも隙を見てここから逃げだすか。
逃げ出すのなら早いほうがいい。だがこのまま隠れていれば見つからないかもしれない。こんな冬の夜に走り回るなど別の意味で自殺行為だ。
思考はぐるぐると回り続け、決断を迫られる。逃げるのなら一秒でも早いほうがいい。声はいまどこからだ。少年は固く閉じた目をそっとあけてみた。
何かが遠くからこちらを見ている。
少年はすぐさまウロから抜け出し走りだした。
後ろを振り返る余裕などない。今はただ前に、前にと走る。心臓が一気に跳ね上がり悲鳴を上げ痛みを伴おうが走り続ける。
走るという意識など既にない。終いには足をひたすに動かしているだけであった。
雪の積もった草の上を危ない足取りで、どこまで進んでいるのか判らなくなるほど疾走し、突然その足が止められた。
止まったのではない。止められたのだ。身体はそれでも前に進もうとしていたが、がくりと前のめりになるも転ぶことはなかった。
何が起こっているのか混乱する頭で状況を確認する。
思い出したように息を吐き、吸い、急激な体温の上昇と低下により強烈な頭痛を纏わり付かせながら、ゆっくりと首を後ろに向けた。
いる。
それをなんという名で呼べばいいのか分からない。そもそも忌み者に一つ一つ名前などつけはしない。
強大な薄暗い泥の山が築かれているとでも言えばいいのだろうか。月もなく僅かな星明かりのみが光源の現状ではそれの形状も色合いもはっきり確認出来はしなかった。
いや、もうそれがどういった物かなどどうでもいい。今から自分はこれの餌食になるのだ。
足が止められているのはこの忌み者の威圧感。下位の物をその場に繋ぎ止める恐怖の迫力だ。
逃れられない。
だが観念した訳ではない。逃げ出せる隙はないか懸命に視線だけを彷徨わせ、今は対峙しているだけの忌み者の次なる行動は何か予測する。
山のようなものの中央が、べりと横に剥がれた音が耳にとどいた。
べり、べりと乾いた音を撒き散らせながら、それはまぶたのように開いていく。
少年はそのまぶたの裏から出てきた物を一目見て、思わずあらん限りの悲鳴を上げた。
それは無数の目であった。そしてそれが人間の目であることを即座に理解した。
取り込まれてしまった人たちなのだろうか。てんでバラバラな配置で張り付かれている目は、ギョロギョロと四方八方に視線を向け、少年に向け、周囲の木々に向けた。
そしてあの視線の一つ一つに意思があるのを感じ取り、その意味を理解して思わず吐きそうになった。
生きている。
身体は既にないだろう。だが目だけで生かされている。こんな姿にされて死ぬことも出来ないまま、ずっと。
このままでは自分もああなってしまうのか?嫌だ絶対に嫌だこんな所で意味もわからず嫌だ死ぬのは嫌だ取り込まれるのは嫌だ助けて死にたくないあんな姿になりたくない。
少年はせめてと右腕を前にかざし、少しでも距離を取ろうともがく。足は相変わらず動かない。
山がずるりと近づいてくる。
嫌だ嫌だ嫌だ道具はどこだ封じなければ嫌だ来るな道具を早く来る来る来る来る来る来るな来るな来るな道具を何でもいい道具を封じる道具を早く早くどこだどこに。
あった。
右手が山に触れた。ぬるりとした不快感を伴う温もりがたまらなくおぞましかった。
少年は右手をあらん限りの力でソレにめり込ませ、声を限りに呪言を叫んだ。
声が地割れのように山から響き、歪みうねりを上げている。
目の前の忌み者の変化に、少年は更に声を上げた。少年の無心の表情から既に意味を持った詠唱にはならなかった。
ただひたすらに覚えた言葉を綴る。この声が尽きるまでずっと、何度でも何度でも。
少年が次に意識を取り戻した時、日は既に上がっていた頃だった。
そこには少年と雪とそこから顔を出す草と、そそり立つ木々しか見当たらなかった。
門の前には、今日も陽に照らされて煌めく雪が敷き詰められている。
少年はその雪を踏みしめながら、再び門の前に姿を表した。
今日は門の前に、つまりは少年のすぐ目の前に待機しその姿に戸惑っている門番に向かい、一夜の恐怖を乗り切り固まった表情のままで、昨日と同じように声を張り上げた。
「封ぜし白の者が一人、封儀を行い帰ってまいりました」
声は抑揚のない、ともすれば棒読みのように聞こえるほど感情がこもっていなかった。
待機している二人の門番は顔を見合わせ様子を見ている。
「開けてくださいませ」
やはり声はどことなくはっきりとしない。子供の声にしては平坦すぎる。
「開けてくださいませ」
声は気になるが、門番は一番気になる事を問いただす。
お前は封印の儀を行うための道具は持たされていないはずだ。故に儀式を行う事は叶わない。
儀式を無事行ったのならば、忌み者はどこに封じたというのだ。
当然の疑問に、少年は左手を右側に寄せて高らかと応えた。
「ここに」
門番は最初意味が判らず、もう一度同じことを聞き返す。
そして少年はやはり同じように、右腕を掲げてその答えを表す。
「ここに」
門番はようやくその意味を理解し、同時に青ざめ騒然となったのを目の端が捉える。
少年は自分の視界が、特に右がおかしいことに気づいた。
右側全部が、何かおかしいことに気づいた。
やがてげぅっと声を上げたかと思うと、そのまま仰向けに倒れ、意識は遠ざかっていった。
目が覚めた時、昨日と同じように門番の姿は消えていた。きっと門の奥に待機していることだろう。
ゆっくりと身体を起こした時、右側が見えないことにようやく気づき、まず右手を顔に持って行こうと持ち上げる。
もう右手は無かった。
右手首から先のないそれに、表情一つ動かさず、今度は左手を顔の右側にあてると、くしゃりとした紙の感触がした。
ただの紙ではないことは触れていて判る。ゆっくりと撫でるように動かし、その紙が封印の力を持つ符だと理解する。
やはり今の自分の技術と身体では封印は難しかったか。意識を失っている間封印が補強されたようだった。
一族の誰かなのだろうかと少年は一瞬だけ思ったが、すぐに意識は別に向かった。
「まだ、足りないのですね」
その言葉だけを告げて、来た道をゆっくりと戻っていった。
今はできるだけ多くの危険な忌み者を封じよう。それが封忌師の一族に生まれた自分のなすべき事だ。
自分の身体が消滅してしまう前に。
封忌師の封印の儀とは、特殊な道具で忌み者を封じ、一定量を超えた所で道具もろとも消滅させる儀式の事を言う。
少年はあの忌み者を自身の身体に封じる事が出来たと実感したその時から、己の次の運命もすぐに自覚していった。
ならば、この身体に封じるだけ封じてやろう。その実績を見せればきっと門は開いてくれるはずだ。
少年は口元だけ笑みを浮かべながら、忌み者を求め自ら森の中を彷徨いに行った。
やがて一ヶ月が過ぎ、少年はまた門に戻ってきた。
一体この冬場で何を口にしているのだろうか、痩けた頬の少年は一月前と同じ言葉を門に告げた。
「封ぜし白の者が一人、封儀を行い帰ってまいりました」
十の忌み者を封じて見せたと、少年は声を上げて報告する。
しかし門からは何も返答はない。いつもいる門番は少年を恐れるように姿を見せない。
少年は暫くその場に立っていたが、日が暮れる頃に来た道を戻っていった。
やがて三年が過ぎ、少年だったものは青年の顔つきへと変えて戻ってきた。
一体どうやって生き延びていたのだろうか、目つきの据わった青年は、三年前と同じ言葉を門に告げた。
「封ぜし白の者が一人、封儀を行い帰ってまいりました」
百の忌み者を封じて見せたと、青年は声を上げて報告する。
しかし門からは既に何も気配はない。奥にいるであろう門番の気配すら見当たらない。
青年は暫くその場に立っていたが、やがて日が暮れる頃に来た道を戻っていった。
一が駄目なら十。十が駄目なら百。
ならば、百が駄目なら。
以前の面影を何も残さなくなった青年は、自身の身体を極力隠すように衣装を着こんでいた。
唯一露出している左目だけは、今もなお抜け目なく辺りを見据えている。
この辺りは狩り尽くした。やがてまた忌み者はどこからか湧いてくるのだろうがそれまで待ってはいられない。
己が実績の為には弱いものでは駄目だ。ならば遠くへ、ひたすら遠くへ。そこならば自分の目に叶う千の忌み者がきっといるはずだ。
国を離れ、土地を離れ、陸を離れ、青年はやがて最期の場所へとたどり着いた。
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